Essay『人権問題・差別問題 の"水種?"になった"大和川付け替え?"は必要だったのか?...』ー第7回ー
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東大阪市(水走)にあった今米村の庄屋、中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、1703年(元禄16年)10月、幕府はついに公儀普請を決定する。
翌1704年(宝永元年)2月より付け替え工事が開始...手伝普請を命ぜられていた播磨姫路藩主の本多忠国(普代)が死去したため、工事は一時中断され、姫路藩は手伝普請から外れることになった。...同年4月に播磨明石藩主の松平直常(普代)、和泉岸和田藩主の岡部長泰(東軍普代)、摂津三田藩主の九鬼隆久(柳生宗在の長男・普代)に手伝普請が命ぜられ、工事が再開された。
同年6月には大和高取藩主の植村家敬(普代)、丹波柏原藩主の織田信休(織田信長直系)にも手伝普請が命ぜられ、これら5藩によって工区を分担するなど効率的に工事が進められた結果、工事開始からわずか8ヶ月後の同年10月、大和川は現在のように...《Wikipediaより引用》
つまり、大坂の町割りがほぼ完成して、「天下の台所」が機能しだしてからの事です。
第1項 決して"通説のきれいごと"では無い!
ココがキーポイントで、
"通説のきれいごと"では無くて、前途した通り「天下の台所を預かる"なにわ商人の為"」の普請というのが真実でしょう!
『エ~なんで?...』と思われる方が多いでしょうが、
地図をご覧いただけば一目瞭然!、大河川である淀川(寝屋川)・大和川(石川)が全てが、大阪京橋辺りの豪商の蔵屋敷街に集結していたからです!
第1目 大和川付け替え期には2つの中之島「豪商蔵屋敷街」が...
前途したように、1700年ごろには、大阪の下町西区もほぼ、今の町割りになったように、
上町台地西側の旧市街地がほぼ出来上がっていました、そして大川と土佐堀川にはさまれた2つの中ノ島には、豪商が営む米蔵が立ち並んでんでいました!
しかも当時は、今のように各河川には(ビル3階にも及ぶような)築堤は無く!
川船から荷下ろしできるような、石段の船着き場があるだけで、大阪湾の干満の差を吸収できる程度の"標高"でしかなく、大和側の上流(奈良県)で大雨が降ると、たちまち氾濫して、米蔵が浸水する被害!が生じていたわけです。
つまり、幕府(諸藩)にとっても、「天下の台所・浪速の豪商」の洪水被害は一大事!なわけです。
そこで、河内でも最も低湿な"水走"の庄屋中谷さんの直訴を口実!に、農民の為と称して「大和川放水路開削」普請に動いたわけです。
第2項 "新田"では幕府の"きもいり"で新しい河内名産が
特産品も幕府の強権で、諸藩の特産であった綿花の種子や、レンコンの株を、供出!させて、移植して"造られた特産品"でした!
河内平野は、入り組み支配が割と穏やか?で、天領・旗本領・が多く、飢饉の際にも普代大名以外は、割と取り立てが厳しくなかったのですが...
幕府が身入り(増収)を目論んだのが、"付け替え普請" の"本音"でしょう!
第1目 水はけのよい河川敷跡にでは綿花栽培が!
旧河川跡に開発された"新田"では、水はけのよい旧河川敷きに適した綿花栽培が、これらの新田開発により、これらの新田では豪農!がたくさん生まれました。
第2目 縮小した低湿地では河内レンコンが
縮小した低湿地帯では"カワチレンコン"が栽培されて、財を成した"豪農"が数多く誕生しました!が...
第3項 但南藩・狭山藩では大和川付け替えで多くの農民に惨劇が
弱小藩の但南藩・狭山藩では大和川付け替え で多くの農民が耕作地を失い流民・新田開発の農奴!や一家離散・一家心中!など惨劇が...
