四国は大和王権"連合"成立当初から重要メンバーだった ー連載第4回ー
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四国西南部の幡多郡と宇和郡南予Region(一帯)は、701年の大宝律令以来,実に1300年以上!も黒子として Backyard に放置!されてきたわけです!
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第1目 陸の孤島であり続けた?!歴史
中央政権(幕府)の経済"を支える重要なregion(地方)でありながら、traffic(往還)は整備されずに、険しい海岸沿いの往還と、天候に左右される海路・水路に頼らざるを得ない"陸の孤島"状況が長年続いてきたわけです。
測量技術(地図作成)が不完全な頃
今に至る!大宝律令(701年制定)による古代の国割りが慣行されたころには、大規模な測量技術、つまり検地・測地?・地図作成は不完全で、だいたいの目勘定(目測)で行われていました。
但し、農耕に必要な標高測量は、かなり進んでいたようで、標高差(落差)を用いた灌漑技術(小規模用水路開削整備)で棚田が開墾!できた、訳です。
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第2目 抑々が「民(たみ)の営み・暮らし向き」を無視!した律令制
大宝律令(701年)発令により、布告?された律令制(郡県制)による線引き!は、合理的な根拠に乏しい!「民(たみ)の営み・暮らし向き」を無視"!した制度でした。
中央政権?のmember(構成員! (-_-メ) )である加盟国の Chief(族長)共が協議して、手中に収めてもい無い area(空地・原野?)までも手前勝手に線引きして、分割して征服後の領地分けを構想したわけですが...
これは、則天武后が敵対勢力(縄文人の倭国)を征服するために、白村江の戦い(663年10月)以来、途絶えていた"朝貢使"(遣唐使)を(約40年!ぶりに)再開させて「再び唐王朝の冊封国(属国!)となり」、宗主国"唐"王朝の"お墨付き"(後ろ盾)を得る必要から、征服後の国割構想(統治策)を大宝律令として策定したのでしょう。
つまりは15世紀のカソリック西欧社会でスペイン王国とポルトガル王国で交わされたTreaty of Tordesillas(トルデシリャス条約)と同じような「捕らぬ狸の皮算用」にすぎません!
第3項 三間・近永・松野は宇和島藩の納屋だった
第1目 四万十川・支流広見川は重要な交易路でした
主題である四万十川支流・広見川流域も同じで、国境に当たる予土国境厠処(現国道381号県境)の標高は僅か58mしかなく、風待ちが必要な海路の豊後水道航路よりも、"塩街道"として重宝がられいたのでしょう。
つまり、ある程度上流(広見川合流部?)まで、川船が航行可能(岸から曳航可能?)な四万十川流域は、古代から交流(交易)があったと考えて差し支えないでしょう。
しかし中国・唐王朝(618年→907年)とともに栄えた?平安時代(784年→12世紀末)「日ノ本連邦政権(大和町朝廷)」で(900年頃)に王朝国家体制(公家社会)が定着して、律令体制が崩れだすと、もはや公家はofficerとして、任地に赴くことはなくなり!
agent(目代)を派遣するようになったわけです。
第2目 悪名高き藤原純友は政権のagentだった
そして936年に(朝鮮半島の両班;ヤンパン※★同様の)海賊(盗賊)集団が暮らしていた宇和島に、悪名高い藤原純友を派遣して懐柔して連邦側に引き入れたので、この一帯は、晴れて?宇和島の所領となったわけです。
以来、 北宇和郡の四万十川水系流域の三間・鬼北・松野の3zone は、千年近くにも渡り歴代の宇和島領主から"搾取"され、同時に幡多郡(中村)との自由往来も禁じられて絶縁状態となったわけです。
後述するように、一時は長曾我部氏による四国平定(解放!)で自由往来が復活したものの、その後の秀吉による征服で長曾我部氏は土佐一国に押し戻され、再び長い鎖国!が始まったわけです。
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第3目 宇和島市と伊予国南西部
前途した様に701年に、制定された大宝律令で描かれた「国割構想」では当初から"伊予国"に含められていたわけですが...
実際には、伊予国と土佐国のboundaryは曖昧!で、特に宇和島を中心とする南予は盗賊が暗躍するarea(無法地帯治外法権region)だったわけです!
それで前途した様に日乃本政権(大和朝廷)が、藤原純友をagentとして派遣(936年して、南予の平定を企てたわけですが...
政権の意向とは裏腹にagentとして派遣した純友が海賊のleader(統領)となり、暴れまわったので、政権が豊予水道の制海権を手中にすることができなかったわけです。
更には、関東の平将門と内通した純友が、平家と呼応する動きを見せ備前国・播磨国、淡路国、伊予国、讃岐国の国府を襲撃し、海賊行為を繰り返していた。(941年)5月上旬には大宰府(九州!)まで急襲!し、傍若無人な海賊行為(略奪行為)を繰り返していました。
しかし大和政権が討伐隊を派遣して、博多湾の海戦で、捕らえられて翌6月20日に処刑されたとされています!
