『タヌキがゆく』狸穴ジャーナル

アメリカの高級ブランド車

前書き(要約) high-priced luxury American automobil marques の系譜

自動車育ての親 アメリカ で生まれた アメリカン ヴィンテージカー

ガソリン自動車を最初に発明したのはドイツのダイムラーだったのかもしれませんが...

最初に普及させたには、間違いなしにアメリカでしょう!そして早い時期から、ヨーロッパにhigh-priced luxury American automobilを逆上陸させて頂点に立っていたのもアメリカでした。

21世紀のアメリカで、正しくhigh-priced luxury American automobilと呼べるmarque's(固有名)は Lincolnだけかもしれませんが、嘗てのアメリカにはhigh-priced luxury American automobil marquesを製造できるブランドが数多く存在していました。

《時代の流れに翻弄された Vintage car Brand 》§6 の目次

※リンクについて

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第1節 Duesenberg(デューセンバーグ)  

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Duesenbergはレーシングカーと luxury automobile(高級自動車)専門のアメリカの自動車メーカーでした。

名前からも察しが付くように、ドイツ系アメリカ人のFred Duesenbergと Augie Duesenberg の兄弟が1913年にミネソタ州セントポールのDuesenberg Motors Company, Inc. を設立したのが起源です。

独学で自動車製造を始めたDuesenberg 兄弟でしたが、そこから生産されたハンドクラフトのDuesenberg は1914年に、インディアナポリス500で10位に入賞して1921年にはインディ500のペースカーに選ばれ同じ年に、ヨーロッパに転戦したDuesenbergはフランスグランプリを制してルマンでも優勝して、アメリカ最初のダブルタイトルホルダーとなりました。

インディ500では1922年、1924年、1925年、1927年にも優勝しました!

第1次大戦中のブガッティU-16エンジンのライセンス生産の試み

英雄Raynal Cawthorne Bolling大佐と委員会は米空軍の為にのBugatti U-16エンジンのライセンスを取得してDuesenberg Motors Company, Inc. に国産化を託しました。

しかし第一次世界大戦中には完成しなく、このプロジェクトは中止されました。

大戦終了後の好景気で高級車市場に活気があったにもかかわらず

第1次大戦の戦火を免れたアメリカでは1918年の大戦終了以来好景気が続き1920年以来、イスパノ・スイザ、Isotta Fraschini 、メルセデスベンツ、ロールスロイスなどのプレステージカーの輸入が盛んになっていました。

航空機エンジン国産化のプロジェクトにかかわったミネソタ州とニュージャージー州の工場は1912年創業のWillys-Overland Motors,のオーナーJohn Willysに売却して、インディアナポリスの新しい本社と工場に移転しました。

優れたデザイナー(設計者)だが経営手腕は全くなく生産技術者としても失格だった!

さらに1919年10月、特許と図面の権利をニュートンE.ヴァンザントとルーサーM.ランキンに譲渡しました。

1920年3月8日には、インディアナポリスのDuesenberg Motors Company, Inc. を新しいオーナーに売り渡して兄弟は経営から退き1従業員のエンジニアとなりました。

1921年に登場した最初の市販モデルAに搭載されたエンジンは、戦時中のBugatti U-16エンジンプロジェクトから多くを学んだOHC4バルブ直列8気筒の米国初の量産直列8気筒エンジンでした。

またシャシーにはロッキードと共同開発した4輪油圧ブレーキを備えていました。

しかしハンドクラフトで生産される車は1台/日の生産も難しく。1922年には年産150台以下、6年間通算でもたった650台のみの生産で、月産100台の生産計画にはとても及びませんでした!

しかし新しい経営者も生産の遅れで資金繰りに困り1923年には経営危機に陥り1924年に管財人(債権者)の手に渡りました!

1925年になってDuesenberg Motors Corporationと改称して再びフレッドが社長に就任しましたが長くはもちませんでした

Errett Lobban Cordによって作られたDuesenberg神話!

1925年10月26日に同じく先進的な高級車で知られるCordを1927年に設立した実業家Errett Lobban Cordが買収してくれてDuesenberg, Inc.と改称されてフレッドは技術担当副社長となりました。

そして新しいオーナーの Cordは世界で最高の自動車を設計するように指示しました。

Cordは当時世界中で最も大きく、最も速く、最も高価な自動車を求めていました。

この間に前途したようにインディ500の常勝車となりさらにRudolph ValentinoやTom Mixといった一部のハリウッドスターが購入してくれて名声はさらに高まりましたが、あまりにも高価なために完売することができませんでした!

1928年のニューヨークカーショーではモデルJを発表して発売開始しました。

1929年のサロンドゥオートモービルドパリで展示されてヨーロッパでも発売されました。

J-101として発売された、スイープパネルのデュアルカウルのPhaeton bodyは、コーチビルダーのLeBaronがぼでぃーを架装しました。

熱烈なDuesenbergファンには申し訳ありませんが、歴史を振り返ると、

Duesenbergはアメリカによくあるracing carを制作するbackyard builderやspeed shopで、ロッキードと共同開発した油圧ブレーキシステムにしても、同時期に世界各国で採用例があり、米国内で特許申請しても成立したかどうかは...

