狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

歴史探訪『 四国は大和王権"連合"成立当初から重要メンバーだった 』ー第3回ー

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第3回 瀬戸内運海 沿岸に発達した Shaman文化 と Community 群

冒頭で述べましたように、特に、国内交易の重要路だった瀬戸内運河?沿いの海岸沿いには、古代から、数多くのCommunity(集落)が生まれ、tribe(部族国家)を育みました。

古墳(王墓)があるとこ処は全て、古代からTribe(部族)のCommunity(共同体)、Village(集落)があったところです。

拡大していただくとわかりますが、現在県庁がおかれている、松山、高松、徳島、高知市街地に古墳はありません、(発見されていません)

何故なら、縄文時代は縄文海進といって現在より約20mほど海面が高かったからです!

第1項 古来より四国には大王国(Metropolis)がない!?

元祖・那の倭国(邪馬台国)連合(※01)!を成立させた、瀬戸内運河?沿いの主要国?(都市)ですが...

瀬戸内運河の複雑な海岸線(沿岸)に沿って小国(部族)が並立しました。

参※01)当サイト内関連記事 古代・神代の時代?の日本列島には「2つの倭国」勢力圏があった! はこちら。

第1目 弥生人が瀬戸内に稲作を伝来させた頃は平野は無かった!

縄文海進が収まり、瀬戸内海沿岸に平野が出現?しだしたころは、

依然として現在より(平均で22mほど)標高が低かった!とされています。

つまり、松山・高知・徳島・高松には、小島が浮かぶだけで平野が無かった!訳です。

(対岸の山陽エリアも同じです。)

島・半島が隆起して陸続きとなった四国

四国の瀬戸内運河!沿いは、高縄島(標高986m)?を核にできた高縄半島(今治経済圏)、大平山(島標高479m)などが連なった連山、屋島・五剣山(標高366m)などの小島が隆起してできた讃岐平野や、更には今ノ山(島)(標高868m)を核にしてできた)は幡多郡、槇の山(島)(標高439m)、宇和郡、鳥帽子半島?(標高359)、小坂峠連山(標高340m)などが隆起したために、生まれた高知平野や太平洋沿岸部の「大河川の河口部」に都市が発達したために、瓢箪島?の沿岸部に沿って都市が発達したわけです。

沿岸部や盆地周辺の山麓を開墾して農耕地(稲作)に

前途した様に、稲作民族の弥生人が四国に触手を伸ばしたころ、弥生人(に従った縄文人)が、四国で稲作(農耕)を始めた頃は、(大河川の)河口部沿岸の山麓などに「"棚田"を開墾」して、稲作を始めたわけです。

その後、大河の上流部から運ばれた土砂が堆積して、河口部に平地・三角州(湿地帯)が形成され、

江戸時代の新田開発で、現在の讃岐平野・徳島平野・高知平野などの穀倉地帯?が形成されたわけです。

参※)当サイト内関連記事 邪馬台国が特定できない理由「倭国・日ノ本」は女系シャーマン共和国で構成された連邦国家だった! はこちら。

第2目 群雄割拠する四国の瀬戸内沿いでは律令制は有名無実!?

当初の「那の倭国連合国家!」を形成した発起人・のChief(国司)達は、その後の「律令制の崩壊」とともに、武家(幕府)が制定した"法度"による、守護(旧国司)・地頭(荘園管理者)に置き換わり、更に戦国時代になると、幕府体制も崩壊して、国人(地元武装集団)が群雄割拠するようになったわけです。

第2項 現在の県庁所在地の平野部が形成されたのは...

前途した様に、早くとも?縄文海進が終わり、海岸線が後退して四国の島々!が繋がりだして、平野(三角州)が形成されだした、奈良時代以降の事でしょう!

つまり、GoogleMapをご覧の通り、現在の平野部には古墳(Chief;首長・族長の墓)はなく、全てが、小高い丘?(大古の小島)や山地の麓に造営(発見)されています。

更に、砦跡も同じく標高の高い場所に築城されています。

第1目 土佐国では

土佐では後述するように、弥生人勢力(大和政権)が、四国南部の侵略に乗り出したころは、四万十川・仁淀川の河口部ですらまだ土石の堆積が進んでおらず、葦が生い茂る、鬱蒼としたArea(原野!)でした。

長曾我部氏が、桂浜に築城したのも、現高知市街には平地は無く、浦戸湾にある高知港を守る為でした。

高知市が大規模な新田開発事業の血になったのは江戸時代の山之内家が支配した時代です。

第2目 阿波国の中心地が三好市だったのも

畿内から近く、比較的早くから目を付けられていた阿波徳島も、現在の市街地は影も形も無く!

R318以西の吉野川北岸部(阿波市・三間氏・三好市)の台地部しか農耕に適する平地部は形成されていませんでした!つまり吉野川河口部は深い入り江!になっていて、一番奥の三好市に三好氏が居城を構えていたわけです!

第3目 讃岐は

讃岐平野ももちろんなく!

むしろ西隣の坂出・普通寺辺りにう多くのTribe(部族)んCommunity(共同体)小国家?が広がっていたわけです。

第4目 伊予は

飯間に至るも!仲の悪い?今治市と松山市ですが...

今治市は

今治市は、近見山(海抜244m)や現北波方町の塔の峰(標150m)などのいくつかの小島が浮かぶRegion(一帯)でした、つまり現在来島ドックのある大西町や今治城のある中心市街地など海の底だった!訳です。

なので、耕作地(波マーク)を巡り、周辺部族と激しい攻防戦を繰り広げていた!訳です。

現在のBoundary(境界・市境)に沿って、砦跡が多くあるのはこのためです!

更に今治市には、高台・山麓にも古墳(Chiefの墓)が発見されていません!

つまり、古墳時代(縄文時代後期)には、弥生人(JA大和?大和朝廷政権)はあまり進出していなかったのでしょう。

余談ですが、来島ドックの本拠地大西は、奈良時代から水深のある良港として、遣隋使・遣唐使などの"朝貢使"!に用いる外洋航路用の大型船舶の造船に向いていたので、"朝貢使"にくっついて渡来した"造船技術者"も定住したのでしょう!

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公開:2022年12月26日
更新:2024年4月 5日

投稿者:デジタヌ

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