タヌキがゆく《狸穴総研機関誌・狸穴ジャーナル》

大和川付け替え が 人権問題 差別問題 に繋がった"水種?(火種!)"に...

前書き 検定教科書 では綺麗ごとで片づけられた 「 大和川付け替え 普請」は江戸幕府と浪速商人が結託して...

関東の、利根川改修、荒川放水路開削と共に、土木工事の偉業として称えられている、淀川放水路(新淀川)改修工事、そして江戸時代末期に開削された「 大和川付け替え 普請」ですが...

《歴史ファンタジー・シリーズ》第3回 大和川"放水路"は本当に必要だったのでしょうか?

江戸幕府開闢100年後の1704年に完成した大和川付け替え普請は、その後1867年の大政奉還のまで163年間もの長きにわたり、江戸幕府を財政危機から救うために継続された一連の"新田開発事業"を、推し進めるための"増収事業!"にすぎなかったのではないでしょうか?...

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《歴史ファンタジー・シリーズ》の総合目次

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第1回 東北での"原住民・縄文人 えみし 民族"と"渡来系混血・弥生人 大和民族 "との攻防の歴史...

東北をめぐる先住民・縄文人「蝦夷」と征服者・南方系混血・弥生人「大和朝廷」との内戦の歴史「一大歴史ファンタジー」。

第2回 韓国の反日プロパガンダはCIAが仕組んだ日本牽制策?

敗戦後の日本は、米国の支援もあって(というより"都合よく使いまわされて")、ボロボロの敗戦国から驚異的な経済発展を遂げることができました。

プロローグ 美談として語られる大和川付け替え工事は...

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現東大阪市の、今米村の庄屋、中甚兵衛らが、親子に2代に渡って、幕府に直訴して、1704年に念願実って付け替え普請が行われたとされていますが...

当時の河川奉行2人の間でも、意見が分かれていたのは、一般人でも周知の事実ですが...

では何故当時の水利専門家で意見が分かれていたのでしょうか...

歴史は常に"為政者に都合よく"改ざんされる!

今の教育者の主流は、真っ赤に染まった日教組を担いでいる人たちですが...

彼らは、北朝鮮やレッドチャイナ同様にプロレタリアートの勝利?を誇示したいわけです。

なので、人民の闘争が、政府(幕府)を動かした"美談"として、大和川改修を祭り上げたいわけです。

一方"体制側"も、いつの世も?為政者は大局的な立場に立って、統治していることにしたいわけです!
つまり、両者ともに真実を明かそうとはしない訳です!

また現在の入試制度、センター試験に絡んで知る教育者も、現代・近代史については年時・設問にとどめて、高校入試(義務教育検定?)に至っては、故郷創生・地域の団結力・ローカル色育成に大事な、"地方の歴史教育"はあまり触れないで "きれいごと" としてお茶を濁しているわけです!

その結果、検定教科書からは、蝦夷討伐征夷の歴史(※01)や、渡良瀬遊水地闘争の歴史、北海道開拓・開墾地の生い立ち、大和川改修の真実が削除・改ざんされて、美談として記述されてしまうわけです!

参※01)当サイト関連記事 東北での"原住民・縄文人 えみし 民族"と"渡来系混血・弥生人 大和民族 "との攻防の歴史... はこちら。

 " 大和川付け替え 普請"で生まれた"流人・農奴"と大阪の人権問題!

日本全国の人権問題の軌間にあるのは、江戸時代の"大儀・士農工商"にあり、そこから落ちこぼれた?人たちが"差別"と"迫害"を受けてきたわけです!

士農工商は国学者が考え出したものとされていますが...

ヒンドゥー教徒のカースト制度、や古代ローマ帝国の時代からある奴隷制度を、"仏典"から学び日本風にアレンジしたものでしょう。

そして、大坂においては、江戸幕府が行った"入り組み支配"と"大和川付け替え普請"の結果起こった、"農業従事者"(農民)の貧富の格差"が、小作以下の"戸籍も持たない流人・農奴"を生んで、今に至る人権問題を生んだのでしょう!

地図をご覧になれば一目瞭然ですが、市民活動の根にある"地域格差"貧困問題は、江戸幕府が行った"入り組み支配"と"大和川付け替え普請による旧河川敷きの新田開発"が根源となっています!

浪速の復権を恐れた「徳川幕府」は、摂津国・河内国の大名の支配地(藩)を徹底的に廃藩・分割して、旗本・譜代などの家臣団に分譲して"飛び地"として支配させました!

この結果、徳川幕府直轄の"天領"及び旗本領と、普代・外様の藩領の"飛び地"では、格差が生じてしまいました!

つまり、天変地異による飢饉・飢餓が生じた際に、天領・旗本領と藩領では農民に対する"処遇"が大幅に異なり、年貢免除村と、お米一粒まで容赦なく掻っ攫われる「諸藩領地」に分かれてしまいました!

大和川付け替え普請と新田開発が...