ほぼ2年にわたる、略奪行為は、「純友の乱」として語られていますが、実際には、前途した様に、に日ノ本連邦各地の都市?を回って略奪行為を続けていただけで、政権転覆を狙った反乱と呼べる代物ではありません!いわば大後悔時代のスペインの歴史的2大盗賊!、ベラスケス(キューバを根城にカリブ海を席巻した海賊?)、コルテス(中南米各地を略奪して回った盗賊の統領!)と大して変わらないわけです。
現在の宇和島城は秀吉藤堂景虎
941年(天慶4年) - 警固使である橘遠保により、宇和島に砦が建設される。
1203年(建仁3年) - 西園寺公経が伊予国の知行国主となる。
1585年(天正13年) - 豊臣秀吉の四国攻めにより、"伊予国"(現愛媛県域)は小早川隆景のterritoryとなり、養子秀包が西南部の南伊予の統治を任され、隆景家臣の持田右京が(宇和島)板島丸串城のGovernor(城代)となる。
1587年(天正15年) - 小早川隆景が筑前国に国替えとなり、大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が板島丸串城の城代となった。
1595年(文禄4年) - 藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領し入城。板島を宇和島と改名。
1598年9月18日 秀吉没、以後5大老による集団指導体制となる。
1600年10月21日 関ヶ原の戦いで東軍大勝利!
1601年(慶長6年) - 藤堂高虎により宇和島城が築城される。
1603年 江戸幕府成立!
1614年 の大坂の冬の陣、旧暦11月20日和睦成立
1615年6月3日 大阪夏の陣で、豊臣家消滅!
1615年(慶長20年)大坂の冬の陣の功により伊達秀宗が、拝領し宇和島城に入城。
南予の宇和島は藤原純友を討ち取ったとされる橘遠保が引き継ぎ、その他のzone(一帯)は、寺社などに分け与えられて、鎌倉、室町、戦国時代の一時期長曾我部四国となり、豊臣政権になり伊予国を与えられた小早川隆景の統治路なり紆余曲折を経て、藤堂高虎が宇和島藩を立藩して、徳川幕府になり宇和島伊達家が幕末まで投資したわけです。
江戸時代になり宇和島伊達藩に国替えされてから宇和島城が築城された訳です。
宇和島城下の景観は?
宇和島の場合は、大河川は無く、現在の市街地の現在の標高から言っても、
宇和島(標高74m)とかろうじて陸続きだった?対岸の丸穂岬(標高182m)周辺の「山麓の斜面」にへばりつくように人家があったと思われます。
海賊の砦は坂下津の別当辺りの入り江にあった可能性もあります。
第4目 今に続く南予・北宇和郡の不協和音
広見川・三間川流域は穀倉地帯!
広見川・三間川流域は、以外?や耕作(棚田)に適した堆積地(河川敷)が多く、弥生人が南予(肱川流域)に稲作をもたらして以来、三間川・広見川流域にも伝来して、豊かな穀倉地帯を形成したと考えられます。
特に、旧三間町には城跡(砦跡)が多くあり、古来より、要衝として重要であったことがうかがえます。
足並みがそろわなかった平成の大合併
平成の大合併で、旧・三間町は宇和島市と合併しましたが...
現鬼北町を構成している、自治体は宇和島市編入を拒み合併して鬼北町となる道を選びました。
これは、三間町とは異なり辺境部(山間部・過疎region)が多く、合併して、過疎district(地区)が切り捨てられることを恐れたためでしょう。
しかし、東隣の現松野町districtにあった自治体は、宇和島市との合併を望んでいました!
理由は、寄らば大樹の陰で、公共インフラ(上下水道、教育インフラ)整備を充実させたかったからです。
しかし、合併できても、宇和島市街地(市役所)に出るには、お隣鬼北町(R320)を通りぬける必要があり、鬼北町が宇和島市との合併を拒んだので、合併断念を余儀なくされたことになっていますが...
紀伊半島の田辺市では、同じく隣接する上富田町と・白浜町を数化しないと市街地とは結ばれない旧本宮町・と旧龍神町が旧田辺市と合併しています?
どちらも、旧町役場を分庁舎(行政区)として、行政を行っています!
つまり、宇和島市側に、受け入れ気運が整っていれば、松野町も合併できたでしょう!
はっきり言えば宇和島市に、鬼北町抜き!での松野町単独合併は断られたのでしょう!
いずれにしても、嘗ての土佐一条氏のよなfixer(調停人)が居なかったのが最大の問題だったのでしょう!
公開:2022年12月26日
更新:2025年3月10日
投稿者:デジタヌ
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