Duesenbergの名声は Cordの野望が生んだ産物なのでしょう!

事実シャシーフレームだけは自社の工房?で製作していたようですが、ボディーは国内外の有名コーチビルダーが制作したもの、独自設計?といわれるエンジンも外注、で最終組み立てだけが自社となれば、 Cordが手を引いた後は、資産(技術・生産設備共に)価値が無かったのでしょう。

もっと独自技術を持っていた同時期の American luxury automobile marque (商品名)を製造していた"Three Ps" of American motordom royalty,とよばれている Pierce-Arrow 、 Peerless 2ブランドが同時期に工場閉鎖に追い込まれている状況では、消滅しても致し方なかったように思われます。

それに高い製造技術を持って自社で一貫生産していたPackardは第2次大戦後まで生き延びています。

好調に水を差した世界恐慌

1929年9月4日のブラックチューズデーに始まる世界恐慌は、デューセンバーグから顧客層も奪い200台の生産にとどまり、1930年にはさらに100台の販売に終わりの当初の目標である年間500台生産販売計画を大幅に下回りました。

当時生産されていたモデルJの直列8気筒エンジンは、1920年代に成功した同社のレーシングエンジンのディチューン版でした。

モデルJは発売開始後すぐに最も人気の高い高級車の一つとなっただけでなく、ステータスシンボルを含め、金持ちや有名人がオーナーになりました。

アル・カポネ!グレタ・ガルボ、ハワード・ヒューズ、タイロンパワー、クラークゲーブル、ウィンザー公爵、イタリア皇国ビクターエマニュエルIII、スペインのアルフォンソ8世等世界の大富豪がオーナーとなりました。

もともと、ニューヨークの金融界の大富豪がモデルJを支持していましがニューヨークは1929年の金融恐慌で市場は市場に冷え込み最終的には新ハリウッドスターが購買層になりました。

モデルJに搭載されていたLycoming Engines製ストレート8!

デューセンバーグが設計してLycoming Enginesで生産されたエンジンは無過給で265馬力発生して。model Jは最高速度119 mph(192 km / h)、2速ギアで94 mph(151 km / h)に到達して最速かつ最も高価なアメリカの名前をほしいままにしました。

1929年に25歳の若さでDuesenbergのチーフボディーデザイナーになったGordon Miller Buehrigが Model Jを設計しました、彼は1934年には1925年以来Cord グループに加わっていたインディアナ州のAuburn Automobile Auburn 851 Speedsterの開発にも加わっています。

Duesenbergはアメリカとヨーロッパの有名なコーチビルダーで製造されていました、Gordon Buehrigがデザインした車体は米国内のDerham, Holbrook, Judkins,[20] LeBaron, Murphy, Rollston (later renamed Rollson), Walker, Weymann, and Willoughby,などのコーチビルダーとヨーロッパの、 Darrin, Franay, Gurney Nutting, Saoutchik, などのコーチビルダーにボディ製作を依頼していました。

ベア・シャーシのは原価で 8,500 ドル(1932年以降は9,500ドル)。同じく完成車の製作費は13,000ドルから19,000ドルで米国の当時の平均的な医師の年間収入は3,000ドルの6倍以上にも達していました!

実際に販売される場合は更に利益が上澄みされてもっと高額だったことは事実です!

1937年にErrett Lobban "EL" Cordがコードコーポレーションを1929年に設立されたAviation Corporationに売却したことにより、連鎖的に事業は整理されました。

これらのDuesenberg車の設計は1937年に工場が閉鎖されるまで同じままでした!(実際の生産車は1929年から1930年にかけて生産されたベアシャシーを使用していました)

第2節 Packard(パッカード) 

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嘗て誰もが認めるKing of high-priced luxury automobile marquesとしてアメリカだけではなく世界の王族・大富豪の愛用車となり、世界中の路で王者の威厳と共に走っていたmarquesでしたが...

起源

1899年11月6日 にJames Ward と William のPackard兄弟とGeorge Lewis Weissによって Ohio州のWarrenに設立された Packard automobile company が起源です。

設立当時 Ohio州のWarrenには1897年3月に設立されたWinton Motor Carriage Companyがありました。

Packardが設立された1899年には年間100台?を超えるガソリン車を生産するアメリカ最大!の自動車メーカーになっていました。

Packard automobile companyの創業者たちは自分たちならWinton Motor Carriageが作る自動車より優れた自動車を世に送り出せると確信して事業を始めたのでした。

1903年まで最初に造られた、パッカードは、テアリングを備えた単気筒エンジン車でした。そしてここで最初の400台のPackardが誕生しました。

転機

(後に社長となった)Henry Bourne Joy,がPackard車のオーナーとなりました。

彼は信頼性に驚嘆して、Truman Handy Newberry(上院議員)やRussell A. Alger Jr.(南北戦争の英雄の子息)などの投資家のグループに加わりPackard automobile companyの事業拡大を企てました?