更に江戸時代を通じて行われた、淀川水系(神崎川・古川・寝屋川)と大和川水系(長瀬川・恩智川)の新田開発は、江戸中期1704年の大和川放水路普請「大和川付替え普請」で田畑を没収された多数の"流民"を労働力(小作・農奴)として従事させた事業でした。

旧大阪3郷の町衆・豪商たちが、嘗ての大和川・淀川の旧川床を大量の"流民"を使って"新田開発"を行い、合わせて新しい"小作人・農奴"の貧困集落をつくったわけです。

東淀川区、摂津市、守口市、門真市、大東市、東大阪市、八尾市などの"格差エリア"はものの見事に旧淀川水系・旧大和川水系の旧河川敷と合致しています!

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第1節 もともと大阪平野は河内湖が大部分を占める「湿地帯」だった!

過去の地球温暖化の時期に当たる、縄文海侵が絡み、大阪平野(河内平野)は、ほぼなく。

南部の羽曳野丘陵、泉北台地から連なる上町台地が付き出した、入江だったわけです。

その後、「淀川、大和川」の2大河川の堆積物・土砂で、入江だった部分の、自然干拓?が進み、入江は"河内湖"となった訳です!

「難波宮(なにわのみや)」の頃には森之宮あたりに、港が開かれて、大和川を使った水運で、大和盆地(奈良盆地)と行き来して、米などの農産物と、大阪湾の海産物の交易が盛んだったようです。

上町台地は、いわば、内港(河内湖)と概要(大阪湾)を隔てる自然の防波堤として、機能していたわけです!

この状態は、太閤秀吉の時代になっても同じで、鶴橋辺りと現大阪城公園、辺りが積み替え港となり、元祖大阪市営モンロー主義?の、"豪商"達が運行する川船に積み替えて、大阪3郷に運ばれたわけです!

  • ●ブルーの流れが 旧淀川・大和川水系と旧大阪湾
  • ●ライトブルーのエリアが旧河内湖と最後まで残った河内湿地帯
  • ●緑のラインが大和川放水路
  • ●茶色のラインは枯れた元灌漑路だった西除川・東除川(排水路)
  • ●黄色の斧マークは新田(旧河川敷き)

第1項 奈良時代以前の古墳時代は

古墳時代から、遣隋使の頃の600年(推古8年) - 618年(推古26年)の髄からの使者を迎える際には、喫水の深い外洋頃用の大型船が、なにわの宮のメイン港には入港できなく、自然の良好として古代からあった堺の浜(石津の浜)あたりに向かえて、そこから丘陵地帯(百舌鳥・古市古墳群)を陸路で抜けて、竹内街道(竹内峠)を超えて、平城京や藤原京に招いたといわれています。

つまり、道中にある伝・仁徳天皇陵や伝・応神天皇陵などの巨大大構築物を態々巡り、「倭国」の朝廷の権力を、誇示したとされています。

第2項 聖徳太子の頃には、旧大和川以北から河内湖は無くなっていた?

八尾市にある大聖勝軍寺(八尾大師堂)は587年頃に戦われた物部守屋との戦いでこの地が合戦場になり。勝利したので建立されたとされています、つまりこの頃には、旧大和川・平野川以南の南河内にあった物部氏の拠点、渋川郡(グリーンゾーン)は大和盆地から旧大和川本流(長瀬川)運ばれた大量の土砂が堆積して湿地帯ではなくなっていて、肥沃な耕作地になっていた!という事です。

更に逆に相対的に低地になった恩智川が本流になり、東大阪市の水走から大東市の住道にかけての低湿地に流れ込むようになったのでしょう!

587年、崇仏派の蘇我馬子に組した聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで...祈願して戦勝したことから、...間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(現・大阪市天王寺区)に四天王寺を建立するとともに、当寺の太子堂も建立された。また、信貴山に現れた毘沙門天像を2体作っており、1体を信貴山朝護孫子寺に、もう1体を当寺に奉納して毘沙門堂を建立した。《八尾市大聖勝軍鎮護国家寺資料より》

推古天皇2年(594年)に推古天皇より現在の山号と寺号が贈られる。これによりこの年を創建年としている。

652年に難波宮(前期難波宮=難波長柄豊崎宮)が完成した。孝徳天皇の後、都は飛鳥に戻ったが、壬申の乱に勝利した天武天皇は、畿内の外港を抱える要地難波宮を副都とし、国司を置く代わりに、津国を摂(管掌)する機関として特に摂津職(せっつしき)を置いた...

(683年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった...《Wikipediaより引用》

その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、(744年)聖武天皇2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された...

(745年2月6日)、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された...

天平勝宝8年(756年)、聖武上皇から「大聖勝軍鎮護国家寺」の称号を贈られ、勅願寺に定められた。

第3項 摂津国の始まり

瀬戸内海航路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもある住吉津や難波津、中世には渡辺津が出来て津国(つのくに)と呼ばれ、港湾都市であり、国内流通の中心であった。

793年)3月9日に摂津職を廃し、新たに摂津国を置いた。前身の摂津職から引き継いで「摂」の字を冠して「せっつのくに」となったが...

