狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

四国は"元祖JA" !大和・経済連合の結成当初から重要メンバー!だった

前書き(要約)大和政権誕生以来、中央政権の"いいよう"にされ続けて...

四国は、中央政権の息のかかった Governor に統治!され続けて、時の中央政権に翻弄され続け!

四国島民としての ♥Identity を持つことを阻まれ続け"!身内同士で利害を主張し合う!不幸な状況が続いています!

長曾我部の時代に戻り、四国統一を果たし、四国州(四国広域連合)として再出発するべき時期なのではないでしょうか?

四国の地形は巨大なサーカステントの屋根!

まるで巨大サーカステントの様に、周囲に、険しい尾根を連ねた山脈を伸ばしている四国は、

我が日乃本誕生にも大きく関わってきました!

特に、今に続く弥生人の「那の倭国」邪馬台国の結成には大きな役割を果たしました!

つまり渡来人集団・弥生人が持ち込んだ稲作で、瀬戸内運河?沿いの猫の額の様な狭い zone に多くのCommunity(部族国家)が生まれ、人口増加とともに大河川上流部や河口で暮らすnative people(土人:縄文人)と、お互いに米・塩・魚介類・獣などの交易・交流が始まり交易・交流圏が生まれて、嘗てのEECの様な自由交易圏!元祖JAともいえるFederation (自由交易連合)邪馬台国の結成に繋がったわけです

四国は"元祖JA" 大和!・経済連合結成当初から重要メンバー!だった の目次

※リンク、その他についての御断り

(参※xx) は当サイト内の参照関連記事リンクです。
但し、その他の直接 hyper-link は当事者・関連団体の公式サイト若しくはオリジナル各国語版Wikipediaへ直接リンクしています。

※又参照図中の標高注記については全て(地理院地図・電子国土Web)のデータを用いています!

英単語優先!表記について

更に,末尾の断り書き※歴史専門用語の英単語表現について で説明したように、できるだけ歴史制度用語(国文学用語)に頼らないように英単語表現を用いて専門歴史用語を整理しています。

※本ファンタジーについて

本レビュー記事は、出来る限りの"記録(時系列)に下ずいた史実に、地政学的!・工学的 検証"を行ってるセミドキュメンタリー!ですが...

筆者の億測を交えたファンタジー?でもあります。

後述する各団体とは直接関連はありません。

また各団体では"答え難い大人の事情、あまり触れられたくない内容!"も含まれています。

本件に関してのお問い合わせはご無用に願います。 

プロローグ 険しい尾根尾根で分かった四国

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四国はまるでサーカステントの屋根!

四国を訪れたことがある方は、お気づきだと思いますが、沿岸部にある主要都市は、海岸まで続く尾根で見事に区切られています!

21世紀の"車社会"の今でも中々気軽に『チョット隣町迄...』とはいかないわけです!

いわば、「うだつ」で区切られた、屋根を連ねた街並みの様なもので、「ねずみ小僧」も苦労させられる?わけです。

第1項 「大人の事情」の解読法?!

今に続く、律令制度による国引きは701年発令の大宝律令で示された綱領が起源となる訳ですが...

  • ●旧来からの地元Chief(族長)の領地のTerritory(権益)のboundary(境界)は基本尾根(山峰)とする。
  • ●各lord(領主)の開墾地・開拓地;後のmanor(荘園)のboundary(境界)は河川(小川)とする。

を基本とされています!

つまり、21世紀の令和の御代まで引きずる大宝律令による国引き(郡県制)では、新たに開墾された新田region(一帯)のほうが、複雑なboundary(境界)となっているわけです。

第1目 大河川の流域では...

特に、近年河川改修が実施されたzone(行政区)で、21世紀令和の御代の今もboundary(行政境)が、複雑に入り組んでいる処は、旧河川本流に従ってひかれたboundary(行政境)がそのまま受け継がれている!訳で、双方の自治体(旧勢力)の仲の悪さ!を象徴しています!

特に大河川流域では、降雨期には河川の氾濫で水害が起こり、渇水期には日照りになり、数十世代千年以上にも渡り!河川両岸の農民間で"血みどろの水争い!が演じられて遺恨がに起こっていることを表しています。

つまり意外や、新たに開削された新本流や、用水路に跨って、"飛び地"が散在するzoneにあるdistrict(自治体)同士のほうが仲が良く!、いまだに旧河川本流をboundary(行政境)として、複雑に入り組んでいる自治体同士は犬猿の仲!ということになります。

(平成の大合併が行われた際に、別々の自治体に分かれた河川両岸の旧町村は相当根深い遺恨を持ち続けている!ということです)

第2目 尾根にある山城は...

モニュメントマークは古墳

モニュメントマークは、知られている代表的な古墳(王墓)を表し、瀬戸内海沿岸に多くのChief(首長・族長・酋長)が率いる、Community(部族・国家?)があったことを示しています。

多層塔マークは砦跡・城跡

そして多層塔マークは砦跡・城跡を示し、山城跡、砦跡、総曲輪(出城)跡が連tなっている尾根は、旧敵同士のFrontier(最前線)であったことを物語っています!

つまり、旧街道沿いに連なっている山城は、街道が重要な往還路であったです。

第2項 領主にとっての重要な食い扶持・穀倉地帯を示す証は鎮守!の社

第1目 天満宮・水天宮・荒神さんは「治水の神」

後述する「天神さん」と同様に"暴れ川(大河・急流)"の流域にみられる「水天宮・荒神・龍神さん」は"治水の神"で、"鬼怒川!"などに代表される"暴れ川"の水害を"治める"治水の天守神として「在郷の民」が鎮守(祈禱所)として祭ったものです

つまり、自然崇拝;shaman(祈禱師・霊能者!?)文化の一つです。

天満宮は豊作の神!

  • ●さざ波印は(観光)棚田
  • 鳥居マークは、天満宮(天神さん)・稲荷など"豊穣"の神
  • モニュメントマークは古墳(王族の墳墓)
  • 塔(天守)マークは、古城・砦跡

「天満宮を学問の神に仕立て上げた!」のは、「縄文人の倭国」を滅ぼした!後年の「弥生人の倭国!である日乃本連邦!」の指導者(搾取階級;公家)達が、「歴史を捻じ曲げる」ために、菅原道真の逸話!を利用して、"古代史改竄・捏造"をしただけです。

菅原道真は

菅原道真(845年8月1日〉→903年3月26日)は、平安時代の搾取階級・貴族・公家の出、で、政変に巻き込まれて九州の大宰府へ大宰員外帥(officer)として左遷?されて、現地で没したとされていますが...

