狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第11回ー

第11回 大宝律令(701年)は朝貢使(遣唐使)による"臣下の礼"再開の「詫び入れの手土産!」として制定された!

綺麗ごとでは!前途した様に白村江の戦いで中断されていた朝貢使(遣唐使)を再開させる際に、中国王朝"唐"に倭国→日本の国号変更がされたとされています。

第0項 抑々が「民(たみ)の営み・暮らし向き」を無視!した律令制

大宝律令(701年)発令により、布告?された律令制(郡県制)による線引き!は、合理的な根拠に乏しい!「民(たみ)の営み・暮らし向き」を無視"!した制度で、遣唐使再開の為に急遽作成された律令(法制度)でした!

うがった見方をすれば...

前途した様に、中国唐王朝(冊封国)陣営と戦っていた!"百済"と、主権(外交権)も与えられていない無い、冊封国(属国!)の倭国が友好(外交)関係!を持ち、しかも白村江の戦いで敵の百済に加担!したことで、怒りを買い!冊封を解かれ!唐王朝の敵国!に成って終った!訳です。

つまり、「弥生人の倭国」政権が「縄張り抗争!」を繰り広げていた敵、対峙する「縄文人の倭国」を侵略・征服する「大義名分(後ろ盾)」を無くしてしまった!わけです。

結果青銅器・鉄器などの武器輸入も途絶えた!

当然、青銅器・鉄器などの武器輸入も途絶え!国産化の模索をするわけですが...

国交断絶!"唐"からの技術者(僧侶)の来日は無くなり!、鉱山開発も一朝一夕には進まなくなり!。

逆に敵方「縄文人の倭国」に、(朝鮮半島を通じて)青銅器・鉄器が流れだすと、再び軍事力の優位性は保てなくなって行った!わけです。

そこで意を決して約40年ぶり!に、"唐"へ詫びを入れ!て、冊封国(属国!)として交易・交流(留学生受け入れと僧侶派遣(来日)の要請!)再開を求めた!訳です。

第1項 政権の方針表明「捕らぬ狸の皮算用」にすぎなかった大宝律令

今に続く!律令制・郡県制(&戸籍制度)は、古代・石器時代の後期に当たる飛鳥奈良時代に、西日本のCommunity,tribe(部族)が参加?して作ったFederation(自由交易連合)「倭国」連合!が、「日本列島完全制覇!後の未来図;基本構想!」として、郡県制(律令制)を取り入れて、大宝律令(701年制定)の大綱・原案が検討されて、参加部族長のconsensus(協心)を得たうえで、制度化(明文化・文書化)されたわけですが...

第1目 帰国留学生(僧侶)から得られた知識が元になった律令制度

前途した様に白村江の戦い(663年10月)まで続いていた、宗主国中国"唐"王朝への「臣下の礼」に当たる"朝貢使"(遣隋使(600年→618年)遣唐使(618年→907年)に参加した留学生;僧侶)が持ち帰った知識に基づいて、統一国家を装う!為の律令体制つくりとして、時の権力者(地方小国・都市国家・種族のChief)たちからconsensus(同意・賛同)を得た制度ですが...

郡県制については「倭国」連合陣営の未来構想、つまり「採らぬ狸の皮算用!」だったわけです。

第2目 不完全な形の律令制(郡県制)!

更に、律令制(郡県制)を完全導入したわけでは無く、当時は連邦を構成する小国・部族の Chief(首長・族長・酋長)が各自の Territory(領有地)を直接governing(統治)していたので、唐王朝の様に軍官による Governor(地方長官)任官制度は、見送られました!

任官による agent(代理人)である目代を、自らの Territory(所領)である manor (荘園)に差し向けるようになったのは、Chief 達が「都に定住」して the exploited classes(貴族・公家)となった平安期(784年→ 12世紀末)中期に当たる900年頃以降の事で、

王朝・貴族体制(ピラミッド型官吏制度)が確立してからだといわれています。

(※同時に皮肉なことですが、律令制のもう一方の柱;戸籍制度は崩壊しました!)

第3目 伝741年に仏教が国教となり諸国に国分寺が建立されましたが...

"朝貢使"(遣隋使;600年→618年、"遣唐使"、618年→907年)が続いていた飛鳥・奈良時代中に留学(僧侶)が帰国して、仏教が日本列島にも伝わった!訳です。

大化の改新から1世紀後!741年に仏教を国教として、諸国に国分寺が配置されて、

いわば廃仏毀釈とは逆の「自然崇拝棄却1神教」に方針を大転換?したわけです。

そして奈良の東大寺大仏(745年→752年)建立へと繋がるわけですが...

753年4月に行われた「日本初の"合同入信式!」"菩薩戒

753年12月20日に「仏舎利を携え来日に成功した唐僧鑑真」が、同年12月26日太宰府の観世音寺に戒壇院(かいだんいん)を設け、日本初の戒壇(僧侶認定)を行い、その後奈良の都に上京し、752年に大仏開眼した奈良の東大寺に入り。754年4月大仏殿に設けた戒壇で上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。(つまりキリスト教の"洗礼"に当たる仏教と入門が許されたわけです!)これが日本初の登壇授戒とされています。

第4目 妃(きさき)は未だにShamanだった!