第1目 大和川付け替えまでは豊かな農地!だった下除け川(矢田川)流域平野部
元々葛城山系から流れ出た、石川や下除川・上除川で形成された扇状地の羽曳野丘陵では溜池も多いのですが、
(旧大和川本流長瀬川より南側の)"新・大和川放水路"以北の現矢田川流域は、日本最古のダム湖"狭山池"から流れでる下除川・上除川から別れた"灌漑用水と溜池"のおかげで、さほど水には困っていませんでした、というより豊かな田畑!でした。
第2目 土地を失くし!水迄失くした丹南藩では
水運と農地(農民)を一度に無くした、西除川・東除川流域の弱小藩の但南藩、狭山藩、の財政はより逼迫されたわけです。(つまり残った農民はより厳しい取り立てに...)
さらに大和川放水路開削・普請には、(大和川開削用地確保!のために)この地を追い出される農民!が、庄屋の命令で、人工として"苦役"(ただ働き)!させられたわけです。
何と、言う理不尽・非条理な仕打ち!でしょうか。
これを美談に仕立て上げた日狂祖の連中は非人間!です。
新大和川放水路以北の谷田川流域では
大和川放水路開削用地確保の為に農耕地を無くした、丹南藩(本貫地)の小作農民(土人)は、生まれ育った"肥沃な土地"を離れて、鴻池新田や、その他の"新田"に移り住み、"戸籍"(檀家籍)も持たない流民・浮浪(ふろう)(※61)つまり"農奴"!に転落する以外には生きる伸びる道は無くなった!わけです。
更に大和川放水路!が完成した途端に、大和川放水路以北の西除川(谷田川)流域に残った農民も、それまでと打って変わって水不足に悩まされた"不毛の地!"で苦しむことになった!訳です。
慢性的な水不足で稲作も満足に行えず、大人は新田の農奴!になり、娘・子供を売り飛ばし、一家離散!、一家全員餓死、一家心中!などの悲惨な憂き目にあう小作農民が続出しました!
第2目 佐山藩では水運が出来なくなり
佐山藩では、上除け川・下除け川の水運業が出来なくなり、藩財政が逼迫しました!
つまり「美味しいところは、平野川運河!を航行する柏原舟の船問屋(商人)達が...
第3目 大和川付け替えにより格差(貧富差)の増大!も
"大和川放水路"によって、「下除川(矢田川)」が分断されて、大和川放水路以北の豊かな農地だった流域は、一気に慢性的水不足に悩まされる「荒れ地」に転落した!訳です。
その為に、旧下除川(矢田川流域)も貧困エリア・格差エリアになってしまったわけです!
余談ですが、近鉄南大阪線の始祖・2代目大阪鉄道が、天王寺(現大阪阿部野橋)まで延伸できたのも、当時疲弊しきっていたこのエリアの"荒れ地"を叩いて入手できたからでしょう?
更には、広大な"大阪市立の瓜破霊園"が設置出来たのも...
つまり、現在の府道2号中央環状線より西側!は耕作に適さない荒地!と成って終ったわけです。
つまりは、市営モンロー主義者たちの先祖「大阪3郷町衆」の旧大和川河川敷の新田開発事業と、新田開発によるその後の「地域格差」がいまだに尾を引いているわけです!
第4項 大和川付け替えによる、水運の盛衰
嘗ての上除川(東除川)・下除川(西除川)が共に新大和川で南北に分断!されたために、水運で生計を立てていた狭山藩・阪南藩が窮地に追いやられました!
第1目 市営モンロー主義(権益)はこのときに生まれた!
浪速商人たちは、市営モンロー主義(※00)の原型に当たる権益を設定しました!
上除川(東除川)の水運に変わり、旧大和川(長瀬川)沿いに、平野川水路(運河)を開削して、柏原船と称して百石船による水運を運行させて、流域に開墾された新田から"鶴橋"を経由して旧淀川(大川)、寝屋川、平野川の合流する"京橋"に作った"船溜まり(中継港)まで運ばせて、船溜まりで「自分たちが運営するモンロー主義船?」に積み替えさせて、中ノ島にある「米蔵」や「綿花倉庫」に運び、柏原船などの大阪3郷への直通を阻んでいました!
参※00)当サイト関連記事 大阪市における" 市営モンロー主義 "の起源と変遷 はこちら
公開:2021年4月19日
更新:2024年10月29日
投稿者:デジタヌ
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