狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Essay『人権問題・差別問題 の"水種?"になった"大和川付け替え?"は必要だったのか?...』ー第4回ー

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★第2節 なにわが天下の台所となったのは江戸幕府になってから!

1600年(慶長5年)10月21日の関ケ原の合戦で勝利した徳川家康が、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任ぜられて、江戸幕府を開闢したわけですが...

...江戸幕府も引き続き大坂の整備と特権を認めて(※10)天下の台所と呼ばれるまでの商工業都市となった。

一方、淀川や大和川が流してくる土砂は上町台地のはるか西の沖合いまで、いくつもの支流と小島を作って海を埋め尽くす...この土砂は通行路である河川を浅くして...洪水や氾濫の原因にも...次第にこれらの新しい島も新田開発が進められるようになった。《Wikipediaより引用》

つまり『大阪を代表する古地図にある運河群は、湿地帯の"排水路"として江戸幕府が整備を進めた』ものなのです。

参※10)当サイトシリーズ記事 大阪市における" 市営モンロー主義 "の起源と変遷 はこちら。

★第1項 江戸中期には旧大和川本流長瀬川流域 の南河内は肥沃な農耕地になっていた!

大和川付け替え普請をした江戸中期のころには、大和盆地と共に旧大和川(現長瀬川)流域の河内は、毎年梅雨期に大和川上流域から運ばれる大量の土砂で、(嘗てのナイル川流域のように)農業に適した肥沃な農耕地になっていました。

しかも、この頃には築堤整備も進み、旧・大和川本流(長瀬川)以南の南河内は、ある程度洪水からも守られていました。

第1目 日本最古といわれるダム湖狭山湖を持つ狭山藩は

特に狭山藩には日本最古といわれる灌漑用ダム狭山池(※71)があり、幕府から管理をゆだねられていて、

河内平野一帯に、農業用水を供給すると共に、西除川を使った"水運"を仕切っていて、流域でとれた農産物を大消費地浪速の、東の玄関口"天満"まで出荷していたわけです!

実際に川沿いを走破すると分けりますが、狭山湖から続く両岸の台地部では、深い渓谷を形成して、下流に行くほど平地に近づく"緩やかな流れ"♥水運に適した水路でもあり、かつ現・東住吉区一帯に、農業用水を配る"灌漑用水"もあったわけです!

参※71)616年(推古天皇24年)ごろの造営と考えられている!

但南藩を流れる東除川も同様ですが...

新・大和川放水路が開削されてからは、新たに整備された"平野川"が柏原船の水運と灌漑を...

東除川は...

放水路開削以前は、水運と排水を担、現平野区のあたりには縦横に用水路(排水路)が張り巡らされていました!

西除川は...

旧西除川は主に排水を担っていましたが...

第2目 東除川流域

丹南郡

大阪狭山市の全域、堺市の一部、松原市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部。

丹南郡 (51村)丹南藩・佐山藩及び代官支配; 幕府領、旗本領、上野館林藩、相模小田原藩

第3目 西除川流域

丹北郡

東住吉区の一部、平野区の一部、松原市、八尾市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部。

丹北郡(45村) 代官支配; 幕府領(一部は宇都宮藩預地)、旗本領、丹南藩、狭山藩、上野館林藩飛地、下野高徳藩飛地、相模小田原藩飛地、和泉伯太藩飛地

第2項 付け替えた大和川は単なる放水路!だった

河内国の水利行政は幕府の直轄事業!

でした。

第1目 大和川水系の利水は幕府直轄官吏事業!

河内国を流れる大和川水系は、淀川水系と共に「国役堤」として江戸幕府直轄の管理下におかれて、堤防の管理・保全が行われていました。

水防も大事ですが、主な任務は水利事業、つまり大和川の分流に"水を配分"する大事な役目を担っていました。

つまり、大和川放水路(現大和川)が開削されてからも、各"分流"の元栓にある堰に設けられた"水門"の調整を行って、各水系の水利を配分管理していたわけです。

第2目 開削された大和川(放水路!)は水運には利用できない急流!

これは、大和川堰堤を走破すればすぐにわかることですが、新しく「開削された大和川放水路」(バイパス放水路)は急峻な流れで、水運には利用できなかった!ことが一つ、

そして、柏原にある平野川(運河)の取水口最後に、それより下流には灌漑用水取水用の水門が設置されてい無い!ことでもうかがい知れます。

そして、この水利に関する幕府の施策が、恩地川流域下流にある河内湿原に悲劇?をもたらしたわけです!

