狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第9回ー

第9回 邪馬台国を引き継いだ大和王権も属国路線を踏襲!

元祖「那の倭国」"邪馬台国"から派生した日乃本連合大和王国政権も同じ寄り合い所帯!でした...

お互いの「大人の事情(利害関係)」が一致した、瀬戸内運河?沿いの"部族(小国)"が、「那の倭国連合」を結成して、お互いのリソース(財力・兵力)を合わせて、緩やかな邪馬台国連合を形成していたわけです。

いわば現在のEUと同じような経済圏を基本に置いた国家連合です。

第1項 せいぜい古代・連邦国家?の元祖JA!倭国経済連合会

その時々の、加盟国(種族)のChief(若頭?)がお互いに「都合の良いchairman(組長)」を祭り上げて「大人の事情で所場争い(Territory抗争)」を繰り返していたわけです。

実態は嘗ての各region(地域)にあるcommunity(部族)のChief(部族長)が、互いに「自己の利権(大人の事情!)」を主張し合うfederation(経済・連合体)だったわけです。

ある意味民主的でもあり・ある意味「統一性にかけた連合体」だったわけです。

古代・倭国連邦(大和"調停?")、中世(鎌倉・室町幕府、戦国時代)、近世(江戸幕府)近代(明治新政府・大日本帝国)と繋がる ruler(為政者・権力者)共は、

「大王(おおきみ)をemperor(帝)に祭り上げて!」専制政治体制の統一国家を装った!わけです。

第2項 西暦607年の遣隋使に委ねた"国書・親書"で初めて「日乃本」宣言した大和王権

聖徳太子(大和国の大王)が、冊封国(属国!)として、宗主国である当時の中国統一王朝"髄"に対して、「臣下の礼」をとるために覇権された"正式"(※12)な!外交使節団としての朝貢(ちょうこう)使"(遣隋使)を派遣していた期間中(600年→618年)の、(何度目かの)遣隋使(西暦607年)に委ねた書簡(国書)で、「日乃本」宣言をして、その後白村江の戦い(663年10月)以来、途絶えていた"朝貢使"(遣唐使)が則天武后により8世紀初頭の701年に、約40年ぶりに再開された際に、宗主国の中国王朝"唐"に申請!されたとされています。

注※12)日本列島とユーラシア大陸とは、金印の印綬以前から(正式な使節団以外にも)民間人レベルでの交流があり、正式な"朝貢使"が途絶えていた?期間中も、前途した魏志倭人伝(3世紀末草稿)にも記されているように、大陸⇔日本列島の交流(交易)は続いていた!訳ですが、史実を示す"非公式"な記録(古文書・私文書)は残って(発見されて)いません!

第1目 当初の"朝貢使!"(遣隋使)が携えた国書は"木簡"!

遣隋使(朝貢使)"を始めた頃の国書は、木簡(※13)だったと思われます。

参※13)後述するように、遣隋使以前の日本列島には製紙技術が伝来しておらず!書簡は全て木簡にしたためられていました。

西暦607年の遣隋使が携えた国書で聖徳太子が行った日乃本宣言の狙いは...

つまり、大陸の専制国家・超大国(髄)を宗主国として認めることで、小国の日本列島を侵略から守り植民地!化させないように、「臣下の礼」をとって、先手を打ったのでしょう!

自治権をもった冊封国(さくほうこく)=属国として認めさせるために、日ノ本連合国の幹事国!大和国の大王(おおきみ)である、「自らが sovereign である統一国家!」を装った、外交策!であったわけです。

第2目 遣隋使以前の書簡は木簡・竹簡(ちっかん)の時代だった

非公式の民間レベルでは大陸と「蝦夷の倭国」との交流(交易)も...

非公式レベルでは大陸は「蝦夷の倭国」とも交流(交易)があり、銅製品・鉄器などと共に"漢字"も導入されていたと推測できます。

古代弥生時代初期から天平・奈良時代にかけて、中国の製紙技術(紀元前140年~87年に発明)は日本列島には伝来(7世紀頃までに輸入されだし、その後技術も伝来したといわれている)しておらず、それ以前の「文書は木簡・竹簡(ちっかん)が主流の時代」でした。

紙文書文化は遣隋使により伝来した!

つまり紙文書文化は遣隋使(600年→618年)により、倭国に持ち帰られた「髄王朝の国書」や仏教の経典により、初めて日本に伝わった!と考えるのが妥当でしょう

第3項 古事記・日本書紀は"おとぎ話!"にすぎない

紙伝来後に編纂された、わが国最古の古文書といわれている?古事記(712年編纂)は、

その後に編纂された、日本書紀(720年編纂)と同様に、仏教伝来と同時に僧侶(技術者)が持ち込んだ文字(漢字)により、口頭伝承されてきた legend(神話・昔話)を文字化(文書化)した、神話集!昔話集!にすぎないわけです!