(更に)784、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。《Wikipediaより引用》

いずれにせよ、長岡京に遷都されるまでは、交易を担う水運の要衝として、"難波津"が活躍していたことになります。

菅原道真が大宰府に左遷された901年頃は

901年に菅原道真が大宰府に左遷された時の有名な逸話として、

大宰府に赴く菅原道真が最後に立ち寄った、福島(現大阪市福島区)は

葦の生い茂った湿地帯にある小島で、"海賊"の根城となっていて、葦が生い茂る"悪しき島"が転じて"悪島"と呼ばれて恐れられていたそうですが、あまりにも不憫なので"福島"と命名して、船出したそうです、なのでそれを記念して、小さな天満宮があるわけです!が、言い換えれば、天満の天満宮あたり以外の北区一帯は、葦の生い茂る、湿地帯だったわけです!

事実、1874年(明治7年)に大阪駅 ⇔神戸駅間の鉄道開業と同時に開業した大阪駅周辺は1889年(明治22年)の市制施行時における大阪市域にも含まれてなくて、1897年(明治30年)まで西成郡曽根崎村のままでした。

大阪駅が現出来た当時は、北新地辺りに、もう一本の大川があり、"川向うにある梅田"は埋め田と呼ばれていて、一帯には、寺と墓地と数件の農家しかなく、正しく"土田"だったわけです!

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第2節 豊臣秀吉の頃も旧河内湖一帯は湿地帯だった!

第1項 豊臣秀吉が大阪城を開城した頃は

豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大阪城を造営して城下町として、大阪3郷を開いて、全国から商人を呼び寄せたとされていますが...

オリジナルの地図 をご覧いただければお分かりのように、

外堀(東横掘川)と旧猫間川を空堀でつないだ形態で、西横堀川も完全なものは無く、東横堀川以西の木津川までの現中央区・西区エリアは、「葦の生い茂る」湿地帯でした。

このエリアの水路網が作られたのは、江戸時代になってからで、1600年の阿波堀に始まり立売堀(いたちぼり)・長堀が完成した1705年までの105年間に整備された水路網です。

つまり、秀吉が開城した時はもちろん、(1615年)大坂夏の陣までは西区はおろか中央区さえ存在していなく葦の生い茂る湿地帯だったわけです!

大阪城開城まであった若江城は

難攻不落とされ、豊臣秀吉が大阪城を築くまで存在した有名な若江城があった頃は、周囲一帯はまだ低湿地で、それゆえに難攻不落とされていたのでした!

事実、大坂冬の陣(1614年)、慶長20年の大坂夏の陣(1615年)の頃には、八尾街道(暗峠)を避けて、態々東高野街道(現国道170号)を大回りして長尾街道・紀州街道周りで北上しています。

そして当時湿地帯だった西横堀川と東横堀川の間の湿地帯(現中央区)と、本陣のある上町台地、そしてこれまた低湿地の森之宮あたりに布陣した訳です。

もっともこれには以下の"兵站"の事情も絡んでいあしたが!

第2項 家康軍は当時の豊臣秀頼の領地だった河内国は通れなかった!

つまり、"大軍"を動かすには、大事な食糧補給"兵站"が確保されている必要がありますが...

7世紀末・8世紀初めの木簡2例にも川内と書かれている...河内の名が確定したのは、おそらく704年の大宝律令による国印鋳造時である...大豪族の物部氏の勢力があり、東大阪市衣摺は、その本拠地のひとつであった。《Wikipediaより引用》

さらに、伊達政宗軍が経由したとされる大和郡山は

(1600年)の関ヶ原の戦い...後、郡山は徳川直轄領となっていたが、...元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、豊臣軍が郡山城を攻撃して城を守っていた筒井定慶(順慶の養子)を討ち取った。定慶の死により、中世以来の大和の名族筒井氏は滅亡することになった《Wikipediaより引用》

つまり、このルートでないと大軍を動かすのは困難だったわけです!

第1目 丹南郡

現在大阪狭山市の全域、堺市の一部、松原市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部となっている但南郡は...

丹南郡 (51村)丹南藩・佐山藩及び代官支配; 幕府領、旗本領、上野館林藩、相模小田原藩

狭山藩 東除川流域

天正19年(1591年)、北条氏の嫡流は断絶したが、氏規がその跡を継いで北条家の当主となる。その後、罪を許されて氏規の子・北条氏盛は下野国内で4000石、氏規も河内狭山で7000石を領することになる。慶長5年(1600年)、氏規が没すると氏盛はその家督と遺領を継いで1万1000石の大名となる。これが狭山藩の始まりで...以後、後北条家12代の支配で明治維新にまで至った。

当初、氏規の大坂屋敷があった久宝寺町(大阪市中央区)で政務を執り行っていた。第2代藩主・氏信の元和2年(1616年)、狭山の地に陣屋を営んだ。《Wikipediaより引用》

※つまり外様!

但南藩 東除川流域

徳川十六神将の一人高木清秀の子で相模国・武蔵国・上総国・下総国および近江国に9千石を領する旗本だった。元和9年(1623年)に大坂定番に就任し1千石の加増を受け、河内国丹南郡22村に1万石を領する大名となった。(つまり普代で大坂の陣以後に立藩された藩)《Wikipediaより引用》

※つまり普代で大坂の陣以後に立藩された藩!

