Epic 『 東北に於ける先住民"蝦夷"民族と中華王朝傀儡"大和政権"の死闘の歴史!』ー第4回ー
第4回 600年に再開された朝貢!
第1項 西暦607年の遣隋使に委ねた"国書"で初めて「日乃本」宣言した大和国
大和国の大王(おおきみ)である聖徳太子が、
当時の統一中華王朝"隋"に対して、 冊封国(さくほうこく)つまり属国・申請!の為の"朝貢"使節団が遣隋使(600年→618年)です!
数度の"正式"(※11)な"朝貢"使節団を遣隋使を派遣していた時期に、(何度目かの)遣隋使(西暦607年)に委ねた書簡(国書)で、「日乃本」宣言をしてその後は国名を「那の倭国」から日乃本と改称された!とされています。
つまり遣隋使を始めた頃は「那の倭国」を表す金印が押捺されていたのでしょう。
注※11)金印の印綬以来大陸とは正式な使節団以外にも、(前途した様に3世紀に寄稿された魏志倭人伝にも記されているように)民間人レベル?で「僧侶・技術者・留学生・職人等の交流」があったはずですが、これらの"非公式"な史実(記録・古文書・私文書)は残って(発見されて)いません!
第1目 聖徳太子の日乃本宣言の狙いは...
つまり、小国の"日本劣等"を侵略から守り植民地化させない!ように、
"自治権"をもった冊封国(さくほうこく)=属国!として認めさせるために、大陸の専制国家・超大国(隋)を、宗主国として認め、「臣下の礼」をとって、先手を打った!のでしょう...
前回の遣隋使で隋から持ち帰った"紙"(※12)にしたためた"国書"に、
自らが「邪馬台国」を引き継いだ正統・日本列島の統一国家!「那の倭国」の後継「日ノ本」のsovereign(元首;大王(おおきみ))であり、
自治権!をよこすならば、冊封国(属国!)に"なってやってもよい"ぞ!と、(初回の遣隋使で)印綬(※13)された金印?を押捺した"国書"親書で宣言したのでしょう。
つまり「那の倭国・日乃本」は自らをsovereign(元首;大王(おおきみ))として擁立した"統一国家"であることを装った、外交策!であったわけです。
参※12)当時紙は普及(技術伝来)しておらず、木簡・竹簡が全盛の時代で、最初の遣隋使が携えた国書は木簡・竹簡であったろうと推測されますが、日乃本宣言書?はどうであったか...
いずれにしても、オリジナルの"現物"は発見されていません!
参※13)但しこちらも現物は無く、金印か"銅印"かは、定かではありません!
第2目 隋の emperor が激怒したという有名な逸話は...
隋の emperor(皇帝)が、「聖徳太子の親書に激怒した」というのは、
「日之出国の天子より日の没する国の王へ...」の下りで激怒したのではなく!、
「金印?を押捺した冊封国(属国)の Chief(酋長)の分際!」でありながら、
主権を持つ sovereign(君主)の様に、対等の立場を主張した内容!にあったのでしょう。
まあ、朝貢使の謁見に同席した"隋"の通訳・学僧が、
「那の倭国は野蛮な"未開人が暮らす属国!"なので、漢字(漢文)を心得た人物がいない!?のでは...」とかなんとか「その場を繕った」のでしょう...
前途した様に、唐が滅びるまで、"朝貢使"による朝貢(配下の礼)をとり続けたので、
その後中国を占領!した元(1271年→1368年)の様に、日本列島に攻め入ることはなかった!のでしょう。
血統的(遺伝子的)にも弥生人は漢民族に近く、
縄文人の様に"元"と同じ流れをくむ「ウラルアルタイ系民族」とは異なり、親類?として扱ってくれたのでしょう。
その後に続く大和王権の大王(おおきみ)も
事実"隋"が滅びた後の唐(618年→907年)が滅ぶ907年まで、幾度の"朝貢使"(遣唐使)を派遣して「臣下の礼」を取り続け、同時に大和王権が日本列島(倭国)を代表する唯一の政権であることをアピールし続け、唐と「蝦夷の倭国」との交流を妨げ、大和王権 Federation の優位性を維持したわけです。
第2項 日本初の歴史書???!とされている古事記は fairy tale!
「日本語ウィキペディア」で日本初の歴史書???!とされている古事記(712年編纂)は...
前途した様に、漢字伝来より数百年!も経過して、日本初の Epic(叙事詩;英雄伝説!)として起草されたのは、製紙技術の伝来とも関係があるわけです!
