狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

「人権問題・差別問題 」の"水種?"になった"大和川付け替え"は 本当に必要だったのでしょうか???...

前書き(要約)"大和川付替え" は なにわ商人と 江戸幕府 が、結託して行った財政改革の為の「新田開発を目的とした普請」でした

江戸幕府開幕100年後の1704年に完成した「大和川付け替え」として有名な"放水路新設!は、

利根川改修、荒川放水路開削、淀川放水路(新淀川)工事とともに「近代治水公共事業の偉業!」として称えられている土木事業の一つですが...

この普請(諸藩への押し付け事業)は、民(たみ)を水害から守る為では無く!

1867年の大政奉還まで163年間もの長きにわたり、江戸幕府を財政危機から救う"増収事業"!「新田開発事業」"を、推し進めるための"いち手段に"すぎなかった!のではないでしょうか...

大和川付け替え 普請は 未だに燻り続けている 人権問題 の"水種?(火種)"に繋がった... の目次

※リンク、その他についての御断り

(参※xx) は当サイト内の参照関連記事リンクです。
但し、その他の直接 hyper-link は当事者・関連団体の公式サイト若しくはオリジナル各国語版Wikipediaへ直接リンクしています。

英単語優先!表記について

更に,末尾の断り書き※歴史専門用語の英単語表現について で説明したように、できるだけ歴史制度用語(国文学用語)に頼らないように英単語表現を用いて専門歴史用語を整理しています。

※本ファンタジーについて

本レビュー記事は、出来る限りの"記録(時系列)に下ずいた史実に、地政学的!・工学的 検証"を行ってるセミドキュメンタリー!ですが...

筆者の億測を交えたファンタジー?でもあります。

後述する各団体とは直接関連はありません。

また各団体では"答え難い大人の事情、あまり触れられたくない内容!"も含まれています。

本件に関してのお問い合わせはご無用に願います。 \(^_^ )( ^_^)/

プロローグ 美談!?として語られる大和川付け替え工事は...

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現東大阪市の、今米村の庄屋、中甚兵衛らが、親子に2代に渡って、幕府に直訴して、1704年に念願実って付け替え普請が行われたとされていますが...

当時の河川奉行2人の間でも、意見が分かれていたのは、一般人でも周知の事実ですが...

では何故当時から水利専門家で意見が分かれていたのでしょうか...

第1項 歴史は常に"為政者に都合よく"改ざんされる!

日本史(教育)は、その時々の ruler(為政者)や the exploited classes(搾取階級)に都合いいように、体制派の国文学者!により改竄・捏造!され続けてきました...

参※)当サイト内関連記事 古代・神代の時代?の日本列島には「2つの倭国」勢力圏があった! はこちら。

第1目 "プロレタリアートの勝利"を信条とする日教祖?が

今の教育怪(かい)?の主流は、真っ赤に染まった日教祖担いでいる人たちですが...

彼らは、北朝鮮やレッドチャイナ同様にプロレタリアートの勝利?を誇示したい訳です。

なので、人民の闘争が、政府(幕府)を動かした"美談"として、大和川改修を美化!したいわけです。

第2目 他方"体制側"も...

いつの世も?為政者は「国家としての大局的な立場に立って」統治していることにしたい!訳です...
つまり、両者ともに真実を明かそうとはし無い!訳です。

また現在の入試制度、センター試験に絡んでいる体制派の国文学者!達も、

現代・近代史については年表・設問にとどめて、高校入試(義務教育検定?)に至っては、故郷創生・地域の団結力・ローカル色育成に大事な、"地方の歴史教育"はあまり触れないで "きれいごと" としてお茶を濁している訳です!

その結果、文科省の検定教科書からは、先住・縄文人・蝦夷民族征服!の歴史(※01)や、渡良瀬遊水地闘争の史実、北海道開拓・開墾地の美談として minority アイヌ征服!の史実大和川改修(放水路!開削などの、真実削除・改竄!されて、美談!?として記述されてしまう!わけです...

参※01)当サイト関連記事 東北での"原住民・縄文人 えみし 民族"と"渡来系混血・弥生人 大和民族 "との攻防の歴史... はこちら。

第2項 " 大和川付け替え 普請"で生まれた浮浪・流民・"農奴"から芽生えた大阪の人権問題!

日本全国の人権問題の基幹にあるのは、江戸時代の"大儀明文・士農工商"にあり、そこから落ちこぼれた?人たちが"差別"と"迫害"を受けてきたわけです!

士農工商は国学者が考え出したものとされていますが...

江戸時代の"大義名分"である士農工商は国学者が考え出したものとされていますが、

ヒンドゥー教徒のカースト制度、や古代ローマ帝国の時代からある奴隷制度を、儒教思想(中国の古典)(※02)から学び日本風にアレンジしたものでしょう。

そして、大坂においては、江戸幕府が行った"入り組み支配"と"大和川付け替え普請"の結果起こった、"農業従事者"(農民)の貧富の格差"が、小作以下の"戸籍(檀家籍)も持たない・浮浪(※03)・流民・"農奴"を生んで、今に至る人権問題が生じたのでしょう!

地図をご覧になれば一目瞭然ですが、人権活動の根にある"地域格差"貧困地域は、江戸幕府が行った"入り組み支配"と"大和川付け替え普請による旧河川敷きの、新田開発"が根源!となっています。

参※02)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国(国民)と日韓関係 はこちら。

参※03)浮浪者の語源ともなった浮浪(ふろう)とは奈良時代の大宝律令(701年制定)により制定された戸籍制度(後の近世における寺檀家籍)において、一般的には流民(るみん)と呼ばれている「戸籍を持たない民(たみ)」を指す律令(法律)用語です。

...古代律令制において、民衆などが戸籍・計帳に登録されている本貫から離脱した状態にあること。浮宕(ふとう)・流宕(るとう)とも呼ばれ、逃亡と併せて浮逃(ふとう)とも称された。また、浮浪状態にある者は浮浪人(ふろうにん)と称され、略して浪人とも称された。また、これに対して本貫に在住する者を土人と呼んだ。

...通説的な解釈では、「課役」を放棄して居住地・任務地を離れた者や所定の場所を離れた奴婢・囚人を逃亡、それ以外の者を浮浪と称したとされている...初期の戸籍においては、上記の定義以外にも未だに戸籍に編附されていない人についても「浮浪」と称していた。(呼ばれていた!)《日本語ウィキペディアより引用

当サイト内関連記事 那の倭国「邪馬台国」連邦!は首長国!?の連合国家!で、中心都市の"都"などは無く探しても無駄! はこちら。

第1目 入り組み支配!

入り組み支配!とは、江戸幕府成立後に豊臣残党!などの地方勢力の反乱!を恐れた「徳川政権」が、

根強く反対勢力が多数を占めていた、region(地方)の戦国大名の所領district(行政単位・藩)を国替え・廃藩などで召し上げて!

集落単位まで細分化!して、天領としたり旗本・譜代に領地として分け与え、複雑に入り組んだ"統治"を行った施策の事です。

摂津国・河内国では...

豊臣政権のお膝元だった摂津国・河内国では、豊臣家家臣団の領地(藩)を廃藩により徹底的に分割(細分化して、幕府直轄地の天領としたり、旗本・譜代などの家臣団に分譲!して"飛び地"として支配させました!

この結果、戸籍(寺の檀家籍)を持つ土人・農民同士でも、"天領"や旗本領と、普代・外様藩領の"飛び地"に暮らす民(たみ)で、処遇の格差が生じてしまいました!