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第3節 江戸中期には旧大和川本流流域 の南河内は肥沃な農耕地になっていた!

大和川付け替え普請をした江戸中期のころには、大和盆地と共に旧大和川(現長瀬川)流域の河内は、毎年梅雨期に大和川上流域から運ばれる大量の土砂で、嘗てのナイル川流域のように農業に適した肥沃な農耕地になっていました。

しかも、この頃には築堤整備も進み、旧・大和川本流以南の南河内は、ある程度洪水からも守られていました。

日本最古といわれるダム湖狭山湖を持つ狭山藩は

特に狭山藩には日本最古といわれる灌漑用ダム狭山池(※71)があり、幕府から管理をゆだねられていて、

河内平野一帯に、農業用水を供給すると共に、西除川を使った"水運"を仕切っていて、流域でとれた農産物を大消費地浪速の、東の玄関口"天満"まで出荷していたわけです!

実際に川沿いを走破すると分けりますが、狭山湖から続く両岸の台地部では、深い渓谷を形成して、下流に行くほど、平地に近づく"緩やかな流れ"で水運には適した水路でもあり、かつ現・東住吉区一帯に、農業用水を配る"灌漑用水"でもあったわけです!

但南藩を流れる東除川も同様ですが、こちらは、水運と、排水主目的で現平野区のあたりには縦横に用水路(排水路)が張り巡らされていて、新・大和川放水路が分流されてからは、新たに整備された"平野川"が柏原船の水運と、灌漑を、旧東除川は主に排水を担ったようです。

参※71)616年(推古天皇24年)ごろの造営と考えられている!

東除川流域

丹南郡

大阪狭山市の全域、堺市の一部、松原市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部。

丹南郡 (51村)丹南藩・佐山藩及び代官支配; 幕府領、旗本領、上野館林藩、相模小田原藩

西除川流域

丹北郡

東住吉区の一部、平野区の一部、松原市、八尾市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部。

丹北郡(45村) 代官支配; 幕府領(一部は宇都宮藩預地)、旗本領、丹南藩、狭山藩、上野館林藩飛地、下野高徳藩飛地、相模小田原藩飛地、和泉伯太藩飛地

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第4節 なにわが天下の台所となったのは江戸幕府になってから!

1600年(慶長5年)10月21日の関ケ原の合戦で勝利した徳川家康が、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任ぜられて、江戸幕府を開闢したわけですが...

...江戸幕府も引き続き大坂の整備と特権を認めて(※10)天下の台所と呼ばれるまでの商工業都市となった。

一方、淀川や大和川が流してくる土砂は上町台地のはるか西の沖合いまで、いくつもの支流と小島を作って海を埋め尽くすようになった。この土砂は通行路である河川を浅くしてしまい、洪水や氾濫の原因にもなる厄介なものだったが、次第にこれらの新しい島も新田開発が進められるようになった。《Wikipediaより引用》

参※10)当サイトシリーズ記事 大阪市における" 市営モンロー主義 "の起源と変遷 はこちら。

第1項 河内国の水利行政

河内国を流れる大和川水系は、「国役堤」として江戸幕府直轄の管理下におかれて、堤防の管理・保全が行われていました。

水防も大事ですが、主な任務は水利事業、つまり大和川の分流に"水を配分"する大事な役目を担っていました。

つまり、大和川放水路(現大和川)が開削されてからも、各"分流"の元栓にある堰に設けられた"水門"の調整を行って、各水系の水利を管理していたわけです。(※51)

これは、大和川堰堤を走破すればすぐにわかることですが、バイパスイコール急峻な流れで、水運には向かなかったことが一つ、そして、柏原にある平野川(運河)の取水口を最後に下流には灌漑用水取水用の水門が設けられなかったことでもうかがい知れます。

そして、この水利に関する幕府の施策が、恩地川流域下流にある河内湿原に悲劇?をもたらしたわけです!

参※51)大和川放水路が開削されて以降も、旧大和川本流の長瀬川が重要な水路として、流域への灌漑と、"水運"を担い、流域で収穫された農産物を天満橋の船溜まり、つまり天下の台所までの重要な輸送手段であったことからも、うかがい知れます。

長瀬川が、改修されて、現在のような"排水路"になったのは、長瀬川流域が宅地化して農耕地が無くなり、流域の灌漑が必要なくなった、戦後の高度成長期以降!になってからの事で、

大和川放水路が開削された1704年(宝永元年)以来 実に250年以上にも渡り、ずっと水運と灌漑を担っていたわけです!

恩地川は放水路だった!

大和川放水路が開削されるまでは、恩地川は重要な放水路でした!

つまり、本流には、灌漑用水を流し、いざという時には、放水路として利用して、河内湿原遊水地!(旧河内湖)に雨水を放流していたのです!