Russell A. Alger Jr.の勧めで再投資が行われて1902年10月2日にOhio Automobile Companyを、Packard Motor Car Companyに改称しました。

James Packardを社長に迎えてRussell A. Alger Jr.は後に副社長となりました。

その後デトロイトに居を移して、Henry Bourne Joy,が社長に就任しました。

デトロイトに移ってから1917年の第1次大戦中にメルセデスD.IIIaエンジンのリバースエンジニアリング品の12気筒の航空機エンジン Liberty L-12エンジンを後にフォード傘下となった Lincoln, Ford, Marmon, Buick等と共に製造しました。

これに先立ち1915年には独自設計の「ツインシックス」モデルと呼ばれる12気筒車シリーズも製造していました。

パッカードはロールスロイスやメルセデスベンツなどの超高級車が競っていた世界の富豪層をターゲットにした市場に$ 2,600以上もする製品で挑みました。

(※当時の競合他社の人気車種は Blackが $ 375→Western Tool Works のGale Model A roadster"が$ 500、高級車 Oldsmobile Runaboutでも$ 650 Cole Motor Car CompanyのV8エンジンを積む luxury automobile コールランナバウトでさえ $ 1,500で販売されていました。)

この時期アメリカを代表する高級ブランドとしてPierce-ArrowPeerless と共に"Three Ps" of American motordom royaltyと呼ばれていました。

この時期のPackardは約40エーカー(16ヘクタール!)の広大な敷地に3,50万平方フィート(33万㎡)の製造工場を持ち、PGを備えた立派な施設でした、その後なんども火災にあいながら廃墟はまだ残っています。

また1928年には1910年以来にはDodgeの工場だった跡地を買い取りPackard Proving Grounds(参当サイトシリーズ記事 語り継がれている世界のバンク跡はこちら。)を開設しました。

1929年9月6日のブラックチューズデーに端を発した世界恐慌まではもっともすぐれたhigh-priced luxury American automobilesといわれていました。

1920年代を通じて、パッカードはhigh-priced luxury American automobilesの中では最も多くの車を輸出していました。

当時はアメリカだけではなくロシア皇帝も、日本の皇室も愛用するほどの超高級車ブランドでした。

世界恐慌でも財務は堅調に推移した

1930年代の世界不況下に入ると、多くの高級車メーカーは経営に行き詰まり、"Three Ps" を形成していたPeerless は1932年に生産を停止し、カーリングブラックラベルビールのビール醸造工場!になり。

1938年には、Pierce-Arrowも閉鎖されて、デューセンバーグ、などのその他のブランドも全て工場閉鎖されていました。

Packard社は不況下でも購買意欲が落ちない世界の大富豪に向けて「これまで以上に豪華で高価な車」を製造することにより大恐慌を乗り越えようとしました。

1932年に発売されたTwin Six,は、工場出荷価格が3,650ドルで当時世界で最も高価な車の一つでした。

そしてこの時代は同社にとって高収益を保てて、大恐慌の最中の1932年でも約2,000万ドルの資産がありました。

パッカードのとった戦略

パッカードの強みは"単一の生産ライン"と"生産モデル間の共通化"で生産コストを抑えていることでした。

パッカードは当時、他メーカーが行った頻繁なモデルチェンジはしませんでした。

しかし毎年フェイスリフトした新しいモデルで対応して、基本モデルのプラットフォームデザイン(基本設計)を維持しながら新車開発コストを削減していました。

それは第2次大戦中の自動車生産を中止した1942年最後の第20シリーズまで基本設計を変えずに綿々と作り続けられました!

第2次大戦まえには長引く世界不況下でhand-built luxury carsの需要が急激に縮小して、失業率が20%を超えた時点では、さすがに事業が失敗して破産する富裕層も多くなりもはや高級車生産は会社を支える屋台骨にはなりませんでした。

この時点でPackardは設備投資を行い新たに開発した中価格帯のミドルクラスの120が大量生産できる近代的なベルトコンベアラインを持つ別の量産工場を建設しました。

大恐慌が続く中1935年に登場した120は工場出荷価格1000ドル未満でそれまで買い控えしていた(日本で言うお金持ち)中産層に受け入れられヒット商品となり売上は前年比3倍以上となりました。

高級ブランドPackardが送り出した120は当時の最先端を行く車で前輪独立懸架、今日では一般的になった油圧ブレーキシステムなど上級車シリーズにも採用されていない最新メカ満載でそれまでの超高級車Packardに憧れながらも手が出なかった層から歓迎されて大成功となりました。

1936年までに製造に携わるブルーワーカーの陣容は、高額車「シニア」シリーズ(12、スーパーエイト、およびエイト)のhand-builtを担当する職人部隊と、中級量産車の「ジュニア」モデルを担当する作業員とでほぼ均等の人員となりました。

「120」の生産ラインではhand-builtラインで製作する luxury carsの10倍以上の120が生産されました。

1937年には120の成功でアッパーミドル市場でのシャア獲得を目指しパッカード115Cを発売しました。この車は1928年の第5シリーズ車以来久しぶりの6気筒エンジンを搭載して 工場出荷価格1200ドルで登場しました。

しかしパッカードが長年培ってきた最高級「high-priced luxury American automobile」を送り出してきた「パッカードブランド」のイメージを大きく損ないました!