大宰員Governor(chief executive officer)でありませんでしたが、大宰府の長官代理職(officer)であり、都(みやこ)で高い地位を得ていた道真にとっては左遷といえば左遷?ですが

...佐渡や隠岐へ流刑(島流し)に処せられた訳でもなく。

クーデター未遂事件の主犯?としては軽い処罰だったはずです。

つまり前途した様に政変に巻き込まれて失脚した!程度です。

但し、前途した様に平安中期の律令制(任官制度)が崩壊していたこの当時には、Governor(chief executive officer)でさえ目代を立てる時代に、単なるofficer(行政官)に就くためにわざわざ、都を離れて遠隔地に"ご本人"が赴く"仕来り"(制度)はもはやなくなっていたわけです!

そういう意味では、強制的に都落ち!させられて、防人の基地大宰府に、強制就任させられたのは、島送りに匹敵するくらいの"処分"だったでしょう!

更に、前途した様に中国唐王朝が滅亡する907年までは、「大宰府の防人の任務」は海外の侵略者から祖国を守るでもなく、中国唐王朝の冊封国(属国)として、九州南部の日向国・薩摩・隼人とのFrontier(冊)を南下させて、唐のTerritory拡大を担う"代理戦争"を行う任務だったわけです。

天満宮は道真着任以前から水の神として稲作耕作を行う各地にあった

天満宮は道真以前の「ず~っと」昔の稲作が伝わった、縄文時代(紀元前!)から、「お稲荷」様とともに豊穣の天守神として、Chief(酋長・首長)の元に、shaman(祈禱師・霊能者!?)と民の信仰の対象となってきた鎮守です。

つまり天満宮のある地域には必ず!「田んぼ」が広がり、稲作が行われていたことがわかります!(※お稲荷さんも同様です、GoogleEarthモードでご覧ください。)

なので学問(文字文化)を広めるために"造営"された社(やしろ)ではありません!

つまり、後年の統治者(sovereign)が、shaman文化を駆逐?するために創作したfiction!にすぎません。

ついでに言えばこの時期(平安時代)に捏造された、各社寺の縁起には、fantasy(伝承・おとぎ話)をさらに改竄して、中央政権側(の特権階級;公家共)が、「民心をたぶらかす」ために、大胆に捏造!された神話が大多数を占めています!

第4目 恐れ多くも「お伊勢さん」も...

国粋主義者がよりどころとしている、天照坐皇大御神をお祭りしたとされる?伊勢神宮も、

天照坐皇大御神=邪馬台国の初代卑弥呼!であることは間違いないでしょうが...

元々卑弥呼自体が天守神に仕える自然崇拝の大巫女shaman(祈禱師・霊能者!?)であり!

「人を神格化」するのは、東照大権現(家康)等、仏教の影響が入った後年の風習!で、伊勢神宮創建のころにはなかった風習で、「天照坐皇大御神=邪馬台国の初代卑弥呼!をお祭りしている」というのは、出雲大社・鹿島神宮等の大社の縁起とともに平安時代に創作(捏造)された縁起でしょう!

つまり、お伊勢さんは古事記に始まる「神代の昔fantasy(おとぎ話)」に登場する現人神天照坐皇大御神をお祀りしたのではなく!

弥生人の「那の倭国」連合(邪馬台国)を構成していた小国(部族)の、shaman(祈禱師・霊能者!?)がお祀りした天守神の"御社(おやしろ)の総社"「日ノ本の鎮守"天守の神"」をお祀りしていると考えるのが妥当でしょう!

第3項 仏教・国教制定後の10世紀に入ってからも"式内社!?"が...

国分寺とともに新たな式内社(927年時点でも)が造営されて設置された訳は、全国各地の新たな占領地・令制国"にはまだまだ「自然崇拝・シャーマン文化」が強く残っていたことを示すものです。

そして(3世紀から6世紀にかけて各地で盛んに造営されていた)前方後円墳(王墓)の禁止令!後も、各地に「土着王族(豪族)の墳墓」が造営されたのもこのためです。

★第1節 瀬戸内運海 沿岸に発展したCommunity群とShaman文化

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冒頭で述べましたように、特に、国内交易の重要路だった瀬戸内運河?沿いの海岸沿いには、古代から、数多くのCommunity(集落)が生まれ、tribe(部族国家)を育みました。

古墳(王墓)があるとこ処は全て、古代からTribe(部族)のCommunity(共同体)、Village(集落)があったところです。

拡大していただくとわかりますが、現在県庁がおかれている、松山、高松、徳島、高知市街地に古墳はありません、(発見されていません)

何故なら、縄文時代は縄文海進といって現在より約20mほど海面が高かったからです!

第1項 古来より四国には大王国(Metropolis)がない!?

元祖・那の倭国(邪馬台国)連合(※01)!を成立させた、瀬戸内運河?沿いの主要国?(都市)ですが...

瀬戸内運河の複雑な海岸線(沿岸)に沿って小国(部族)が並立しました。

参※01)当サイト内関連記事 古代・神代の時代?の日本列島には「2つの倭国」勢力圏があった! はこちら。

第1目 弥生人が瀬戸内に稲作を伝来させた頃は平野は無かった!

縄文海進が収まり、瀬戸内海沿岸に平野が出現?しだしたころは、

依然として現在より(平均で22mほど)標高が低かった!とされています。

つまり、松山・高知・徳島・高松には、小島が浮かぶだけで平野が無かった!訳です。

(対岸の山陽エリアも同じです。)

島・半島が隆起して陸続きとなった四国

四国の瀬戸内運河!沿いは、高縄島(標高986m)?を核にできた高縄半島(今治経済圏)、大平山(島標高479m)などが連なった連山、屋島・五剣山(標高366m)などの小島が隆起してできた讃岐平野や、更には今ノ山(島)(標高868m)を核にしてできた)は幡多郡、槇の山(島)(標高439m)、宇和郡、鳥帽子半島?(標高359)、小坂峠連山(標高340m)などが隆起したために、生まれた高知平野や太平洋沿岸部の「大河川の河口部」に都市が発達したために、瓢箪島?の沿岸部に沿って都市が発達したわけです。

沿岸部や盆地周辺の山麓を開墾して農耕地(稲作)に

前途した様に、稲作民族の弥生人が四国に触手を伸ばしたころ、弥生人(に従った縄文人)が、四国で稲作(農耕)を始めた頃は、(大河川の)河口部沿岸の山麓などに「"棚田"を開墾」して、稲作を始めたわけです。

その後、大河の上流部から運ばれた土砂が堆積して、河口部に平地・三角州(湿地帯)が形成され、

江戸時代の新田開発で、現在の讃岐平野・徳島平野・高知平野などの穀倉地帯?が形成されたわけです。

参※)当サイト内関連記事 邪馬台国が特定できない理由「倭国・日ノ本」は女系シャーマン共和国で構成された連邦国家だった! はこちら。

第2目 群雄割拠する四国の瀬戸内沿いでは律令制は有名無実?

