狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第4回ー

第4回 渡来人混血種・弥生人の「那の倭国・邪馬台国」の実像とは...

弥生時代初期(古代・石器時代・縄文時代後期)の弥生人の「那の倭国・邪馬台国」も、当然・女性shaman(祈禱師)の"お告げ"に下づき祭事(政;まつりごと)を行う Community(小国家・部族)が並立したfederation (連合体)だったと思われます。

つまり、嘗てのEECの様な自由交易圏!だったわけです。

もちろん米(稲作)だけではなく、"塩"も交易の重要な産品だったわけで、元祖JAともいえるfederation(連合会) だったわけです。

第1項 邪馬台国 Federation の representative 弥呼(職)は複数いた?!

前途した様に、3世紀末に起筆された中国の古文書『三国志』の中の1節「魏志倭人伝」で、「那の倭国」として記述された「邪馬台国」は、巫女(女性shaman)が政(まつりごと;祭事)を取り仕切る国家として紹介されているわけですが...

実際には女性shaman(祭司・祈禱師)が政(まつりごと;祭事)を司る、Community (都市国家;部族)で構成されたFederation (連合体)を形成していた可能性が濃厚!なのです。

つまり極端に言えば、各 Community(部族)に、各々の卑弥呼が居た!のです。

これは、採取・狩猟民族の土着民・縄文人が、築いてきた自然崇拝文化伝統で、女性 shamanつまり"女性・司祭である巫女"の"占い"に下づき、政(まつりごと;祭事)が行われていた!為です。

第2目 卑弥呼は倭国連邦加盟各国の「山の神(内助)」の持ち回り当番制!だった?

もっと極端に言えば、Community(地方部族)のChief(首長)の内助(妃)である「shaman(禱師・山の神!)」が、中国王朝・後漢の使節(国使)が視察!に訪れた際に、邪馬台国を代表して視察団を歓待する接待係!のrepresentative(総代)としての「卑弥呼・職を、各部族の女性 Shaman が「持ち回り当番制」で務めていたのでしょう!

当時は大陸(中国王朝)と"しょっちゅう(毎年)"公式な使節外交は行って無く!

写真はおろか"似顔絵"すらない状況で!、おまけに同じ「外交官(使節)」が来日していたわけでも無い!ので、「卑弥呼」が入れ替わり立ち代わり毎年交番していても"ばれなかった"わけです!

神無月(旧暦10月)は本当にあった?!

日本語ウィキペディアでは

(伊勢神宮・内宮に居る天照大御神以外の)神々が出雲に集まって翌年について会議するので出雲以外には神がいなくなるという説は、平安時代以降の後付けで、出雲大社の御師が全国に広めた語源俗解である。なお、月名についての語源俗解の例としては、師走(12月)も有名である。《日本語ウィキペディア(2022年12月17日現在在)より引用

となっていますが、神無月(旧暦10月)は本当にあった話なのかもしれません?!

邪馬台国・経済連合の Territory は...

元祖JA!邪馬台国・経済連合会を構成するCommunity(部族)の Territory,(実効支配地)は、近畿・四国・九州の瀬戸内運河!沿いと玄界灘・有明海の一部の狭い Region(一帯)に限られていました

関西圏の一部 Zone(地域)で成立していた邪馬台国・経済連合!では、年に一度「諸国の女性shaman(内助;山の神)が集まり、親睦会・大宴会?を行い、併せて翌年の邪馬台国のrepresentative(総代)卑弥呼を"選出"していたのではないでしょうか?...

つまり、一か月で往復するのは無理としても、祭事に記された日程(約一か月の道程)であれば、年に一度、自国を開けて出雲大社に集参できた!わけです。

第2目 邪馬台国の場所を特定できないのは...

邪馬台国の場所を特定できないのは正にこのためです。

つまり、九州(吉野ヶ里遺跡)説・大和(明日香)説・東北(三内丸山遺跡)説?などいろいろありますが(※12)...

中国の後漢王朝の光武帝(BC6→西暦57)から、金印(属国承認印)を印綬した時点では、中国には製紙技術(BC140年~AC87年)がすでにあり奴国(邪馬台国の前身?)へは「漢字の原型」も伝わったのでしょうが...

中国に仏教が伝わったのが西暦100年頃で、その後に後漢(25年→220年)は滅亡して、その後の正式な朝貢使(遣隋使600年~)が始まる迄の「数百年間は正式な使節団の交流はなかった!」わけです。

※前途した様に、"弥呼"は分裂していた魏から金印を印綬(朝貢)していた?との不確かな伝承もあり、分裂国家"魏"(西暦220→265年)との交易は続いていたのでしょう。

但し、日本側には、確かなevidence(木簡・竹簡)は残されていません!

参※12)三内丸山遺跡では、(稲作を導入した縄文人?が暮らしていたことは間違いないでしょうが)大規模な王宮・館(やかた)や王墓は発見されていないわけです。

第2項 日本史の(記録)空白期間?!

この間は、日本列島には古文書(木簡)すら残って(発見されて)いない!訳です。

つまり、AC220年以後も、民間レベルの交流(通商)で青銅器・鉄器などの農耕具・武器貿易はあったのでしょうが...(※13)

密貿易?密航者による仏教伝来で本格的に漢字文字文化が伝来するのは、中国で漢字が体系化して、三国志が起筆された3世紀末(280年(呉の滅亡)→297年(陳寿の没年)の間)から南朝宋(420年→479年)、北周(556年 →581年)の時代の「多数の三蔵法師(翻訳家)」が「原典を漢文翻訳して」中国に持ち帰って、更に日本へ伝えてからだと考えるのが妥当で!

