九州北部"筑紫国・火国・豊国"での渡来・弥生人 vs 縄文人の壮絶な戦いの歴史 《連載第4回》
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- ●お魚マークは治水ダム
- ●鳥居マークは、川に関係する神社
- ●紫色のモニュメントマークは古墳
- ●グレーのお城魔マークは砦跡
- ●行者マーク?は峠
第1項 分水嶺は筑紫野!
現在 筑紫野市役所(標高39.1m)がある辺りが分水嶺?となり、博多湾に流れ込む御笠川水系と有明海に注ぐ筑後川支流宝満川水系を分かつ分水嶺となっていました。
そして同時に、両水系がもたらす豊かな水量で、水田地帯となったわけです。
玄界灘(大陸)から遠く離れた?佐賀平野が弥生人拠点穀倉地帯となったのは、筑紫野丘陵?があったからです。
第1目 筑紫野は天然の防波堤!
つまり筑紫野は、初期の稲作に適していた台地であったとともに、玄界灘の荒波から守る「天然の防波堤!」でもあった訳です。
なので、現在の標高21.2mの吉野ヶ里が縄文後期・弥生時代初期の、海岸線にぎりぎり面していても耕作できたわけです!
第2目 山麓(有明海沿岸部)で稲作が始まった?!
GoogleEeath でご覧になればよくお分かりと思いますが...
吉野ヶ里遺跡のあたりは少し高台になっています。
この一角だけ有明海に突き出た岬の様になっていたわけです!
なので、有明海沿いの"Colony(入植地)"として適当だったのでしょう。
つまり、当初は,城原川上流の、水車の里辺りから稲作が始まり、海の幸(魚介類)も豊かな沿岸部の高台"吉野ヶ里"に移ったのではないでしょうか?
暴れ川"筑後川"の影響も受けにくかった
当初は、有明海に面しており、暴れ川筑後川の河口部からは相当離れており、急峻な田手川沿岸の河川敷!とは違い、洪水・水害に合う恐れも少なかったのでしょう。
みさき町から小城市に至る佐賀平野全域も同様に山麓沿いの、鳥居マークのある辺りから開墾・入植が始まったと考えられます。
そして、嘉瀬川水系と筑後川水系、更には六角川水系が上流から運ぶ土砂の堆積で、佐賀平野が次第に形作られだすと、下流部にできた三角州を開墾して、耕作地を広げていったのでしょう!
当初の古代米は陸稲に近い品種だったので、山間部の谷合(鳥居マーク)から稲作が始まったのでしょう。
第2項 権威主義の侵略者・弥生人 VS ♥原始民主主義の熊襲
第1目 ♥Democracy(民主主義)の対局(反意語)は✖Authoritarianism(権威主義!)
- ♥ Popular sovereignty(主権在民)の conceptに下ずく♥Democracy(民主主義)
- X governance,oppression(支配!・抑圧!) concept に下ずくAuthoritarianism(権威主義!)
真っ赤な狂師が"お花畑""でappeal(訴える)している自由主義は社会主義・(権威主義!)に通じる別物で!いわば対立する思想です。
那の倭国・邪馬台国は民主主義の敵!Authoritarianismの部族だった
女行性シャーマン『卑弥呼が率いる?邪馬台国はみなみの熊襲と戦っていた...』
旨の記述が中国の古文書(叙事詩;英雄伝説!;創作!)に残されているそうですが...
これは、邪馬台国(の宮殿?)が、ある特定の場所(佐賀県?)にあったことを示すのではなく!
元祖JA!でもあった"那の倭国"Federation(経済連合)勢力圏が、「熊襲を始めとする縄文人勢力」と"しのぎを削っていた!"ということでしょう。
とりあえず南限は佐賀県辺りだったのでしょうが、北限は?...
更に、『卑弥呼は個人名を示すのではなく!大王(おおきみ)などと同じ敬称』であったと思われます。
そういう意味合いでは、『佐賀県からも歴代卑弥呼の一人が出ていた可能性』も無くは無い?でしょう。
参※)当サイト関連記事 "邪馬台国"は部族の連合体!卑弥呼は歴代"総代"の称号!"都"など無かった! はこちら。
第2目 "熊襲を始めとする縄文人勢力"は♥原子民主主義だった!
いずれにせよ、前途した様に、縄文時代は、陸地が少なかったので、お互いのBoundary(境界)は今ほどには長く伸び切っていなかったと思われます。
更に、大事なことは、中華王朝の傀儡政権「那の倭国」を組織していた渡来人混血種弥生人勢力に対して、
現住人であった"熊襲"部族(縄文人社会)は、自らLeader・Chief(酋長)を立てて、女性Shaman(司祈禱師)のお告げに下ずき政(まつりごと)を行う原始民主主義のCommunity(生活共同体),Village(集落)を形成していた!という点です。
西南の役で担ぎ上げられた西郷隆盛は...
その後2千年を経て、律令制というより封建制(権威主義!)の世の中に戻したかった明治新政府の公家共が、失脚させた西郷ですが...
熊襲の末裔たちにより、autonomy(自治)を勝ち取るための「革命」西南戦争の隊長に祭り上げられて、"必敗"の反乱?に担ぎ出されたわけです。
一般的には食い扶持(碌)を失った不平士族が、"新政府に対して一揆をおこした戦い"とされていますが...
四国・土佐の長曾我部から続く、山之内家の家臣団同様に、薩摩・隼人の武士も、専業武士ではなく!半農・半武のいわば兼業農家が多かったわけです。
つまり、Lord(領主)から俸禄をいただいているのでは無く!与えられた所領から得られた収益の一部を上納(年貢)していたわけです!
