日本列島史と”国造り神話”
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tradition,Legend, epic,fairy tale の数々が定説?としてまかり通る!日本史?について、科学的なスタンスで迫った、an article on investigation of japanese history のコーナーです。
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- 英単語表現"による"古文書"専門用語の"まやかし訂正"の試みについて...
- 戦前の大日本帝国から続く!日本史の洗脳教育が...当サイトでは古文書記述(専門)用語は避け現代国語表現に...英単語を多用する理由は...カタカナ外来語と、本来の英単語の意味は異なる!のです。言い換えれば、"外人"には通じま線!
- 統一中華王朝の"漢字"で捏造された"日本建国史!?"《 邪馬台国連邦!ー帯書きー 》
- 約7万年前!から続く石器時代(縄文人)の日本列島は、女性 ♥Shaman (司祭;"巫女")の占いによる「神のお告げ」で政(まつりごと;祭事)を行う Native people (縄文人)が暮らす regionでした。つまり石器時代の古代日本列島は『女性shaman(司宰・みこ)の"お告げ"を拠り所とする"自然崇拝"の Community(部族)が群雄割拠?するCountry(国土)』だったわけです。
- 日本列島誕生より古い!約7万年前に移り住んだ♥先住民・縄文人(蝦夷民族)の起源《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第1回 》
- 日本列島が、ユーラシア大陸から完全分離する前、南端と東端で日本海(巨大湖)を挟んで大陸と繋がっていた約7万年前!に、「マンモスなどの多くの動物を追い求めて北上」してきた現生人類の亜流ウラルアルタイ系民族が移り住み、現・日本列島全域でnative people(土人)「縄文人」蝦夷として暮らしだした!わけです
- "光武帝"と共に始まった冊封国(属国!)"奴国"の歴史《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第2回 》
- "卑弥呼"は分裂していた魏に朝貢して金印を印綬していた?との不確かな伝承!もあり、分裂国家"魏"(西暦220→265年)との交易は続いていたのでしょうが...但し日本側には、evidence(証拠)となる確かな記録(木簡・竹簡)は残されていません!しかし叙事詩三国志の一節である魏志倭人伝に記載があるという事は、"ユーラシア大陸"の知識人・支配者層の間では、邪馬台国(連合)!が「"那の倭国"として広く認知」されていた!のでしょう。そして同時に奴国(後の邪馬台・倭国)はユーラシア大陸の超大国「"後漢(東漢;西暦25年→220年)王朝"の"お墨付き"(印綬)」を得ることができて、
- 渡来人混血種・弥生人の「那の倭国・邪馬台国」の実像とは...《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第3回 》
- 弥生時代初期(古代・石器時代・縄文時代後期)の弥生人の「那の倭国・邪馬台国」も、当然・女性shaman(祈禱師)の"お告げ"に下づき祭事(政;まつりごと)を行う Community(小国家・部族)が並立したfederation (連合体)だったと思われます。つまり、嘗てのEECの様な♥自由交易圏!だったわけです。もちろん米(稲作)だけではなく、♥"塩"も交易の重要な産品だったわけで、元祖JAともいえる♥federation(連合会) だったわけです。
- 渡来人(混血種)弥生人が作り出した「那の倭国」の潮流!《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第4回 》
- 現在の日本史研究家(古文書研究家・国文学者!)は、「話をすり替えて」稲作伝来を主眼にした農耕文化と、縄文人の狩猟・採取文化の「対比・利害得失」を主眼に、統一国家「日ノ本」形成論を論じますが...観点を変えれば日本建国史は、『縄文人の"自然崇拝・シャーマン口述・伝承文化"と新生・弥生人の"文字・宗教文化"の鬩ぎあい!』といえるのではないでしょうか...