第2次大戦勃発前のこの頃のPackardが製造する Super Eightは依然として luxury carを代表する一つでしたが...

それまでほぼ独占的に高級車市場に君臨していたPackardブランドのイメージは薄れて、不況下にもへこたれなかった大富豪層は次第に去っていきました。

第2次大戦中

1939年に第2次世界大戦がはじまり1942年には完全に軍需工場となり、

乗用車の生産は無くなり、同時に長年続いたhigh-priced luxury American automobileもシリーズ20で終了して、戦後も生産が再開されることはありませんでした。

戦時中は航空機エンジンメーカーとして製造業を続ける

ライバル・ロールスロイス製マリーンエンジンのライセンス生産品Packard V-1650 Merlin 航空機用エンジンを生産して第1次大戦時に生産していた Liberty L-12エンジンの伝統を持つ1350馬力、1400馬力、および1500馬力のV-12舶用エンジンも製造していました。

終戦後

1945年第2次大戦が終結した時点で戦時生産で得た資産は約3,300万ドルありました。

他の米国の自動車会社と同様に、1945年後半には自動車生産を再開しました。

パッカードは大戦中の1942年のジュニアモデルをフェイスリフトして1946年モデルとして発売しました。

しかし StudebakerやKaiser-Frazerがいち早く戦後型の新型車を発売して、パッカードの古色蒼然としたエクステリアデザインは流行から取り残されてしまいました。

パッカードの財政状態は健全でしたが、戦時中中断された1941年型の製造設備の減価償却が残っていました。

その為新規設備投資ができずに競合他社からは次々と1948〜49年の新車が発売されましたが、パッカードは1951年まで戦後型を登場させられませんでした!

戦時中に登場した「バスタブ」デザインのPackardは1948年に先に登場したキャデラックが採用した当時のストリームデザインとは程遠く鈍重に見えて「妊娠中の象」とまで揶揄されるほど「時代遅れの外観」でした。

当時戦火を免れたアメリカは好景気で旧型車にも拘らず1948年モデルは92,000台、1949年モデルは116,000台と生産した車両のほぼすべての車が売れました。

自動変速機Ultramaticの自社開発がさらにNew Model開発の足を引っ張る

競合するキャデラックでは戦時中の1941年以来発売していた米国最古の自動変速機(Hydramatic )を戦後1950年の戦後型(一部車種は1949年)からすべての生産モデルで選択できるようになり、パッカードの競争力が弱くなりました。

これに対抗してUltramaticを自社開発しましたが...

膨大な開発費とかなりのエンジニアリングを割かれて、当時市場から要求の強かった小型軽量の新型V8エンジンを開発するスキルを奪い、戦後型新型車の登場を更に遅らせる結果となりました。

もはや嘗てのhigh-priced luxury American automobilのブランドイメージは無くなりパッカードブランドはダサい人気のないブランドになり、1950年の販売台数は42,000台にまで減少しました。

この時George T. Christopher社長が1951年型の新車開発に目途を立てた時点で辞任しましました。

朝鮮動乱とPackard

1950年から始まった朝鮮戦争の軍需契約でPackardは一息付けました。戦争は1953年に終了し、新国防長官のチャールズ・E.ウィルソンは、彼がかつて社長を務めたGM以外のすべての自動車メーカーからの防衛契約を解除し始めました。

さらにこの間にクライスラーとフォードがパッカードのディーラーを横取りするキャンペーンを繰り広げ、パッカードのディーラーネットワークは着実に縮小しました!

後型ニューモデルの登場

1951年に登場したPackardは当時の潮流に乗ったエクステリアデザインに変貌しました!

継ぎ目のなくなった1枚フロントガラス、ラップアラウンドリアウィンドウ、122インチ(3,099 mm)のロングホイールベースに小さなテールフィンと全幅グリルが採用されて、フェンダー一体型のボンネットを採用していました。

プラットフォームを共用した、200シリーズ2ドア4ドアセダン、250シリーズ(パッカード初)のハードトップクーペとてコンバーチブル。

127インチ(3,226 mm)のホイールベースのプラットフォームを共用する300および 400モデルで登場しましたが...

400シリーズには(5.4 Lの )従来からあった中間クラスのエンジンが使用されました。5.4Lの旧型エンジンは356とほぼ同等のパフォーマンスを提供しましたが、高級車としてのパッカードのイメージをさらに損なうものとなりました。

この Packard 400は、時流に沿ったオートマチックトランスミッションと時代遅れの旧型直8エンジンの風変わりないで立ち?でした。

(当時競合メーカーはニュージェネレーションのOHVアメリカンV8エンジンを登場させていました。)

戦後徐々に伸びてきたフリーウェイや整備が行き届いた大都市近郊の主要道路では時速55マイル(約90㎞/h)を維持するためには少々力不足でした。

それでも1951年は競合メーカーからほとんど新車が登場しなかったことも幸いして約101,000台!の車を販売出来ました。

1953年に予期しなかった事態が発生しました!

