狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

歴史探訪『 四国は大和王権"連合"成立当初から重要メンバーだった 』ー最終回ー

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エピローグ 嘗て四国統一!を果たした長曾我部の再評価が必要では...

大洲城の初代城主宇都宮豊房同様に、地元出身の地元豪族(国人)長曾我部氏の第21代当主長宗我部 元親は前途した、律令時代の名残!の国司である土佐一条氏を追い出して!土佐の戦国大名となったわけですが、その後、四国各地の守護大名を滅ぼして初めて四国全土を Federation(連邦・自由交易圏!)として統一したわけです。

★第1項 とかく批判する人もいますが...

彼は言ってみれば、豪農上がりの地元豪族(国人)で、土佐一条氏の様に政権(室町幕府)から差し向けられたOfficer(行政官;役人)ではありません。

倭国・連合組合(律令制)が崩壊して、武家社会(鎌倉・室町幕府)の法度による封建制(Lord;領主による領地領民の個人資産化!)となり、武力集団(搾取階級)の地位が確立されると、

貴族趣味はなくなり武家の家臣団も、「自ら荘園を運営」するようになり、平時は農民として、有事は侍となる、兼業武士!が生まれたわけです。

特に民主的でもあった長曾我部の家臣団はその傾向が強く、言ってみれば与えられた所領内で、縄文時代の様な原始民主主義ともいえる「Community(共同体)・Municipality(自治体)」を形成!していたわけです。

とかく批判する人もいますが、彼は封建体制を打破して四国の国割を無くして、封建領主(守護・地頭)の「領民農奴)を解放!して、四国諸国の自由往来(交易)を復活させた意味合いでも、偉業を成し遂げた人物といってよいでしょう。

それが、江戸幕府の手先!として土佐を治めた、山之内家の強引な新田開拓に対する家臣団(旧・長曾我部家臣団)の反感を買い、強硬派の排斥にもつながったわけです。

長曾我部は武装化した農民の長(おさ)

そんな中で、土佐の地元・豪家?の長(おさ)長曾我部氏が台頭して、周辺の小大名を次々と制圧!して、ついにフィクサーでもあった土佐一条氏を追い出して、土佐を平定!して、仁淀川沿いの松山街道(現国道440号)を攻め上がり!三坂峠から伊予に攻め入って、平定したわけです。

事実、三坂峠は標高705mと、四国最高峰・石鎚山(標高1792m)から続く石鎚山脈の中にあっては、比較的低く、しかもと州の仁淀川沿いの松山街道も険しい山道ではありません。

但し、重要な「塩街道」の一つでもあり、途中には双方の山城が連なり、たやすい侵攻ではなかったと思われます。

長曾我部は農民の支持を得てlogistics(兵站)を確保できた!

自らの家臣団が豪農(半農・半武の兼業農家?)で構成されたいわば"解放軍?"であったために。100㎞以上にも及ぶ道程にもかかわらず、沿道の農民の賛同でlogistics(兵站)「兵糧を確保」できたのでしょう。

その後、強大な力を誇っていた三好氏を討ち果たし(追い出し)、四国全土を平定できたのも、「豪農の長(おさ)」だったためでしょう。

長曾我部氏の四国統一は「つかの間の夢!」に

一時、長曾我部氏によって、四国全土の統一が果たせたわけですが、秀吉により...

さらに、時代が下り江戸時代になると、四国の反乱!を恐れた家康が四国を細分化して、小藩を成立させ譜代を配置して封建統治を強化して、更には各藩間の「民の往来(交易)」を厳しく規制したわけです。

★第2項 秀吉の四国征服!で再び抑圧された「民(たみ)の営み・暮らし向きに...

繰り返し述べているように「民の営み・暮らし向き」とローカルエリア間の・交易・交流は切り離しては成立しません!

古くから・瀬戸内連邦として、朝廷本部?と海路で交易のあった、阿波北部と、讃岐、伊予は、為政者(国司)により意図的に、人の往来を規制されていました!

四国の場合では、土佐・伊予各国間で、交易があったので、各要所に「番所(関所)」が設けられて、人の往来を厳しく取り締まっていたわけです。

第1目 徳川政権樹立後も...

四国では、「入り組み政策」(※01)は採られずに、(寺社領を除き)基本1藩1領主体制でしたが...

各藩主ともに、懐柔策として旧来からの半農・半武?の家臣の"地元採用"を行ったので、より一層各藩の対抗意識が助長されたわけです。

なので、明治維新後の段階的廃藩置県と県統合後も、旧各藩は独自の発展をつづけたわけです。

結果、対岸の山陽側とは異なり、岡山・広島に匹敵するような大都市(政令指定都市)経済圏が生まれなかったわけです。

参※01)「入り組み政策」とは、関ケ原の合戦&大坂の陣の際に敵側についた外様大名を改易(解雇)して所領を召し上げて、"集落(村)単位"にまで細分化して、旗本譜代に分け与えて、地方の団結反乱を防止する政策の事です。

近畿では、秀吉のおひざ元、現大阪府の、摂津国・河内国が顕著で、小生の集落は旗本領でしたが隣村は...

第2目 お遍路道と交易路・街道(荷駄道)は別もの!

四国の郷土史家は険しい遍路道を強調しますが...

遍路道と交易路・街道(荷駄道)は別もの!です。

遍路道は四国霊場88か所巡りとして、江戸幕府が特別に認めた通行路で、お伊勢参りや関東の大山詣で、おかげ参り(伊勢詣で)熊野詣、金毘羅参拝同様に、参詣の為に特別認可されたルートで、あり

交易路・街道(荷駄道)とは別に設定された道です!

なので荷駄には適さない「急峻な道」となっています!

★第3項 明治維新(廃藩置県)後も土佐では♥Democracy運動が...

明治維新(廃藩置県)後も、土佐では♥自由民権(Democracy)運動が続き有名な板垣退助や、

実業家の岩崎弥太郎などの多くの偉人を輩出しています!

彼らは全て真明治維新「Democracy日本国」を目指していたんですが...

第1目 明治憲法は国文学者と wealthy 共が

大東亜戦争敗戦後の Democracy の理念に下ずく「日本国憲法」制定時にも争点の一つとされた"憲法学者???"の存在ですが...

そもそも「大日本国帝国憲法」制定時にも法律学者?はいたかもしれませんが???

当時の自称"憲法学者"と称していた連中 (-_-メ) は、単なる国粋主義の国文学者(古文書屋)にすぎなかった!のです。

残念ながらbureaucrat(官僚・公家)共が、古文書屋共と結託して「天皇を神に祭り上げ」て、bureaucrat(公家・官僚自らが恣意的独裁政治を行えるように、議会制?"封建主義"に基づく「大日本国帝国憲法強行(採択)したのです。

第2目 坂本龍馬が脱藩したのも

行ってみれば、土佐では自治意識・民主化意識がはぐくまれる土壌があり、維新の立役者"坂本龍馬"を生み出したのでしょう。

第3目 四国が立ち上がらないと日本に Democracy は...

日本が「真の民主主義」を目指すには、四国が先陣を切って(独自に培ってきた♥Identity に下ずいてり)道州制の礎となる(四国広域連合)を結成して、中央政権に対して強い発言力を持つことが必要なのではないでしょうか!

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公開:2022年12月26日
更新:2024年4月 5日

投稿者:デジタヌ

歴史探訪『 四国は大和王権"連合"成立当初から重要メンバーだった 』ー第6回ーTOP九州北部"筑紫国・火国・豊国"での渡来・弥生人 vs 縄文人の壮絶な戦いの歴史 《連載第1回》


 

 



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