当初の「那の倭国連合国家!」を形成した発起人・のChief(国司)達は、その後の「律令制の崩壊」とともに、武家(幕府)が制定した"法度"による、守護(旧国司)・地頭(荘園管理者)に置き換わり、更に戦国時代になると、幕府体制も崩壊して、国人(地元武装集団)が群雄割拠するようになったわけです。

第2項 現在の県庁所在地の平野部が形成されたのは...

前途した様に、早くとも?縄文海進が終わり、海岸線が後退して四国の島々!が繋がりだして、平野(三角州)が形成されだした、奈良時代以降の事でしょう!

つまり、GoogleMapをご覧の通り、現在の平野部には古墳(Chief;首長・族長の墓)はなく、全てが、小高い丘?(大古の小島)や山地の麓に造営(発見)されています。

更に、砦跡も同じく標高の高い場所に築城されています。

第1目 土佐国では

土佐では後述するように、弥生人勢力(大和政権)が、四国南部の侵略に乗り出したころは、四万十川・仁淀川の河口部ですらまだ土石の堆積が進んでおらず、葦が生い茂る、鬱蒼としたArea(原野!)でした。

長曾我部氏が、桂浜に築城したのも、現高知市街には平地は無く、浦戸湾にある高知港を守る為でした。

高知市が大規模な新田開発事業の血になったのは江戸時代の山之内家が支配した時代です。

第2目 阿波国の中心地が三好市だったのも

畿内から近く、比較的早くから目を付けられていた阿波徳島も、現在の市街地は影も形も無く!

R318以西の吉野川北岸部(阿波市・三間氏・三好市)の台地部しか農耕に適する平地部は形成されていませんでした!つまり吉野川河口部は深い入り江!になっていて、一番奥の三好市に三好氏が居城を構えていたわけです!

第3目 讃岐は

讃岐平野ももちろんなく!

むしろ西隣の坂出・普通寺辺りにう多くのTribe(部族)んCommunity(共同体)小国家?が広がっていたわけです。

第4目 伊予は

飯間に至るも!仲の悪い?今治市と松山市ですが...

今治市は

今治市は、近見山(海抜244m)や現北波方町の塔の峰(標150m)などのいくつかの小島が浮かぶRegion(一帯)でした、つまり現在来島ドックのある大西町や今治城のある中心市街地など海の底だった!訳です。

なので、耕作地(波マーク)を巡り、周辺部族と激しい攻防戦を繰り広げていた!訳です。

現在のBoundary(境界・市境)に沿って、砦跡が多くあるのはこのためです!

更に今治市には、高台・山麓にも古墳(Chiefの墓)が発見されていません!

つまり、古墳時代(縄文時代後期)には、弥生人(JA大和?大和朝廷政権)はあまり進出していなかったのでしょう。

余談ですが、来島ドックの本拠地大西は、奈良時代から水深のある良港として、遣隋使・遣唐使などの"朝貢使"!に用いる外洋航路用の大型船舶の造船に向いていたので、"朝貢使"にくっついて渡来した"造船技術者"も定住したのでしょう!

★第2節 JA大和?が四国南西部の"最初のColony"に選んだ南予・幡多郡は

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別府航路のフェリーの殆どが、瀬戸内運河?航路を運航しているので、

西日本最高峰の石鎚山(標高1982m!)や剣山 (1955m)は瀬戸内運河?からも望めますが、

「豊後水道から四国を眺める機会」は少ないわけですが...

豊後水道から眺めた四国は、筒上山 (1860m)、笹ヶ峰 (1859m):ちち山 (1855m):、伊予富士 (1756m)等の高峰が連なる山脈!を形成しており、壮大な景観をしています!

しかも愛媛県最南部と高知県西部幡多郡はリアス式海岸の複雑に入り組んだ海岸線で、

入り江にある猫の額ほどの港湾都市の背後には、まるで擁壁の様に山峰が迫り、豊後水道沿いの各集落を分かっています!

第1項 弥生人の太平洋側への勢力拡大は南西部の幡多郡から

当初は"塩"も容易?に"穫れた!"瀬戸内運河沿いに、native people(土人:縄文人)追い出して!定住していった弥生人のCommunity(部族国家?)ですが、人口が増えるとともに、太平洋側の縄文人zone(地域)にも触手を伸ばし始めたわけです。

前途した様に縄文末期大和連合が、四国南部・太平洋(土佐湾)沿岸部制覇!を企てた当時は殆ど耕作に適する、平地部は、まだ海の底でした!

そんな中で幡多郡は今の山(標高869m)と四方の山からなる土佐湾に浮かぶ幡多島?として、現・三原村一帯の盆地部!が稲作に適する耕作地として、弥生人のColony(植民地・入植地)が開かれた訳けです!

なので幡多郡の四万十川河口部にはあまり古墳(Chief;首長・族長の墓)が見合ったらないわけです!

第1目 四万十川流域河口部にも農耕に適する平地は無かった!

『四国の大河川を上げください?』

と問いかけると、真っ先に吉野川が上がり、

その次に、清流で有名な四万十川、となる訳ですが...

他国?にまたがる大河はこの2つだけではありません!

長曾我部氏の四国統一に大きな役割を果たした一級河川"仁淀川"もあげられます。

更に、2級河川ではありますが南予宇和の要だった大洲藩の繫栄を支えた、"肱川"、そして、阿波国(徳島県)の那珂川があげられるでしょう。

参)一級河川とは、他府県にまたがっている流域を持つ水系の幹をなす河川の事であり、流域面積が結構ある"肱川"は県内で完結しているので、2級河川となります。

九州北部とほぼ時を同じくして稲作が伝わった、瀬戸内運河!沿いの要衝、現松山市・伊予市、讃岐(善通寺市・丸亀市)、伊予(高松市・さぬき市)周辺には、古墳(王墓)がたくさんあり、弥生時代初期から地場!のChief(族長・王族?)が住んでいたことがうかがえますが...

瀬戸内側に比べても更に平地が少なかった大平洋側(土佐湾)側は、四万十川河口の"幡多郡"や、仁淀川流域の高岡郡、ぐらいしかmanor(荘園)に適する耕作可能地は無く、邪馬台国を引き継いだ弥生人の大和政権成立後に高知県西南部から制圧を始めたわけです。

幡多郡(中村)に平地(耕作地)が生まれたのはずっと後年

特に土佐の幡多郡は、大宝律令(701年)で大和政権"捕らぬ狸の皮算用"(侵略後の土佐国 districtの縄張り構想)侵略構想に組み入れられてからは、優先して侵略(開拓・開墾)されて、律令制崩壊後も長年土佐の経済を支え続けていたzone(稲作地帯!)でもあるわけですが...