つまり、天変地異による飢饉・飢餓が生じた際に、天領・旗本領と藩領では農民に対する"処遇"(対処)が大幅に異なり、年貢免除村と、お米一粒まで容赦なく取り立てられる「諸藩領地」に分かれてしまいました!

※現在は自治体の一地区となっている小生が生まれ育った村!は、嘗て旗本領で、"山"向こうの東隣の村は天領!そして地続きの南隣の村は譜代の領地でした!

つまり、江江戸時代に度々起こった干ばつによる飢饉に際して...

天領と旗本領では年貢が免除!されて、厳しい取り立てが続く譜代領の隣村では悲惨な状況となっていたわけです。

結果、天領・旗本領に暮らす名主が大地主となり、譜代領だった隣村では、土地を無くした"小作人"が増えたわけです。

第2目 大和川付け替え普請と新田開発が...

更に江戸時代を通じて行われた淀川水系(神崎川・古川・寝屋川)と大和川水系(長瀬川・恩智川)の新田開発は、江戸中期1704年の「大和川付替え普請(新放水路開削!事業)」で田畑を没収!された結果生まれた、多数の浮浪・流民・を労働力(農奴!)として使用!した事業でした。

旧大阪3郷の町衆・豪商(※03)たちが、嘗ての大和川・淀川の旧川床を大量の浮浪・流民・農奴!を使って"新田開発"を行い、合わせて新しい"小作人・農奴"の貧困集落(被差別部落)をつくったわけです。

東淀川区、摂津市、守口市、門真市、大東市、東大阪市、八尾市などの"被差別エリア"はものの見事に旧淀川水系・旧大和川水系の旧河川敷(新田)と合致しています!

参※03)当サイト内関連記事 大阪市 が拘り続けてきた"既得権益構造"『市営モンロー主義』とは? はこちら。

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第1節 もともと大阪平野は河内湖が大部分を占める「湿地帯」だった!

過去の地球温暖化の時期に当たる、縄文海侵が絡み、大阪平野(河内平野)は、ほぼなく。

南部の羽曳野丘陵、泉北台地から連なる上町台地が付き出した、入江だったわけです。

その後、「淀川、大和川」の2大河川の堆積物・土砂で、入江だった部分の、自然干拓?が進み、入江は"河内湖"となった訳です!

「難波宮(なにわのみや)」の頃には森之宮あたりに、港が開かれて、大和川を使った水運で、大和盆地(奈良盆地)と行き来して、米などの農産物と、大阪湾の海産物の交易が盛んだったようです。

上町台地は、いわば、内港(河内湖)と外洋(大阪湾)を隔てる自然の防波堤として、機能していたわけです!

この状態は、太閤秀吉の時代になっても同じで、鶴橋辺りと現大阪城公園、辺りが積み替え港(中継港)となり前出の元祖大阪市営モンロー主義自治組織大阪3郷"豪商"達が運行する(当初は荷車)川船に積み替え、城下町大阪3郷に運ばれたわけです!

  • ●ブルーの流れが 旧淀川・大和川水系と旧大阪湾
  • ●ライトブルーのエリアが旧河内湖と最後まで残った河内湿地帯
  • ●緑のラインが大和川放水路
  • ●茶色のラインは枯れた元灌漑路だった西除川・東除川(排水路)
  • ●黄色の斧マークは新田(旧河川敷き)

第1項 奈良時代以前の古代・天平の頃は

第1目 中国王朝の冊封国(属国)であった約1000年間!中国王朝の使者を迎えるときは...

日本"劣等"は、西暦古代・古墳時代 中国王朝後漢(25年→220年)の光武帝(BC6→西暦57年)

の「"自治権"を認められた属国・冊封国(さくほうこく)」を示す"認証印"として金印を印綬(25年→57年の頃)された「那の倭国」以来、"朝貢使"として遣隋使(600年→618年)遣唐使(618年→907年)を派遣していた頃は、

「髄・唐からの国書を携えた使者」を迎える際には、喫水の深い外洋航路用の大型船が(なにわの宮のメイン港(難波津)には入港できなく)、自然の良港として古代からあった堺の浜(石津の浜)あたりで向かえて、そこから丘陵地帯(百舌鳥・古市古墳群)を陸路で抜けて、竹内街道(竹内峠)を超えて、藤原京・平城京に招いたといわれています。

つまり、道中にある伝・仁徳天皇陵や伝・応神天皇陵などの巨大構築物を態々巡り、「那の倭国」の大王(おおきみ)の権力が絶対的で、日本列島の唯一のsovereign(統治者)であることをアピール(顕示)したとされています。

参※)当サイト内関連記事 古代・神代の時代?の日本列島には「2つの倭国」勢力圏があった! はこちら。

第2項 聖徳太子の頃には、旧大和川(長瀬川)以南!から河内湖は無くなっていた?

八尾市にある大聖勝軍寺(八尾大師堂)は587年頃に戦われた物部守屋との戦いでこの地が合戦場になり、勝利したので建立されたとされています。

つまりこの頃には、旧大和川本流・長瀬川以南の南河内にあった物部氏の拠点、渋川郡(グリーンゾーン)は大和盆地から旧大和川本流(長瀬川)で運ばれた大量の土砂が堆積して湿地帯ではなくなっていて、肥沃な耕作地!になっていたという事です。

更に逆に相対的に低地になった恩智川が本流になり、東大阪市の水走から大東市の住道にかけての低湿地(河内湖)に流れ込むようになったのでしょう!

587年、崇仏派の蘇我馬子に組した聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで...祈願して戦勝したことから、...間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(現・大阪市天王寺区)に四天王寺を建立するとともに、当寺の太子堂も建立された。また、信貴山に現れた毘沙門天像を2体作っており、1体を信貴山朝護孫子寺に、もう1体を当寺に奉納して毘沙門堂を建立した。《八尾市大聖勝軍鎮護国家寺資料より》

推古天皇2年(594年)に推古天皇より現在の山号と寺号が贈られる。これによりこの年を創建年としている。

652年に難波宮(前期難波宮=難波長柄豊崎宮)が完成した。孝徳天皇の後、都は飛鳥に戻ったが、壬申の乱に勝利した天武天皇は、畿内の外港を抱える要地難波宮を副都とし、国司を置く代わりに、津国を摂(管掌)する機関として特に摂津職(せっつしき)を置いた...

(683年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった...《Wikipediaより引用》

その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、(744年)聖武天皇2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された...

(745年2月6日)、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された...

天平勝宝8年(756年)、聖武上皇から「大聖勝軍鎮護国家寺」の称号を贈られ、勅願寺に定められた。

第3項 摂津国の始まり

瀬戸内海航路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもある住吉津や難波津、中世には渡辺津が出来て津国(つのくに)と呼ばれ、港湾都市であり、国内流通の中心であった。

793年)3月9日に摂津職を廃し、新たに摂津国を置いた。前身の摂津職から引き継いで「摂」の字を冠して「せっつのくに」となったが...

(更に)784、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。《Wikipediaより引用》

いずれにせよ、長岡京に遷都されるまでは、交易を担う水運の要衝として、"難波津"が活躍していたことになります。

第1目 菅原道真が大宰府に左遷?された901年頃は

901年に菅原道真が大宰府に左遷された?時の有名な逸話として、

大宰府に赴く菅原道真が最後に立ち寄った、福島(現大阪市福島区)は

葦の生い茂った湿地帯にある小島で、"海賊"の根城となっていて、葦が生い茂る"悪しき島"が転じて"悪島"と呼ばれて恐れられていたそうですが、あまりにも不憫なので"福島"と命名して、船出したそうです、なのでそれを記念して、小さな天満宮があるわけです!が、言い換えれば、天満の天満宮あたり以外の北区一帯は、葦の生い茂る、湿地帯だったわけです!