戦後の自動車生産再開以来良き協力者で、戦後の高級車シリーズ300& 400のボディーを供給してくれていたBriggs Manufacturing CompanyがFordからの大口契約が無くなり、もう一社の大口供給先であったクライスラーに身売りしてしまいました!

工場の内Packardの敷地内にあった工場は同社が買い取りましたが、作業員の士気は低位化していて以前の品質は確保できませんでした。

さらにパッカード専用プレスラインからも供給を受けていた車体はパッカードの計画数量を下回りました。

1953年に売上高は減少傾向となりました。Packard Caribbean convertibleやPatrician 400 Sedan、 Derhamなどの上級限定モデルを発売しましたが、かつて他の追随を許さなかったPackardの品質も前途した理由で一時期極端に下がりました。

しかし、直ぐに手が打たれてラインの見直しなどである程度の品質は復活しましたが...もはや嘗てのPackard qualityではありませんでした。

凡庸で時代遅れの車となったパッカードのショールームに足を運ぶ人は少なくなりました!

Studebakerの買収はPackardの命運を狂わせた!

1952年以来Packard のCEOとなっていたJames Nance は業界に通じた、自動車を愛する切れ者でしたが、プライドの高い人物だったのでしょう?

NashHudson、Studebaker、Packardの luxury American automobil brando 4社統合を目指していた彼のライバルGeorge Walter Masonが、まずNashとHudsonを合併させて1954年5月にAMC(American Motors Corporation)を立ち上げて、引き続きPackard にもAMC参加を働きかけていましたがJames Nanceは拒否し続けていました。

しかし前途したマイナー?なトラブルなどで販売が落ち込んで焦っていたPackard の

James Nanceは十分な調査も行わずに、1954年にカナダのStudebake工場を買い取りました。

この買収に資産を投じたPackardはJames Nanceが計画していた革命的な新モデル開発を翌年迄延期せざるを得ませんでした。

パッカードのデザイナーのDick Teagueは、1955年のNew model開発を任されていました。

彼の功績により、1955年のパッカードは業界や市場にセンセーションを巻き起こしました。

モデルチェンジされたニューカマーは、当時の技術者ビル・アリソンが発明したトーションレベルサスペンション!でしたと同時にパッカード発の「最後の独自商品」でした。

画期的な車高調整装置は乗車人数や道路状況に関係なく姿勢を維持できて安定したハンドリングを獲得できました!

電動制御の4輪にトーションバーの補助スプリングを備えたサスペンションで、各トーションバースプリングを個別に補正する電動モーターを備えた米国初の車高調整システムでした。

この特許を避けるためにその後に、競合メーカー(やアフターマーケット)からエアバッグ(小型タイヤ)を用いたエアスプリングが登場して今に至っているわけです。

(※車高調整装置の最大のメリットがこれであり、昨今流行りの"シャコタン"が目的ではありません!、特に大型1BOXSUVでは前後サスペンションの加重変化が大きく登場人員によってアライメント変化が大きくなり、1名乗車と9名乗車ではハンドリング&乗り心地共に大きな変化が生じやすいものですが、車高調整装置を採用すると驚くほどの効果を発揮して積載量に関係なく!安定したハンドリングが保てます)

さらに新規開発されたOHV 352立方インチ(5.8 L)のV型8気筒エンジンは何十年にもわたって使用されていた古くて、重い、鋳鉄製のサイドバルブ!の直列8気筒を置き換えることができました。

(しかしこのエンジンは、急いで開発したエンジンだったので、先発メーカーのリバースエンジニアリング品にしかすぎず、かつてのパッカードのような先進的な技術は見当たらない重くて鈍重なアメリカンV8エンジンでした!)

さらにパワーステアリングや真空サーボブレーキ、パワーウィンドウなど、さまざまなパワーアシスト装備で、大幅な利便性、快適性、工場を果たしました!(但し当時すでにアメリカ国内の全メーカ標準装備だった、エアコンはオプションでした!)クリッパーを含む1955年モデル年の販売は55,000台にとどまりました。)

しかし悪いことに、十分な耐久試験ができないままに市場に出た新機能はトラブルを多発させて「リコール問題」となり翌年は販売数量が激減しなおかつリコール処理に大損失を出しました。

Studebaker-Packard Corporation(SPC)の設立

焦ったJames Nance は最後の賭けに出て(Studebakerが情報開示を拒否したために!)十分な事前調査も行わずに1956年にStudebake本体も買収してStudebaker-Packard Corporation(SPC)を設立しました。

しかしこの時にはPackard が思っていたよりもStudebakerの経営状況は悪く破綻寸前でした!

