狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第3回ー

第3回 "光武帝"と共に始まった冊封国(属国!)"奴国"の歴史

第0項 現在の国威発揚・歴史狂育!では

後述する様に西暦607年の遣隋使に委ねた国書で、

聖徳太子が「那の倭国」を代表する sovereign(天子?統治者)として、「日乃本宣言!」を行ったことだけが強調されていますが...

これでは、両班(ヤンパン)出身者(※21)で固められた!隣国学閥の連中がやっている偏向教育大差ありません!

参※21)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国(国民)と、日韓関係! はこちら。

第1項 世界史(世界の外交史)に初めて登場する日本列島「奴国」は

現在国宝とされている日本最古の金印(漢委奴国王印)は"贋物"!金印印綬は Fake?

日本の歴史"屋"の主流派 authority 連中は...

...中国王朝から下賜される印綬...例えば、奴国(古代日本の国)は後漢から金印紫綬(漢委奴国王印)を(※01)、倭の卑弥呼はから金印紫綬(親魏倭王印)を...日本室町幕府は明から金印(日本国王之印)を、琉球は明から鍍金銀印(琉球国王之印)を受けて...《日本語ウィキペディアより引用

光武帝(BC6→西暦57年)が後漢(25年→220年)の皇帝在任中に、奴国に金印を印綬し、「那の倭国」のsovereign?(女性shaman(司宰・祈禱師)は魏から金印紫綬(親魏倭王印)を印綬されて「"自治"を認めた?属国・冊封国(さくほうこく)」を示す"認証印"として金印(属国承認印)を印綬したことになっていますが...れも、真物は残って(現存して)いません!

※"卑弥呼"は分裂していた魏に朝貢して金印を印綬していた?との不確かな伝承!もあり、分裂国家"魏"(西暦220→265年)との交易は続いていたのでしょうが...

但し日本側には、evidence(証拠)となる確かな記録(木簡・竹簡)は残されていません!

しかし叙事詩三国志の一節である魏志倭人伝に記載があるという事は、

"ユーラシア大陸"の知識人・支配者層の間では、邪馬台国(連合)!が「"那の倭国"として広く認知」されていた!のでしょう。

そして同時に奴国(後の邪馬台・倭国)はユーラシア大陸の超大国「"後漢(東漢;西暦25年→220年)王朝"の"お墨付き"(印綬)」を得ることができて、

トラ(東漢)の威を借りて!日本列島統一(制覇)に向けて"蝦夷の倭国"征服!に乗り出したわけです。

かつての琉球王朝(1429年→1879年の450年間)も同じで、(1368年→1644年)、(1616年 →1912年)に"朝貢使"(使節団)を派遣して「朝貢」を行い「臣下の礼」をとり、琉球の支配者!であるお墨付き!(印綬)を得て沖縄諸島を制圧!したわけです。

参※01)。近年、国宝とされている日本最古の金印は、江戸時代に捏造された"贋物"!ある可能性が高まっています。

但し隋書倭人伝そのものも、原本(記録)が残されていたわけでは無く、散逸した"断片"(と思わしき古文書)を寄せ集めて編集した物であり、

100%史実ではありません!

つまり倭人に印綬したのは史実なのでしょうが、"相手が誰かは定かではない!のです。

第2項 魏志倭人伝とは...

魏志倭人伝は3世紀末(280年(呉の滅亡)→297年(陳寿の没年)の間)西晋の陳寿により草稿された伝承『三国志』の中の1節です。

起草された"3世紀ごろの邪馬台国連合"の噂話!を基にしており、

金印を印綬された?邪馬台国の状況を表す歴史資料ではありません!

さらに『三国志』そのものが...

さらに『三国志』そのものが、後漢(25年→220年)から西晋王朝(265年→316年)建国迄の歴史を、

「伝承・や古文書にヒントを得て創作された一大叙事詩!であり、

古事記・日本書紀同様に作者

「陳寿」の「個人的"解釈・創作"」が随所にちりばめられた「(史実とはかけ離れた)一大叙事詩・fiction(創作・伝説)と解釈するほうが妥当な文書(代物)です。

つまり、那の倭国として認知されていた頃(3世紀末)に、漢字(漢文)が体系化(※11)されて三国志が起草されたわけです。

と同時に、当時すでに(インドから)中国に伝わっていた仏教(僧侶・技術者)とともに、日本にも改めて伝来したわけです。

第1目 創造後1500年!近く経ってから共通文字となった漢字!

漢字(の原型)が出来たのは紀元前1300年ごろだとされており、中華王朝の公式文字(公用語)として体系化されたのが3世紀末ごろとされています。

漢字(漢文)は表意文字であると同時に"表音文字"でもあります。

なので、高校で学ぶ漢文の様に返り点に頼らなくとも、そのまま中国語で朗読できます!

つまり文法(構文)が、ウラルアルタイ系の日本語とは異なるのです。

但し発音は幾通りも...

現在でも普通語(北京語)と広東語では発音が全く異なる!様に、言語も北方・呉・湘(しょう)・贛(こう)・客家(はっか)・閩(びん)・粤(えつ)の7つの language?(言語)dialect?(方言)に分かれており、

"英語と米語"以上の開きがあり、構文(文法)も微妙に異なります。

第2目 広大な中国各地で別々に発達した漢字!

夫々独自の絵文字表記(象形化)の過程と抽象化(簡略化)が進み、

初めての統一王朝とされる始皇帝時代の"秦"(BC221→BC206)の頃でも共通言語(共通口語)は無く、

光武帝が再興した統一王朝東漢(西暦25年 →220年)が、帝国全土の共通言語(文字)化を進めた!のでしょう。

三蔵法師に関する歴史創作家!の噓

仏教そのものは、インドで紀元前5世紀!ごろ「釈迦が編み出した哲学!」の一つで、起源100年ごろに中国に伝来していて、その後の南朝宋(420年→479年)、北周(556年 →581年)の時代に「多数!の三蔵法師(翻訳家!)」がインドに赴き(体系化された漢字で)「サンスクリット(梵語)で書かれた原典版(複製)を漢文翻訳して」中国に持ち帰りました。

いずれにせよ漢字伝来は...

いずれにせよ、漢字伝来は古事記(712年編纂)の700年近く以前!の光武帝時代(25年→57年)後漢(25年→220年)の時代から.、

奴国(那の倭国連合の始祖)に、青銅器の刀剣と農耕具を使った稲作と、そして「文字(漢字)」(※11)文化と共に、渡来技術者によってたらされていた!ことになります。

※11)ご承知の通り「かな文字」は平安時代になってから「表音文字」として発案された「純国産」文字なので、それ以前(言語体系が異なる日本では)は、「表意文字」としての漢字と、中国文法を使った「漢文」で古文書が草稿されていたわけです。

 

公開:2022年12月21日
更新:2024年3月15日

投稿者:デジタヌ

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