事実、1874年(明治7年)に大阪駅 ⇔神戸駅間の鉄道開業と同時に開業した大阪駅周辺は1889年(明治22年)の市制施行時における大阪市域にも含まれてなくて、1897年(明治30年)まで西成郡曽根崎村のままでした。

大阪駅が現出来た当時は、北新地辺りに、もう一本の大川があり、"川向うにある梅田"は埋め田と呼ばれていて、一帯には、寺と墓地と数件の農家しかなく、正しく"土田"だったわけです!

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第2節 豊臣秀吉の頃も旧河内湖一帯は湿地帯だった!

第1項 豊臣秀吉が大阪城を開城した頃は

豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大阪城を造営して城下町として、大阪3郷を開いて全国から商人を呼び寄せたとされていますが...

オリジナルの地図 をご覧いただければお分かりのように、

外堀(東横掘川)と旧猫間川を空堀でつないだ形態で、西横堀川も完全では無く、東横堀川以西の木津川までの現中央区・西区エリアは、「葦の生い茂る」湿地帯でした。

第1目 大阪城下の水路網が完成して"河口部"に街並みが広がったのは1705年以降

このエリアの水路網が作られたのは、江戸時代になってからで、1600年の阿波堀に始まり立売堀(いたちぼり)・長堀が完成した1705年までの105年間に整備された水路網です。

つまり、秀吉が開城した時はもちろん、(1615年)大坂夏の陣までは西区はおろか中央区さえ存在していなく「辺り一面葦の生い茂る湿地帯!だったわけです。

第2目 大阪城開城まであった若江城は

難攻不落とされ、豊臣秀吉が大阪城を築くまで存在した有名な若江城があった頃は、周囲一帯はまだ低湿地で、それゆえに難攻不落とされていたのでした!

事実、秀吉が無くなり秀頼の代になってからの大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)の頃でも、八尾街道(暗峠・河内湖横断ルート)を避けて、態々東高野街道(現国道170号)を応神天皇凌!迄南下(大廻り)して長尾街道・紀州街道経由で住吉から北上しています。

そして上町台地(茶臼山)に本陣を置き、当時湿地帯だった西横堀川と東横堀川の間の湿地帯(現中央区)と、そしてこれまた低湿地の森之宮あたりに布陣した訳です。

もっともこれには以下のlogistics"兵站"の事情も絡んでいましたが!

第2項 家康軍は当時の豊臣秀頼の領地だった河内国は通れなかった!

つまり、"大軍"を動かすには、大事な食糧補給logistics"兵站"が確保されている必要がありますが...

7世紀末・8世紀初めの木簡2例にも川内と書かれている...河内の名が確定したのは、おそらく704年の大宝律令による国印鋳造時である...大豪族の物部氏の勢力があり、東大阪市衣摺は、その本拠地のひとつであった。《Wikipediaより引用》

さらに、伊達政宗軍が経由したとされる大和郡山は

(1600年)の関ヶ原の戦い...後、郡山は徳川直轄領となっていたが、...元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、豊臣軍が郡山城を攻撃して城を守っていた筒井定慶(順慶の養子)を討ち取った。定慶の死により、中世以来の大和の名族筒井氏は滅亡することになった《Wikipediaより引用》

つまり、このルートでないと大軍を動かせるlogistics"兵站"が確保できなかった!わけです。

第1目 丹南郡

現在大阪狭山市の全域、堺市の一部、松原市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部となっている但南郡は...

丹南郡 (51村)丹南藩・佐山藩及び代官支配; 幕府領、旗本領、上野館林藩、相模小田原藩

狭山藩 東除川流域

天正19年(1591年)、北条氏の嫡流は断絶したが、氏規がその跡を継いで北条家の当主となる。その後、罪を許されて氏規の子・北条氏盛は下野国内で4000石、氏規も河内狭山で7000石を領することになる。慶長5年(1600年)、氏規が没すると氏盛はその家督と遺領を継いで1万1000石の大名となる。これが狭山藩の始まりで...以後、後北条家12代の支配で明治維新にまで至った。

当初、氏規の大坂屋敷があった久宝寺町(大阪市中央区)で政務を執り行っていた。第2代藩主・氏信の元和2年(1616年)、狭山の地に陣屋を営んだ。《Wikipediaより引用》

※つまり外様!

但南藩 東除川流域

徳川十六神将の一人高木清秀の子で相模国・武蔵国・上総国・下総国および近江国に9千石を領する旗本だった。元和9年(1623年)に大坂定番に就任し1千石の加増を受け、河内国丹南郡22村に1万石を領する大名となった。(つまり普代で大坂の陣以後に立藩された藩)《Wikipediaより引用》

※つまり普代で"大坂の陣"以後に立藩された藩!です。

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第3節 江戸中期には旧大和川本流長瀬川流域 の南河内は肥沃な農耕地になっていた!

大和川付け替え普請をした江戸中期のころには、大和盆地と共に旧大和川(現長瀬川)流域の河内は、毎年梅雨期に大和川上流域から運ばれる大量の土砂で、(嘗てのナイル川流域のように)農業に適した肥沃な農耕地になっていました。

しかも、この頃には築堤整備も進み、旧・大和川本流(長瀬川)以南の南河内は、ある程度洪水からも守られていました。

第1項 日本最古といわれるダム湖狭山湖を持つ狭山藩は

特に狭山藩には日本最古といわれる灌漑用ダム狭山池(※71)があり、幕府から管理をゆだねられていて、

河内平野一帯に、農業用水を供給すると共に、西除川を使った"水運"を仕切っていて、流域でとれた農産物を大消費地浪速の、東の玄関口"天満"まで出荷していたわけです!

実際に川沿いを走破すると分けりますが、狭山湖から続く両岸の台地部では、深い渓谷を形成して、下流に行くほど、平地に近づく"緩やかな流れ"で水運には適した水路でもあり、かつ現・東住吉区一帯に、農業用水を配る"灌漑用水"でもあったわけです!

但南藩を流れる東除川も同様ですが、こちらは、水運と、排水主目的で現平野区のあたりには縦横に用水路(排水路)が張り巡らされていて、新・大和川放水路が分流されてからは、新たに整備された"平野川"が柏原船の水運灌漑を、旧西除川は主に排水を担ったようです。

参※71)616年(推古天皇24年)ごろの造営と考えられている!

第1目 東除川流域

丹南郡

大阪狭山市の全域、堺市の一部、松原市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部。

丹南郡 (51村)丹南藩・佐山藩及び代官支配; 幕府領、旗本領、上野館林藩、相模小田原藩

第2目 西除川流域

丹北郡

東住吉区の一部、平野区の一部、松原市、八尾市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部。

丹北郡(45村) 代官支配; 幕府領(一部は宇都宮藩預地)、旗本領、丹南藩、狭山藩、上野館林藩飛地、下野高徳藩飛地、相模小田原藩飛地、和泉伯太藩飛地

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第4節 なにわが天下の台所となったのは江戸幕府になってから!

1600年(慶長5年)10月21日の関ケ原の合戦で勝利した徳川家康が、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任ぜられて、江戸幕府を開闢したわけですが...