- 「那の倭国連合」が石器時代から"鼻先一つ飛び出せた!"のは...《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第5回 》
- 最後まで、渡来人・弥生人の傀儡政権!"那の倭国"Federation と激しく攻防を繰り広げていた partisan 勢力薩摩・隼人両国では、那の倭国連邦Federation の特徴である大規模"墳墓"は見つかっていません?更にBoundary(境界)の非武装地帯に設けられた多くの砦跡(城跡)が、抵抗運動が激しかったことを物語っています。但し、城跡(砦跡)は必ずしも、古代に設けられたわけではなく、その後の中世・近世に為政者が"居城"(首都)として新築したものもありますが、いずれにせよ時代とともに「幾多の攻防」が繰り広げられた痕跡であることは間違いありません。
- 国割・国分けの線引き(Boundary)には「民の♥営み♥暮らし向き」が重要!《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第6回 》
- 国割(行政区分)の線引き(Boundary)には「民の営み・暮らし向き」の反映が大事な要素となります!つまり、人口が増えだすと、自給自足だけでは「民の営み・暮らし向き」が成立できなくなります。狩猟・採取民族の縄文人にしろ、農耕専業の弥生人にしろ、部族の Territory 内だけでは(自給自足)賄え切れずに、♥traffic(交易)が必要となってきます。特に、岩塩がほとんど産出し無いわが日ノ本では、♥"塩"の入手が問題!となります。中世・室町時代後期の乱世!の時代に、「武田信玄が遠江国に南下して駿河湾に出たがった」のはまさにLogistics (兵站)・Salt road(塩の道)確保のためでした。
- 那の倭国連邦と♥製塩技術《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第7回 》
- 古代「那の倭国連邦の原動力となった瀬戸内海エリアは、四国山地、九州山地、中国山地、大峰・鈴鹿山系等の、"山地"で取り囲まれた地形となっています。つまり、太平洋、日本海、東シナ海でたっぷり水蒸気を含んだ気団が、九州の阿蘇山系、中国山地・近畿の大台ケ原から続く山系、そして四国山地とぶつかり降雨となり、これらに囲まれた瀬戸内海は降雨の少ない晴天の多い「地中海気候」となるわけです。特に四国では、夏季の"南風"シーズンには、高峰が連なる3つの連峰で構成された四国山地によりさえぎられて、瀬戸内運河?沿いはほとんど降雨のない温暖で好天が続く「地中海気候」となるわけです。なので、瀬戸内海沿いは古来から製塩が盛んだったわけです。
- 邪馬台国を引き継いだ大和王権も"属国路線"を踏襲!《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第8回 》
- 元祖「那の倭国」"邪馬台国"から派生した日乃本連合大和王国政権も同じ寄り合い所帯!でした...お互いの「大人の事情(利害関係)」が一致した、瀬戸内運河?沿いの"部族(小国)"が、「那の倭国連合」を結成して、お互いのリソース(財力・兵力)を合わせて、緩やかな邪馬台国連合を形成していたわけです。いわば現在のEUと同じような経済圏を基本に置いた国家連合です。
- 大化の改新後に起こった白村江の戦いによる冊封解除!《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第9回 》
- 大和政権を牽引する大国?「大和王国」の大王(おおきみ)聖徳太子が、中国王朝"唐"の体制を模倣!して行った、制度改革?大化の改新(645年 → 650年)後に、唐(618年→907年)の制度を取り入れた律令制を、大宝律令(701年制定)として制度化(明文化)して、令制国(日乃本連邦のテリトリー分け)に繋げ、(外交上)対外的には大王(おおきみ)を頂点とする統一国家「日乃本」を装った!わけですが...