有名な話で「登壇授戒の時点ですら、御妃(おきさき)の政(まつりごと)に対する発言権は絶大なものがありました。」

つまり、この当時でさえ日本古来の自然崇拝・女性shaman(祈禱師・霊能者!?)(巫女・祈禱師)の祭事(まつりごと;政)関与当たり前!で、大王(天皇)の「御妃(おきさき)の政(まつりごと)に対する発言力」も(政権内でクーデターを引き起こすほど)大きかった!訳です。

自然崇拝・女系shaman文化はその後も...

第3項 青銅器・鉄器の国産化!で軍事力は増大した物の...

"朝貢使"(遣隋使;600年→618年、"遣唐使"、618年→907年)の開始の為に、鉄板を用いた外洋航路用の大型船が開発されたのは有名なお話ですが...

6世紀半ばの吉備地方...では、最初期には磁鉄鉱、6世紀後半からは...国内で調達が容易な砂鉄を原料とする...製鉄法は吉備地方から日本各地へ伝播した...日本の製鉄法...大陸や朝鮮半島での製鉄では円筒形で高さのある炉が用いられているのに対し、吉備地方から伝わった製鉄法では箱型で高さの低い炉が用いられた。なぜこのような独特の技法が編み出されたのかは解明されていない...

なお、近年の発掘、研究の進展によって、福岡県福岡市の博多遺跡群や、長崎県壱岐のカラカミ遺跡などでは、弥生時代の製鉄遺跡と思われる痕跡が相次いで見つかっている。《日本語ウィキペディアより引用》

つまり考古学的には、西日本では渡来技術者(僧侶)による銅山開発とともに、銅製品(銅貨)や青銅器(農耕具)・武器の国産化も達成されて、更には後の刀工・日本刀にも繋がる「砂鉄による製鉄」も開始され、

世界的には珍しい「青銅器・鉄器併用の金石器併用時代」が訪れたわけです。

この当時でも日ノ本連邦(弥生人勢力圏)のTerritoryは、若狭湾以西の日本海・紀伊半島・瀬戸内沿いの西日本にとどまっていたために、東北・東日本の"蝦夷(エミシ)(縄文人)陣営とは一進一退を繰り返していたわけです。

第1目 全国的には自然崇拝女性 Shaman がまだまだ健在!だった

弥生人陣営・大和政権(朝廷)以外の縄文人社会(勢力圏)では、女性Shamanが政(まつりごと;祭事)を司る自然崇拝が続いていました。

前途した802年1月9日に征夷大将軍として東北に派遣された坂上田村麻呂がとらえた、Chief(酋長)の阿弖利爲(アテルイ)とその母のshaman盤具母禮(モレ)が平安京に連行されて、(表向きは)処刑!されたわけです。

つまり、"蝦夷(エミシ)民族(縄文人社会)は、伝統的な「女性shaman」が政(まつりごと)に関与するCommunity(部族社会)だったので(※11)、蝦夷 Community を崩壊!させて、部族の民を新たに大和政権が設営する「荘園の農奴!」として取り込むには、「女性shaman」を連行(隔離)する必要!があったわけです。

参※11)当サイト内関連記事 東北での"先住民・縄文人 えみし 民族"と"渡来系混血・弥生人 大和民族 "との攻防の歴史... はこちら

第2目 仏教の国教制定後の10世紀に入ってからも"式内社!?"が...

四国南部、九州南部、東北に国分寺とともに新たな式内社(927年時点でも)が造営されて設置された訳は、全国各地の新たな占領地・令制国"にはまだまだ「自然崇拝・シャーマン文化」が強く残っていたことを示すものです。

そして(3世紀から6世紀にかけて各地で盛んに造営されていた)前方後円墳(王墓)の禁止令!発令後も、各地に「土着王族(豪族)の墳墓」が造営されたのもこのためです。

土佐国(幡多郡)では戦国時代に突入した15世紀後期!でも

四国の土佐国(幡多郡)では、鎌倉幕府を起こした頼朝が律令制崩壊(1185年の武家の統領(源頼朝)による守護(旧国司)・地頭(旧荘園主)任免権成立)させて開闢した鎌倉幕府(1192年→1333年)を、継いだ室町幕府(1336年→1573年)の時代になっているにも関わらず、任地・幡多郡に国司!として赴いた(1468年以後)土佐一条氏が、荘園を構えた土佐・中村では、式内宮と国分寺の両方がある!わけです。

これは海路で蝦夷(縄文人文化圏)として結ばれた太平洋岸(※12)には、まだまだ自然崇拝女系shaman(祈禱師・霊能者!?)文化が、根強く残っていたことを物語っています。

一方、古墳(王族墳墓)があるということは、土佐一条氏が下向する室町時代よりずっと以前の古代古墳時代(奈良・明日香時代)から、瀬戸内の倭国連合と交流のある、稲作を取り入れた縄文人?の小国;manor(荘園)があったことを証明しています。

事実、大宝律令で土佐国としてのTerritory分け(律令制・郡県制度)が決められ、入植!が始まって以来、幡多郡は古代米の稲作に適する耕作地として、大和政権加盟国のChief(王族)のmanor( 荘園)が数多く設営されていたことが、冒頭で述べたように天満宮(豊穣の神)の多さからも、うかがい知れます。

参※12)鹿島(千葉)・熊野(紀伊半島)・土佐・薩摩・隼人そして日本海側の出雲・富山等の縄文人遺伝子zoneにも。

 

公開:2022年12月21日
更新:2024年3月15日

投稿者:デジタヌ

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第10回ーTOPFantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第12回ー


 

 



▲Historia,Geopolitics & logistics 研究室へ戻る

 

ページ先頭に戻る