...江戸幕府も引き続き大坂の整備と特権を認めて(※10)天下の台所と呼ばれるまでの商工業都市となった。

一方、淀川や大和川が流してくる土砂は上町台地のはるか西の沖合いまで、いくつもの支流と小島を作って海を埋め尽くすようになった。この土砂は通行路である河川を浅くしてしまい、洪水や氾濫の原因にもなる厄介なものだったが、次第にこれらの新しい島も新田開発が進められるようになった。《Wikipediaより引用》

つまり大阪を代表する古地図にある運河群は、湿地帯の"排水路"として江戸幕府が整備を進めたものなのです。

参※10)当サイトシリーズ記事 大阪市における" 市営モンロー主義 "の起源と変遷 はこちら。

第1項 付け替えた大和川は単なる放水路!だった

河内国の水利行政は幕府の直轄事業!でした。

第1目 大和川水系の利水は幕府直轄官吏事業!

河内国を流れる大和川水系は「国役堤」として江戸幕府直轄の管理下におかれて、堤防の管理・保全が行われていました。

水防も大事ですが、主な任務は水利事業、つまり大和川の分流に"水を配分"する大事な役目を担っていました。

つまり、大和川放水路(現大和川)が開削されてからも、各"分流"の元栓にある堰に設けられた"水門"の調整を行って、各水系の水利を管理していたわけです。

第2目 付け替えた大和川(放水路!)は水運には利用できない急流!

これは、大和川堰堤を走破すればすぐにわかることですが、新しく「付け替えた大和川」(バイパス放水路)は急峻な流れで、水運には利用できなかった!ことが一つ、

そして、柏原にある平野川(運河)の取水口最後に、それより下流には灌漑用水取水用の水門が設置されてい無い!ことでもうかがい知れます。

そして、この水利に関する幕府の施策が、恩地川流域下流にある河内湿原に悲劇?をもたらしたわけです!

第3目 旧本流長瀬川は明治維新以降も本流として利用された!

大和川放水路が開削されて以降も、旧大和川本流の長瀬川が重要な水路として、流域への灌漑と、"水運"を担い、流域で収穫された農産物を天満橋の船溜まり、つまり天下の台所までの重要な輸送手段であったことからも、うかがい知れます。

長瀬川が役目を終えた?のは、敗戦後の高度成長期!になってから

長瀬川が、改修されて、現在のような"排水路"になったのは、長瀬川流域が宅地化して農耕地が無くなり、流域の灌漑が必要なくなった、戦後の高度成長期以降!になってからの事で、

大和川放水路が開削された1704年(宝永元年)以来 実に250年以上にも渡り、ずっと水運と灌漑を担っていたわけです!

第4目 恩地川も重要な放水路!だった

大和川放水路が開削されるまでは、恩地川は重要な放水路でした!

つまり、本流(長瀬川)には灌漑用水を流し、いざという時には恩地川を放水路として利用して、河内湿原遊水地!(旧河内湖)に雨水を放流!していたのです。

これは現在でも変わらず?、恩地川・寝屋川流域に「大きな遊水地」をいくつも造成して、江戸幕府の付け!を令和の国交省が尻ぬぐい!している事でも裏図けられます。

第2項 水利の仕組みの変遷!

第1目 大和川放水路開削以前

通常期は...

通常期は、灌漑(農業用水)と、水運の為に旧大和川本流(長瀬川)に一定量の水量を流していました。

旧大和川本流は緩やかな流れであるために、大和盆地から流れてきた"土砂"は堆積して、周りの平地より川底が高い天井川化を促進させました!

降雨期には...

梅雨時の豪雨、台風シーズンには、放水路として機能させるために恩地川への水量を増やしていました。

しかしこの時は流速も早いので、川底(と遊水地)にも土砂は堆積しないで下流に流れて、天満で合流した後、2つの大川と土佐堀川、安治川に分流して、河口部を形成するので、流量・流速も分散されて、河口部に近いほど堆積しやすく、天満から先は、運ばれた土砂で3角洲が形成されて、葦が生い茂る湿地帯が広がりました!

第2目 大和川付け替え・放水路開削後!

大和川付け替え放水路普請が行われた、幕府開幕百一年後の1704年には、天満以西の河口部では長年の土砂の堆積で、自然に"干拓?"されて、西横堀川、木津川流域も、干拓?が終わり平地が現れた頃でした。

また、現大阪市西区の(水運・排水用の水路網)がほぼ完成しており、河口部では川底への土砂の堆積、洪水時の水害が目立つようになってきていました。

平時は長瀬川・平野川にほぼ全流量

"平時"には、旧大和川本流(長瀬川)の流域と、新に整備した平野川に灌漑用水を送りさらに水運を維持するために、恩地川ともどもに大和川放水路には、殆ど水は流されていません!でした。

前途したように、明治新政府になってからも、水利組合が水門の管理を行い、敗戦後は旧建設省が水門の開閉を管理していました。

増水時!には緊急放水路!として付け替えた大和川放水路を

そこで大和川放水路が完成してからは、今まで恩地川に流していた、増水時の流れを"大和川放水路"にバイパスさせるようになりました!

梅雨時や台風で大和川が増水すると、長瀬川、平野川(用水路)に繋がる水門は閉ざされ上流から流れてきた土砂を含んだ水は全量!大和川放水路に流され、「河口部で急激に広がり」流速が落ちて、天然の良港だった堺の沖合に堆積して港をダメ!にしたわけでたわけです。

つまり、大和川放水路!は増水した時しか流さない放水路!だったわけです、柏原市にある堰(取水口水門)以西へは、灌漑に使えるような水は一切流されていなかったわけです。

なので、大和川放水路には、東除川、西除川からの合流水路はあっても、平野川運河以西の、旧東除川流域、西除川」(矢田川)流域への灌漑水取水口(水門)は設置されていない!訳です。

なので、「大和川付け替え」以降は旧西除け川(谷田川)流域では、水不足に苦しみ!度々飢饉に見舞われた!わけです。

第3項 大和川付け替えによる、水運の盛衰

嘗ての上除川(東除川)・下除川(西除川)が共に新大和川で南北に分断!されたために、水運で生計を立てていた狭山藩・阪南藩が窮地に追いやられました!

第1目 市営モンロー主義(権益)はこのときに生まれた!

浪速商人たちは、市営モンロー主義(※00)の原型に当たる権益を設定しました!

上除川(東除川)の水運に変わり、旧大和川(長瀬川)沿いに、平野川水路(運河)を開削して、柏原船と称して百石船による水運を運行させて、流域に開墾された新田から"鶴橋"を経由して旧淀川(大川)、寝屋川、平野川の合流する"京橋"に作った"船溜まり(中継港)まで運ばせて船溜まりで「自分たちが運営するモンロー主義船」に積み替えさせて、中ノ島にある「米蔵」や「綿花倉庫」に運び、柏原船などの大阪3郷への直通を阻んでいました!

参※00)当サイト関連記事 大阪市における" 市営モンロー主義 "の起源と変遷 はこちら。

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第5節 幕府の2大政策『入り組み支配 と 新田開発』

幕府のご意向(政策)に沿った新田開発が盛んにおこなわれた訳です。

第1項 前提となる江戸時代の「入り組み支配」とは

幕府に対する抵抗(反乱)が懸念される外様(旧豊臣家と家臣団)の領地を、国替え・改易(解雇!)などで召し上げ!て、集落単位!にまで細分化して、それぞれのdistrict(領地)を、天領(徳川直轄地)、旗本、譜代大名の領地として分割統治して「旧令制国」の団結(反乱)を未然に防止しようとした策です。

第1目 隣り合った村々が、それぞれ異なった領主に支配されていた!