これらは、autocracy(専制政治)を行っていた中国大陸・唐(618年→907年)の emperor(皇帝)に対して、遣唐使が携える"親書"の発行者である大王(おおきみ)が、『新生・日乃本の sovereign? である証(あかし)としての添付書類!(出所証明)として用いるために、家系図として書き表された代物』なのでしょうが...

※しかしながら。歴代の中国王朝の emperor(皇帝)(とその側近の学者・有識者)は当時バイブルとなっていた三国志の中の1節「魏志倭人伝」にある女帝?卑弥呼が率いる邪馬台国が日本列島の「真の自治政権」であったことを衆知していたので、天照大神神話には興味が無く、古事記は無視!されたわけです。

「卑弥呼の血統を継ぐ正当な後継者」を示す根拠は無く、つまりは所期の目的である対外的(外交上の)な、

日ノ本連合の sovereign?大王(おおきみ)を証明する、血統書・出生証明にもなら無かった!わけです。

第1目 「日本語ウィキペディア」で日本初の歴史書!???とされている古事記(712年編纂)は...

前途した様に、漢字伝来より数百年を経過した後に、日本初の叙事詩!(fiction!fantasy!)として古事記が起草されたのは、製紙技術の伝来と深く関係があった!わけです。

聖徳太子の、倭国宣言(西暦607年)から100年以上!たった和銅5年(712年)に(漢文で)編纂された古事記は、

前途した様に当時の大和連合国の"大王(おおきみ)"を正当化するために、取り巻き(支援者・後援会!)の搾取階級(政権)の一人の太安万侶が、面々と受け継がれてきた?口承・伝承神話!にヒントを得て!

大王の公式出生証明となる家系縁起を"創作!"して、「大和国の大王(おおきみ)に献上」した"私文書"にすぎません!

その後に編纂された日本書紀(720年編纂)と同様に、仏教伝来と同時に僧侶(技術者)が持ち込んだ文字(3世紀には体系化されていた漢字)により、

口頭伝承されてきたlegend(神話・昔話)を文字化(文書化)した、神話集!昔話集!にすぎないわけです。

前途した様に、漢字伝来迄、日本には文字が存在していなかった!ので、遣隋使以前の記録は、中華"叙事詩"に記された"噂話"と、伝承されてきた神話・伝説に下ずくfairy tale、fantasy(御伽噺・空想)であり、epic(叙事詩・英雄伝説)とすら言えない代物です。

なので、朝貢先の中華王朝には完全無視!されたのです。

その後の「大和政権の大王」も

事実その後も大和政権の歴代大王が、「髄が滅びた」後の唐(618年→907年)が滅ぶ907年まで幾度の朝貢使("遣唐使")を派遣して「臣下の礼」を取り続け、同時に大和政権が「日ノ本連邦」を代表する唯一の政権であることをアピールし続けた訳です。

第2目 髄の emperor が聖徳大使の国書に激怒した訳は...

髄の emperor(皇帝)が親書を受け取って激怒した理由は、「日之出国の天子より日の没する国の王へ...」の下りでは無く!。

冊封(従属)を求めてきた冊封国(さくほうこく)=属国のChief(酋長・首長)の分際!でありながら、主権を持つking(王)の様に、対等!の立場を主張したcontent!にあったのでしょう。

まあ、居合わせた通訳・学僧が、

『那の倭国は野蛮な"未開人が暮らす属国!"なので、漢字(漢文)を心得た人物がいない!?のでは...』とかなんとか「その場を繕って」くれたのでしょう。

前途した様に、唐が滅びるまで、"朝貢使"(遣唐使)による朝貢(配下の礼)をとり続けたので、その後中国を占領!した蒙古民族の元(1271年→1368年)の様に、日本列島に攻め入ることはなかった!のでしょう。

血統的(遺伝子的)にも、弥生人は漢民族に近く、縄文人の様に"元"と同じ流れをくむ「ウラルアルタイ系民族」とは異なり、漢民族の親類?として扱ってくれたのでしょう

現在大和朝廷として持ち上げられている"大和王国"は大和盆地をホームグランドとする「議長国(一領主・一部族)」にすぎなかったわけです。

つまり帝王が絶対権力を握る専制政治(君主)体制では無かった!わけです。

 

公開:2022年12月21日
更新:2024年3月15日

投稿者:デジタヌ

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