前途した様に、侵略開始当初は平地が少なく、本格的に入植が始まったのは四万十川・仁淀川の堆積が進んで河口部平地部が生まれてからです。

幡多郡の"小京都!"中村(現四万十市)は、

第3目 幡多島が陸続きになってから

土佐一条氏は律令制崩壊後!の応仁の乱で戦国時代が始まった後に下向した!

fixer(調停人)としても有名な土佐一条氏が、中村に館を開いて移り住んだのは、律令制が完全崩壊!して久しい、室町幕府(1336→1573年)末期に当たる応仁の乱(1467年)で戦国時代に突入た直後の1468年(応仁2年)に、前関白(公家)だった一条教房が、下向(着任)したのが始まりとされています。

つまりこのころになってやっと四万十川河口部にも平地が出現したわけです!

つまり、1183年とされる鎌倉幕府成立で、律令制(郡県制)に代わって、"法度"による守護(旧・国司)・地頭(荘園管理者)制度になった後、数百年も経過していて、律令制が完全崩壊!していた、室町末期戦国時代に、地頭職に相当する"荘園のmanor ownerとして、着任したわけです。

なので、幡多郡全域を統治していたわけではありません!が...

豊かなdistrict;幡多郡

現在、中村の市街地となっている、四万十川と後川に挟まれた"中州"も含めて、このdistrict(領地)は豊かな水量とともに上流から運ばれた肥沃な土壌で、豊かな耕作地"棚田"zoneでした。

更に四万十川支流の中筋川上流部の宿毛(すくも)・平田エリアの棚田zone(地帯)とともに、豊かな幡多郡が開墾・開拓されていたわけです。

第3目 天満宮が多数!点在する三原村

中でも前途した現在三原村となっているregion(一帯)は、豊かな水量で、"棚田"とは銘打ってはいませんが、太平洋にそそぐ市野瀬川水系流域 zone は、幡多郡の穀倉地帯!となっていました。

前途した様に天神宮・天満宮といえば水天宮などと同じ水の神様です。

Googlearthモードで鳥居マーク部分を拡大していただければ、天満宮のある場所には耕作地"棚田"があることがわかります。

ご時世で休耕となって、放棄?された水田も多くありますが、三原村は古代から続く水田(棚田)稲作の1大地となっていました。

第3節 陸の孤島!幡多郡と宇和郡南予Region

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四国西南部の幡多郡と宇和郡南予Region(一帯)は、701年の大宝律令以来,実に1300年以上!も黒子として Backyard に放置!されてきたわけです!

参)当サイト内関連記事 古代・神代の時代?の日本列島には「2つの倭国」勢力圏があった! はこちら。

第1目 陸の孤島であり続けた?!歴史

中央政権(幕府)の経済"を支える重要なregion(地方)でありながら、traffic(往還)は整備されずに、険しい海岸沿いの往還と、天候に左右される海路・水路に頼らざるを得ない"陸の孤島"状況が長年続いてきたわけです。

測量技術(地図作成)が不完全な頃

今に至る!大宝律令(701年制定)による古代の国割りが慣行されたころには、大規模な測量技術、つまり検地・測地?・地図作成は不完全で、だいたいの目勘定(目測)で行われていました。

但し、農耕に必要な標高測量は、かなり進んでいたようで、標高差(落差)を用いた灌漑技術(小規模用水路開削整備)で棚田が開墾!できた、訳です。

参※10)当サイト内関連記事 古代・神代の時代?の日本列島には「2つの倭国」勢力圏があった! はこちら。

第2目 抑々が「民(たみ)の営み・暮らし向き」を無視!した律令制

大宝律令(701年)発令により、布告?された律令制(郡県制)による線引き!は、合理的な根拠に乏しい!「民(たみ)の営み・暮らし向き」を無視"!した制度でした。

中央政権?のmember(構成員! (-_-メ) )である加盟国の Chief(族長)共が協議して、手中に収めてもい無い area(空地・原野?)までも手前勝手に線引きして、分割して征服後の領地分けを構想したわけですが...

これは、則天武后が敵対勢力(縄文人の倭国)を征服するために、白村江の戦い(663年10月)以来、途絶えていた"朝貢使"(遣唐使)を(約40年!ぶりに)再開させて再び唐王朝の冊封国(属国!)となり」宗主国"唐"王朝の"お墨付き"(後ろ盾を得る必要から、征服後の国割構想(統治策)を大宝律令として策定したのでしょう。

つまりは15世紀のカソリック西欧社会でスペイン王国とポルトガル王国で交わされたTreaty of Tordesillas(トルデシリャス条約)と同じような「捕らぬ狸の皮算用」にすぎません!

第3項 三間・近永・松野は宇和島藩の納屋だった

第1目 四万十川・支流広見川は重要な交易路でした

主題である四万十川支流・広見川流域も同じで、国境に当たる予土国境厠処(現国道381号県境)の標高は僅か58mしかなく、風待ちが必要な海路の豊後水道航路よりも、"塩街道"として重宝がられいたのでしょう。

つまり、ある程度上流(広見川合流部?)まで、川船が航行可能(岸から曳航可能?)な四万十川流域は、古代から交流(交易)があったと考えて差し支えないでしょう。

しかし中国・唐王朝(618年→907年)とともに栄えた?平安時代(784年→12世紀末)「日ノ本連邦政権(大和町朝廷)」で(900年頃)に王朝国家体制(公家社会)が定着して、律令体制が崩れだすと、もはや公家はofficerとして、任地に赴くことはなくなり!

agent(目代)を派遣するようになったわけです。

第2目 悪名高き藤原純友は政権のagentだった

そして936年に(朝鮮半島の両班;ヤンパン※★同様の)海賊(盗賊)集団が暮らしていた宇和島に、悪名高い藤原純友を派遣して懐柔して連邦側に引き入れたので、この一帯は、晴れて?宇和島の所領となったわけです。

以来、 北宇和郡の四万十川水系流域の三間・鬼北・松野の3zone は、千年近くにも渡り歴代の宇和島領主から"搾取"され、同時に幡多郡(中村)との自由往来も禁じられて絶縁状態となったわけです。

後述するように、一時は長曾我部氏による四国平定(解放!)自由往来が復活したものの、その後の秀吉による征服で長曾我部氏は土佐一国に押し戻され、再び長い鎖国!が始まったわけです。

参※★)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国(国民)と、日韓関係! はこちら。

第3目 宇和島市と伊予国南西部

前途した様に701年に、制定された大宝律令で描かれた「国割構想」では当初から"伊予国"に含められていたわけですが...

実際には、伊予国と土佐国のboundaryは曖昧!で、特に宇和島を中心とする南予は盗賊が暗躍するarea(無法地帯治外法権region)だったわけです!