つまり、年貢の取り立てが村々の境界でガラッと変わるわけです。

例えば、同じ"御代官様"(agent:代理人)が統治していても、年貢(上前)をかすめる上部団体(藩)がモザイクのように入り組んでいるので、日照り・台風などの天変地異による"凶作"の年でも、天領・旗本領では赦免されても、普代・外様などの藩領では、幕府への上納金の為に、容赦なく取り立てられて、飢餓が生じ安かった!訳です。

そしてそのことが、集落間・村同士の確執に繋がってもいたわけです!

例えば、小生の御近所の村は同じ代官(agent:代理人)が管理していましたが、小生の村!は旗本領で、両隣は天領!と譜代藩の所領!といった具合に分けれていました。

なので、秀頼の頃までは皆が同じ条件(庄屋・名主・小作)だったのですが、譜代の所領では、次第に田畑を売る!名主が現れ!小作になった農家が多くなりました!幸い農奴(水飲み百姓!)にまで、身をやつした村人は居なかったようですが?

第2項 新田開発 

新田開発は、今で言う(民間デベロッパー)による)民活方式や幕府の直轄事業として盛んにおこなわれましたが、目的は財政がひっ迫した"幕府の財政健全化"にありました、つまり派手な"祭りごと"に膨大な支出が費やされて、商人からの融資に頼らざるを得なかったわけで、江戸時代には幕府、各藩共(特に政権に関与した普代)莫大な借金を抱え込んだわけですが...

開闢100年を経過したこの時期でさえ既に、政(まつりごと)"100年間の垢(浪費)"がかなりたまっていました!

そこで、年貢(税金)確保の為に、大規模な新田開発を次々と行った訳です!

以下をご覧になればお分かりのように、沿岸部の(自然)埋め立てによってできた陸地、を中心に、新たな"造成地"は一部の例外を除いて殆ど全て幕府(と重役)の所領となっています!

つまり、但南藩と狭山藩にいた領民を犠牲にして、幕府の(贅沢の為に)増収・増益を計ったわけです!

なので、農民の為の防災目的などでは無いわけです!

第1目 旧下除け川(谷田川)流域では惨状が

前途した、旧下除け川(谷田川)流域では、新田開発の農奴(水飲み百姓!)、女郎などへの人身売買などで、一家離散!や家族全員餓死!などの悲惨な状況が続きました!

第3項 河内国では

第1目 河内国内にある新田!

若江郡にある新田

幕府領 鴻池新田、橋本新田、中新田、、三島新田、菱屋東新田、

相模小田原藩   新喜多新田、柏村新田、玉井新田、山本新田

※全て、大和川放水路開削、寝屋川改修によって生じた"旧河川敷"

讃良郡(35村・15,679石余)

四條畷市の全域、大東市の大部分、寝屋川市の一部、

讃良郡にある新田

代官支配; 幕府領、旗本領、京都守護職役知、大和郡山藩

※現・四条畷市、大東市、寝屋川市の一部

茨田郡(まったぐん)(85村・37,956石余)

守口市の全域、門真市の全域、大阪市鶴見区の一部、枚方市の一部、寝屋川市の一部、大東市の一部

代官支配; 幕府領(一部は高槻藩預地)、旗本領、美濃加納藩、摂津高槻藩

※現・守口市、門真市、大阪市鶴見区、枚方市、寝屋川市、

茨田郡にある新田

幕府領(代官支配)○新田村、

幕府領 、※古川(淀川分流)・寝屋川流域 中村新田、萱島流作新田、

※淀川・神崎川流域河口:尼ヶ崎新々田、尼ヶ崎新田

京都守護職役知  深野新田、深野北新田、深野南新田、

河内郡(30村・16,273石余)

幕府領、旗本領、京都守護職役知、狭山藩、相模小田原藩、大和小泉藩

幕府領・旗本領は水走村の 1村のみ 

※現・八尾市、東大阪市の一部、(玉串町西、花園西町、吉田、吉田下島、島之内、中新開、吉原、川田、水走、布市町、元町以東)

河内郡 にある新田

吉田川河床→川中新田

旗本領 草尾新田、○田中新田、西野新田、山本新田

幕府領 関茶屋新田、高松新田、西山新田、

上野館林藩 ○茱萸木新田

但南藩、狭山藩共に 無し!

旗本領  吉田新家村

幕府&旗本領 水走村
京都守護職役 河内屋南新田、中新開村、今米村、川中新田

※全て、大和川放水路によって生じた"恩地川流域河川敷"

志紀郡(22村・13,527石余)

幕府領(一部は宇都宮藩預地)、旗本領、丹南藩、上野沼田藩、相模小田原藩、和泉伯太藩

※現・藤井寺市の大部分、八尾市の一部、柏原市の一部(旧柏原町域)、

幕府領(天領)  ○柏原村、○北条村

新田開発地

市村新田、上市新田、安中新田、

第4項 摂津国では

第1目 摂津国にできた新田

東成郡(東生郡)...全5郷現在の大阪市東部
東成郡 にある新田

幕府領 新喜多新田、布屋新田、木屋新田

西成郡(西生郡)全12郷現在の大阪市北西部

大阪市福島区・此花区・港区・大正区・西淀川区・東淀川区・淀川区の全域

浪速区の大部分、住吉区の一部、西成区の大部分、西区の一部、住之江区の一部。北区の一部
中央区の一部。

西成郡(西生郡にある新田

幕府領 津守新田、庄左衛門新田、桜井新田、西野新田、難波島村、炭屋新田、湊屋新田、、平尾新田、今木新田、中口新田、上田新田、、千島新田、恩加島新田、市岡新田、池山新田、、泉尾新田、小林新田、岩崎新田、千歳新田、岡田新田、春日出新田、島屋新田、、恩貴島新田、六軒屋新田、南新田、木屋新田、北福崎新田、南福崎新田、池田新田、石田新田、田中新田、八幡屋新田、、小島新田、小島古堤新田、本酉島新田、秀野新田、百島新田、西島新田、矢倉新田、出来島新田、酉洲新田、中島新田、南酉島新田、北酉島新田、蒲島新田、布屋新田、前田屋新田

住吉郡...全5郷

現在の大阪市南西部など

住吉郡の新田

幕府領  松原新田、富田新田、加賀屋新田、村上新田、北島新田、柴谷新田、嬰木新田、駒井新田、弥三次郎新田、南島新田、西万屋新田、庭井新田、庭井流作新田、花田新田、浅香山流作新田、万屋新田

下総古河藩  猿山新田、

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第6節 大和川付け替え 普請は"だれの為"だったのか?

現在の東大阪市にあった今米村の庄屋、中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、1703年(元禄16年)10月、幕府はついに公儀普請を決定する。

翌1704年(宝永元年)2月より付け替え工事が開始された。...手伝普請を命ぜられていた播磨姫路藩主の本多忠国(普代)が死去したため、工事は一時中断され、姫路藩は手伝普請から外れることになった。...同年4月に播磨明石藩主の松平直常(普代)、和泉岸和田藩主の岡部長泰(東軍普代)、摂津三田藩主の九鬼隆久(柳生宗在の長男・普代)に手伝普請が命ぜられ、工事が再開された。

同年6月には大和高取藩主の植村家敬(普代)、丹波柏原藩主の織田信休(織田信長直系)にも手伝普請が命ぜられ、これら5藩によって工区を分担するなど効率的に工事が進められた結果、工事開始からわずか8ヶ月後の同年10月、大和川は現在のように...《Wikipediaより引用》

つまり、大坂の町割りがほぼ完成して、「天下の台所」が機能しだしてからの事です。

第1項  決して"通説のきれいごと"では無い!