これは現在でも変わらず?、恩地川・寝屋川流域に「巨大な遊水地」をいくつも、造成して江戸幕府の付けを、令和の国交省が尻ぬぐいせている事でも裏図けられます!

第2項 水利の仕組み

大和川放水路開削以前

通常期は、灌漑(農業用水)と、水運の為に旧大和川本流(長瀬川)に一定量の水量を流していました。

旧大和川本流は緩やかな流れであるために、大和盆地から流れてきた"土砂"は堆積して、周りの平地より川底が高い天井川を促進させました!

梅雨時の豪雨、台風シーズンには、恩地川を放水路として機能させるために、放水量を増やしていました。

しかしこの時は流速も早いので、川底(と遊水地)にも土砂は堆積しないで下流に流れて、天満で合流した後、2つの大川と土佐堀川、安治川に分流して、河口部を形成するので、流速も分散されて、河口部に近いほど堆積しやすく、天満から先は、運ばれた土砂で3角洲が形成されて、葦が生い茂る湿地帯が広がりました!

大和川放水路開削後

大和川放水路普請が行われた、幕府開闢百一年後の1704年には、天満以西の河口部では長年の土砂の堆積で、自然に"干拓?"されて、西横堀川、木津川流域も、干拓?が終わり平地が現れた頃でした。

また、現大阪市西区の(水運・排水用の水路網)がほぼ完成しており、むしろ、川底への土砂の堆積、洪水時の水害が目立つようになってきていました。

そこで大和川放水路が完成してからは、今まで恩地川に流していた、増水時の流れを"大和川放水路"にバイパスさせるようになりました!

しかし、旧大和川本流(長瀬川)の流域に灌漑用水を送るために、"平時"には恩地川同様に大和川放水路には、殆ど水は流されていませんでした!

梅雨時や台風で大和川が増水すると、長瀬川、平野川(用水路)に繋がる水門は閉ざされ、上流から流れてきた土砂を含んだ水は全量!大和川放水路に流され、「河口部で急激に広がり」流速が落ちて、天然の良港だった堺の沖合に堆積したわけです!

前途したように、新政府になってからも、水利組合が水門の管理を行い、戦後になってからは旧建設省が水門の開閉を管理していました。

つまり、増水した時しか流さない放水路だったわけで、柏原市にある堰(取水口水門)以西へは、灌漑に使えるような水は一切流されていなかったわけです!

なので、大和川放水路には、東除川、西除川からの合流水路はあっても、放水路以北の、旧東除川流域、西除川」(矢田川)流域への灌漑水取水口(水門)は設置されていない訳です!

第3項 大和川付け替えによる、水運の盛衰

嘗ての上除川(東除川)・下除川(西除川)が南北で分断されたために、水運で生計を立てていた狭山藩・阪南藩が窮地に追いやられました!

更に、市営モンロー主義(※00)の始祖に当たる浪速商人たちは、上除川(東除川)の水運に変わり、旧大和川(長瀬川)沿いに、平野川水路(運河)を開削して、柏原船と称して百石船による水運を行い、流域の新田から、"鶴橋"を経由して旧淀川(大川)、寝屋川、平野川の終結する"京橋"に"船溜まり"中継港"を設置して、中ノ島にある「米蔵」や「綿花倉庫」には「自分たちが運営するモンロー主義船?」に積み替えさせて、大阪3郷直通を阻んでいました!

参※00)当サイト関連記事 大阪市における" 市営モンロー主義 "の起源と変遷 はこちら。

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第5節 幕府の2大政策『入り組み支配 と 新田開発』

幕府のご意向(政策)に沿った新田開発が盛んにおこなわれた訳です。

淀川や大和川が流してくる土砂は上町台地のはるか西の沖合いまで、いくつもの支流と小島を作って海を埋め尽くすようになった。この土砂は通行路である河川を浅くしてしまい、洪水や氾濫の原因にもなる厄介なものだったが、次第にこれらの新しい島も新田開発が進められるようになった。《Wikipediaより引用》

つまり大阪を代表する古地図にある運河群は、湿地帯の"排水路"として江戸幕府が整備を進めたものなのです。

第1項 前提となる江戸時代の入り組み支配とは

隣り合った集落村村が、それぞれ異なった為政者に支配されていた!

つまり、年貢の取り立て、がむらむらの境界でガラッと変わるわけです。

例えば、同じ"御代官様"(領地管理役人)が統治していても、年貢(上前)をかすめる上部団体(藩)がモザイクのように入り組んでいるので、日照り・台風などの天変地異による"凶作"の年でも、天領・旗本領では赦免されても、普代・外様などの藩領では、幕府への上納金の為に、容赦なく取り立てられて、飢餓が生じ安かった!

そしてそのことが、集落間・村同士の確執に繋がってもいたわけです!

第2項 新田開発 

新田開発は、今で言う(民間デベロッパー)による)民活方式や幕府の直轄事業として盛んにおこなわれましたが、目的は財政がひっ迫した"幕府の財政健全化"にありました、つまり派手な"祭りごと"に膨大な支出が費やされて、商人からの融資に頼らざるを得なかったわけで、江戸時代には幕府、各藩共(特に政権に関与した普代)莫大な借金を抱え込んだわけですが...

