Essay『人権問題・差別問題 の"水種?"になった"大和川付け替え?"は 必要だったのか?...』ー第3回ー
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第1項 豊臣秀吉が大阪城を開城した頃は
豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大阪城を造営して城下町として、大阪3郷を開いて全国から商人を呼び寄せたとされていますが...
オリジナルの地図 をご覧いただければお分かりのように、
外堀(東横掘川)と旧猫間川を空堀でつないだ形態で、西横堀川も完全では無く、東横堀川以西の木津川までの現中央区・西区エリアは、「葦の生い茂る」低湿地帯でした。
第1目 大阪城下の水路網が完成して"河口部"に街並みが広がったのは1705年以降
このエリアの水路網が作られたのは、江戸時代になってからで、1600年の阿波堀に始まり立売堀(いたちぼり)・長堀が完成した1705年までの105年間に整備された水路網です。
秀吉が開城した当時は
つまり、秀吉が開城した時はもちろん、1615年の大坂夏の陣までは西区はおろか中央区さえ存在していなく「辺り一面葦の生い茂る低湿地帯!」だったわけです。
第2目 大阪城開城まであった若江城は
難攻不落とされ、豊臣秀吉が大阪城を築くまで存在した有名な若江城があった頃は、周囲一帯はまだ低湿地で、それゆえに難攻不落とされていたのでした!
事実、秀吉が無くなり秀頼の代になってからの大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)の幕府軍も、八尾街道(暗峠・河内湖横断ルート)を避けて、態々東高野街道(現国道170号)を応神天皇凌!迄南下(大廻り)して長尾街道・紀州街道経由で住吉から北上しています。
そして上町台地(茶臼山)に本陣を置き、当時低湿地帯だった西横堀川と東横堀川の間の低湿地帯(現中央区)と、そしてこれまた低湿地の森之宮あたりに布陣した訳です。
もっともこれには logistics "兵站"の事情も絡んでいましたが!
第2項 家康軍は当時の豊臣秀頼の領地だった河内国は通れなかった!
つまり、"大軍"を動かすには、大事な兵糧補給路 logistics(兵站)が確保されている必要がありますが...
7世紀末・8世紀初めの木簡2例にも川内と書かれ...河内の名が確定したのは、おそらく704年の大宝律令による国印鋳造時で...大豪族の物部氏の勢力があり、東大阪市衣摺は、その本拠地のひとつ...《Wikipediaより引用》
さらに、伊達政宗軍が経由したとされる大和郡山は
(1600年)の関ヶ原の戦い...後、郡山は徳川直轄領となっていたが、...元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、豊臣軍が郡山城を攻撃して城を守っていた筒井定慶(順慶の養子)を討ち取った。定慶の死により、中世以来の大和の名族筒井氏は滅亡することにな、った《Wikipediaより引用》
つまり、このルートでないと大軍を動かせ兵糧補給路 logistics (兵站)が確保できなかった!のです。
第1目 丹南郡
現在大阪狭山市の全域、堺市の一部、松原市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部となっている但南郡は...
丹南郡 (51村)丹南藩・佐山藩及び代官支配; 幕府領、旗本領、上野館林藩、相模小田原藩
狭山藩 東除川流域
天正19年(1591年)、北条氏の嫡流は断絶したが、氏規がその跡を継いで北条家の当主となる。その後、罪を許されて氏規の子・北条氏盛は下野国内で4000石、氏規も河内狭山で7000石を領することになる。慶長5年(1600年)、氏規が没すると氏盛はその家督と遺領を継いで1万1000石の大名となる。これが狭山藩の始まりで...以後、後北条家12代の支配で明治維新にまで至った。
当初、氏規の大坂屋敷があった久宝寺町(大阪市中央区)で政務を執り行っていた。第2代藩主・氏信の元和2年(1616年)、狭山の地に陣屋を営んだ。《Wikipediaより引用》
※つまり外様!
但南藩 東除川流域
徳川十六神将の一人高木清秀の子で相模国・武蔵国・上総国・下総国および近江国に9千石を領する旗本だった。元和9年(1623年)に大坂定番に就任し1千石の加増を受け、河内国丹南郡22村に1万石を領する大名となった。(つまり普代で大坂の陣以後に立藩された藩)《Wikipediaより引用》
※つまり普代で"大坂の陣"以後に立藩された藩!です。
第3項 大阪3郷をの始祖・大阪城下の浪花商人(なにわあきんど)は
その後、の大和川放水路開削、旧河内湖・低湿地帯の新田開発に大きく係った、大坂三郷の始祖旧大阪城下に集められた"なにわ商人(あきんど)"は、堺商人だと勘違いなさっている方が多い!でしょうが...
堺商人は autonomy(自治)を貴ぶ♥ Democracy(民主主義)者!
じつは、南蛮貿易で耶蘇とのつながりが長かった堺商人は早くから♥Democracy(民主主義)の要素 autonomy(自治)に目覚めており、✖Authoritarianism(権威主義)に凝り固まった秀吉!とはそりが合わなかった!のです。
だから、堺を離れて大阪城下に移り住む町衆・商人はごく稀で!、秀吉の誘いに乗り、"移り住んだ町衆"は、殆どが近江商人や大和出身の行商人(奈良盆地出身者)でした。
なので、the essentials of democracy(民主主義の本質的要素),Popular sovereignty(主権在民)、human rights(人権意識),autonomy(自立思想)等とは無縁!で、✖Authoritarianism(権威主義)に下ずいたfeudalism(封建主義)にドップリト浸かった『お金儲けにしか興味が無いガメツイ守銭奴』が多かったのです。
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公開:2021年4月19日
更新:2024年2月21日
投稿者:デジタヌ
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