それで前途した様に日乃本政権(大和朝廷)が、藤原純友をagentとして派遣(936年して、南予の平定を企てたわけですが...

政権の意向とは裏腹にagentとして派遣した純友が海賊のleader(統領)となり、暴れまわったので、政権が豊予水道の制海権を手中にすることができなかったわけです。

更には、関東の平将門と内通した純友が、平家と呼応する動きを見せ備前国・播磨国、淡路国、伊予国、讃岐国の国府を襲撃し、海賊行為を繰り返していた。(941年)5月上旬には大宰府(九州!)まで急襲!し、傍若無人な海賊行為(略奪行為)を繰り返していました。

しかし大和政権が討伐隊を派遣して、博多湾の海戦で、捕らえられて翌6月20日に処刑されたとされています!

ほぼ2年にわたる、略奪行為は、「純友の乱」として語られていますが、実際には、前途した様に、に日ノ本連邦各地の都市?を回って略奪行為を続けていただけで、政権転覆を狙った反乱と呼べる代物ではありません!いわば大後悔時代のスペインの歴史的2大盗賊!、ベラスケス(キューバを根城にカリブ海を席巻した海賊?)、コルテス(中南米各地を略奪して回った盗賊の統領!)と大して変わらないわけです。

現在の宇和島城は秀吉藤堂景虎

941年(天慶4年) - 警固使である橘遠保により、宇和島に砦が建設される。
1203年(建仁3年) - 西園寺公経が伊予国の知行国主となる。

1585年(天正13年) - 豊臣秀吉の四国攻めにより、"伊予国"(現愛媛県域)は小早川隆景のterritoryとなり、養子秀包が西南部の南伊予の統治を任され、隆景家臣の持田右京が(宇和島)板島丸串城のGovernor(城代)となる。
1587年(天正15年) - 小早川隆景が筑前国に国替えとなり、大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が板島丸串城の城代となった。
1595年(文禄4年) - 藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領し入城。板島を宇和島と改名。

1598年9月18日 秀吉没、以後5大老による集団指導体制となる。

1600年10月21日 関ヶ原の戦いで東軍大勝利!

1601年(慶長6年) - 藤堂高虎により宇和島城が築城される。
1603年 江戸幕府成立!
1614年 の大坂の冬の陣、旧暦11月20日和睦成立

1615年6月3日 大阪夏の陣で、豊臣家消滅!

1615年(慶長20年)大坂の冬の陣の功により伊達秀宗が、拝領し宇和島城に入城。

南予の宇和島は藤原純友を討ち取ったとされる橘遠保が引き継ぎ、その他のzone(一帯)は、寺社などに分け与えられて、鎌倉、室町、戦国時代の一時期長曾我部四国となり、豊臣政権になり伊予国を与えられた小早川隆景の統治路なり紆余曲折を経て、藤堂高虎が宇和島藩を立藩して、徳川幕府になり宇和島伊達家が幕末まで投資したわけです。

江戸時代になり宇和島伊達藩に国替えされてから宇和島城が築城された訳です。

宇和島城下の景観は?

宇和島の場合は、大河川は無く、現在の市街地の現在の標高から言っても、

宇和島(標高74m)とかろうじて陸続きだった?対岸の丸穂岬(標高182m)周辺の「山麓の斜面」にへばりつくように人家があったと思われます。

海賊の砦は坂下津の別当辺りの入り江にあった可能性もあります。

第4目 今に続く南予・北宇和郡の不協和音

広見川・三間川流域は穀倉地帯!

広見川・三間川流域は、以外?や耕作(棚田)に適した堆積地(河川敷)が多く、弥生人が南予(肱川流域)に稲作をもたらして以来、三間川・広見川流域にも伝来して、豊かな穀倉地帯を形成したと考えられます。

特に、旧三間町には城跡(砦跡)が多くあり、古来より、要衝として重要であったことがうかがえます。

足並みがそろわなかった平成の大合併

平成の大合併で、旧・三間町は宇和島市と合併しましたが...

現鬼北町を構成している、自治体は宇和島市編入を拒み合併して鬼北町となる道を選びました。

これは、三間町とは異なり辺境部(山間部・過疎region)が多く、合併して、過疎district(地区)が切り捨てられることを恐れたためでしょう。

しかし、東隣の現松野町districtにあった自治体は、宇和島市との合併を望んでいました!

理由は、寄らば大樹の陰で、公共インフラ(上下水道、教育インフラ)整備を充実させたかったからです。

しかし、合併できても、宇和島市街地(市役所)に出るには、お隣鬼北町(R320)を通りぬける必要があり、鬼北町が宇和島市との合併を拒んだので、合併断念を余儀なくされたことになっていますが...

紀伊半島の田辺市では、同じく隣接する上富田町と・白浜町を数化しないと市街地とは結ばれない旧本宮町・と旧龍神町が旧田辺市と合併しています?

どちらも、旧町役場を分庁舎(行政区)として、行政を行っています!

つまり、宇和島市側に、受け入れ気運が整っていれば、松野町も合併できたでしょう!

はっきり言えば宇和島市に、鬼北町抜き!での松野町単独合併は断られたのでしょう!

いずれにしても、嘗ての土佐一条氏のよなfixer(調停人)が居なかったのが最大の問題だったのでしょう!

★第4節 長曾我部の四国統一!

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大洲城の初代城主宇都宮豊房同様に、地元出身の地元豪族(国人)長曾我部氏の第21代当主長宗我部 元親は前途した、律令時代の名残!の国司である土佐一条氏を追い出して!土佐の戦国大名となったわけですが、その後、四国各地の守護大名を滅ぼして初めて四国全土を統一したわけです。

第1項 とかく批判する人もいますが...

彼は言ってみれば、豪農上がりの地元豪族(国人)で、土佐一条氏の様に政権(室町幕府)から差し向けられたOfficer(行政官;役人)ではありません。

倭国・連合組合(律令制)が崩壊して、武家社会(鎌倉・室町幕府)の法度による封建制(Lord;領主による領地領民の個人資産化!)となり、武力集団(搾取階級)の地位が確立されると、

貴族趣味はなくなり武家の家臣団も、「自ら荘園を運営」するようになり、平時は農民として、有事は侍となる、兼業武士!が生まれたわけです。

特に民主的でもあった長曾我部の家臣団はその傾向が強く、言ってみれば与えられた所領内で、縄文時代の様な原始民主主義ともいえる「Community(共同体)・Municipality(自治体)」を形成!していたわけです。

とかく批判する人もいますが、彼は封建体制を打破して四国の国割を無くして、封建領主(守護・地頭)の「領民農奴)を解放!して、四国諸国の自由往来(交易)を復活させた意味合いでも、偉業を成し遂げた人物といってよいでしょう。

それが、江戸幕府の手先!として土佐を治めた、山之内家の強引な新田開拓に対する家臣団(旧・長曾我部家臣団)の反感を買い、強硬派の排斥にもつながったわけです。

坂本龍馬が脱藩したのも

行ってみれば、土佐では自治意識・民主化意識がはぐくまれる土壌があり、維新の立役者"坂本龍馬"を生み出したのでしょう。

明治維新後も、自由民権運動で有名な板垣退助や、

実業家の岩崎弥太郎などの多くの偉人を輩出しています!

