狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Epic 『 東北に於ける先住民"蝦夷"民族と中華王朝傀儡"大和政権"の死闘の歴史!』ー第8回ー

第8回 江戸幕府の執った反乱防止策!「入組支配」

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江戸時代幕府が開白されて、家康に実権が移ったのちも、「蝦夷の脅威」は去りませんでした。

(歴史書を読み漁り古今東西の歴史に精通していた)家康とその家臣団は、蝦夷勢力の復活を恐れ、東北における「入り組み支配」(※1)を徹底しました!

例えば秋田県の場合、当初は(西軍についた)小野寺氏以外の諸大名は、所領を安堵されましたが、慶長7年から慶長8年の期間にかけてほとんどの大名が常陸国に転封(国替え・左遷!)され、鎌倉以来となる長年の「領主と住民の絆」は途切れました!

★第1項 転封(転勤!)改易(解雇!)と、所領の細分化!の嵐

現秋田県の殆どを領していた久保田藩は、秋田実季(津軽安藤氏の末裔)が改易(解雇!)されて領地召し上げ!となり、常陸国から転封(転勤!)された佐竹氏が立藩した小藩で、由利郡でも山形藩主最上氏が改易(解雇!)されて、幕府領(直轄地)と中小の大名所領に細分割され、蝦夷の末裔は完全に排除されました。

明治維新・戊辰戦争にもつながる潮流

このことが、幕末の戊辰戦争勃発前後の久保田藩内の重臣によるクーデターなどによる、藩政の歩調の乱れにも繋がり、現秋田県域にあった諸藩の奥州列藩同盟からの離脱と、維新政府軍(官軍)参加(寝返り)などにも繋がったとみるのはあながち 「うがった見方」でも無いでしょう。

さらに言えば、現秋田県会津若松・新庄を結ぶ山形新幹線延伸を拒否!するように、秋田新幹線が盛岡から伸びて、大曲で大曲?していることも、新庄⇔大曲間の冬季の尋常ならざる積雪を避けるためだけではないでしょう!

入組支配

江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名(外様)に対して頻繁に「転封(転勤 )・減封(領地召し上げ)、改易(解雇)・領地召し上げ」を行い、旧所領を集落単位!分割して、地方の統一・団結を阻む政策で

具体的には、外様大名の所領(Territory)を「集落ごとにまで細分化!」して、徳川の旗本・譜代の所領(飛び地)として分割統治する手法。

このために明治維新後も全国各地で府・県・郡・村の離合集散が繰り返されました。

この結果、複雑に入り組んだ支配で、各支配地(郷)間で待遇(身分)・処遇(年貢)に大きな格差が生じて市域紛争(農民一揆)の火種ともなっていました。

※小生が生まれ育って今も済み続けている南河内の我が故郷では、東北同様に、知行地が集落単位にまで細分化されて、小生の村は旗本領!、南隣の村は小田原藩!、東隣は天領!といった具合に、数町歩(数Hr)ごとに区切られて、それぞれ"年貢"が異なり、とくに小田原藩領では飢饉!の時にも年貢米の取り立てで苦しみ、人身売買(女郎、農奴など)、一家心中、一家離散、等の「悲惨を極めた」そうです。

さらにその隣村では、全村域が別の集落の豪農!に買い取られて、村人全員が小作以下の農奴!(水飲み百姓)に貶められて、明治維新後も被差別部落として差別を受けていました。

 

公開:2018年8月 5日
更新:2024年3月16日

投稿者:デジタヌ

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