Essay『人権問題・差別問題 の"水種?"になった"大和川付け替え?"は必要だったのか?...』ー最終回ー
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大和川と共に河内湖(河内)に流れ込んでいた淀川は、古来から水運が盛んで、秀吉の頃には京の伏見港(船溜まり)と前途した天満港(森之宮船溜まり)間で水運が盛んにおこなわれていました。
つまり、"平時は穏やかな流れ"だったわけです!
つまり支流宇治川の、そのまた支流の大戸川、田代川、や木津川、とその支流の久米川が、
鈴鹿・大峰(おおみね)連山から大量に運んでくる、土砂が、堆積しやすい河川なのです!
なので、
大和川放水路完成後!も度々淀川の大氾濫が起こったのです。
第1目 1885年(明治18年)6月~8月の2度にわたる大水害では河内湖!が再出現!
大和川放水路を開削しなければ...
大和川放水路を開削しなければ、大和盆地から運ばれてくる大量の土砂で、河内湖(水走周辺の低湿地帯)は埋まり、淀川水路(新淀川)開削工事のきっかけとなった1885年(明治18年)6月~8月の2度にわたる大水害の被害はもう少し小さかったでしょう。
完全になくなったはずの、河内湖が亡霊のように現れて、深いところでは水深3m(民家の屋根)迄達しました。
その後も寝屋川流域では...
その後も、寝屋川流域では度々水害に悩まされて、大東亜戦争敗戦後の20世紀後半に至っても、寝屋川の改修が続けられて、2階建ての民家の屋根よりも高い堤防で護岸工事がなされて、
20世紀末!になってやっと浸水被害が"少なく"なった訳ですが...
小生が通勤していた水走近くの事業所では、1990年代まで雨が降る度に床下浸水!していました!。
片町線が高架化されたのも
JR片町線が早い時期に連続高架橋で立体交差化されたのも、
鴻池新田駅周辺が浸水被害で不通!になることが多かったからです。
第2目 1831年の天保山は淀川の運んだ砂礫浚渫土砂でできた小島!
木津川と並んで大阪湾から大坂市中へ遡る二大航路のひとつだった安治川は、当時は淀川の本流にあたり、淀川が運ぶ大量の土砂を浚渫する必要が生じた...
洪水防止と市中への大型船の入港をしやすくする目的で、1831年(天保2年)から約2年間、安治川では「天保の大川浚」とよばれる浚渫工事が行われた《Wikipediaより引用》
大和川水系も上流部から大量の土砂を運び!
中華王朝の傀儡政権!「大和政権の organization(朝廷)」の躍進を支えた豊かな稲作地帯・大和盆地の形成に一役も二役も果たしたわけですが...
第1目 旧堺港がオワコンに
新・大和川放水路が、増水するたびに運ぶ大量の土砂で、天然の良港だった堺港が砂礫で埋まり、
『南蛮貿易であれほど栄えた堺港・堺商人がオワコン!』になったのお話は有名です。
但し、おかげで『20世紀の高度成長期に、沖合埋め立て事業が、容易く行えた?』おまけがつきましたが...
さしずめ大和川放水路開削は、『人民のためと偽って一儲け(電力)を企んだ"江戸時代の三峡ダム工事"!』だったのかもしれません?
現在新規造営中も含めて恩智川、寝屋川推計には6か所の遊水地があります!
何れもXX市民公園,XX運動公園などと名称がついていますが...
どの施設も、恩智川、寝屋川との間の築堤は一部にオバーフロー堰と立派な水門を装備していて、いざという時は遊水地になる施設です。
つまり小生が、唱えたように、旧大和川の改修工事は"失敗だった"といえるのではないでしょうか...
第1目 渡良瀬遊水地のように、最後まで残った河内湿地帯を遊水地として残しておいたほうが良かった?
最後まで残った河内湿地帯(旧河内湖跡地)を"遊水地"として残しておいても、河内蓮根の栽培は十分可能だったはずです!
敗戦後の戦後復興期、高度成長期を通じて、水走の辺りは河内の水郷「大阪の潮来」として有名で、NHKの新日本紀行でも取り上げられたことがあります!
縦横に張り巡らされた水路を、軽トラ?代わりに川船が行き来して米などを運び、潮来同様に嫁入りもしたそうです!
大和川付け替えで生じた"流民・農奴の数を考えると、水走村の人たちが、大阪湾沿いに生まれた"新田開拓地"に移住してもよかったわけです!
第2目 大和川放水路を開削しなくても中之島の米蔵の水害は防げた!
前途した様に、増水時は流速が早いので、土砂は堆積しませんが、河内湖に達したときには、流速が落ちて湖底(湿地帯)に堆積しやすいわけです!
大和川(放水路!)を開削しなくても、大川(旧淀川)河口部中之島の米蔵の水害は防げたのではないでしょうか。
前途したように、大和王権やその後に続く江戸幕府は、旧大和川本流(長瀬川)の護岸工事を積極的に行って、かつ洪水を新大和放水路!に逃がすように制御したために、旧河内湖の東大阪市・門真・寝屋川辺りの土砂堆積が進まず!ますます低湿地になっていったのではないでしょうか?
つまり楠根川は"排水路"として有効に機能して、逆に玉串川(吉田川&菱江川)と恩智川は旧河内湖湿地帯に流れ込み、更には寝屋川も流れ込み、水走あたりを水郷にしてしまったのでしょう!
水走付近に、大和川本流(長瀬川)を天井川に押し上げて、西横堀川以西の現西区を創出させるほどの、大量の土砂が、そのまま流れ込んでいたら...
20世紀後半まで持ち越された寝屋川水系の低湿地帯の水害は緩和されていた可能性!もあります。
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公開:2021年4月19日
更新:2024年2月21日
投稿者:デジタヌ
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