2目 長曾我部は武装化した豪農の長(おさ)

そんな中で、土佐の地元・豪家?の長(おさ)長曾我部氏が台頭して、周辺の小大名を次々と制圧!して、ついにフィクサーでもあった土佐一条氏を追い出して、土佐を平定!して、仁淀川沿いの松山街道(現国道440号)を攻め上がり!三坂峠から伊予に攻め入って、平定したわけです。

事実、三坂峠は標高705mと、四国最高峰・石鎚山(標高1792m)から続く石鎚山脈の中にあっては、比較的低く、しかもと州の仁淀川沿いの松山街道も険しい山道ではありません。

但し、重要な「塩街道」の一つでもあり、途中には双方の山城が連なり、たやすい侵攻ではなかったと思われます。

長曾我部は農民の支持を得てlogistics(兵站)を確保できた!

自らの家臣団が豪農(半農・半武の兼業農家?)で構成されたいわば"解放軍?"であったために。100㎞以上にも及ぶ道程にもかかわらず、沿道の農民の賛同でlogistics(兵站)「兵糧を確保」できたのでしょう。

その後、強大な力を誇っていた三好氏を討ち果たし(追い出し)、四国全土を平定できたのも、「豪農の長(おさ)」だったためでしょう。

長曾我部氏の四国統一は「つかの間の夢!」に

一時、長曾我部氏によって、四国全土の統一が果たせたわけですが、秀吉により...

さらに、時代が下り江戸時代になると、四国の反乱!を恐れた家康が四国を細分化して、小藩を成立させ譜代を配置して封建統治を強化して、更には各藩間の「民の往来(交易)」を厳しく規制したわけです。

第3目 明治維新後の廃藩置県後も...

四国では、「入り組み政策」(※01)は採られずに、(寺社領を除き)基本1藩1領主体制でしたが...

各藩主ともに、懐柔策として旧来からの半農・半武?の家臣の"地元採用"を行ったので、より一層各藩の対抗意識が助長されたわけです。

なので、明治維新後の段階的廃藩置県と県統合後も、旧各藩は独自の発展をつづけたわけです。

結果、対岸の山陽側とは異なり、岡山・広島に匹敵するような大都市(政令指定都市)経済圏が生まれなかったわけです。

参※01)「入り組み政策」とは、関ケ原の合戦&大坂の陣の際に敵側についた外様大名を改易(解雇)して所領を召し上げて、"集落(村)単位"にまで細分化して、旗本譜代に分け与えて、地方の団結反乱を防止する政策の事です。

近畿では、秀吉のおひざ元、現大阪府の、摂津国・河内国が顕著で、小生の集落は旗本領でしたが隣村は...

第2項 秀吉の四国平定?(征服!)で再び意図的なterritory(国境・知行境、生活圏境)区分に...

繰り返し述べているように「民の営み・暮らし向き」とローカルエリア間の・交易・交流は切り離しては成立しませんが、

古くから・瀬戸内連邦として、朝廷本部?と海路で交易のあった、阿波北部と、讃岐、伊予は、為政者(国司)により意図的に、人の往来を規制されていました!

四国の場合では、土佐・伊予各国間で、交易があったので、各要所に「番所(関所)」が設けられて、人の往来を厳しく取り締まっていたわけです。

第1目 お遍路道と交易路・街道(荷駄道)は別もの!

四国の郷土史家は険しい遍路道を強調しますが...

遍路道と交易路・街道(荷駄道)は別もの!です。

遍路道は四国霊場88か所巡りとして、江戸幕府が特別に認めた通行路で、お伊勢参りや関東の大山詣で、おかげ参り(伊勢詣で)熊野詣、金毘羅参拝同様に、参詣の為に特別認可されたルートで、あり

交易路・街道(荷駄道)とは別に設定された道です!

なので荷駄には適さない「急峻な道」となっています!

エピローグ 秀吉侵略後の封建政策!と維新後に訪れた律令制!への回帰

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秀吉・家康と続く、制極時代平定後の封建制の時代には、全島に譜代大名を配置して決起を抑え込んだ四国では、おおむね各令制国の全郡域を任された主要藩主がterritoryとしていましたが...

"寺社領"を特認することで、「実質入り組み支配(※30)」を行い、「地域勢力の団結を阻止!」していました。

更に、明治維新後は単に奈良時代(律令制)を懐かしむ、公家共(搾取階級!)が理想?とする、1000年前!の「絵に描いた餅」同様の国割り!に戻されて、いいように!され続け今に至るわけです。

参※30)入り組み支配とは、旧反体制勢力(豊臣家臣団)の地領を国替えや廃藩で召し上げて、村単位!迄細かく細分化して。

徳川家の旗本や譜代大名に所領として分け与え!、Region(一帯)の団結(反乱!)を防止するための政策!です。

第1項 宇和島藩と大須藩

伊予国の宇和島藩・大須藩などは、大幸秀吉の四国平定?(征服)で四国(讃岐・伊予・阿波・土佐・)に分断されて、その後「家康の江戸幕府成立」後に地域(生活圏)分断!のために設けられた藩です。

第1目 宇和島藩は

1331年の、鎌倉時代末期に幕府が任命したGovernor(守護)として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房により開城したといわれています。

豊房は子に恵まれず筑後宇の宇都宮宗泰を養子に迎えて、長曾我部などと同じ地元豪族(国人)として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配し続けました。

永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって毛利(安芸)のterritoryとなりますが、

1572年に家臣の大野直之の裏切りによって長宗我部元親のterritoryに組み入れられたことになっていますが...

国人(地元出身者)だった大野直之が領民の窮状を察して、長宗我部元親に助けを求めたのではないでしょうか?