第3目 旧本流長瀬川は明治維新以降も本流!として利用された

大和川放水路が開削されて以降も、旧大和川本流・長瀬川が重要な水路として、流域への灌漑と、"水運"を担い、流域で収穫された農産物を天満橋の船溜まり、つまり天下の台所への重要な輸送手段であったことからも、うかがい知れます。

長瀬川が役目を終えた?のは、大東亜戦争・敗戦後20世紀後半!)の高度成長期!になってから

長瀬川が、改修されて現在のような"排水路"になったのは、長瀬川流域が宅地化して農耕地が無くなり、流域の灌漑が必要なくなった敗戦後の高度成長期以降!になってからの事で、

大和川放水路が開削された1704年(宝永元年)以来 実に250年以上!にも渡り、ずっと水運と灌漑を担っていたわけです!

第4目 恩地川も重要な放水路!だった

大和川放水路が開削されるまでは、恩地川は重要な放水路でした!

つまり、本流(長瀬川)には灌漑用水を流し、いざという時には恩地川を放水路として利用して、河内湿原遊水地!(旧河内湖)に雨水を放流!していたのです。

これは現在でも変わらず?、恩地川・寝屋川流域に「大きな遊水地」をいくつも造成して、江戸幕府の付け!を令和の国交省が尻ぬぐい!している事でも裏図けられます。

第3項 水利変遷!

第1目 大和川放水路開削以前は

通常期は...

通常期は、灌漑(農業用水)と水運の為に旧大和川本流長瀬川)に一定量の水量を流していました。

旧大和川本流は緩やかな流れであるために、大和盆地から流れてきた"土砂"は堆積して、周りの平地より川底が高い天井川化!を促進させました!。

降雨期には...

梅雨時の豪雨、台風シーズンには、放水路として機能させるために恩地川への水量を増やしていました。

しかしこの時は流速も早いので、川底(と遊水地)にも土砂は堆積しないで下流に流れて、天満で合流した後、2つの大川と土佐堀川、安治川に3分流して河口部を形成するので、流量・流速も分散されて、河口部に近いほど堆積しやすく、天満から先は、運ばれた土砂で3角洲が形成されて、葦が生い茂る湿地帯が広がりだしました!

第2目 大和川付け替え・放水路開削後!

大和川の放水路普請が行われた、江戸幕府開幕百一年後の1704年には、天満以西の河口部では長年の土砂の堆積で、自然に"干拓?"されて、西横堀川、木津川流域も、干拓?が終わり平地が現れたでした。

また、現大阪市西区の(水運・排水用の水路網)がほぼ完成しており、河口部では川底への土砂の堆積、洪水時の水害が目立つようになってきていました。

平時長瀬川・平野川にほぼ全流量

"平時"には、旧大和川本流(長瀬川)の流域と、新に整備した平野川に灌漑用水を送りさらに水運を維持するために、恩地川ともどもに大和川放水路には、殆ど水は流されていません!でした。

前途したように、明治新政府になってからも、水利組合が水門の管理を行い、大東亜戦争敗戦後は旧建設省が水門の開閉を管理していました。

増水時!には緊急放水路!として開削した大和川放水路を利用

そこで大和川放水路が完成してからは、今まで恩地川に流していた、増水時の流れを"大和川放水路"にバイパスさせるようになりました!

梅雨時や台風で大和川が増水すると、長瀬川、平野川(用水路)に繋がる水門は閉ざされ上流から流れてきた土砂を含んだ水は全量!大和川放水路に流され、「河口部で急激に広がり」流速が落ちて、天然の良港だった堺の沖合に堆積して港をオワコン!にしたのです。

つまり、大和川放水路!は増水した時しか流さない放水路!だったわけです、柏原市にある堰(取水口水門)以西へは、灌漑に使えるような水は一切流されていなかったのです。

なので大和川放水路には、東除川・西除川からの合流水路はあっても、平野川運河以西の、旧東除川流域、西除川」(矢田川)流域への灌漑水取水口(水門)は設置されていない!のです。

なので、「大和川放水路開削」以降は旧・西除け川矢田川)流域では、水不足に苦しみ!度々飢饉に見舞われた!わけです。

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公開:2021年4月19日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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