つまりは朝貢(ちょうこう)使"(遣隋使)が再開された(600年)以降に、本格的な文字文化(仏教文化)が花開き、それまでの女性shaman(司祭)による自然崇拝・口承文化が次第にとって変わられた!と考えるのが妥当でしょう。

参※13)国粋主義者・国文学者などの古文書愛好者!が論拠!としている中国で起草された(魏志倭人伝どうようの)叙事詩(英雄伝説・創作物!)でも"交流"があり、邪馬台国を巡る"噂話"が伝わっていたことが、判明しています!

これらの古文書は全て噂話を基にに起草した叙事詩(英雄伝説)であり、マルコポーロの東方見聞録の様な、自らの体験に下づく Documentary (取材記事)ではありません!あくまでも著作者の主観を交えたFiction(叙事詩)にすぎません!

最も東方見聞録でもジパングについては、当時の中国で聞きかじった"噂話"を基にしていますが...

当時「平野部が無かった日本列島!」には中国大陸奥地!より古代米が伝来した可能性が...

更に、弥生人(混血)の祖先・南方民族説をとる歴史フィクション創作家?!は、南シナ海沿岸の諸国で盛んな「水耕・水田」を前提に想定していますが...

稲作が伝来したころの日本各地は、縄文海進が終わったころで、河川による河口部の堆積(三角州形成)は進んでおらず、加賀平野など、各地の平野?はほとんど形成されてなく、せいぜい「河口部の小島」を中心に「葦の生い茂る」湿地帯がわずかにある程度でした。

更に現在全国各地にある"盆地"も、河川上流部からの堆積がまだまだ十分ではなく!平地部はほとんど無がった!わけです...

なので、中国大陸奥地で行われている"段々畑"「棚田」による「(陸稲に近い)"古代米"」の稲作が、大和盆地など、各地の河川の「盆地部の山麓」や「大河の河口部の山麓」に伝わった可能性があります!。(※24)

「明日香の里」の段々畑や、筑後川・矢部川水系上流部で行われている「棚田による稲作」が普及したものと考えられます。

つまり前途した漢字伝来後の朝貢(ちょうこう)使"(遣隋使)が再開された(600年)以降の仏教伝来とともに、大陸から高度な測量技術を学んだ利水専門家(僧侶)も渡来して、灌漑施設(用水)網を整備(※25)していったと考えるのが妥当でしょう。

つまり、当初弥生人の「那の倭国連合・邪馬台国連邦」に稲作が伝わった当初は、その後の本格的な稲作文化(荘園・農奴制度)は普及しておらず、弥生人ですら!農耕・狩猟の兼業民族であった可能性が強いわけです!

参※24)古代遺跡から出土する、状態の良い稲の化石?のDNA分析を行えれば...証明できる!でしょう。

これで長年論争が繰り広げられてきた、稲作南方渡来説が覆されることになるでしょう...

参※25)最近の発掘・発見で灌漑(水路)技術も、稲作と同時に列島各地に伝わったことが証明されています。材木と土石を用いた、護岸工事を施した用水路が各地の古代遺跡で発掘されています!

つまり、邪馬台国以前から稲作を持ち込んだ弥生人(渡来人集団)は、簡単な土木(灌漑)技術を持ち合わせていた、農耕技術者・集団だったともいえます。

但し、大規模な利水事業(用水)開削には、高度な測量技術も必要となるので、前途した筑紫平野(柳川)、佐賀平野などのでの、灌漑事業の"走り"は、後年になって遣隋使により「帰国留学僧や、招へい?した渡来技術者」が伝来させたものと考えられます。

一時中国王朝"唐"と国交が断絶(冊封を解く)原因となった白村江の戦いは

大和政権は、百済に加担して白村江の戦いで敗れたわけですが...このことが中国王朝"唐"と国交が断絶(冊封を解く)した要因にもなる訳ですが、大事なのはこの時「百済に加担」したわけですが...

百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋を擁立しようと、倭国に救援を要請した。

中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。

日本語ウィキペディアより引用

とあるように、660年3月の百済滅亡!の際に技術者・職人含むを多くの難民を受け入れているわけです!

つまり、後述する大和政権誕生後に、筑州(筑後;筑紫平野)・豊州(豊後;阿蘇国・)・肥州(肥前;佐賀平野)の稲作 region(地帯)の開発(灌漑)もより一層進んだものと考えられます。

これは、儒教思想に下ずく労働蔑視!(※26)の施策!の中国"唐"王朝勢力が朝鮮半島を席巻して、有能な技巧者(職人)達が、技術導入に熱心だった弥生人の"倭国"へ亡命!したためと考えられます。

これはその後の秀吉の朝鮮出兵時(1592年5月24日→ 1593年8月5日)も同じで、

多くの職人たちが朝鮮半島を脱出して、日本に亡命しています。

参※26)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪を根絶しないと韓国は再び中共の属国に... はこちら。

 

公開:2022年12月21日
更新:2024年3月15日

投稿者:デジタヌ

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