第2目 大洲藩は

更に天正13年(1585年)には豊臣秀吉の四国侵攻!に出兵して城攻めを行った小早川隆景が伊予国を任されて、大洲城は城代がいる単なる出城となりました。

その後は戸田勝隆が城主となり、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城して近世の城郭として整備されました。江戸時代にいると景虎は国替えとなり慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が国替えとなり、

従来の「大津」から現在の「大洲」に改名されたと伝えられています。

さらに(1617年)になると伯耆米子から国替えされた加藤氏が、明治維新まで12代に亘り大洲藩主を務めました。

坂本龍馬に藩の蒸気船を貸し与えたのも

加藤家には好学の気風があり、藩もこれに倣い好学・自己錬成を藩風としていました。

大洲藩は勤王の気風が強く、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでも参陣し、活躍しました。また、坂本龍馬が運用したいろは丸は大洲藩が海援隊に貸与した蒸気船です。

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により、大洲県が生まれましたが、同年11月15日、第1次府県統合、で大洲県が廃止されて、新たな宇和島県の支庁を経て神山県に組み入れられたのちに現在の愛媛県に編入されました。

つまり、明治新政府の主流派(旧公家連中)は、「民の営み暮らし向き」は無視して古き良き時代?だった律令制(法治国家、郡県制)の奈良時代(大和政権)に戻したかっただけです!

つまり、自ら(特権階級)の利権確保!」だけに走ったわけです!

★第2項 溜池でわかる四国の水利問題!

南国の降雨気候と、瀬戸内海の地中海性気候の境目は、"溜池"の配置(数)でわかります!

沿岸部では、豊予海峡以北、つまり足摺岬以北で溜池(利水池)が置くなる訳ですが...

第1目 大須市と内子町の微妙な温度差?

例えば大須市と内子町の微妙な温度差?は、ため池配置に表れています!

大須市は西予市・内子町・伊予市!・砥部町!にまで広がる、広大な流域を誇る肱川の豊富な水量で、利水には事欠きません。

つまり、日照り(渇水)による飢饉心配はあまり無い!わけです。

対して溜池が目立つ内子町では...

なので、内子町は大須市とは袂を分かって、独自の自治を歩んでいるわけです。

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《歴史ファンタジー》関連特集記事のご案内 

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後書き《 geopolitics と logistics 》シリーズについて

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当シリーズではLogistics(兵站)とGeopolitics(地政学)に関する"話題"を取り上げていますが...

同時に現状の"垢にまみれた人達"が推し進めている、初等・中等教育についても"問題を投げかけ"ている!

つもりです。

ポイント切り替えを誤った"狂育路線"が...

つまり、現行の大学入試を目指した「記憶力」に頼る"年表重視"の、歴史書・歴史教育では、「歴史的事実」が個別事柄として語られている場合が殆どです。

1番大事な「なぜそうなったのか?」と言う「相互間の因果関係・相関関係」が語られれいない場合が殆どで、「年号記憶」に終始しているわけです。

これでは、義務教育・高校教育を含めた一貫教育課程の「地理・歴史」が面白く無くて当然です!

更に初等数学・初等科学教育(理科)においても

与えられた課題解決には幾通りもの"論理過程"があり、更に条件付け次第では"いくつもの解"も存在!します。

特に現状の初等教育における"算数教育"では、日凶素患部が干渉した検定教科書?に記載された「1つの論理過程、一つの解」である模範解答を金科玉条のごとく押し付けて!います。

これでは日常の問題に即応した「臨機応変な思考力」身に着けることはできません!

地政学そのものについて迄「枠にはめよう」!と...

最近、地政学アナリストを装った"正体不明の人物(団体?)"が、「判りやすい地政学入門シリーズ」と称して、Youtubeに"静止画投稿"を始めましたが...

彼らは「日本における「地政学」(独: Geopolitik)の学説」を盾に、地政学を狭い範囲に押し込んで、「広い意味での地政学geopolitics」から関心をそらそうとプロパガンダ!しています。

geopoliticsはborder(国境)territory(実効支配地)のlife lineであるtraffic networkつまりはlogistics(兵站学)とも密接に結びついていて、国防と密接な関係!にもあるわけです。

なので、USAでさえ時代(政権)によっては、"迫害"を受けてきた研究分野!でもあるわけです。

更に、その成り立ちから、戦後の日本では「垢にまみれた狂育者たちに毛嫌いされてきた"研究分野"」でもありますが...

地政学には学会は存在しない!

更に、世界的に統一された学会・協会(特殊法人)も存在しません!

(※NPO法人 国際地政学研究所はあるようですが)

日本では地理学の一分野とされているようです。

つまり前途したように、"研究分野(Theme)"ではありますが、一部の"職者?(思想家)"が唱えている様な狭義の「単なる学説」に則った"学問分野"ではありません!

地理学、経済論(経済学)、文明論(文化人類学・歴史研究・言語研究・政治学・社会学)、思想論(哲学・宗教)、心理学!(群集心理)にまで跨る、

「民の営み・暮らし向き」文化圏・生活圏・経済圏どうしの"相関関係"を、為政者(国家権力)間の力関係(軍事力)ではなく、communityどうしの相関関係で解き明かそうとする"実践論"の研究Theme"なのす。

つまり、小生が属していた"非破壊検査協会"のような多方面の学問分野に跨る"応用研究分野・実践論"なのです。

つまり、♥"タブーの無い自由な発想"を展開できる研究分野!なのです。

なので中共でもっとも進んでいる!研究Themeでもあるわけです。

"彼ら"中国人民政治協商会議中国共産党中央統一戦線工作部)にとって日本の地理学会の活動は、脅威でもあり・目障り!でもあるわけです。

つまり、単なる"学説"をネタに地理学会を分裂させて、このThemeに対する"日本の研究"をカオス(混沌)に導いて自らの優位性を維持しようとしているわけです!

明日を担う未成年層に、世界を知ることで日本の鉄道網の将来の姿を考える大人に育つように...

当シリーズでは、日本の鉄道網を中心に、日本国内事情だけではなく「人類皆兄弟!」が営む「地球規模での国家間の力関係(軍事力)、相互干渉(外交関係)」から考察して、21世紀の日本のLogistics、transportation(運輸)、Transport network のあるべき姿を探っています。

同時に未成年の「鉄オタ」や、某国のプロパガンダに乗せられた一部のお気楽な運輸族代議士が"ぶち上げた馬鹿げた整備新幹線建設推進プロジェクト妄想"に踊らされないで済むように、

「大きな視野・世界観」に下ずいて、鉄道事業を冷静に"俯瞰"出来る「常識を兼ね備えた、ビジョンのある"大人"に育つ」ことを願って寄稿しています。

勿論小生は右翼(金権慾?)ではありませんが...

赤(垢)にまみれた日凶祖?の教職員や、それを先導(煽動)している研究者・大学教員・教育アナリスト?たちのような"頭空っぽの理想酒義?者"でもありません!

次世代を担ってくれるはず?の"脳天気な若者たち"と、金権慾"にまみれた"お気楽な運輸族"の発言・政治活動と、その手先にされている「鉄道傾YouTuber」のコンテンツを眺めていて、日本の行く末を案じているだけです!

狸穴総研 地理学研究班 出自多留狸

※英単語の"多用"と"古文書"に使用される用語の解釈について(Revision 5)

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義務教育では日本語圏?の部族をまとめて大和民族・日本民族として、古来よりNation(統一国家)を形成してきたかのように、"洗脳狂育"を行っていますが...