SPCの誕生は、Packardにとっては致命的な誤算でした!。

合併時パッカード自体は依然として健全な財務状況にありましたが、スチュードベーカーは破綻寸前でした!

スチュードベーカーの財務内容が合併後のパッカードを次第に圧迫してパッカードの運命を狂わせることとなってしまいました!

Studebaker-Packard Corporation(SPC)成立後、James Nanceは責任を追及されて1956年に解任されました。

カーチスライトがジェットエンジンに興味をもって接近

Packardが戦時中以来開発を続けてきた航空機ジェットエンジも実用化して販売されていましたがこのエンジンに魅かれたカーチスライトが「かじ取りを」を引き受けました。

しかし手遅れ状態だったStudebaker部門の経営状況は門外漢?の飛行機屋では梃子入れできなくて業績が一向に改善しないまま当初の契約通り3年で手を引きました。(この間折角手に入れた北米でのベンツの販売権を破棄したいしています、所詮飛行機屋はプライドだけ高くて自動車に疎い連中なのでしょう?)

放り出されたSPCの重役会は有ろうことか!収益性の高かったPackard 部門を廃止して、一見生産性の高かったStudebaker部門に集約する決定を行いました。

しばらくはPackardブランドも Studebaker車のリバッジモデルとして存続しましたが

1957年モデルのパッカードクリッパーは、Studebaker車のリバッジモデルで、もはやかつてのようなhigh-priced luxury American automobil marqueではなくなっていました。

1958年のモデルは、単に「パッカード」として発売されました。

新しいボディスタイルが導入され、2ドアハードトップと4ドアセダンでした。

そして現在日本に増えた"カスタマイズショップ"で盛んに行われているようなプラスティックパーツを覆いかぶせて造形する最初の市販車となりました。

案の定、市場の反応は冷たくて殆ど客の手に渡ることはありませんでした!

そしてこのモデルイヤーがPackard ブランド最後の年になりました!

1960年Packard ブランドは葬られて永眠につきました!

歴史に「もしもあの時...」はあり得ませんが、経営陣が御身可愛さの私利私欲に走らず、創業者の遺志を引き継いで判断を誤らなかったらPackardは米国製ヴィンテージカーブランドして21世紀の今も生き続けていたかもしれません...

第3節 Studebaker(スチュードベーカー) 

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創業者のスチュードベーカー兄弟がStudebaker Brothers Manufacturing Companyを1852年に創業して荷馬車の金属部品製造を始めたのが起源です。

その後sulkyやガラス窓を備えたlandauletを作るようになりコーチビルダーに転じました。

1874年に工場が大火に遭い工場施設の3分の2を消失ました。

1875年新たにサウスベンドの20エーカー(8ha)もある広大な敷地に再建しました。

1889年には、当時の米国の23代大統領ベンジャミン・ハリソンが大統領専用馬車としてスチュードベーカー製の馬車を購入しています。

この時期にはサウスベンド工場は100エーカー(40ha)近くの規模となり、『世界最大の車両工場』となり500のアーク灯と白熱灯が夜通し白光を放っていました。

1893年の世界的な景気低迷により販売は一時低迷して工場は5週間閉鎖されました!

労使関係は良好であり、組織化された労働力は雇用主への信頼を宣言しました。

19世紀の終わりには約3,000人の労働者を抱えるサウスベンドの工場では年産10万台以上の馬車が生産されていて、全米1・世界1位のbuggy(4輪馬車)とwagon(荷馬車)の馬車工場となっていました。

20世紀に入ってから

1897年から研究をはじめていたは電気自動車!の製品化して1902年に最初のAuto Mobilを発売しました。(1911年に終了)

1904年にはArthur Lovett Garfordと共同でガソリンエンジン車のコーチビルダーに進出してガーフォード製のエンジンを搭載した車両には、Studebakerという名前が付けられ始めました。

やがて GarfordはStudebakerから供給ボディーにGarfordの名前を付けるようにないり、r Studebakerはプライマシー条項によって1907年にはGarford の名称を削除する決定が下され、最終製品は1911年までにGarfordの組立ラインからロールオフされた車両は1913年にJohn North Willysの手に渡るまで放置されていました。

Garford とは別に E-M-F Company ともボディーの供給契約を結びEMFでアッセンブルした車両をStudebakerの販売網でデリバリしていました。

Studebakerは1908年にEMF株の3分の1を購入し、1910年には残りのすべてを株式を買収して、後に第2次大戦後にStudebaker Canadaとなるオンタリオ州にあるウォーカービルの製造工場を購入しました。

また1911年1月には旧フォードPiquetteアベニュー工場を購入して1933年まで組立工場として使用していました。

Studebaker Corporationの誕生

Studebaker Brothers Manufacturing Companyは1911年2月14日にStudebaker Corporationとして法人化されました。

