Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第10回ー
第10回 大化の改新と律令制
大和政権を牽引する大国?「大和王国」の大王(おおきみ)聖徳太子が、中国王朝"唐"の体制を模倣!して行った、制度改革?大化の改新(645年 → 650年)後に、唐(618年→907年)の制度を取り入れた律令制を、大宝律令(701年制定)として制度化(明文化)して、令制国(日乃本連邦のテリトリー分け)に繋げ、
(外交上)対外的には大王(おおきみ)を頂点とする統一国家「日乃本」を装ったわけですが...
第1項 大化の改新後に起こった白村江の戦いによる冊封解除!
白村江の戦い(663年10月)は、当時中国唐王朝(冊封国)陣営と戦っていた!"百済"と、(主権(外交権)も与えられていない無い)冊封国(属国!)の倭国が友好(外交)関係!を持ち共闘を組んで唐王朝(冊封国)陣営と交戦した紛争です!
結果宗主国"唐"の怒りを買い!冊封を解かれて!、唐王朝の敵国!に成って終った!訳です。
第1目 律令制は中華王朝"唐"の受け売り
"朝廷派"の歴史学者?は、21世紀の現在も引きずっている令制国を、もっともらしく正当性しますが...
律令制そのものが中国の受け売りで、倭国連合陣営が、日本列島制覇を前提に勝手に線引きした国割、いわば「絵にかいた餅」にしかすぎません!
現代風に言えば?大和政権版の植民地政策大綱です。
しかも、後述するように中華"唐"王朝に対して"復縁"(属国・親族復縁?)を求めるための取り繕い忠節の証(オベッカ)でもあったのでしょう...
大宝律令は「協同組合の組合規約!」程度
"大化の改新"で生まれた律令(法律)の多くは、前途した様に専制君主の charter(憲章)ではなく、「協同組合の組合規約程度の効力」しか持って無かったと憶測できます。
第2項 遣隋使・遣唐使に代表される外交面での必要性
第1目 中国大陸では髄が起こり
大陸では、強大な武装集団(軍隊)を要するemperor(大帝・帝王)が起こした専制国家が、広大な領域をnation(統一国家)として"統治"するようになってきていたわけです。
そこで、"海外"(天然のお濠・日本海の向こう)からの「大国の侵略」に抗するために、
「見かけ上!nation(統一国家・武力集団)」であることを示す必要があり、
倭国Federationのleader(座長)?である大和国の Chief(首長・大王)を擁立して、
「日本列島の sovereign(元首)」に"仕立て上げて"外交(折衝)を代表する representative(総代)としたわけです。
遣隋使・遣唐使の史実
前途した様に光武帝(BC6→西暦57年)時代の後漢(25年→西暦57年)に始まった「奴国」の"朝貢使"(使節団)以来、遣隋使(600年→618年)遣唐使(618年→907年)の長い"朝貢使"の歴史を通じて、"幻の邪馬台国"と、跡を継いだ大和政権が「奴国(倭国)を代表する唯一の政府」であることをアピールしたわけですが...
第2項 奴国(倭国)は単なる"一地方政権"
奴国は日本列島に多数あった政権の一にすぎず、多数の独立国?が存在していたことは、多くの中国古文書にも記されています。
更には、相手国(中華王朝)の拘り(権力体制)を逆手にとって nation(統一国家)であることをアピールする為に、
急遽!数々の律令を策定して中国を模した「帝(ミカド)を頂点とするピラミッド機構」を持つ nation(統一国家)を"装った!のでしょう...
第1目 元寇に対する対処は...
このように表現すると、王朝派の古文書研究者は、その後に起こった『2度の元寇(1274年・1281年)に対する、我が日ノ本の"団結"は...』
と反論するでしょうが、これとて、律令(法治国家)体制崩壊つまり nation(統一国家)としての日本連合崩壊!後に誕生した、封建・政権の鎌倉幕府(組)の"構成員" (-_-メ) である守護大名の「大人の事情(利害・思惑)が一致した!」
だけのことで、各守備隊(守護大名)が、互いの拠点を死守!しただけです。
当然各守備隊の「事前の軍議」は行われたでしょうが、執権時宗が「大本営」を立ち上げて、
「参謀本部」が作戦を指揮したわけでも何でもありません!
あくまでも、各守備隊(派兵隊)の「武将の自己責任に下づく自己判断」で戦われたわけです。
第3項 律令体制下でも完全な律令制(法治)は行われていなかった!
第1目 大王(おおきみ)は emperor では無く president だった
国粋学者・国文学者により創作された、義務教育の社会科教科書では、わが日ノ本は建国当初から絶対的な権力を持つemperor(帝)が支配するabsolute monarchism(絶対王政)の統一国家であった???かのように洗脳狂育されていますが...
国粋学者・国文学者により創作された、fiction(虚構)です。
那の倭国連合・日乃本連邦は、各地の小国(都市国家)の連合体つまりは連合国家・連邦だったわけで、
中華王朝の様な emperor は存在せず!
各都市国家(部族)のChief(酋長・首長・族長)が集まって協議する合議制!の"民主的!な連合国家"だったわけです。
つまり大宝律令当時の大王(おおきみ)は、
宗主国!「唐」に対する「外交上の方便」として、倭国の「国書に署名する」表むき(外交上)の sovereignで!
実態は president,representative(総代)に過ぎなかったのです。
第2目 大和朝廷では古来から「君臨すれども統治せず」が貫かれていた!
日本で(好き勝手し放題!の)絶対君主・独裁者だったのは、信長・秀吉や後述する藤原 純友などの一部の暴君(狂君)!だけでした。
律令制の世に戻そうとした明治新政府の「大日本帝国」も、議会制をとっており、天皇(※14)は"現人神"と祭り上げられて「君臨すれども統治せず」の立場におられました。
つまり、
日華事変から始まる一連の海外侵略政策!も、「時の政権権力者が、財怪に穴を叩かれて行った政策!」
にすぎず、開戦後は逃げ出し!あとを継いだ(実部隊である)"軍部"に全責任をおっ被せて「知らん振り」を決め込み、敗戦後に表舞台(政財怪)に復帰!して、日ノ本を今の様に"ダメにした!"わけです。
参※14)大和政権では、白村江の戦いで中国王朝"唐"と国交が断絶していた期間中の天武朝(天武天皇 在位673年3月20日→686年10月1日)の頃から、大王(おおきみ)に代わり「天皇」という称号が用いられだしました。
公開:2022年12月21日
更新:2024年3月15日
投稿者:デジタヌ
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