新政府の公家(三条実美、岩倉具視...)共が、嘗ての荘園(植民地)を取り戻そうとして、藩士から所領を召し上げたわけです。
しかし農民は解放!されたわけでは無く、頭が(新たな役人・着任したOfficer;役人)にすげ変わっただけで、場合によっては以前(藩士の下人)よりも待遇が悪くなったわけです。
だから、九州各地の農民も、西郷軍を支援?しても政府軍には協力はしなかったでしょう。
西郷軍が、苦戦?を強いられたのは、あくまでも刀・旧式砲・主体の"貧弱な兵装"に起因したものだったのではないでしょうか。
"西南の役"以降は、新政府の権威主義(封建制度)により、官選のGovernor(chief executive officer)が派遣されただけで、自治では無かった!わけです。
つまり、明治維新後も「新政府から派遣されたGovernor(chief executive officer)県令・知事が統治!・支配する体制が続いてきたわけです。
大東亜戦争敗戦後の日本国政府になり、知事や自治体長は公選性になりましたが...
相変わらず、『総務省などの中央省庁経験者が多く、その統治者意識!は奈良時代!と変わっていない』
のです。
第3目 総務省出身GovernorはいまだにAgent(目代)官吏意識が...
冒頭で述べたように、自治体の長が、公選でcitizen の Representative(代表)となった現在も尚、総務省育ちの、prefecture(県) の Governor(chief executive officer)(知事)やmunicipality(自治体)の mayor(市長)の中には、官選時代のAgent(目代)、 Officer(官吏)、意識が染みついていて、中央省庁のbureaucrat(官僚!)の指図通りに振舞う、自治とはかけ離れたAuthoritarianism(権威主義!)・Feudalism(封建制)に毒された輩が多いわけです!
その表れが、各自治体(長)のエゴで(条例などの)施策が決まってしまうことでしょう。
特に都市計画は、各Municipalityが単独で取り組むべき infrastructure(基幹施設)整備事業では無く!District(行政区)を超えたRegion(地域)全体で、協調して行うべき公共事業なのですが...
Municipality(市・自治体)のmayorの「大人の事情(利害・思惑)」で権威主義で「恣意(志井?)的な独裁」で決せられる事例が横行しているのです。
市町村長会は単なる懇親会!では無く、互いの意思疎通の場、意見調整の場であるべきでは無いのでしょうか。
特に広域道の国道・県道の整備に関して県議会・県当局に任すのではなく、各自治体の意見をもっと反映できる仕組みを構築すべきでしょう?
現状の、建設スキームだけを Municipality に押し付けるやり方では、着手後半世紀!も完成しなかった府道(※31)や、半世紀以上ルートが決まらず棚上げされ用地買収の目途さえ立たない、自動車専用道(E76今治小松自走車道)などが生まれてしまうわけです。
参※31)当サイト関連記事 祝・"半世紀ぶり"に開通した都市計画道路!府道184号線大和路線アンダーパス工事 はこちら。
21世紀の現代でも
例えば全国各地の痴呆都市で行われている新交通システム、ミニ地下鉄(※32)等の魏妖怪 syndicate(企業連合)への血税奉仕!事業などは、愚の骨頂・権威主義・官僚主義の典型例!といえるでしょう!
更に、大阪市を典型例とする市営モンロー主義(※33)などは、自治体長のエゴ「大人の事情(利害・思惑)」つまりは得票稼ぎ丸出しで...
『市の財政(税収)で賄うのだから、地下鉄建設は市域(District)だけを念頭に置けばそれでよい!?...』のでしょうか?
そういう意味合いでも県全域、場合によっては他県にまで跨った新たな地域交通事業体「RTD」(※34)設立が必要なのではないでしょうか。
参※32)当サイト関連記事 新交通システム & リニア地下鉄は"金食い虫"でお荷物な交通"効カン"の厄介者"! はこちら。
参※33)当サイト関連記事 大阪の市営モンロー主義は21世紀になった今も生き続けている! はこちら。
参※34)当サイト関連記事 地域交通事業体 RTDの必要性! と"障壁"労働組合活動!とは... はこちら。
第3項 肥前の佐々町が純潔を守った訳は...
佐世保市にすっぽり取り囲まれている、長崎県佐々町は何故「寄らば大樹の陰」の諺通りに、佐世保市と合併し無かったのでしょうか...
答えは、Boundaryにあります!
★佐世保付近を拡大してみてください
佐々町と佐世保市のBoundaryは宗教戦争のFrontier(最前線)!
両自治体を隔てるBoundaryは、御多分に漏れず山地の稜線と河川ですが...
特に河川(佐々川)の旧本流と、その支流で分かたれている両岸を注目して眺めてみれば理由は明々白々となります!
つまり、この一帯は多くの遺跡(王墓)と天満宮・天神社があるように、
古代弥生初期から稲作が行われていたことがしのばれますが。
キリシタン信仰の中心だった過去が
平戸に布教の拠点を置いた「キリシタン信仰」」の出城でもあります!。
そしてあの不幸な「天草の乱」が起こった地でもあるのです。
佐々町内には多くの礼拝堂(集会所)が
Boundaryの内側・佐々町内には多数の礼拝堂(集会所)があります!
そして外側佐世保市側には...
つまり、『稜線がキリシタンとキリシタン制圧幕府軍とのFrontier(最前線)となり、死闘が繰り広げられた』のです。
そのような歴史背景から、数百年を経過した現在でも、"遺恨が残り"和解は成立せずに、佐々町を構成する Community(共同体)の人たちは自立(独立)の道を選んだ!わけです。
公開:2023年2月21日
更新:2024年11月11日
投稿者:デジタヌ
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