開闢100年を経過したこの時期でさえ既に、政(まつりごと)"100年間の垢(浪費)"がかなりたまっていました!

そこで、年貢(税金)確保の為に、大規模な新田開発を次々と行った訳です!

以下をご覧になればお分かりのように、沿岸部の(自然)埋め立てによってできた陸地、を中心に、新たな"造成地"は一部の例外を除いて殆ど全て幕府(と重役)の所領となっています!

つまり、但南藩と狭山藩にいた領民を犠牲にして、幕府の(贅沢の為に)増収・増益を計ったわけです!

なので、農民の為の防災目的などでは無いわけです!

第3項 河内国では

但南郡にある新田!

旗本領 草尾新田、○田中新田、西野新田、山本新田

幕府領 関茶屋新田、高松新田、西山新田、

上野館林藩 ○茱萸木新田

但南藩、狭山藩共に 無し!

河内郡 にある新田

旗本領  吉田新家村

幕府&旗本領 水走村
京都守護職役 河内屋南新田、中新開村、今米村、川中新田

※全て、大和川放水路開削によって生じた"旧河川敷"

若江郡にある新田

幕府領 鴻池新田、橋本新田、中新田、、三島新田、菱屋東新田、

相模小田原藩   新喜多新田、柏村新田、玉井新田、山本新田

※全て、大和川放水路開削、寝屋川改修によって生じた"旧河川敷"

茨田郡(まったぐん) 守口市の全域、門真市の全域、大阪市鶴見区の一部、枚方市の一部、寝屋川市の一部、大東市の一部

茨田郡にある新田

幕府領(代官支配)○新田村、

讃良郡(35村・15,679石余)

四條畷市の全域、大東市の大部分、寝屋川市の一部、

讃良郡にある新田

代官支配; 幕府領、旗本領、京都守護職役知、大和郡山藩

※現・四条畷市、大東市、寝屋川市の一部

茨田郡(85村・37,956石余)

代官支配; 幕府領(一部は高槻藩預地)、旗本領、美濃加納藩、摂津高槻藩

※現・守口市、門真市、大阪市鶴見区、枚方市、寝屋川市、

茨田郡にある新田

幕府領 、※古川(淀川分流)・寝屋川流域 中村新田、萱島流作新田、

※淀川・神崎川流域河口:尼ヶ崎新々田、尼ヶ崎新田

京都守護職役知  深野新田、深野北新田、深野南新田、

河内郡(30村・16,273石余)

幕府領、旗本領、京都守護職役知、狭山藩、相模小田原藩、大和小泉藩

幕府領・旗本領は水走村の 1村のみ 

※現・八尾市、東大阪市の一部、(玉串町西、花園西町、吉田、吉田下島、島之内、中新開、吉原、川田、水走、布市町、元町以東)

新田開発地

吉田川河床→川中新田

志紀郡(22村・13,527石余)

幕府領(一部は宇都宮藩預地)、旗本領、丹南藩、上野沼田藩、相模小田原藩、和泉伯太藩

※現・藤井寺市の大部分、八尾市の一部、柏原市の一部(旧柏原町域)、

幕府領(天領)  ○柏原村、○北条村

新田開発地

市村新田、上市新田、安中新田、

第3項 摂津国では

東成郡(東生郡)...全5郷。現在の大阪市東部

東成郡 にある新田

幕府領 新喜多新田、布屋新田、木屋新田

西成郡(西生郡)全12郷現在の大阪市北西部

大阪市福島区・此花区・港区・大正区・西淀川区・東淀川区・淀川区の全域

浪速区の大部分、住吉区の一部、西成区の大部分、西区の一部、住之江区の一部。北区の一部
中央区の一部。

西成郡(西生郡にある新田

幕府領 津守新田、庄左衛門新田、桜井新田、西野新田、難波島村、炭屋新田、湊屋新田、、平尾新田、今木新田、中口新田、上田新田、、千島新田、恩加島新田、市岡新田、池山新田、、泉尾新田、小林新田、岩崎新田、千歳新田、岡田新田、春日出新田、島屋新田、、恩貴島新田、六軒屋新田、南新田、木屋新田、北福崎新田、南福崎新田、池田新田、石田新田、田中新田、八幡屋新田、、小島新田、小島古堤新田、本酉島新田、秀野新田、百島新田、西島新田、矢倉新田、出来島新田、酉洲新田、中島新田、南酉島新田、北酉島新田、蒲島新田、布屋新田、前田屋新田

住吉郡...全5郷。現在の大阪市南西部など

幕府領  松原新田、富田新田、加賀屋新田、村上新田、北島新田、柴谷新田、嬰木新田、駒井新田、弥三次郎新田、南島新田、西万屋新田、庭井新田、庭井流作新田、花田新田、浅香山流作新田、万屋新田

下総古河藩  猿山新田、

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第6節 大和川付け替え 普請は"だれの為"だったのか?