- 大宝律令(701年)は朝貢使(遣唐使)による"臣下の礼"再開の「詫び入れの手土産!」として制定された!《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!10回 》
- 中国唐王朝(冊封国)陣営と戦っていた!"百済"と、主権(外交権)も与えられていない無い、冊封国(属国!)の倭国が友好(外交)関係!を持ち、しかも白村江の戦いで敵の百済に加担!したことで、怒りを買い!冊封を解かれ!、唐王朝の敵国!に成って終った!訳です。つまり、「弥生人の倭国」政権が「縄張り抗争!」を繰り広げていた敵、対峙する「縄文人の倭国」を侵略・征服する「大義名分(後ろ盾)」を無くしてしまった!わけです。
- 冊封から解かれて後ろ盾を無くした朝廷に「取って代わった関東(蝦夷?)武士団!」《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第11回 》
- 倭国連邦の貴族化が進み、lord(領主)がa ruler(為政者)として直接任地に赴かず都に留まり、地方へ代官職(agent,)として目代(administrator )を差し向けるようになり、律令制が形骸化していったわけですが、もともと律令制の下で地方に差し向けられていた代官職(agent,)や、地元で雇用されて"雇人"だった地方豪族(武家)が権力を強めて、律令制の下で国司(Governor)を担っていた公家(地方出身豪族の末裔:the exploited classes)の権威が有名無実化!してついに「律令制が崩壊!」したわけです。別の見方をすれば、後ろ盾(宗主国中毒王朝"唐")を無くした政権(朝廷)が武家を抑えられないようになった!ともいえるわけです。
- 瀬戸内連合崩壊後の「四国支配!体制の基礎」を作った秀吉《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!第12回 》
- 信長暗殺事件!後に秀吉の野望は膨らみ、長曾我部氏が四国統一に乗り出した際には秀吉に対して「三好氏」からの救援要請はあったにせよ...長曾我部氏の四国統一!後に、征服欲の強い秀吉が、四国制覇!に乗り出したわけです。ここで、大事なのは「民の期待・要望」で"四国遠征が行われた"のではなく、単なる彼の征服欲で四国遠征が行われた事実です。事実、秀吉の四国制覇後には、長曾我部氏(とその家臣団)は土佐一国に押し戻され、伊予・讃岐・阿波各国は以前にもまして細分化されて秀吉家臣団に与えられ、その後家康の江戸時代になり、家康所縁の譜代大名が再配置されて、各国間の番屋・関所での、一般人の通行は室町末期(戦国時代)以上に厳しく制限されるようになったわけです。
- 中華王朝の海外政策・植民地支配の拠点だった属国の"都?"《 都市国家の集まり邪馬台国連邦!最終回 》
- 日本の歴史狂育怪を牛耳っている歴史専門家?有識者の多数派は、国粋主義者・国文学者で占められており、時代考証を重んじる考古学畑の研究者・学者はほとんど加わってい無い!事実です。そして彼ら(国文学者・歴史創作家)は"国体護持!?"の名の下に「約1000年!に渡り中国王朝の冊封国(属国)だった歴史!」を隠蔽して、歴史を改竄!しているのです
- 日本史を顧みて学ぶ目的とは?...《 日本史教育 ー帯書きー》
- 歴史研究!と古文書研究は異なる!】日本の歴史研究者・specialist(有識者)は古文書研究者・専門家で、nationalism(国粋主義)に毒された古文(漢文)専門の国文学者!がほとんどです。彼ら、古文書解読屋!が論拠とする漢字(漢文)による古文書は、起筆当時すでにfairy tale(御伽噺)となっていた legend(口承伝説!)を文字起こししたepic(叙事詩)つまりは Fake (作り話)にすぎません。
- 歴史研究!と古文書研究は異なる!《 日本史教育 第1回 》
- 戦後日本の間違いは横書き看板"日本国憲法"に挿げ替えただけの 戦前から続く権威主義!体制】民主主義?を標榜している限りは、「fairy tale日本書紀」に拘った!戦前の(権威主義・封建主義に毒された)官僚機構・律令(郡県)制に下ずいた"国体護持"路線は"違憲!"なのです。
- 俄かに日本書記プロパガンダ!を煽りだしたのは...《 日本史教育 第2回 》
- 内閣が総辞職しても日本国は機能した!】highbrow,bureaucrat,共 governing classes(支配階級)は Authoritarianism にしがみついている!...♥Identity を確立している県・自治体は♥地元出身者の Leader に立てて♥autonomy を行っている
- 議会制"封建主義"と律令制(官吏制度と郡県制)の"国体護持!に拘る体制派"《 日本史教育 第3回 》
- 議会制"封建主義"と律令制(官吏制度と郡県制)の"国体護持に拘る体制派"】大和王権は中華王朝の傀儡政権!...文科省体制下の狂育怪では"決して取り上げない"真"の日本 Historia...観念論で騙ろうとする文科省体制下の狂育怪・歴史屋の Fake!とは...
- 国際社化!?が認める♥主権!国家への歴史《 日本史教育 第4回 》
- 国際社化!?が認めるState(主権国家)への道程!】1905年9月5日のポーツマス条約調印で、国際社会に主権を認めさせる!...1952年 琉球を人質に本土?のみ独立...highbrow,bureaucrat ,mass media(journalist)が"挙って煽り・遂行!"した大東亜戦争...