ココがキーポイントで"通説のきれいごと"では無くて、前途した通り「天下の台所を預かる"なにわ商人の為"」の普請というのが真実でしょう!

エーなんで と思われる方が多いでしょうが、地図をご覧いただけば一目瞭然!、大河川である淀川(寝屋川)・大和川(石川)が全てが、大阪京橋辺りに集結していたのです!

第1目 大和川付け替え期には2つの中之島「豪商蔵屋敷街」が...

前途したように、1700年ごろには、大阪の下町西区もほぼ、今の町割りになったように、

上町台地西側の旧市街地がほぼ出来上がっていました、そして大川と土佐堀川にはさまれた2つの中ノ島には、豪商が営む米蔵が立ち並んでんでいました!

しかも当時は、今のように各河川にはビルの3階にも及ぶような築堤は無く!川船から荷下ろしできるような、石段の船着き場があるだけで、大阪湾の干満の差を吸収できる程度の"標高"でしかなく、大和側の上流(奈良県)で大雨が降ると、たちまち氾濫して、米蔵が浸水する被害!が生じていたわけです。

つまり、幕府(諸藩)にとっても、「天下の台所・浪速の豪商」の洪水被害は一大事!なわけです。

そこで、河内でも最も低湿な"水走"の庄屋中谷さんの直訴を口実に?、農民の為と称して、「大和川付け替え」普請に動いたわけです。

第2項 "新田"では幕府の"きもいり"で新しい河内名産

特産品も幕府の強権で、諸藩の特産であった綿花の種子や、レンコンの株を、出!させて、移植した"造られた特産品"でした!

河内平野は、入り組み支配が割と穏やか?で、天領・旗本領・が多く、飢饉の際にも普代大名以外は、割と取り立てが厳しくなかったのですが...

幕府が身入り(増収)を目論んだのが、"付け替え普請" の"本音"の一つでしょう!

第1目 水はけのよい河川敷跡にでは綿花栽培が!

旧河川跡に開発された"新田"では、水はけのよい旧河川敷きに適した綿花栽培が、これらの新田開発により、これらの新田では豪農!がたくさん生まれました。

第2目 縮小した低湿地では河内レンコンが

縮小した低湿地帯では"カワチレンコン"が栽培されて、財を成した"豪農"が数多く誕生しました!が...

第3項 但南藩・狭山藩では大和川付け替えで多くの農民が悲惨!な状況に

弱小藩の但南藩・狭山藩では大和川付け替え で多くの農民が耕作地を失い流民・新田開発の農奴!や一家離散など惨状が...

第1目 大和川付け替えまでは豊かな農地だった!下除け川流域平野部

元々葛城山系から流れ出た、石川や下除川・上除川で形成された扇状地の羽曳野丘陵では溜池も多いのですが、

(旧大和川本流長瀬川より南側の)"新・大和川放水路"以北のエリアは、日本最古のダム湖"狭山池"から流れでる下除川・上除川から別れた"灌漑用水と溜池"のおかげで、さほど水には困っていませんでした、というより豊かな田畑!でした。

第2目 土地をなくし!水迄なくした丹南藩では

水運と農地(農民)を一度に無くした、西除川・東除川流域の弱小藩の但南藩、狭山藩、の財政はより逼迫されたわけです。(つまり残った農民はより厳しい取り立てに...)

さらに新大和川(放水路開削)普請には、(大和川開削用地確保!のために)この地を追い出される農民!が、庄屋の命令で、人工として"苦役"(ただ働き)!させられたわけです。

何と、言う理不尽・非条理な仕打ち!でしょうか。

これを美談に仕立て上げた日教組の連中は非人間!です。

新大和川以北の谷田川流域では

大和川放水路開削用地確保の為に農耕地を無くした、丹南藩(本貫地)の小作農民(土人)は、生まれ育った"肥沃な土地"を離れて、鴻池新田や、その他の"新田"に移り住み"戸籍"(檀家籍)も持たない流民・浮浪(ふろう)(※61)つまり"農奴"!に転落する以外には生きる伸びる道は無くなった!わけです。

更に大和川放水路!が完成した途端に、大和川放水路以北の西除川(谷田川)流域に残った農民も、それまでと打って変わって水不足に悩まされた"不毛の地!"で苦しむことになった!訳です。

慢性的な水不足で稲作も満足に行えず、大人は新田の農奴!になり、娘・子供を売り飛ばし、一家離散!一家全員餓死、一家心中!などの悲惨な憂き目にあう小作農民が続出しました!

第2目 佐山藩では水運が出来なくなり

佐山藩では、上除け川・下除け川の水運業が出来なくなり、藩財政が逼迫しました!

つまり「美味しいところは、平野川運河!を航行する柏原舟の船問屋(商人)」達が...

第3目 大和川付け替えにより格差(貧富差)の増大!も

"大和川放水路"によって、「下除川(矢田川)」が分断されて、大和川放水路以北の豊かな農地だった流域は、一気に慢性的水不足に悩まされる「荒れ地」に転落した!訳です。

その為に、旧下除川(矢田川流域)も貧困エリア・格差エリアになってしまったわけです!

余談ですが、近鉄南大阪線の始祖・2代目大阪鉄道が、天王寺(現大阪阿部野橋)まで延伸できたのも、

当時疲弊しきっていたこのエリアの"荒れ地"を叩いて入手できたからでしょう?

更には、広大な"大阪市立の瓜破霊園"が設置出来たのも...

つまり、現在の府道2号中央環状線より西側!は耕作に適さない荒地!と成って終ったわけです。

つまりは、市営モンロー主義者たちの先祖「大阪3郷町衆」の旧大和川河川敷の新田開発事業と、新田開発によるその後の地域格差」がいまだに尾を引いているわけです!

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エピローグ 大和川付替え普請は 日本の三峡ダム?

第1項 大和川放水路完成後も、淀川が運んでくる土砂で

淀川は、古来から水運が盛んで、秀吉の頃には京の伏見港(船溜まり)と前途した天満港(森之宮船溜まり)で水運が盛んにおこなわれていました。

つまり、"平時は穏やかな流れだ"ったわけです!

つまり支流宇治川の、そのまた支流の大戸川、田代川、や木津川、とその支流の久米川が、鈴鹿・大峰連山から大量に運んでくる、土砂が、堆積しやすい河川なのです!

なので、後述する1885年の淀川の大氾濫に繋がったわけです。

第1目 1885年(明治18年)6月~8月の2度にわたる大水害では河内湖が出現して!

大和川放水路を開削しなければ、大和盆地から運ばれてくる大量の土砂で、河内湖(水走周辺の低湿地帯)は埋まり、淀川水路(新淀川)開削工事のきっかけとなった1885年(明治18年)6月~8月の2度にわたる大水害の被害はもう少し小さかったでしょう。

完全になくなったはずの、河内湖が亡霊のように現れて、深いところでは水深3m(民家の屋根)迄達しました

その後も、寝屋川流域では度々水害に悩まされて、敗戦後の20世紀後半に至っても、寝屋川の改修が続けられて、2階建ての民家の屋根よりも高い堤防で、護岸工事がなされて、20世紀末になってやっと浸水被害が"少なく"なった訳です、小生が通勤していた水走近くの事業所では、1990年代まで雨が降る度に床下浸水していました!