現在の東大阪市にあった今米村の庄屋、中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、1703年(元禄16年)10月、幕府はついに公儀普請を決定する。

翌1704年(宝永元年)2月より付け替え工事が開始された。...手伝普請を命ぜられていた播磨姫路藩主の本多忠国(普代)が死去したため、工事は一時中断され、姫路藩は手伝普請から外れることになった。...同年4月に播磨明石藩主の松平直常(普代)、和泉岸和田藩主の岡部長泰(東軍普代)、摂津三田藩主の九鬼隆久(柳生宗在の長男・普代)に手伝普請が命ぜられ、工事が再開された。

同年6月には大和高取藩主の植村家敬(普代)、丹波柏原藩主の織田信休(織田信長直系)にも手伝普請が命ぜられ、これら5藩によって工区を分担するなど効率的に工事が進められた結果、工事開始からわずか8ヶ月後の同年10月、大和川は現在のように...《Wikipediaより引用》

つまり、大坂の町割りがほぼ完成して、「天下の台所」が機能しだしてからの事です。

ココがキーポイントで、"通説のきれいごと"では無くて、前途した通り「天下の台所を預かる"なにわ商人の為"」の普請というのが真実でしょう!

エーなんで と思われる方が多いでしょうが、地図をご覧いただけば一目瞭然!、大河川である淀川(寝屋川)・大和川(石川)が全てが、大阪京橋辺りに集結していたのです!

前途したように、1700年ごろには、大阪の下町西区もほぼ、今の町割りになったように、

上町台地西側の旧市街地がほぼ出来上がっていました、そして大川と土佐堀川にはさまれた2つの中ノ島には、豪商が営む米蔵が立ち並んでんでいました!

しかも当時は、今のように各河川にはビルの3階にも及ぶような築堤は無く!川船から荷下ろしできるような、石段の船着き場があるだけで、大阪湾の干満の差を吸収できる程度の"標高"でしかなく、大和側の上流(奈良県)で大雨が降ると、たちまち氾濫して、米蔵が浸水する被害が生じたわけです!

つまり、幕府(諸藩)にとっても、「天下の台所・浪速の豪商」の洪水被害は一大事なわけです!

そこで、河内でも最も低湿な"水走"の庄屋中谷さんの直訴を口実に?、農民の為と称して、大和川放水路普請に動いたわけです。

"新田"では幕府のきもいりで新しい河内名産が

一方、旧河川跡に開発された"新田"では、水はけのよい旧河川敷きに適した綿花栽培が、縮小した低湿地帯では"カワチレンコン"が栽培されて、財を成した"豪農"が数多く誕生しました!

特産品も幕府の強権で、諸藩の特産であった綿花の種子や、レンコンの株を、供出させて、移植した"造られた特産品"でした!

河内平野は、入り組み支配が割と穏やかで、天領・旗本領・が多く、飢饉の際にも、普代大名以外は割と、取り立てが厳しくなかったのですが...

幕府が身入り(増収)を目論んだのが、"付け替え普請" の"本音"の一つでしょう!

おかげで、西除川・東除川流域の弱小藩の但南藩、狭山藩、の財政はより逼迫されたわけです。

おまけに、新大和川放水路開削普請には、この地を追い出される農民!が、庄屋の命令で、人工として"苦役"(ただ働き)させられたわけです!

何と、言う理不尽・非条理な仕打ちでしょうか!

狭山藩では 大和川付け替え で多くの農民が耕作地を失い流民に

大和川放水路の為に、多くの小作農民が土地を失い!"流民"となり、更に大和川放水路!が完成した途端に、大和川放水路以北の西除川流域では、それまでと打って変わって水不足に悩まされた"無毛の地"となってしまいました!

慢性的な水不足で米も満足に作れづに、子供を売り飛ばしたり、一家離散、一家心中などの憂き目にあう小作農民が続出しました!

また、大和川放水路開削の為に農耕地を無くした、小作農民は"流民"となり、鴻池新田や、その他の"新田開発に"農奴"として従事する以外には、生きる道は無くなり、生まれ育った"肥沃な土地"を離れて、"戸籍"も持たない"農奴"に転落する以外は無くなったわけです。

大和川付け替えによる貧富(格差)の増大!

元々葛城山系から流れ出た、石川や下除川・上除川で形成された扇状地の羽曳野丘陵に連なる南河内の現大和川放水路以南には数多くの"溜池"が設けられているわけですが...

"大和川放水路"以北の河内平野(旧大和川本流南側)エリアは、日本最古のダム湖"狭山池"から流れでる下除川・上除川から別れた"灌漑用水と溜池"のおかげで、さほど水には困っていませんでした!

なのに"大和川放水路"によって、「下除川(矢田川)」が分断されて、大和川放水路以北の豊かな農地だった流域は、一気に慢性的水不足に悩まされる「荒れ地」に転落してしまいました!

その為に、旧下除川(矢田川流域)も貧困エリア・格差エリアになってしまったわけです!

余談ですが、近鉄南大阪線の始祖・2代目大阪鉄道が、天王寺(現大阪阿部野橋)まで、延伸できたのも当時疲弊しきっていたこのエリアの"荒れ地"を叩いて入手できたからでしょう?