- 原始民主主義から権威主義(封建制度)への流れ《 日本史教育 第5回 》
- geopolitics(地政学)の概念と、生物科学(遺伝子工学)、医学(解剖学・骨相学)、等々広範囲にわたる科学・理学分野で、「一連の文化・文明の trend」つまり歴史を客観的にとらえる必要があるのではないでしょうか!
- 近年過激度を増したマスコミの戦争責任!逃れのアピール!プロモーション《 日本史教育 最終回 》
- 原始民主主義から権威主義(封建制度)への流れ】mass media は一票の重みを強調して数の暴力を煽りますが...先鋒に立って"一票の重み"格差是正を訴えている連中は fascism を煽っているのです。 Democracy の3要素の一つは human rights(人権意識)!つまり『Minority の異見も♥尊重する姿勢』で 多数決では無い!のです。
- 綴じ込み付録・歴史用語集《 日本史教育 最終回 》
- 義務教育では日本語圏?の部族をまとめて大和民族・日本民族?として、(古来よりNation※001 を形成してきたかのように)"洗脳狂育!"を行っていますが...これでは、隣国を牛耳っている元・"両班(リャンパン)"どもが大半を占める「学閥」がプロパガンダしている「Fairy tales!(おとぎ話)」と大差ありません。
- 歴史は"書き換え"できても"DNA"は書き換えられ無い!《 縄文人!"蝦夷"民族ー帯書きー 》
- 見方を変えれば、「稲作は受け入れても、紙・記述文化(仏教=僧侶・技術者・学者)を受け入れ無かった!、自然崇拝・ shaman 伝承文化の縄文人・蝦夷部族」という見方も出来て...中国仏教の戒壇(仏門認証・身分制度)に下づいた文化で、理論武装!した『渡来人による傀儡政権・大和王権に征服された!』とも言えなく無いわけです。
- 権威主義者の"国文学者"により改竄!された古代史...《 縄文人!"蝦夷"民族 第1回 》
- 新生・弥生人(那の倭国 Federation )が憎悪を込めて先住民・縄文人を"蝦夷"民族と命名して、その征伐?に当たる総大将を"征夷大将軍"と命名したのは、ネイティブ民族"縄文人"にとっては容認しがたい「侮辱的な表現」と言わざるを得ないでしょう!
- 縄文人・"蝦夷(エミシ)民族こそ日本列島の♥ Native People《 縄文人!"蝦夷"民族 第2回 》
- 日本列島が、ユーラシア大陸から完全分離する前、南端と東端で日本海(巨大湖)を挟んで♥大陸と繋がっていた約7万年前に我々の先祖縄文人が、(マンモスなどの多くの動物を追い求めて北上してきた)現生人類の亜流「ウラルアルタイ系民族」が移り住み、現在の日本列島全域でnative people「縄文人」蝦夷として暮らしだした!わけです
- 日本初の歴史書!?とされている古事記?は伝承御伽噺!《 縄文人!"蝦夷"民族 第3回 》
- 聖徳太子の、倭国宣言(西暦607年)から100年以上!たった和銅5年(712年)に(漢文で)編纂された古事記は...当時の大和王権の"大王(おおきみ)"を正当化!するために、取り巻き(支援者・後援会!)の搾取階級・公家の一人である太安万侶が、面々と受け継がれてきた?口承・伝承神話!にヒントを得て! 、大王の公式出生証明となる家系縁起を"創作!"して、「大和国の大王(おおきみ)に献上」した"私文書!"にすぎません!。
- 阿弖利爲と盤具公母礼は"熊野"に逃がされた!?《 縄文人!"蝦夷"民族 第4回 》
- 公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)は田村麻呂に連行されて7月10日に平安京に到着、田村麻呂の助命嘆願にも拘わらづ、当時の朝廷官吏 (荘園主の公家)共の決定により、8月13日にChief アテルイとその実母つまり"女性シャーマン"の大巫女モレは「"河内国"で処刑された!?」と朝廷の公式記録(古文書)には記されてますが...確固たる証拠(阿弖流為塚?)は発見されていません。(※現在阿弖流為塚とされている"墳墓"もあくまでも伝承!であり確固たる Evidence はありません!)
