狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Epic 『 東北に於ける先住民"蝦夷"民族と中華王朝傀儡"大和政権"の死闘の歴史!』ー第6回ー

第6回 やがて蝦夷の自治領「陸奥国」は、日ノ本Federationのterritory(領有地)になることに...

元慶2年(878年)に重い税や、労役の苦しみに耐えかねた蝦夷の秋田城司に対する反乱として元慶の乱が起こりました。

日乃本 Federation は藤原保則を新任の出羽守(でわのかみ)Governor(国司)として派遣しました。

保則は「朝廷に服属したエミシ(俘囚)」を使うことで反乱制圧に成功しました。

しかしその後天慶2年にも再び天慶の乱が発生しました。

第1項 「荘園開発」という「植民地政策」

狩猟・採取民族、つまりは流浪民であった蝦夷部族を定着させ、開墾させたのは「先住民・蝦夷」の暮らしを楽にするためではありません!

都で贅沢三昧!をして"のほほんと暮らす!"「公家供の実入り」を確保するためであったに他なりません!

すなわち日ノ本Federation(大和王権)は、征服!した東北各地や九州南部旧日向国は、colony(荘園;植民地)としてしか扱わず!

当然農民も「colonyの付属品!"農奴"」してしか扱わなかったわけです。

第1目 東北各地・九州南部では度々の反乱

故に、その後も重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷や薩摩・隼人が、日ノ本Federation(大和王権)の傀儡政権・国司(Governor)に対して反乱を繰り返したわけです!

東北では、元慶2年(878年)の元慶の乱(※大和連邦側の記録名)や天慶2年4月17日(938年5月22日)の天慶の乱(※大和連邦側の記録名)等が起こったわけです。

当時公家と呼ばれるthe exploited classes(搾取階級!)は、朝廷から俸給をいただく家臣(家来)ではなく、ローマ帝国の元老院組織のように、自前で糧を得ているいわば実業家集団でもあったわけです。

つまり彼らは全国各地で、積極的に荘園という名の「plantation(植民地・大規模農園開発」を行う必要があった訳です。

そのchief executive officer(代理人)として都から「木っ端役人供」を派遣したり、「朝廷に服した地元の転向組!蝦夷(俘囚)」を配置したわけです。

当然大和 Federation の議長国大和王権の"大王(おおきみ)"も租税(実入り)確保の為に広大な直轄地を有して、国府にadministrator,agent(管理者・目代)を配置していたわけです。

★第2項 律令制(日ノ本連邦)が崩壊して地方豪族が台頭しだすと...

中央政権の律令政治の衰退とともに、荘園のadministrator,目代(に当たる木っ端役人供による)私有地の占拠が次第に増え、農民は有力豪族(武装集団・山賊?)に頼り、蝦夷の各所には豪族を中心とする"武士"が出現しました。

9世紀頃には太政官命令で、『勝手に開墾地を私有し農民を困らせてはならぬ』とのおふれが出る程でした?が...(※しかしこれも怪しい、律令制度・平安期末期においても、農奴を抱える荘園(plantation)は健在!であり、もとより農奴は困り果てていた!わけです。)

★第1目 農奴を解放して自治政権を樹立して人心を掌握した阿部氏

地方豪族は重要拠点に分家を配して勢力を拡げていきました、その中から前途した陸奥の阿部氏(故・安倍元首相の先祖!)、出羽の清原氏(後の奥州藤原氏)が出現したわけです。

北上川中流以北に勢力を広げていた安部氏は、地元(農奴)の立場に立った自治(解放)体制を取っており、中央政権の大王(おおきみ)・公家共への貢租・徴役は拒否し続けていました。

これを「中央に対する反逆」と見なした大和王権が、討伐を企てたのが前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)です。

源頼義が陸奥守として討伐に向かう

しかし、当時の陸奥守や秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった源頼義が目代(陸奥守(むつのかみ)として指し向けられ、七年以上にわたり戦いが繰り広げられることとなったわけです。

頼義もわずか"三千ばかりの手兵"では歯が立たず、

横手付近に根拠を置き朝廷に属した「俘囚の主」(転向組と呼ばれる豪族・清原光頼に臣下の礼(家来になること)の形をとってまで援軍を依頼したわけです。

清原光頼は弟・清原武則を大将とする一万余!の兵を出して、安倍氏を駆逐しました。

★第3項 一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄えた奥州藤原氏

しかしこの後、武則の孫の代にいたって一族で内紛が起こり、これが後三年の役(永保3年(1083年) - 応徳4年/寛治元年(1087年))であり、この戦の後に清衡が奥州藤原氏となり荘園管理者(agent,administrator )に収まるわけです。

四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄えた奥州藤原氏の誕生です。

第1目 奥州藤原氏は「地元蝦夷の世に戻した!」が...

東北は中央政権の影響下を離れ、完全に蝦夷支配(自治区)にもどったわけですが...

藤原氏の統治方法は、国司と地領(荘園)を世襲することで、公的に権力行使!して、

併せて政権側の「公家供のplantation(&の農奴!)の管理」も請け負うというものでした。

ミニ京都と称される「平泉」などにみられるような艶やかな「公家志向」の館(やかた)で、都の搾取階級・公家共の荘園管理を執行するいわばGovernor(知事)、chief executive officer(執行官)、そして荘園のadministrator (管理者)を請け負うagent,(代理人)でもあったわけです。

つまりは「都」の回し者、「傀儡(かいらい)政権」のagentに過ぎなかった!訳です。

さらに出羽北部である秋田地方では「公家の荘園」そのものも存在せず、大和連邦議長国(大王国)の領地一色であったため、どの程度まで奥州藤原氏の所領が及んでいたかは不明であるとも言われています。

いずれにせよ、農奴を解放した阿部氏とは異なり、再び平安朝の農奴制度に下ずく「colony(植民地),plantation(大規模農園)!」制度に逆戻りした!わけです。

第2目 奥州藤原氏は王朝文化に毒された朝廷の手先・裏切者俘囚の長」(寝返り蝦夷!)だった

この頃になるとagent,として雇われたが目代が開墾した(荘園)の私有も認められ、豪族の勢力が拡大しました。

当時はこのように目代に対する朝廷の力は絶対的なものではなくなていましたが...

その後朝廷に服属する「俘囚の長」と呼ばれたエミシ民族出身の「寝返り組」の雇われ目代の権力(武力)は次第に強大になっていきました。

 

公開:2018年8月 5日
更新:2024年3月16日

投稿者:デジタヌ

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