これは、いまだ隣国を牛耳っている(元・両班(ヤンパン)共(※01)が大半を占める)「学閥」がプロパガンダしている「fantasy!(おとぎ話)」と大差ありません。

我が日本国の始祖(那の倭国;邪馬台国、大和政権)は、はっきり言ってEUのような寄り合い所帯で成立したFederation(連合組織・連邦)であり、president,(主宰者)、 chairman(議長)に当たるrepresentative(総代)はいても、

絶対的権力者emperor(皇帝)は居ません!でした。

参※01)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国国民と日韓関係 はこちら。

第1目 古文書研究屋?と鉄オタの共通点とは...

日本史を操っている"歴史屋!"は元来が古文書を紐解くことを生業(なりわい)とする国文学者!なので、専門用語(古文書中の正式表現・業界用語?)がお好き!です。

つまり専門用語を自慢げに吐きまくる「鉄オタ」と同じなわけです。

さらに歴史屋(国文学者)と「鉄道オタ」の共通点であり最大の弱点は、地理に疎い!ことです。

彼らが根拠にする"古文書"は三国志日本書紀の様に、(数百年経った)後年になってから語り継がれた「英雄・偉人伝説」に下ずいて"創作"された、epic(叙事詩)が大半です。

"台帳"などの実用・実務記録に関する古文書は軽んじていますつまり「おとぎ話大好き人間なのです。

つまり一般人と同じく司馬遼太郎を「歴史フィクション作家!」として評価するではなく、「歴史学者」として祭り上げてしまう過ち!に陥りやすい人たちです。

英単語を多用する理由は...

専門用語、特に歴史用語は、時々の為政者が都合の良い"造語"を編み出して、"古文書"に使用しているために、"同異義用語"が多く煩雑すぎる傾向にあるからです。

なので、"あいまい"かつ煩雑な表現"を避けるために、"事柄の性格"を的確に表す英単語の同意語を多用しています。

つまり国司・守護・藩主などの表現は、異なる時代の「時の政権(為政者)が明文化した制度」の下に、任官された職種(専門用語)で、実態(権限)は全て"≒"といえます。

日本語表現(単語)は前後関係に依存する場合が多い

更に日本語の表現(単語)は前後関係に依存する場合が多いために、一つの単語が多くの異なる事柄を示す場合が往々にしてあります。

例えば"地域"に関連する英単語は

  • ●Area(ほとんど手付かずの原野・空地!
  • ●Region(漠然とした地方・一帯
  • ●Zone(共通の条件;気象条件・河川流域・穀倉地帯・工業地帯などの同一条件を備えた地域
  • ●District(明確に区切られた,行政区などの区域!

などに細かく分類されているわけですが...

日本語、特に外来語起因のカタカナ単語では、「地域」を指す英単語localが、rural(田舎・田園地帯)と混同されて、本来は形容詞のregional (地方の)を用いるべき、regional line(地方交通線)や、rural line(田園路線)を(マスコミの連中は)"ローカル路線"としたり酷い場合は、「地方ローカル線の旅」などと、平気で蛇足表現を用いています!

つまりカタカナ外来語と、本来の英単語の意味がずれて終っている訳です。

国家!に関する表現
  • ●Federation(連合組織・連邦)
  • ●Nation(統一国家)
  • ●State(主権国家)
  • ●Dominion(イギリス帝国時代の自治領)※つまり中国王朝の"属国"であった当時の大和王国連合は一応自治を認められていたのでDominionということになります。
生活圏に関する表現
  • ●Tribe(部族)
  • ●Community(共同体)
  • ●Village(集落)
  • ●Municipality(自治体)
tribe(部族)間の縄張りに関する表現は
  • ●Territory(領土・実効支配zone)
  • ●Country(国土)※国土を表す表現で国家を示す表現ではありません!
  • ●Boundary(境界)
  • ●Frontier(Territoryのboundary)
  • ●Border(主権国家間の国境

として明確にしています。つまり国際間主権認められて無い単なるNation(統一国家)では、Territoryを示すboundaryはあってもborder(国境)を持たないわけです!

その他のTerritory(実効支配地・領土・領土)を"種別"する表現では
  • ●Emirate(首長国)
  • ●Manor,plantation(荘園)
  • Colony(植民地・入植地)
権威を表す表現としては
  • ●Emperor;皇帝
  • ●King;王
  • ●Sovereign;元首,君主,統治者
  • ●Lord;領主
  • ●Chief;首長・族長・酋長
  • ●Shaman;司宰・祈禱師・霊能者!?
  • ●Ruler;為政者
  • ●the exploited classes;搾取階級、特権階級、貴族階級=公家
組織 Top の職制
  • ●President(主宰者・大統領・総統)
  • ●Leader(引率者・座長)
  • ●Representative(総代)
  • ●Chairman(会長・議長)
職務(職権)を表す表現としては
  • ●Governor(chief executive officer):(官吏・役職としての)国司・守護・藩主・知事・総督
  • ●Officer;行政官は(※例えば大宰府転勤後の菅原道真の職制はofficerとなります)
  • ●Administrator (管理者)
  • ●Agent;代理人(目代・城代・代官・地頭 はadministrator であると同時にagentでもあったわけです)
  • ●manor owner(荘園主)≒ lord(領主、室町幕府末期の"地頭"も
又古文書記述用語は、できるだけ現代語・日常口語表現に口語訳?しています
  • 印綬;冊封国(属国)の認証印!を授かること。
  • ●"朝貢使";冊封国(属国)として、宗主国である中国王朝へ「臣下の礼」をとるための朝貢に覇権された外交使節団!

なので属国を示す冊封国(さくほうこく)"冊"はFrontierが正しく、borderではありません。

東北などで繰り広げられた出羽柵などの冊を巡る攻防戦はFrontierを巡るTerritory!争奪戦!だったことになります。

国文学者が「冊=中国王朝のFrontier」であると認めない理由は...

日本語ウィキペディアの起筆者などの歴史屋!は国粋主義者!国文学者が多く,

大和朝廷(政権)が『宗主国・中国朝廷の"属国"としてのお墨付きを得て、唐王朝のTerritory!拡大のための代理戦争!をしていた』ことを認める!と

中国王朝の傀儡政権!弥生人の大和政権(朝廷)の Nation(統一国家)&State(主権国家)説崩れてしまう!ためです。

あえて「柵は建造物として設けられていた施設であり、概念的なFrontierでは無い???」と唱えてるわけです...

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公開:2022年12月26日
更新:2023年2月12日

投稿者:デジタヌ

卑弥呼は歴代 representative の称号!「邪馬台国」は首長国!?の連合体!で"都"などは無く!探しても...TOP


 

 



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