- 「荘園開発」という「植民地政策」で...《 縄文人!"蝦夷"民族 第5回 》
- 狩猟・採取民族、つまりは流浪民であった蝦夷部族を定着させ、開墾させたのは「先住民・蝦夷」の暮らしを楽にするためではありません!都で贅沢三昧!をして"のほほんと暮らす!"「公家供の実入り」を確保するためであったに他なりません!すなわち日ノ本Federation(大和王権)は、征服!した東北各地や九州南部旧日向国は、colony(荘園;植民地)としてしか扱わず!当然農民も「colonyの付属品!"農奴"」としてしか扱わなかったわけです。
- 19万!?の大軍勢を率いた源頼朝の奥州討伐は史実だったのか?創作逸話!だったのか...《 縄文人!"蝦夷"民族 第6回 》
- 文治5年(1189年)、鎌倉幕府を創設し征夷大将軍となった源頼朝が19万!?もの大軍勢を率いて奥州討伐に向かったとされていますが...(※その後の徳川家康も武家の総領として、朝廷より「征夷大将軍」に任じられましたが、)征夷大将軍とは、エミシ(蝦夷)を征伐(征服)する将軍という意味であり、武力をもって領土拡張する為の遠征軍の総大将を任じられたようなものでした。
- 江戸幕府の執った反乱防止策!「入組支配」とは...《 縄文人!"蝦夷"民族 第7回 》
- 江戸時代幕府が開白されて、家康に実権が移ったのちも、「蝦夷の脅威」は去りませんでした。(歴史書を読み漁り古今東西の歴史に精通していた)家康とその家臣団は、蝦夷勢力の復活を恐れ、東北における「入り組み支配」を徹底!しました。例えば秋田県の場合、当初は(西軍についた)小野寺氏以外の諸大名は、所領を安堵されましたが、慶長7年から慶長8年の期間にかけてほとんどの大名が常陸国に転封(国替え・左遷!)され、鎌倉以来となる長年の「領主と住民の絆」は途切れ!ました。
- "原始民主主義の蝦夷部族"同士の♥共存共栄策が仇となった!《 縄文人!"蝦夷"民族 第8回 》
- ウラルアルタイ系部族の特徴は●狩猟・採取による「営み・暮らし向き」●文字を持たない自然崇拝のシャーマン(祈禱師)による政(祭事)と口承・伝承文化●Chief(酋長・族長)の lead で、互いの役割分担を果たす♥原始民主主義!以上3つの文化背景を持った、ウラルアルタイ系民族の特徴は、シャーマン(祈禱師)の占いによる自然崇拝の"♥原始民主主義文明"ともいえるわけです。そしてに日本列島では、沖縄のノロやユタ、東北恐山のイタコに見られるように、「(女性シャーマン)巫女」が神(天)からのお告げを、民に伝える!祭事・政(まつりごと)の中心人物となっていたわけです。
- 理論武装(文字文化)は武力(口承文化)よりも強し!《 縄文人!"蝦夷"民族 最終回 》
- 「歴史は繰り返される」の言葉通り、東北各地は冬季「雪に閉じ込められる貧困」故に、時の為政者・中央政府側からみると反乱・一揆の歴史を繰り返し、その都度「為政者に鎮圧」されてきたことになります。そして歴史を振り返ってみると、最初に述べた通り「弥生人の文字・宗教による理論武装が、先住民達のシャーマンによる伝承文化を征服せしめた」ともいえる訳です。
- 風水を無視した大和川放水路!開削事業は流域集落を疲弊!させた《 大和川付け替え?ー帯書きー》
- 「大和川付け替え」として有名な"放水路"築堤!"事業(1704年)は、民を水害から守る為では無く!幕府を財政危機から救うための"増収事業"「新田開発事業」"を推し進める"いち手段に"すぎなかった!のでは...
- " 大和川放水路!普請"が作った浮浪・流民・"農奴!"が「起源となった大阪の"人権問題!"」《 大和川付け替え?第1回 》
- 日本全国の人権問題の基幹にあるのは、江戸時代の"大儀明文・士農工商"にあり、そこから落ちこぼれた?人たちが"差別"と"迫害"を受け続けてきたわけです!
- もともと大阪平野は"河内湖"が大部分を占める「低湿地帯!」だった《 大和川付け替え?第2回 》
- もともと大阪平野は"河内湖"が大部分を占める「低湿地帯!」でした。聖徳太子?の頃には、旧大和川(長瀬川)以南!の河内湖は無くなっていました。
- 秀吉の頃も依然として旧河内湖一帯は低湿地帯!だった《 大和川付け替え?第3回 》
- 大和川放水路開削、旧河内湖・低湿地帯の新田開発に大きく係った、大坂三郷の始祖旧大阪城下に集められた"なにわ商人"は、堺商人だと勘違い!なさっている方が多い!でしょうが...
