狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第13回ー

第13回 瀬戸内連合崩壊後の四国支配!体制の基礎を作った秀吉

信長暗殺事件!後に秀吉の野望は膨らみ、長曾我部氏が四国統一に乗り出した際には秀吉に対して「三好氏」からの救援要請はあったにせよ...

長曾我部氏の四国統一!後に、征服欲の強い秀吉が、四国制覇に乗り出したわけです。

ここで、大事なのは「民の期待・要望」で"四国遠征が行われた"のではなく、単なる彼の征服欲で四国遠征が行われた事実です。

事実、秀吉の四国制覇後には、長曾我部氏(とその家臣団)は土佐一国に押し戻され、伊予・讃岐・阿波各国は以前にもまして細分化されて秀吉家臣団に与えられ、

その後家康の江戸時代になり、家康所縁の譜代大名が再配置されて、各国間の番屋・関所での、一般人の通行は室町末期(戦国時代)以上に厳しく制限されるようになったわけです。

第1項 土佐と「士農工商」の概念・観念

封建社会とされる江戸時代の「士農工商」概念・観念はある意味、当時の四国の世情にあっていた部分もあります。

第1目 江戸時代300年を通じて山之内家が統治していた土佐藩では

幕末に多数の志士を輩出した土佐藩は、江戸時代300年を通じて、山之内家が統治していたわけですが...

土佐藩では、初めて"四国統一"を果たした旧領主長曾我部氏の"家臣"団も積極的に?登用していたわけです。

彼ら元長曾我部家臣団は、荘園を与えられた荘園主であると同時に、"豪農"!の一面も持っていたわけです。

更に下級武士は"兼業農家"も多かったわけです。

彼らが、四国全土統一を成し遂げたのは、"武力"だけではなく、稲作が渡来した古代国家連合の時代から続く「荘園(農奴)制度」を敷く領主から「農民を解放」して、

解放したdistrictで「人の往来(交易と転入・転出)の規制を"緩め"」て、地域経済(民の営み・暮らし向き)を活性化させたいった!からでしょう、

なのでその後の新政府の北海道開拓・屯田兵制度の採用時にも、元土佐藩士の抵抗が少なかったのもこのためです。

当時吉野川流域を牛耳っていた三好氏を討ち果たし四国統一を成し遂げた際にも、

兵(団)を動かし、陣を構えるには兵糧が必要となり、

本拠地土佐から長いlogistics(兵站路)が必要だったわけで、「沿道の協力」が無ければ、「兵を動かすことも、陣を張ることも」できなかったわけです。

★第2項 更に江戸時代太平の世?になると

第1目 江戸時代の入り組み支配と寺社領

時代が下って、江戸幕府が成立すると、各地の反乱を恐れた幕府は、難癖をつけては「外様大名」の改易転封(国替え)を行い、支配していた領地を「召し上げ」て幕府の直轄地(天領・旗本領)としたり、譜代大名に任せたわけです。

更に領地そのものを「集落単位の細かなterritory(所領)」に分けて、「旗本・譜代」のterritory(知行地)とする、「入り組み支配」といわれる、反乱防止策をとりました。

."民の営み暮らし向き"で決まる生活圏

利権・既得権益にしがみつく現在の為政者!は、歴史マニア(有識者・郷土史研究家?)を"擁して"、「古文書」にしたためられた記述を"錦の御旗"にして、現状の地方自治法(律令制度・郡県制)に下ずく自治体テリトリーを正当化しようとして必死の様ですが...

番屋(関所)は重要往還路(街道)にある

番屋(関所)は、traffic(交易)が盛んであった主要交易路!を、厳しく規制するための検問所として設けられたものです。

つまり逆説的には、太平の世?(江戸幕府)になった後も、「番屋があった」ということは重要なtraffic(往還)だった証(あかし)です。

又江戸時代になると、国政の中心江戸⇔天下の台所「なにわ」を結ぶ物流は西回り廻船(開運)が主流となり、同じように、瀬戸内運河?沿いを結ぶ瀬戸内航路。

なにわ⇔下関⇔長門⇔敦賀⇔加賀⇔富山⇔庄内⇔秋田⇔新潟⇔津軽⇔松前を結ぶ北回り廻船が物流(年貢米・海産物)の荷駄を引き受けていたわけです。

第3項 物流の発達で新たな権益が

造船技術の発達により、大型帆船が航行されるようになると、各地で、船主(運輸業者)と藩(家老)との癒着(贈賄)が問題となったわけです。

当時は、米・塩などの、田(水田・塩田)で収穫される作物?と関所・番屋などの通行に課金(年貢・課税徴収)していたので、「商いの利益」そのものに対する事業税は設けられてなく、

むしろ藩の財政を支える「大事な(融資を行ってくれる)金融業」の側面を持っていたわけです。

第1目 天下の台所と呼ばれた"なにわ"

この年貢の一大集積地が"なにわ"であり各藩の米蔵と、米問屋・両替商・等の豪商が集まって、いたので「天下の台所」と呼ばれていて、日本経済の中心地だったわけです。

つまり、封建制の概念・観念では、「民の営み・暮らし向き」は成立しなくなり、産業革命とは関係なく「資本経済」の時代となっていたわけです。

 

公開:2022年12月21日
更新:2024年3月15日

投稿者:デジタヌ

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