同年1902年以来続いた電気自動車の製造も終了しました。

会社設立に当たっては有名なLehman BrothersGoldman Sachsの投資を受けましたた。

前途した1910年に入手が完了したEMFの各工場施設で生産された低品質!の車両を今で言うリコール対象として当時100万ドルの費用をかけて改修を行いました。

そして以後Studebakerブランドでの車両製造を始めました。

その後1914年7月28日に勃発した一次世界大戦時にイギリス政府からの特需とフランス・ロシアの各政府からの特需で1918年11月11日の終戦まで潤いました。

この間1913年の6気筒モデルは、世界初のモノブロックシリンダー鋳造(※81)の車となりました。

参※81)それまではクランクケースに独立したシリンダーを植える?空冷のモーターサイクル風のエンジンが主流でした。

また終戦後1915年7月にアルバートラッセル・アースキンが新社長に就任しました。

Studebaker の馬車の製造は1919年に最後のワゴンを受注して終了しました。

その後馬車の製造工場は前途した強力な6気筒エンジンを使用したトラック、バス、消防車、さらには小型鉄道機関車キットの製造工場になりました。

1926年に、スチュードベーカーは米国初のproving ground(※82)をオープンさせました。

参※82)当サイトシリーズ記事 バス・トラックメーカーのPGはこちら。

1930年代の世界大恐慌の影響

1929年9月4日頃から始まった米国株式市場の暴落に端を発して1929年10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落(通称ブラックチューズデー)の影響で世界恐慌が始まり1929年から1932年の間に、世界の国内総生産(GDP)は推定15%減少しました。

その為高級車を中心に事業展開していたStudebaker も打撃を受けて経営危機に直面して

1933年3月18日にStudebakerは管財人の手に渡り、アルバートR.アースキンは1933年7月1日に自殺しました...

後継者のハロルドヴァンスとポールホフマンが再建に尽くして、出資者のリーマンブラザーズも多額の貸付支援を行い、1935年3月9日に新組織となりました。

Virgil ExnerとRaymond Loewyによって設計しなおされて1939年に登場したStudebaker Corporationは、景気回復とも重なりStudebaker全体の売り上げを前年比を2倍まで回復させました。

1939年に始まったナチスドイツのヨーロッパ戦線にアメリカも巻き込まれて参戦する1941年まではStudebakerも特需景気で順調位に回復して、開戦前の1938年に造ったカリフォルニア州バーノンの新工場も特需に貢献しました。

終戦後

戦時中も戦後の市場に向けて新車開発を続行していて戦後の1947年には同業他社に先駆けて早くもStudebaker Starlight coupéを登場させています。

1948年8月18日にはStudebakerとして最後まで残ったオンタリオ州ハミルトンにある Studebaker CanadaのStudebaker組立ラインからStudebaker four-door sedanをラインオフさせました。

1949年 残っていたスチュードベーカー社長ポール・G・ホフマンとロイ・コール(副社長)は、世代交代を図ったヘンリー・フォード2世率いるフォードと同じく戦後のGMが巻き起こした価格戦争についていけなくなりました。

これは1953年の春にフォードが大幅に生産を拡大したことから始まりました。これは、1931年以来GMが保持していた世界最大の自動車メーカーの地位を奪取することを目的戦後のフォードの拡張プログラムの一環でした。

そのため、Studebaker単独ではどうにもならず, Packard, Hudson, and Nash iとの合併で乗り切ろうと考えました。

4社統合を目論んだ George Walter Masonが1954年5月1日にNash-Kelvinator CorporationHudson Motor Car Companyを合併して American Motors Corporationを誕生させて第1段階を達成しましたが、スチュードベーカーはこの統合には参加しませんでした。

1950年以降、スチュードベーカーは急速に衰退して、1954年までに膨大な債務を抱えてしまいました。

より小さくても健全な財務状況のPackardから買収の申し入れがありそれを受け入れました。

合併に先立ち1954年にカナダ国内の子会社Studebaker of CanadaとPackard Motor Company of Canadaが合併してStudebaker of Canada Ltd.となりました。

当時まだ優良企業だったパッカードは1956年にStudebakerを買収してStudebaker-Packard Corporationと改名された新会社はJames J. Nanceの指導の下両方を作り、販売し続けましたが競争力をなくしていたPackard車 は1958年で生産打ち切りとなり再度「Studebaker Corporation」に改称しまして1962年までStudebaker ブランドの生産が続けられました。

この統合後もAMCからラブコールは続きましたがPackardから乗り込んで新社長となったJames Nanceは総合するメリットがないとして拒否し続けました。(この2人は以前からライバル関係にあったことがJames Nanceが拒否した理由ではないかともいわれています?)