聖徳太子の、倭国宣言(西暦607年)から100年以上!たった和銅5年(712年)に(漢文で)編纂された古事記は...
第1目 太安万侶が創作した Epic(英雄伝説!)
当時の大和王権の"大王(おおきみ)"を正当化するために、取り巻き(支援者・後援会!)の搾取階級・公家の一人である太安万侶が、面々と受け継がれてきた?口承・伝承神話!にヒントを得て!
大王の公式出生証明となる家系縁起を"創作!"して、
「大和国の大王(おおきみ)に献上」した"私文書"にすぎません!
その後に編纂された日本書紀(720年編纂)と同様に、遣隋使の頃に仏教伝来と同時に僧侶(技術者)が持ち込んだ文字(3世紀には体系化されていた漢字)により、口頭伝承されてきた legend(神話・昔話)を文字化(文書化)した、神話集!昔話集にすぎないわけです!。
これらは、autocracy(専制政治)を行っていた中国大陸・唐(618年→907年)の emperor(皇帝)に対して、遣唐使が携える"親書"の発行者である自称「天子」が、
新生・日乃本の主権者?である証(あかし)としての添付書類!(出生証明)に用いられたのでしょう。
歴代の中華王朝の emperor は正体を聞き及んでいた!
しかしながら、歴代の中華王朝の emperor(皇帝)(とその側近の学者・有識者)は、
当時バイブルとなっていた三国志の中の1節「魏志倭人伝」にある女帝?卑弥呼が率いる邪馬台国が日本列島の「真の自治政権」であったことを衆知していたので、天照大神神話には興味が無かった!でしょう。
つまり、「卑弥呼の血統を継ぐ正当な後継者」を示す根拠は無く!、
所期の目的である対外的(外交上の)な、日ノ本連合の主権者?大王(おおきみ)を証明する、血統書・出生証明にもなら無かった!と言えます。
第2目 当時の書簡は木簡・竹簡(ちっかん)の時代だった
非公式の民間レベルでは大陸と「蝦夷の倭国」との交流(交易)も...
「縄文人・蝦夷民族は文字文化の無い文盲!の口承・伝承の部族だった」とする説が多いようですが...
非公式レベルでは「蝦夷の倭国」も"大陸"と交流(交易)があり、銅製品・鉄器などと共に"漢字"も伝わっていたと推測できます。
古代弥生時代初期から遣唐使の始まる古代天平文化の頃までの、朝貢使(600年→618年の遣隋使)が再開される前は日本列島には、中国の製紙技術(紀元前140年~87年に発明)は伝来しておらず、遣隋使以前の時代の「書簡」は木簡・竹簡(ちっかん)が主流の時代でした。
縄文遺跡から木簡・竹簡は出土していないが...
縄文人(蝦夷)の遺跡の出土品に木簡・竹簡(ちっかん)は見つかっていません!が...
厳しい東北の気候、特に河川沿いに開けた定住地(遺跡)では「凍結⇔浸透」の繰り返しによる木簡・竹簡の割れなどの影響で、朽ち果てたものと推測できます。
第3項 坂上田村麻呂による802年のアテルイ拘束
後述するように西暦802年5月19日に蝦夷討伐!に差し向けられていた坂上田村麻呂が、最後まで抵抗していた部族のChief;大墓公阿弖利爲と盤具公母禮、部族一統500余人を武装解除して、阿弖流為とモレを都に連行したわけですが...
京への伝令に公阿弖利爲(アテルイ)や盤具公母礼(モレ)といった風に「正式な名称?」が記されていたのは「田村麻呂」の東北遠征に同行した書記官が「当て字」で戦記を記したのではなく!
それ以前の大和王権と友好を保っていた当時、朝廷側から拝名したということになっていますが、
第1目 紙・文字文化の存在は承知していても...
つまり、阿弖流為が率いる Partisan が起こる前からすでに、
紙・文書が蝦夷夷社会にも伝わっていた!ことは間違い無い様ですが...
紙・文書文化を伝来させた遣隋使(600年→618年)以来200年!も経過していて、
日本列島に紙・文書文化が定着していた当時でさえ、蝦夷陣営では、日常の政(まつりごと・祭事)は、文書に記された祝詞(のりと)を読み上げるのでは無く!、
口承されてきた"呪文"を用いていた!のでしょう...
そういう点では、紙・文書文化とは縁のない"文盲"部族!であったのは間違いないでしょう。
公開:2018年8月 5日
更新:2024年3月16日
投稿者:デジタヌ
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