歴史探訪『 四国は大和王権"連合"成立当初から重要メンバーだった 』ー第4回ー
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別府航路のフェリーの殆どが、瀬戸内運河?航路を運航しているので、
西日本最高峰の石鎚山(標高1982m!)や剣山 (1955m)は瀬戸内運河?からも望めますが、
「豊後水道から四国を眺める機会」は少ないわけですが...
豊後水道から眺めた四国は、筒上山 (1860m)、笹ヶ峰 (1859m):ちち山 (1855m):、伊予富士 (1756m)等の高峰が連なる山脈!を形成しており、壮大な景観をしています!
しかも愛媛県最南部と高知県西部幡多郡はリアス式海岸の複雑に入り組んだ海岸線で、
入り江にある猫の額ほどの港湾都市の背後には、まるで擁壁の様に山峰が迫り、豊後水道沿いの各集落を分かっています!
第1項 弥生人の太平洋側への勢力拡大は南西部の幡多郡から
当初は"塩"も容易?に"穫れた!"瀬戸内運河沿いに、native people(土人:縄文人)追い出して!定住していった弥生人のCommunity(部族国家?)ですが、人口が増えるとともに、太平洋側の縄文人zone(地域)にも触手を伸ばし始めたわけです。
前途した様に縄文末期大和連合が、四国南部・太平洋(土佐湾)沿岸部制覇!を企てた当時は殆ど耕作に適する、平地部は、まだ海の底でした!
そんな中で幡多郡は今の山(標高869m)と四方の山からなる土佐湾に浮かぶ幡多島?として、現・三原村一帯の盆地部!が稲作に適する耕作地として、弥生人のColony(植民地・入植地)が開かれた訳けです!
なので幡多郡の四万十川河口部にはあまり古墳(Chief;首長・族長の墓)が見合ったらないわけです!
第1目 四万十川流域河口部にも農耕に適する平地は無かった!
『四国の大河川を上げください?』
と問いかけると、真っ先に吉野川が上がり、
その次に、清流で有名な四万十川、となる訳ですが...
他国?にまたがる大河はこの2つだけではありません!
長曾我部氏の四国統一に大きな役割を果たした一級河川"仁淀川"もあげられます。
更に、2級河川ではありますが南予宇和の要だった大洲藩の繫栄を支えた、"肱川"、そして、阿波国(徳島県)の那珂川があげられるでしょう。
参)一級河川とは、他府県にまたがっている流域を持つ水系の幹をなす河川の事であり、流域面積が結構ある"肱川"は県内で完結しているので、2級河川となります。
九州北部とほぼ時を同じくして稲作が伝わった、瀬戸内運河!沿いの要衝、現松山市・伊予市、讃岐(善通寺市・丸亀市)、伊予(高松市・さぬき市)周辺には、古墳(王墓)がたくさんあり、弥生時代初期から地場!のChief(族長・王族?)が住んでいたことがうかがえますが...
瀬戸内側に比べても更に平地が少なかった大平洋側(土佐湾)側は、四万十川河口の"幡多郡"や、仁淀川流域の高岡郡、ぐらいしかmanor(荘園)に適する耕作可能地は無く、邪馬台国を引き継いだ弥生人の大和政権成立後に高知県西南部から制圧を始めたわけです。
幡多郡(中村)に平地(耕作地)が生まれたのはずっと後年
特に土佐の幡多郡は、大宝律令(701年)で大和政権"捕らぬ狸の皮算用"(侵略後の土佐国 districtの縄張り構想)侵略構想に組み入れられてからは、優先して侵略(開拓・開墾)されて、律令制崩壊後も長年土佐の経済を支え続けていたzone(稲作地帯!)でもあるわけですが...
前途した様に、侵略開始当初は平地が少なく、本格的に入植が始まったのは四万十川・仁淀川の堆積が進んで河口部平地部?が生まれてからです。
幡多郡の"小京都!"中村(現四万十市)は、
第3目 幡多島が陸続きになってから
土佐一条氏は律令制崩壊後!の応仁の乱で戦国時代が始まった後に下向した!
fixer(調停人)としても有名な土佐一条氏が、中村に館を開いて移り住んだのは、律令制が完全崩壊!して久しい、室町幕府(1336→1573年)末期に当たる応仁の乱(1467年)で戦国時代に突入た直後の1468年(応仁2年)に、前関白(公家)だった一条教房が、下向(着任)したのが始まりとされています。
つまりこのころになってやっと四万十川河口部にも平地が出現したわけです!
つまり、1183年とされる鎌倉幕府成立で、律令制(郡県制)に代わって、"法度"による守護(旧・国司)・地頭(荘園管理者)制度になった後、数百年も経過していて、律令制が完全崩壊!していた、室町末期戦国時代に、地頭職に相当する"荘園のmanor ownerとして、着任したわけです。
なので、幡多郡全域を統治していたわけではありません!が...
豊かなdistrict;幡多郡
現在、中村の市街地となっている、四万十川と後川に挟まれた"中州"も含めて、このdistrict(領地)は豊かな水量とともに上流から運ばれた肥沃な土壌で、豊かな耕作地"棚田"zoneでした。
更に四万十川支流の中筋川上流部の宿毛(すくも)・平田エリアの棚田zone(地帯)とともに、豊かな幡多郡が開墾・開拓されていたわけです。
第3目 天満宮が多数!点在する三原村
中でも前途した現在三原村となっているregion(一帯)は、豊かな水量で、"棚田"とは銘打ってはいませんが、太平洋にそそぐ市野瀬川水系流域 zone は、幡多郡の穀倉地帯!となっていました。
前途した様に天神宮・天満宮といえば水天宮などと同じ水の神様です。
Googlearthモードで鳥居マーク部分を拡大していただければ、天満宮のある場所には耕作地"棚田"があることがわかります。
ご時世で休耕となって、放棄?された水田も多くありますが、三原村は古代から続く水田(棚田)稲作の1大地となっていました。
公開:2022年12月26日
更新:2024年11月11日
投稿者:デジタヌ
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