狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Essay『人権問題・差別問題 の"水種?"になった"大和川付け替え?"は 必要だったのか?...』ー第2回ー

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★プロローグ もともと大阪平野は河内湖が大部分を占める「低湿地帯」だった!

過去の地球温暖化の時期に当たる縄文海侵が絡み、大阪平野(河内平野)などはほぼ無く

南部の羽曳野丘陵と泉北台地から連なる上町台地が付き出した、入江だったわけです。

その後、「淀川、大和川」の2大河川の堆積物・土砂で、入江だった部分の自然干拓?が進み、入江は"河内湖"となった訳です!

「難波宮(なにわのみや)」の頃には森之宮あたりに港が開かれて、旧・大和川(長瀬川)を使った水運で大和盆地(奈良盆地)と行き来して、米などの農産物と大阪湾の海産物の交易が盛んだったようです。

上町台地は、いわば内港(河内湖)と外洋(大阪湾)を隔てる自然の防波堤として、機能していたわけです!

この状態は、太閤秀吉の時代になっても同じで、鶴橋辺りと現大阪城公園辺りが積み替え港(中継港)となり。

前出の元祖大阪市営モンロー主義・自治組織大阪3郷"豪商"達が運行する、川船に積み替えて城下町大阪3郷に運ばれたわけです!

  • ●ブルーの流れが 旧淀川・大和川水系と旧大阪湾
  • ●ライトブルーのエリアが旧河内湖と最後まで残った河内湿地帯
  • ●緑のラインが大和川放水路
  • ●茶色のラインは枯れた元灌漑路だった西除川・東除川(排水路)
  • ●黄色の斧マークは新田(旧河川敷き)

第1項 奈良時代以前の古代・天平の頃は

第1目 中華王朝の冊封国(属国)であった約1000年間!中華王朝の使者を迎えるときは...

古代・古墳時代の日本"劣等"は、中華王朝後漢(25年→220年)の光武帝(BC6→西暦57年)

から「那の倭国」が、「"自治権"を認められた属国・冊封国(さくほうこく)」を示す"認証印"としての金印を印綬(25年→57年の頃)されて以来、不定期に(漢字が体系化される前なので記録には無い!)"朝貢使"を派遣して、統一王朝が崩壊した一時期途絶えましたが、再び隋が統一王朝を再興した後に遣隋使(600年→618年)として"朝貢"を再開して、遣唐使(618年→907年)に続いたわけです!

「髄・唐からの国書を携えた使者」を迎える際には、喫水の深い外洋航路用の大型船は「難波の宮のメイン港(難波津)には入港できなく、自然の良港として古代からあった堺の浜(石津の浜)あたりで向かえて、そこから丘陵地帯(百舌鳥・古市古墳群)を陸路で抜けて、竹内街道(竹内峠)を越えて、藤原京・平城京に招いたといわれています。

つまり、道中にある・仁徳天皇陵や・応神天皇陵などの巨大墳墓を態々巡り、「那の倭国」のorganization(政府機構)の権力が絶大!で、日本列島唯一のNation(政権)であることを ostentation(誇示)して、中華王朝の国使にappeal(印象付けた)したとされています。

参※)当サイト内関連記事 古代・神代の時代?の日本列島には「2つの倭国勢力圏」があった! はこちら。

第2項 聖徳太子?の頃には、旧大和川(長瀬川)以南!から河内湖は無くなっていた?

八尾市にある大聖勝軍寺(八尾大師堂)は587年頃に戦われた物部守屋との戦いでこの地が合戦場になり、勝利したので建立されたとされています。

つまりこの頃には、旧大和川本流・長瀬川以南の南河内にあった物部氏の拠点、渋川郡(グリーンゾーン)は大和盆地から旧大和川本流(長瀬川)で運ばれた大量の土砂が堆積して湿地帯ではなくなっていて、肥沃な耕作地!になっていたという事です。

更に逆に相対的に低地になった恩智川が本流になり、東大阪市の水走から大東市の住道にかけての低湿地(河内湖)に流れ込むようになったのでしょう!

※そもそも聖徳太子?なる人物その者が実在し無い"架空の人物!"ではないかとの説が、急浮上しています!

587年、崇仏派の蘇我馬子に組した聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで...祈願して戦勝したことから、...四天王を祭るための寺院として摂津国難波(現・大阪市天王寺区)に四天王寺を建立...当寺の太子堂も建立...信貴山に現れた毘沙門天像を2体作っており、1体を信貴山朝護孫子寺に、もう1体を当寺に奉納して毘沙門堂を建立した。《八尾市大聖勝軍鎮護国家寺資料より》

推古天皇2年(594年)に推古天皇より現在の山号と寺号が贈られる。これによりこの年を創建年としている。

652年に難波宮(前期難波宮=難波長柄豊崎宮)が完成した。孝徳天皇の後、都は飛鳥に戻ったが、壬申の乱に勝利した天武天皇は、畿内の外港を...要地難波宮を副都とし、国司を置く代わりに、津国を摂(管掌)する機関...摂津職(せっつしき)を置いた...

(683年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都とした...朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった...《Wikipediaより引用》

その後、...平城京から恭仁京へ遷都を行って...(744年)聖武天皇2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された...

(745年2月6日)、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された...

天平勝宝8年(756年)、聖武上皇から「大聖勝軍鎮護国家寺」の称号を贈られ、勅願寺に定められた。

第3項 摂津国の始まり

瀬戸内海航路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもある住吉津や難波津、中世には渡辺津が出来て津国(つのくに)と呼ばれ、港湾都市であり、国内流通の中心であった。

793年)3月9日に摂津職を廃し、新たに摂津国を置いた。前身の摂津職から引き継いで「摂」の字を冠して「せっつのくに」となったが...

(更に)784、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。《Wikipediaより引用》

いずれにせよ『長岡京に遷都されるまでは、交易を担う水運の要衝として、"難波津"が活躍していた』ことになります。

第1目 菅原道真が大宰府に左遷?された901年頃は

901年に菅原道真が大宰府に左遷された?時の有名な逸話として、

大宰府に赴く菅原道真が最後に立ち寄った"悪島"(現大阪市福島区)は、

葦の生い茂った湿地帯にある小島で"海賊"の根城となっていて、

葦が生い茂る"悪しき島"が転じて"悪島"と呼ばれて恐れられていたそうですが...

あまりにも不憫なので"福島"と命名して船出したそうです、

なのでそれを記念して小さな天満宮があるわけです!が、

言い換えれば、天満の天満宮あたり以外の北区一帯は、葦の生い茂る低湿地帯だったわけです!

事実、1874年(明治7年)に大阪駅 ⇔神戸駅間の鉄道開業と同時に開業した大阪駅周辺は、

1889年の市制施行時における大阪市域にも含まれてなく

1897年まで西成郡曽根崎村のままでした。

大阪駅が現出来た当時は、北新地辺りにもう一本の大川があり、"川向うにある梅田"は"埋め田"と呼ばれていて、一帯には寺と墓地と数件の農家しかなく、正しく"土田"だったわけです!

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公開:2021年4月19日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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