- なにわが♥"天下の台所"となったのは"江戸幕府"になってから!《 大和川付け替え?第4回 》
- 新・大和川放水路が開削されて以降!も、旧大和川本流♥長瀬川が"♥重要な水路!"として、流域への♥灌漑と"♥水運"を担い!、流域で収穫された農産物を天満橋の船溜まり、つまり天下の台所への重要な"♥transfer line(輸送路)"となっていました。
- 幕府の2大政策『入り組み支配 と 新田開発』《 大和川付け替え?第5回 》
- 江戸幕府の2大政策は『入り組み支配 と 新田開発』です。今の日本国に通じる、歳入無視!の無駄使い!で、幕府開闢100年を経過した1700年頃には財政破綻!状態となっていました。
- 大和川付け替え? スキームは"だれの為?"だったのか...《 大和川付け替え?第6回 》
- 大和川放水路!開削普請は決して"通説の美談"等ではありません!大川と土佐堀川にはさまれた2つの中ノ島には豪商が営む米蔵が立ち並んで...しょっちゅう水害に悩まされて...更に幕府の財政再建!の為に新田開発!が必要で...
- 大和川付替え普請は 日本の"南水北調!"事業?《 大和川付け替え?最終回 》
- 大和川付替え普請は 日本の"『南水北調!』プロジェクト"と言えるかもしれません!つまり江戸幕府の身勝手な水利行政により、多くの小作人が農耕地を失い、一家心中や戸籍を持たない流民・浮浪となり、新田開発に"農奴"として駆り出され、今に続く人権問題。差別問題の水種となって終ったのです!
- 大和王権誕生以来、中央政権の"いいよう"にされ続けてきた歴史...《 四国と大和王権"連邦 ー帯書きー 》
- 四国は、中央政権の息のかかった Governor に統治!され続けて、時の中央政権に翻弄され続け!四国島民としての ♥Identity を持つことを阻まれ続け"!、身内同士で利害を主張し合う!不幸な状況が続いています!長曾我部の時代に戻り、四国統一を果たし、四国州(四国広域連合)として再出発するべき時期なのではないでしょうか?
- 険しい地形が♥"四国統一"を阻んで!きた...《 四国と大和王権"連邦 第1回 》
- 四国を訪れたことがある方は、お気づきだと思いますが、沿岸部にある主要都市は、海岸まで続く尾根で見事に区切られています!21世紀の"車社会"の今でも中々気軽に『チョット隣町迄...』とはいかないわけです!いわば、「うだつ」で区切られた、屋根を連ねた街並みの様なもので、「ねずみ小僧」も苦労させられる?わけです。
- 瀬戸内運海 沿岸に発達した シャーマン文化 と 都市国家!群《 四国と大和王権"連邦 第2回 》
- 国内交易の重要路だった瀬戸内運河?沿いの海岸沿いには、古代から、数多くのCommunity(集落)が生まれ、tribe(部族国家)を育みました。古墳(王墓)があるとこ処は全て、古代からTribe(部族)のCommunity(共同体)、Village(集落)があったところです。拡大していただくとわかりますが、現在県庁がおかれている、松山、高松、徳島、高知市街地に古墳はありません、(発見されていません)何故なら、縄文時代は縄文海進といって現在より約20mほど海面が高かったからです!
- JA大和?が四国南西部の"最初の"植民地"に選んだ南予・幡多郡は《 四国と大和王権"連邦 第3回 》
- 当初は"塩"も容易?に"穫れた!"瀬戸内運河沿いに、native people(土人:縄文人)追い出して!定住していった弥生人のCommunity(部族国家?)ですが、人口が増えるとともに、太平洋側の縄文人zone(地域)にも触手を伸ばし始めたわけです。前途した様に縄文末期大和連合が、四国南部・太平洋(土佐湾)沿岸部制覇!を企てた当時は殆ど耕作に適する、平地部は、まだ海の底でした!そんな中で幡多郡は今の山(標高869m)と四方の山からなる土佐湾に浮かぶ幡多島?として、現・三原村一帯の盆地部!が稲作に適する耕作地として、弥生人のColony(植民地・入植地)が開かれた訳けです!なので幡多郡の四万十川河口部にはあまり古墳(Chief;首長・族長の墓)が見当たらないのです!