片町線が高架化されたのも

JR片町線が早い時期に連続高架されたのは、鴻池新田駅周辺が、浸水被害で不通!になることが多かったからです。

第2目 1831年の天保山は淀川の運んだ砂礫を浚渫してできた小島!

木津川と並んで大阪湾から大坂市中へ遡る二大航路のひとつであった安治川は、当時は淀川の本流にあたり、淀川が運ぶ大量の土砂を浚渫する必要が生じた。洪水防止と市中への大型船の入港をしやすくする目的で、1831年(天保2年)から約2年間、安治川では「天保の大川浚」とよばれる浚渫工事が行われた《Wikipediaより引用》

第2項 大和川水系も上流部から大量の土砂を!

大和川水系も上流部から大量の土砂を運び!弥生人「大和朝廷!」の躍進を支えた豊かな稲作地帯・大和盆地の形成に一役も二役も果たしたわけですが...

第1目 旧堺港がオワコンに

新・大和川放水路が、増水するたびに運ぶ大量の土砂で、天然の良港だった堺港が砂礫で埋まり、南蛮貿易であれほど栄えた堺港・堺商人がオワコン!になったのは有名なお話です。

但し、おかげで20世紀になった後々の高度成長期に、沖合埋め立て事業が、容易く行えた?おまけがつきましたが...

さしずめ大和川放水路開削は、人民のためと偽って一儲け(電力)を企んだ"江戸時代の三峡ダム工事"だったのかもしれません?

第3項 結局は遊水地だらけになった恩智川・寝屋川!

現在新規造営中も含めて恩智川、寝屋川推計には6か所の遊水地があります!

何れもXX市民公園,XX運動公園などと名称がついていまうが、どの施設も、恩智川、寝屋川との間の築堤は一部にオバーフロー堰と立派な水門を装備していて、いざという時は遊水地になる施設です。

つまり小生が、唱えたように、旧大和川の改修工事は"失敗だった"といえるのではないでしょうか...

第1目 渡良瀬遊水地のように、最後まで残った河内湿地帯を遊水地として残しておいたほうが、良かった?...

最後まで残った河内湿地帯(旧河内湖跡地)を"遊水地"として残しておいても、河内蓮根の栽培は十分可能だったはずです!

敗戦後の戦後復興期、高度成長期を通じて、水走の辺りは河内の水郷「大阪の潮来」として有名で、NHKの新日本紀行でも取り上げられたことがあります!

縦横に張り巡らされた水路を、軽トラ?代わりに川船が行き来してコメなどを運び、潮来同様に嫁入りもしたそうです!

大和川付け替えで生じた"流民・農奴の数を考えると、水走村の人たちが、大阪湾沿いに生まれた"新田開拓地"に移住してもよかったわけです!

第2目 大和川を付け替えなくても中之島の米蔵の水害は防げたのでは...

前途した様に、増水時は流速が早いので、土砂は堆積しませんが、河内湖に達したときには、流速が落ちて湖底(湿地帯)に堆積しやすいわけです!)

大和川(放水路!)を付け替えなくても、大川(旧淀川)河口部中之島の米蔵の水害は防げたのではないでしょうか。

前途したように、朝廷やその後に続く江戸幕府は、旧大和川本流(長瀬川)の護岸工事を積極的に行って、かつ洪水を新大和放水路!に向かうように制御したために、旧河内湖の東大阪市・門真・寝屋川辺りの土砂堆積進まず!ますます低湿地になっていったのではないでしょうか?

つまり楠根川は"排水路"として有効に機能して、逆に玉串川(吉田川&菱江川)と恩智川は旧河内湖湿地帯に流れ込み、更には寝屋川も流れ込み、水走あたりを水郷にしてしまったのでしょう!

大和川本流(長瀬川)を天井川に押し上げて、西横堀川以西の現西区を創出させるほどの、大量の土砂が、そのまま流れ込んでいたら...

20世紀後半まで持ち越された寝屋川水系の低湿地帯の水害は緩和されていた可能性!もあります。

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《歴史ファンタジー》関連特集記事のご案内 

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後書き 《沿岸部のMetropolisが抱える砂上の楼閣問題とは...》シリーズについて

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第1項 沿岸都市の盲点は地盤沈下!と地球温暖化!

現在コンパクトシティー(Metropolis)を目指している、地方都市は一部の都市を除き、いずれも海に面した沿岸部にあります!

そしてこれらの都市は、正しく大河川の河口部の"砂州"に構築された"砂上の楼閣"なのです。

これらの都市を悩ましているのが、地球温暖化による「海面上昇と、巨大台風」がもたらす高潮被害や巨大地震発生による津波被害への対策です!

第1目 高潮被害を防ぐには最低海抜5m以上の標高が必要

一度、自然災害が発生すると、最低でも標高10m以上は必要!とされており、河口部の堆積で生れた、3角洲が主体のこれらの都市では、その後の埋め立てで出来た"夢の島"エリアも含めて、地下水のくみ上げ等による、地盤沈下の影響もあり、標高0m地帯どころか「海抜マイナス数m」エリアを相当抱え込んでいて危険な現状!です。

第2目 港湾施設・石油コンビナート隣接都市では

更に、沿岸部に物流・工業地帯を配置している港湾都市では2次災害の危険も...

高潮が発生すると、沿岸部のコンテナが流れ出して、水門や橋脚の破壊や、流された危険物による火災!などの2次災害も発生します!

事実大阪では高潮被災時に、港湾部のコンテナターミナルから多くのコンテナが流出して、漂着した先で積載可燃物の自然発火による火災なども生じています!

第2項 自然災害は待ってくれません!

現在、各沿岸都市では、防潮堤の嵩上げ事業などの対策を進めていますが...

三角州や埋め立て地で出来た沿岸都市は、数多くの分水流(水路)で出来ていて、どの都市もかなりの防潮堤総延長を抱えています。

例えば東京23区の場合では、5mの高潮に備えるだけで、今後数兆円!の事業費と数十年の歳月が必要だと試算されています。

第1目 更に巨大台風や局所豪雨による河川氾濫の危険性も...

東京で近年起こった二子玉水害に代表されるような、巨大台風や局所豪雨による河川氾濫の危険性もぬぐいきれません!

第3項 税収確保より市民の生命財産を守る市政が必要では

東京などのように"武蔵野台地"と言う"自然の防災エリア"が背後に広がっているMetropolisでは、出来る限り「デルタエリアに開かれた下町から高台に人の流れを移す」ような都市計画の発想転換が必要でしょう。

嘗ての江戸時代には"防災"の観点から、居住区として認められていなかった、旧大川以東の低地部に暮らす人たちの「生命財産」を守る施策が緊急を要するのではないでしょうか...

第1目 高台に防災拠点(庁舎)を構える必要が

いざという時に、災害本部として機能する必要のある自治体庁舎は、抜け目ない東京都(庁)?のように出来る限り高台に移転する必要があるでしょう。

つまり大阪府庁舎の南港全面移転構想など全く非常識でナンセンス極まりないvision(夢想)!と言えます。

第2目 住居は出来るだけ高台に

山麓の高所は広島市や静岡市、そして大阪市・阿倍野区のように、土石流災害や"斜面崩落(&地すべり)で大災害を起こす場合もありますが...

