狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第7回ー

第7回 国割・国分けの線引き(Boundary)には「民の営み・暮らし向き」が重要!

国割(行政区分)の線引き(Boundary)には「民の営み・暮らし向き」の反映が大事な要素となります!

つまり、人口が増えだすと、自給自足だけでは「民の営み・暮らし向き」が成立できなくなります。

狩猟・採取民族の縄文人にしろ、農耕専業の弥生人にしろ、部族の Territory 内だけでは(自給自足)賄え切れずに、♥traffic(交易)が必要となってきます。

特に、岩塩がほとんど産出しないわが日ノ本では、"塩"の入手が問題となります。

中世・室町時代後期の乱世!の時代に、「武田信玄が遠江国に南下して駿河湾に出たがった」のはまさにLogistics (兵站)・Salt road(塩の道)確保のためでした。

第1項 東北での"柵"の一進一退は

前途した様に、後漢の金印・印綬以来、「超大国中華王朝から"日本列島を代表する政権"であるお墨付き」を得た傀儡政権「大和王権 Federation 」は、(朝鮮半島から逃げ延びた!職工(土師、鍛冶職人)を別にして)技術者・僧侶・学者等の留学生・渡来人を独占して文明開化!を行い、東日本・東北の「蝦夷の倭国」勢力圏に対する宗主国(中華王朝)の鎖国により、「蝦夷の倭国」の技術停滞!を誘発させて優勢に立ち、「蝦夷の勢力圏」に分布する「部族を"虱潰し"に陥落!させて、次第にTerritory(実効支配地)を拡大して、じわじわと冊(boundary)=Frontierの北限を広げていった訳です。

第1目 当時の縄文人・蝦夷民族とは

以下の特質をもちわせていたのではないでしょうか...

  • ●一つ)縄文人勢力「蝦夷の倭国」陣営にも文字(漢字)仏教文化は伝来していたが受け入れを拒んだ!
  • ●一つ)狩猟・採取を掛け持つ持つ女性shaman(祈禱師)による自然崇拝部を守り継ぐ兼業農民!?だった。
  • ●原始Democracy(民主主義)に下ずく各々が独立したTribe;部族同士が共存・共栄を図る無政府状態だった!

前途したように、「蝦夷の勢力圏」は部族の共存共栄するCountry(国土)だったので、大和王権 Federation の様なNation(organization);統一政府(政権)は無かった!わけです。

つまり、大和王権の侵略軍!に対抗して Country(国土)を守れる体制・連合軍は無かった!わけです。

第2目 稲の品種改良が進まないと気候は克服できない!

当時の(農耕具の技術革新"石器→鉄刃併用木質農機"だけに頼る)品種改良が進んでいない古代米による稲作は、飢餓を引き起こす天変地異(干ばつ・冷害)までもは防ぎようが無かった!わけです。

なので、8世紀末から9世紀初頭にかけて、現秋田県を,めぐるFrontier(柵)の一進一退攻防戦が起こり、田村麻呂の陸奥派兵に繋がり、蝦夷(エミシ)勢力PartisanのLeader公阿弖利爲(アテルイ)とshaman(祈禱師・霊能者!?)盤具公母礼(モレ)の反乱軍?500余人の討伐に繋がった訳です。

ここで、大事なのは、「反乱に至った原因は、天変地異(気候変動)による飢饉・飢饉ではなかったか?」という点です。

前途した様に、「稲の品種改良」が進んでいない当時は、いくら大陸渡来の陸稲系の古代米でも...

干ばつ、冷害には弱く!、何らかの天変地異(火山噴火?)などで、気候が変化して温暖でなくなると、稲作zone(地域)が大打撃を受けて、荘園が撤退して、柵が後退!して、代わって狩猟・採取と稲作を兼業!していた蝦夷族が勢力権を奪還!したのでしょう...

第3目 集落跡(遺跡)の発掘調査が待たれる!

集落跡(遺跡)の発掘調査が行われれば判明する史実ですが...

802年1月9日の田村麻呂の陸奥派兵は、前世紀末から続いた火山活動?などによる「気候の小変動寒冷化による凶作で「稲作を主とする荘園」が放棄!されて、柵が後退(撤退)していたのではないでしょうか!?...

9世紀初頭になり、気候が"小康状態"となったので、再び大和王権 Federation が荘園奪還(再開発!に乗り出すために、田村麻呂を征夷大将軍???に任命し、侵略軍!を派兵して一気に Territory 奪取に乗り出し、冊;Frontierを本州末端まで北上させたのでしょう!

但しこの後も、飢饉が原因と考えられる「Partisan 行動」が度々繰り返されて、その都度、大和王権 Federation が討伐軍を編成して、彼の地への遠征が繰り返されたのでしょう。

第2項 元祖日ノ本連合国のTerritoryは

GooglMapが教えてくれる那の倭国 Federation (organization)日ノ本政権の足跡

第1目 ポイントは天神様・御稲荷様、砦跡と古墳!

前途した様に歴史屋!はロマン(英雄)を求めて、"古文書"(記述)に拘りますが...

実際(考古学的には)天満宮・八幡宮!城跡(砦跡)と古墳(地方王族墳墓)が重要ではないでしょうか...

天満宮・八幡宮が存在するzoneは稲作地帯!

前途した天満宮・八幡宮が散在するzone(地域)では稲作が!行われていたわけです。

城跡・砦跡が多いのは重要拠点・重要街道だった証!

砦跡が多い都市・街道は、那の倭国 Federation のlord(領主)にとって、死守!すべき重要拠点(都市)・重要街道だったということです。

古墳

王族の墳墓・古墳自体は全国に散見されていて、日本列島ほぼ全域にTribe;部族・小国?が存在していたことがうかがえます!

Lord(領主)の墳墓・古墳があるということは、渡来人の"傀儡"ではない、地元部族のChief(酋長・首長)とshaman(祈禱師)が居た!いうことで、中央政権の公家(搾取階級・官吏)や寺社のmanor,(荘園)ではなかった!ということです。

特に西日本では、当初から渡来人集団(弥生人)が広めた"稲作"文化があり、「那の倭国」「邪馬台国Federation」の"発起人達 Chief(族長)の領地"であった可能性が高いわけです。

Governor(目代)も含めてChief(酋長) が統治していた Zone には 大和王権 organization(政権) のofficer(役員)である中央の豪族たちの大墳墓、特に前方後円墳はあまり見受けられません

前方後円墳の北限

前方後円墳は(古墳・墳墓は)日本列島に広く分布し、その数は約4,800基、あるいは約5,200基ともいわれる。前方後円墳の存在が明確でないのは、北方では北海道・青森県・秋田県、南方では沖縄県の計4道県にすぎない。《日本語ウィキペディアより引用

大和王権 Federation陣営か・縄文人勢力圏か判断が難しい茨木県(常陸国)千葉(上総・下総国」)・埼玉!(上野・下野国)にも、Lord;領主の陵墓;古墳(しかも前方後円墳!)が多く確認されています。

ということは、もともと地元部族のChief(酋長・首長・王)出身のLord(領主)がいた?ことになりますが、

某・東北大学教授の説の通り、鹿島神宮信仰を絆に団結した?縄文人文化圏「蝦夷の倭国」Federationが存在した???とは...

そして彼らの Territory(実効支配地)であったかどうかは???...

 

公開:2022年12月21日
更新:2024年3月15日

投稿者:デジタヌ

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