狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Epic 『 東北に於ける先住民"蝦夷"民族と中華王朝傀儡"大和政権"の死闘の歴史!』ー第7回ー

第7回 征夷大将軍とは東北人が容認できないと侮辱的な称号!

文治5年(1189年)、鎌倉幕府を創設し征夷大将軍となった源頼朝が19万!もの大軍勢を率いて奥州討伐に向かいました。

※その後の徳川家康も武家の総領として、朝廷より「征夷大将軍」に任じられましたが、征夷大将軍とはエミシ(蝦夷)を征伐(征服)する将軍という意味であり、武力をもって領土拡張する為の遠征軍の総大将を任じられたようなものでした。

第1項 史実だったのか?創作逸話!だったのか...

注※40)ここで疑問(矛盾)が生じるのが、19万!もの大軍をどうやって、布陣させたか!です。英雄伝説大好きの歴史屋!と「鉄オタ」は何ら疑問を抱かないのでしょうが...

前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)の源頼義か"三千ばかりの手兵"を行軍させれたのは「多少のサバ読み(水増し)」を考慮しても納得の行く数値ですし、援軍の奥州藤原の援軍一万余!も、多少の水増しはあっても移動距離から考えて妥当でしょう。

遠路はるばる19万人!の大軍勢の行軍となると...

しかし、遠路はるばる19万!の大軍を、数週間もかけて遠征させるとなると、行軍に関するlogistics(兵站)の問題を抱えることとなります。

いくら、梅干し・干飯などの携帯食だとしても、19万人と、軍馬の消費する兵糧は膨大な量!となります。

これだけの、兵糧!と兵器(弓矢)を荷車の車列(荷駄)でカバーしようとしても、当時の traffic(往還網)では不可能!です。

更に、奈良時代は全国に立派な高速街道(早馬伝令)が整備されて、通信(書状)は確保されていましたが...

「よく知られているように、幅の広い、排水設備の完備した高速道路」?でしたが...

とりあえず最短距離「直線」を優先したために、山野も直線で結び、斜面がきつく、とても荷駄(大八車、牛舎)logistics(兵站)に使用できるような代物ではありませんでした

しかも、時代が下って12世紀にもなると、往還道は完全に廃れて山野に戻っていました!

当時のtrafficでは不可能!

つまり19万人が話半分!の10万人の軍勢だとしても、実際の遠征(行軍)を考えてみると、当時のtraffic(往還路;街道)では不可能!だったのではないでしょうか!?

仮に?沿道の日ノ本 Federation 側の"荘園管理者(地頭)"の全面協力があったとしても、奥州まで荘園(集落)が連なっているわけでもなく...

長期に渡る遠征(行軍)は不可能だったはずです!

しかもすべて直参の手勢・家臣団と、頼朝 organization(政権)に賛同加担した関東武家で賄ったことになっていますから...

更に当時の日乃本の全人口は、現在に比べて桁違いに少なかった!わけで、いくら関東全域から挙兵させたとしても、19万人もの大軍勢記述は、後に戦記(古文書・行軍記)を編纂した「勝者側の創作家!」の大法螺(ホラ)話!でしょう!。

つまり現在の歴史屋!(古文書研究家)が論拠とする"古文書"とはその程度の「きわめて信憑性に欠けた・考証されていない贋物・創作私文書」がほとんどなわけです。

第2項 征夷大将軍はスペインの南アメリカ征服の総大将コルテスと似たり寄ったり!

征夷大将軍とは東北各地にとっては随分と失礼な称号でもある!ことになるわけです。

隆盛を極めた藤原氏も、頼ってきた頼朝の弟義経をかくまったのを口実!に追討されて、藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡途中に、配下の裏切りに遭い討ち取られました

つまり、いかに配下の裏切りにあったとはいえ、搾取していた民衆(農奴!)を見方につけることができなかった!ためでしょう。

第1目 奥州藤原氏の滅亡は因果応報!

現在、天皇制を支持する主流派(朝廷派)の歴史屋(古文書研究家!)は奥州藤原氏を称賛しますが...

地元民に支持(慕われ)されていたのならば、北へ落ち延びれたはずです!

藤原氏は、大和王権の傀儡政権・寝返り蝦夷であり、のちの鎌倉幕府の地頭( plantation owner)同様に、(大和王権 Federation の)搾取階級である公家共の代理人(agent)荘園の管理者にすぎなかったわけです。

豪華絢爛な平泉も、農奴!を搾取した結果であり、"血を絶やした"のも因果応報の末路だったのでしょう。

第2項 東北各地の豪族支配(自治)が終わる!

数世紀にわたった蝦夷出身地方豪族の支配も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に鎌倉幕府の支配下となりました。

藤原氏を倒した頼朝は幕府を開き、崩壊した律令制度に代わって新たに法度を制定して、御家人(家臣)を、Agent(守護(=国司)や地頭(荘園管理者))として東北各地に差し向けて、東北における大きな政治的転換点となったとされています。

(※ただし、制度が変り称号が変わっただけで、守護職=Governor=国司、地頭はmanor(荘園) の landlord,(管理者)であり、元となる階級制度(農奴制度)は踏襲されていました)

頼朝が秋田に配した御家人(家臣)成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などでした。

また奥州藤原氏に仕えていた由利氏のみは、そのまま地頭として由利地方(の荘園)を治めるlandlord(管理者・代官)とされました。

つまりはこれらの人々は「蝦夷」の末裔ではなく「日乃本Federation」の「構成員!」である搾取階級の元地方豪族出身者の傭兵・新興"武装集団"であり、混血・弥生人の系統を引き継ぐ人たちであったといえます。

その後室町幕府のころになり、日本海北部で勢力を伸ばした地方武家の安東氏(安藤氏ともいう)が津軽地方から南下して、安東愛季の時代に最盛期を迎えました。

横手盆地では戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力圏を競っていましたが、秀吉が天下統一を果たして、東北の地元武家も豊臣政権に服することとなりました。

 

公開:2018年8月 5日
更新:2024年3月16日

投稿者:デジタヌ

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