狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

19万!?の大軍勢を率いた源頼朝の奥州討伐は史実だったのか?創作逸話!だったのか...《 縄文人!"蝦夷"民族 第6回 》

第6回 征夷大将軍とは東北人が容認できない侮辱的!な称号

文治5年(1189年)、鎌倉幕府を創設し征夷大将軍となった源頼朝が19万!?もの大軍勢を率いて奥州討伐に向かったとされていますが...

(※その後の徳川家康も武家の総領として、朝廷より「征夷大将軍」に任じられましたが、)

征夷大将軍とは、エミシ(蝦夷)を征伐(征服)する将軍という意味であり、武力をもって領土拡張する為の遠征軍の総大将を任じられたようなものでした。

第1項 史実だったのか?創作逸話!だったのか...

注※40)ここで疑問(矛盾)が生じるのが、19万!?もの大軍をどうやって、布陣させたか!です。

英雄伝説大好きの歴史屋!と「鉄オタ」は何ら疑問を抱かない!?のでしょうが...

前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)の源頼義か"三千ばかりの手兵"を行軍させれたのは「多少のサバ読み(水増し)」を考慮しても納得の行く数値ですし、援軍の奥州藤原の援軍一万余!も、多少の水増しはあっても移動距離から考えて妥当でしょう。

第1目 遠路はるばる19万人!の大軍勢の行軍となると...

しかし、遠路はるばる19万!の大軍を、数週間もかけて遠征させるとなると、行軍に関する logistics(兵站)の問題を抱えることとなります。

1-1-1 膨大な兵糧!をどうしたか?

いくら、梅干し・干飯などの携帯食だとしても、

19万人と軍馬の消費する兵糧は膨大な量!となります。

これだけの、兵糧!と兵器(弓矢)を荷車の車列(荷駄)で Logistics しようとしても、当時の traffic(往還網)では不可能!です。

7-1-1-1 嘗ての駅伝路も...

更に、奈良時代は全国に立派な高速街道(早馬伝令)が整備されて、通信(書状)は確保されていましたが...

「よく知られているように、幅の広い、排水設備の完備した高速道路」?でしたが...

とりあえず、最短距離「直線」を優先!したために、山野も直線で結び、斜面がきつく、とても荷駄(大八車、牛舎)logistics(兵站)に使用できるような代物ではあり魔線!でした

しかも、時代が下って12世紀にもなると、往還道は完全に廃れて!山野に戻って!いました...

第2目 当時の traffic では不可能!

つまり、19万人が話半分!の10万人の軍勢だとしても、実際の遠征(行軍)を考えてみると、当時の traffic(往還路;街道)では不可能!だったのではないでしょうか...

2-1-1 途中 Logistics (兵站)は途切れていた!ハズ

仮に?、沿道の日ノ本 Federation 側の"Administrator(地頭)"の全面協力!があったとしても?

奥州まで Colony が連なっているわけでも無く!...

長期に渡る遠征(行軍)は不可能!だったはずです。

しかも、全て直参の手勢・家臣団と、頼朝 organization(政権)に賛同加担した関東武家で賄った!?ことになっていますから...

2-1-2 当時の人口(密度)は現在より桁違いに少なかった!

更に当時の日乃本の全人口は、現在に比べて桁違いに少なかった!わけで、いくら関東全域から挙兵させたとしても、

19万人もの大軍勢記述は、後に戦記(古文書・行軍記)を編纂した「勝者側の創作家!」の大法螺(ホラ)話でしょう。

つまり、現在の歴史屋!(古文書研究家)が論拠とする"古文書"とはその程度!「きわめて信憑性に欠けた考証されていない贋物・創作私文書!」がほとんどなわけです。

第2項 征夷大将軍はスペインの南アメリカ征服の総大将コルテスと似たり寄ったり!

征夷大将軍とは東北各地にとっては随分と失礼な称号でもある!ことになるわけです。

隆盛を極めた藤原氏も、頼ってきた頼朝の弟義経をかくまったのを口実!に追討されて、藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡途中に、配下の裏切りに遭い討ち取られました

つまり、いかに配下の裏切りにあったとはいえ、搾取していた民衆(農奴!)を見方につけることができなかった!ためでしょう。

第1目 奥州藤原氏の滅亡因果応報!

現在、天皇制を支持する主流派(朝廷派)の歴史屋(古文書研究家!)は奥州藤原氏を称賛しますが...

地元民に支持(慕われ)されていたのならば、北へ落ち延びれたはずです!

藤原氏は、大和王権の傀儡政権・寝返り蝦夷であり、のちの鎌倉幕府の地頭( plantation owner)同様に、(大和王権 Federation の)搾取階級である公家共の agent であり、Manor のAdministrator にすぎなかったわけです。

『豪華絢爛な平泉も、農奴!を搾取した結果であり、"血を絶やした"のも因果応報の末路!だった』のでしょう。

第2項 東北各地の豪族支配(自治)が終わる!

数世紀にわたった蝦夷出身地方豪族の支配も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ!、東北は完全に鎌倉幕府の支配下!となりました。

第1目 幕府を開いた頼朝は"法度(Law)"を制定して...

藤原氏を倒した頼朝は、幕府を開き、崩壊した律令制度に代わって、新たに法度(Law)を制定!して、御家人(家臣)を、Agent(守護=国司や、地頭)として東北各地に差し向けて、東北における大きな政治的転換点となったとされています。

※ただし制度が変り称号が変わっただけで、守護職=Governor=国司、地頭は manor(荘園) の landlord,administrator(管理者)であり、元となる階級制度(農奴制度)は踏襲!されていました。

2-1-1 頼朝の家臣団が

頼朝が秋田に配した御家人(家臣)成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などでした。

また奥州藤原氏に仕えていた由利氏のみは、そのまま地頭として由利地方(のColony)を治める landlord(agent)とされました。

つまりはこれらの人々は「蝦夷」の末裔では無く!

(日乃本 Federation の構成員!である搾取階級傭兵・新興"武装集団"」。

つまりは、東北以外からやってきた地方豪族であり、混血・弥生人の系統を引き継ぐ人たちであったといえます。

2-1-2 室町幕府(戦乱の世)になると...

その後に室町幕府になり、日本海北部で勢力を伸ばした地方武家の安東氏(安藤氏ともいう)が津軽地方から南下して、安東愛季の時代に最盛期を迎えました。

また横手盆地では戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが覇権を競って!いましたが...

秀吉が天下統一を果たして、東北の地元武家も豊臣政権に服する!こととなりました。

ー続きはこちら

ここをクリックするとこの Content の Opening に戻れます!

※ここをクリックすると"要約"付き Category Top menu table に戻れます!

 

公開:2018年8月 5日
更新:2025年7月20日

投稿者:デジタヌ

「荘園開発」という「植民地政策」で...《 縄文人!"蝦夷"民族 第5回 》TOP江戸幕府の執った反乱防止策!「入組支配」とは...《 縄文人!"蝦夷"民族 第7回 》


 

 



▲日本列島史と”国造り神話”へ戻る

 

ページ先頭に戻る