- 陸の孤島!幡多郡と宇和郡南予地方《 四国と大和王権"連邦 第4回 》
- 四国西南部の幡多郡と宇和郡南予Region(一帯)は、701年の大宝律令以来,実に1300年以上!も黒子として Backyard に放置!されてきたわけです!中央政権(幕府)の経済"を支える重要なregion(地方)でありながら、traffic(往還)は整備されずに、険しい海岸沿いの往還と、天候に左右される海路・水路に頼らざるを得ない"陸の孤島"状況が長年続いてきたわけです。
- 秀吉侵略!後の封建制度!で再び分割統治!支配に戻された"四国"《 四国と大和王権"連邦 第5回 》
- 秀吉・家康と続く、制極時代平定後の封建制の時代には、全島に譜代大名を配置して決起を抑え込んだ四国では、おおむね各令制国の全郡域を任された主要藩主がterritoryとしていましたが..."寺社領"を特認することで、「実質入り組み支配(※30)」を行い、「地域勢力の団結を阻止!」していました。更に、明治維新後は単に奈良時代(律令制)を懐かしむ、公家共(搾取階級!)が理想?とする、1000年前!の「絵に描いた餅」同様の国割り!に戻されて、いいように!され続けて今に至るわけです。
- 嘗て♥四国統一!を果たした♥長曾我部の再評価が必要では...《 四国と大和王権"連邦 最終回 》
- 大洲城の初代城主宇都宮豊房同様に、地元出身の地元豪族(国人)長曾我部氏の第21代当主長宗我部 元親は前途した、律令時代の名残!の国司である土佐一条氏を追い出して!土佐の戦国大名となったわけですが、その後、四国各地の守護大名を滅ぼして初めて四国全土を Federation(連邦・自由交易圏!)として統一したわけです。
- 肥前・肥後、備前・備後は交流が無かった?は備後(ビンゴ;正解)では無い!《 筑紫島西海道3国 ー帯ー》
- 。福岡市街地は博多湾にスッポリ飲み込まれていましたが...筑紫島(九州)北部の西海道3国(筑紫・肥・豊)を細分化した筑紫国(筑前・筑後)火(肥)(肥前・肥後)、豊(豊前・豊後)間では、元祖JA!の古代「那の倭国」Federation の時代から、瀬戸内(豊)で"収穫?"された天日塩と、有明海沿岸(肥)で収穫される米が、九州山地(阿蘇連山)を越える"交易路"で交易されて...
- 筑紫島西海道3国(筑紫・肥・豊)とは《 筑紫島西海道3国 第1回 》
- 筑紫島(九州)北部の西海道3国(筑紫・肥・豊)を細分化した筑紫国(筑前・筑後)火(肥)(肥前・肥後)、豊(豊前・豊後)間では、険しい九州山地(阿蘇連山)にさえぎられて、「民の交流がなかった?」かの様に吹聴している輩がいますが、そんな事実(科学的・考古学的論拠)はあり魔線!
- 大宰府が大宰府にあるのは?...《 筑紫島西海道3国 第2回 》
- 大宰府が大宰府にあるのは?大陸奥地から稲作が伝来した縄文時代には、福岡平野?は海底!だったからです。大宰府が水際つまりFrontier(最前線)だったのです。
- 佐賀平野が先に栄えたのは《 筑紫島西海道3国 第3回 》
- 佐賀平野が先に栄えたのは、筑紫野が天然の防波堤!となり、荒海玄界灘から佐賀の丘陵地帯(海辺)を守ってくれて、南向きで稲作に適していたからです。
- 過去の教訓を現代に生かす現実路線とは...《 筑紫島西海道3国 最終回 》
- 持続可能な発展(税収Up)が可能となることです!現行の「まちづくり3法遵守の発想を真逆に転換」すれば、伸び(広がり)切った市街地が起因する、infrastructure整備と消防・ごみ収集などの公共サービスを集中できて、しかも持続可能な駅前一等地の地上げ(固定資産税UP)に繋がり、中央省庁に色目を使わなくても、自立できるようになるのです。