東京都ならば武蔵野台地に広がる三多摩エリアが

(大阪市の上町大地のように)なだらかな丘陵エリアがある場合は、住居エリア(賃貸マンション・高級コンドミニアム)としての活用を考えるべきでしょう。

大阪府ならば千里丘陵・泉北丘陵に広がるニュータウンが

政令指定都市"堺市"の場合であれば、羽曳野丘陵・泉北丘陵に広がる北区・中区・南区・東区・美原区。つまりは泉北ニュータウンの開発続行に向かうべきでしょう。(※01)

参※01)当サイト内関連記事 堺市のメリット・デメリットを認識していない市当局者! はこちら。

狸穴総研 都市防災研究室 出自多留狸

※英単語の"多用"と"古文書"に使用される用語の解釈について(Revision 5)

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義務教育では日本語圏?の部族をまとめて大和民族・日本民族として、古来よりNation(統一国家)を形成してきたかのように、"洗脳狂育"を行っていますが...

これは、いまだ隣国を牛耳っている(元・両班(ヤンパン)共(※01)が大半を占める)「学閥」がプロパガンダしている「fantasy!(おとぎ話)」と大差ありません。

我が日本国の始祖(那の倭国;邪馬台国、大和政権)は、はっきり言ってEUのような寄り合い所帯で成立したFederation(連合組織・連邦)であり、president,(主宰者)、 chairman(議長)に当たるrepresentative(総代)はいても、

絶対的権力者emperor(皇帝)は居ません!でした。

参※01)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国国民と日韓関係 はこちら。

第1目 古文書研究屋?と鉄オタの共通点とは...

日本史を操っている"歴史屋!"は元来が古文書を紐解くことを生業(なりわい)とする国文学者!なので、専門用語(古文書中の正式表現・業界用語?)がお好き!です。

つまり専門用語を自慢げに吐きまくる「鉄オタ」と同じなわけです。

さらに歴史屋(国文学者)と「鉄道オタ」の共通点であり最大の弱点は、地理に疎い!ことです。

彼らが根拠にする"古文書"は三国志日本書紀の様に、(数百年経った)後年になってから語り継がれた「英雄・偉人伝説」に下ずいて"創作"された、epic(叙事詩)が大半です。

"台帳"などの実用・実務記録に関する古文書は軽んじていますつまり「おとぎ話大好き人間なのです。

つまり一般人と同じく司馬遼太郎を「歴史フィクション作家!」として評価するではなく、「歴史学者」として祭り上げてしまう過ち!に陥りやすい人たちです。

英単語を多用する理由は...

専門用語、特に歴史用語は、時々の為政者が都合の良い"造語"を編み出して、"古文書"に使用しているために、"同異義用語"が多く煩雑すぎる傾向にあるからです。

なので、"あいまい"かつ煩雑な表現"を避けるために、"事柄の性格"を的確に表す英単語の同意語を多用しています。

つまり国司・守護・藩主などの表現は、異なる時代の「時の政権(為政者)が明文化した制度」の下に、任官された職種(専門用語)で、実態(権限)は全て"≒"といえます。

日本語表現(単語)は前後関係に依存する場合が多い

更に日本語の表現(単語)は前後関係に依存する場合が多いために、一つの単語が多くの異なる事柄を示す場合が往々にしてあります。

例えば"地域"に関連する英単語は

  • ●Area(ほとんど手付かずの原野・空地!
  • ●Region(漠然とした地方・一帯
  • ●Zone(共通の条件;気象条件・河川流域・穀倉地帯・工業地帯などの同一条件を備えた地域
  • ●District(明確に区切られた,行政区などの区域!

などに細かく分類されているわけですが...

日本語、特に外来語起因のカタカナ単語では、「地域」を指す英単語localが、rural(田舎・田園地帯)と混同されて、本来は形容詞のregional (地方の)を用いるべき、regional line(地方交通線)や、rural line(田園路線)を(マスコミの連中は)"ローカル路線"としたり酷い場合は、「地方ローカル線の旅」などと、平気で蛇足表現を用いています!

つまりカタカナ外来語と、本来の英単語の意味がずれて終っている訳です。

国家!に関する表現
  • ●Federation(連合組織・連邦)
  • ●Nation(統一国家)
  • ●State(主権国家)
  • ●Dominion(イギリス帝国時代の自治領)※つまり中国王朝の"属国"であった当時の大和王国連合は一応自治を認められていたのでDominionということになります。
生活圏に関する表現
  • ●Tribe(部族)
  • ●Community(共同体)
  • ●Village(集落)
  • ●Municipality(自治体)
tribe(部族)間の縄張りに関する表現は
  • ●Territory(領土・実効支配zone)
  • ●Country(国土)※国土を表す表現で国家を示す表現ではありません!
  • ●Boundary(境界)
  • ●Frontier(Territoryのboundary)
  • ●Border(主権国家間の国境

として明確にしています。つまり国際間主権認められて無い単なるNation(統一国家)では、Territoryを示すboundaryはあってもborder(国境)を持たないわけです!

その他のTerritory(実効支配地・領土・領土)を"種別"する表現では
  • ●Emirate(首長国)
  • ●Manor,plantation(荘園)
  • Colony(植民地・入植地)
権威を表す表現としては
  • ●Emperor;皇帝
  • ●King;王
  • ●Sovereign;元首,君主,統治者
  • ●Lord;領主
  • ●Chief;首長・族長・酋長
  • ●Shaman;司宰・祈禱師・霊能者!?
  • ●Ruler;為政者
  • ●the exploited classes;搾取階級、特権階級、貴族階級=公家
組織 Top の職制
  • ●President(主宰者・大統領・総統)
  • ●Leader(引率者・座長)
  • ●Representative(総代)
  • ●Chairman(会長・議長)
職務(職権)を表す表現としては
  • ●Governor(chief executive officer):(官吏・役職としての)国司・守護・藩主・知事・総督
  • ●Officer;行政官は(※例えば大宰府転勤後の菅原道真の職制はofficerとなります)
  • ●Administrator (管理者)
  • ●Agent;代理人(目代・城代・代官・地頭 はadministrator であると同時にagentでもあったわけです)
  • ●manor owner(荘園主)≒ lord(領主、室町幕府末期の"地頭"も
又古文書記述用語は、できるだけ現代語・日常口語表現に口語訳?しています
  • 印綬;冊封国(属国)の認証印!を授かること。
  • ●"朝貢使";冊封国(属国)として、宗主国である中国王朝へ「臣下の礼」をとるための朝貢に覇権された外交使節団!

なので属国を示す冊封国(さくほうこく)"冊"はFrontierが正しく、borderではありません。

東北などで繰り広げられた出羽柵などの冊を巡る攻防戦はFrontierを巡るTerritory!争奪戦!だったことになります。

国文学者が「冊=中国王朝のFrontier」であると認めない理由は...

日本語ウィキペディアの起筆者などの歴史屋!は国粋主義者!国文学者が多く,

大和朝廷(政権)が『宗主国・中国朝廷の"属国"としてのお墨付きを得て、唐王朝のTerritory!拡大のための代理戦争!をしていた』ことを認める!と

中国王朝の傀儡政権!弥生人の大和政権(朝廷)の Nation(統一国家)&State(主権国家)説崩れてしまう!ためです。

あえて「柵は建造物として設けられていた施設であり、概念的なFrontierでは無い???」と唱えてるわけです...

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公開:2021年4月19日
更新:2023年2月 9日

投稿者:デジタヌ

東北にみる自然崇拝"シャーマン伝承文化"の先住民・蝦夷と、"文書文化"の新生・弥生人の鬩ぎあいとは...TOPアメリカ交通網の変遷・発達史から学ぶべき点!とは...


 

 



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