更には、広大な"大阪市立の瓜破霊園"が設置出来たのも...

つまりは、市営モンロー主義者たちの先祖「大阪3郷町衆」の旧大和川河川敷の新田開発事業と、その後の新田開発による「地域格差」がいまだに尾を引いているわけです!

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エピローグ 大和川付替え普請は 日本の三峡ダム?

大和川放水路完成後も、淀川が運んでくる土砂で

淀川は、古来から水運が盛んで、秀吉の頃には京の伏見港(船溜まり)と前途した天満港(森之宮船溜まり)で水運が盛んにおこなわれていました。

つまり、"平時は穏やかな流れだ"ったわけです!

つまり支流宇治川の、そのまた支流の大戸川、田代川、や木津川、とその支流の久米川が、鈴鹿・大峰連山から大量に運んでくる、土砂が、堆積しやすい河川なのです!

なので、1885年の淀川の大氾濫に繋がったわけです。

1831年の天保山は淀川の運んだ砂礫を浚渫してできた小島!

木津川と並んで大阪湾から大坂市中へ遡る二大航路のひとつであった安治川は、当時は淀川の本流にあたり、淀川が運ぶ大量の土砂を浚渫する必要が生じた。洪水防止と市中への大型船の入港をしやすくする目的で、1831年(天保2年)から約2年間、安治川では「天保の大川浚」とよばれる浚渫工事が行われた《Wikipediaより引用》

天然の良港だった堺港が土砂堆積でオワコンに!

大和川放水路を開削しなければ、大和盆地から運ばれてくる大量の土砂で、河内湖(水走周辺の低湿地帯)は埋まり、淀川水路(新淀川)開削工事のきっかけとなった1885年(明治18年)6月~8月の2度にわたる大水害の被害はもう少し小さかったでしょう。

完全になくなったはずの、河内湖が亡霊のように現れて、深いところでは推進3m(民家の屋根)迄達しました。

その後も、寝屋川流域では度々水害に悩まされて、敗戦後の20世紀後半に至っても、寝屋川の改修が続けられて、2階建ての民家の屋根よりも高い堤防で、護岸工事がなされて、20世紀末になってやっと浸水被害が"少なく"なった訳です、小生が務めていた水走近くの事業所では、1990年代まで雨が降る度に床下浸水していました!

JR片町線が早い時期に連続高架されたのは、鴻池新田駅周辺が、浸水被害で不通になることが多かったからです!

大和側の運ぶ土砂で、天然の良港だった堺港が砂礫で埋まり、南蛮貿易であれほど栄えた堺港・堺商人がオワコンになったのは有名なお話です!

但し、おかげで20世紀になった後々の高度成長期に、沖合埋め立て事業が、容易く行えた?おまけがつきましたが...

さしずめ大和川放水路開削は、人民のためと偽って一儲け(電力)を企んだ"江戸時代の三峡ダム工事"だったのかもしれません?

結局 遊水地だらけになった恩智川・寝屋川!

現在新規造営中も含めて恩智川、寝屋川推計には6か所の遊水地があります!

何れもXX市民公園,XX運動公園などと名称がついていまうが、どの施設も、恩智川、寝屋川との間の築堤は一部にオバーフロー堰と立派な水門を装備していて、いざという時は遊水地になる施設です。

つまり小生が、唱えたように、旧大和川の改修工事は"失敗だった"といえるのではないでしょうか...、

渡良瀬遊水地のように、最後まで残った河内湿地帯を遊水地として残しておいたほうが、良かったかも...

最後まで残った河内湿地帯(旧河内湖跡地)を"遊水地"として残しておいても、河内蓮根の栽培は十分可能だったはずです!

敗戦後の戦後復興期、高度成長期を通じて、この辺りは河内の水郷「大阪の潮来」として有名で、NHKの新日本紀行でも取り上げられたことがあります!

縦横に張り巡らされた水路を、軽トラ?代わりに川船が行き来してコメなどを運び、潮来同様に嫁入りもしたそうです!

大和川付け替えで生じた"流民・農奴の数を考えると、水走村の人たちが、大阪湾沿いに生まれた"新田開拓地"に移住してもよかったわけです!

前途したように、朝廷やその後に続く江戸幕府は、大和川本流の護岸工事を積極的に行って、かつ洪水を恩智川に向かうように制御したために、ますます低湿地になっていったのではないでしょうか?

つまり楠根川は"排水路"として有効に機能して、逆に玉串川(吉田川&菱江川)と恩智川は旧河内湖湿地帯に流れ込み、更には寝屋川も流れ込み、水走あたりを水郷にしてしまったのでしょう!

大和川本流(長瀬川)を天井川に押し上げて、西横堀川以西の現西区を創出させるほどの、大量の土砂が、そのまま流れ込んでいたら...

20世紀まで持ち越された寝屋川水系の低湿地帯の水害は緩和されていた可能性もあります!

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公開:2021年4月19日
更新:2021年7月 7日

投稿者:デジタヌ

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