1956年に航空機メーカーのCurtiss-Wright管理契約を結び再建を試みました、 CWの社長だったロイT.ハーレーは、業界で最も高かったスチュードベーカーの人件費・雇用条件に手を入れました。

1941年以来すべてのパッカードのボディを供給していたBriggs Manufacturing Companyは1953年後半にクライスラーに買収されていました。

さらにCWの指導のもと、Studebaker-Packardは古いデトロイトパッカード工場も売却して当時の新しいパッカード工場をコナーアベニューに集約しました。

CWはメルセデスベンツのアメリカの輸入業者となっていたStudebaker Canadaも手に入れました、CWは遊休自動車工場の利用と航空機の利益に対する減税を獲得し、Studebaker-Packardは自動車の生産を継続するためにさらに運転資金を受け取りました。

しかし1959年にCurtiss-Wrighは手を引きました。

自動車メーカーとしての終焉

再設計された compact Lark(1959)や Avanti sports car (1962)など、多様化プロセスが始まった後のも、リーフスプリングの古いシャーシと旧型エンジンの転用でした。この頃のヒット商品Larkは、1953年登場の頃は人気があり、130,000台以上を販売し、Studebakerに2860万ドルの利益をたたき出し。新星Studebaker Corporationが手掛けたSPは1958年の56,920ユニットから1959年の153,844代に上昇しました。

しかし、1960年にビッグスリーメーカーが独自のコンパクトモデルを導入した後、ラークの人気はは急激に衰え、1961年に競合他社から続々と「上級コンパクト」がデビューすると販売不振は深刻になりました。。

1962年1月1日から始まり、38日間続くサウスベンド工場でのストライキが発生した為に1962年の売り上げ高にもかかわらず、スチュードベーカーが自動車事業を去ろうとしていたというメディアの報道は、販売店が他社に鞍替えする猶予を与えてました。

1963年までに、会社のすべての自動車とトラックの売れ行きが落ち込みました。

1963年本拠地サウスベンド工場の閉鎖!


1964年モデルの初期販売が不十分で、シャーウッド・エグバート社長が辞任した後、1875年以来の本拠地サウスベンド工場を1963年12月20日をもって閉鎖しました!、

その後もカナダの工場では1964モデルを市場にデリバリするために操業を続けてアバンティほかのモデルが生産されました。

Studebakerが1964年初頭に残りの注文を履行した後、トラックの製造は中止されました。

その後South BendのStudebakerから余剰品が見つかり、スチュードベーカーとパッカードのディーラーに売却されました。

彼らは1965年に「Avanti II」というブランド名で車を復活させた。一部の車両は、愛好家とディーラーが残った部品から組み立てて、Avantiブランドで販売されました。

彼らは同様に、Studebakerのトラックの権利と工具、および同社の膨大な部品と付属品の在庫を購入しました。

一部の「1965」モデルのChampトラックは、残されたキットと部品を使用して南アメリカで製造されました。

最後まで完成車の生産・販売に踏み留まろうと努力したGordon GrundyとStudebaker of Canada

本国の合併に先立ちカナダパッカードと1954年に合併してStudebaker of Canada Ltd. となっていたカナダの子会社を任されたのがGordon Grundyでした。

1962年10月にはカナダでのメルセデスベンツ(とDKW)を輸入販売する権利を取得しました。しかし1965年にメルセデスベンツとの関係は終了しました。

さらにVWの輸入も行いStudebaker の販売店網にデリバリーして車1台あたり(たった)150ドルの粗利を稼いでいました。

さらに Datsun(日産)の輸入事業も目論見、一部の高級車はStudebakerのRebadge model としてOEM生産してもらう目論見でした。

1960年代初頭は自動車ビジネスに意欲もあったStudebakerの取締役会はGordon Grundyを日本に派遣して日産とのOEM交渉交渉に当たらせましたが日本滞在中にToyotaが超高級車センチュリー(1967年発売)の開発を行っていることを知った重役会から日産との交渉を打ち切りトヨタと交渉するように指示が入りました。

トヨタは日産がお目当ての交渉相手だったことを知りプライドを傷つけられて交渉は拒否、日産も天秤にかけられていることを知り双方ともに交渉は決裂しました!Gordon Grundyは失意の内に手ぶらで帰国を余儀なくされました。

もしもこの時...TOYOTAとのOEM交渉が成立していたら、CENTURYはStudebakerブランドとして米国上陸を果たし、その後切り売りされたStudebakerブランドを手に入れて真の世界1になることができたかもしれません?(※93)

参※93)当サイトシリーズ記事 今のTOYOTA・HONDAに欠けているものとは?はこちら。

1966年ハミルトン工場閉鎖

Gordon Grundyの下に最後までStudebakerブランドを守り生産を続けたStudebaker of Canada のハミルトン工場が1966年3月に閉鎖されてStudebaker は自動車製造業から完全に撤退しました。

最後に製造されたスチュードベーカー車は1966年型クルーザー4ドアセダンです。
高い収益性を持つもつとされたクルーザー4ドアセダンですが1966年3月まで(年産40000台規模の)生産工場だったカナダのハミルトン工場では年産20000台(月産数千台?)では採算が取れなくなり、Studebakerの取締役は、小さな利益では継続的な投資を正当化するのには十分ではないと感じました。

重役会は1967年モデルに向けて資金を調達するためのGordon Grundyの予算要求を否決して、1966年3月17日に自動車生産を終了することを決定しました。

実際には、カナダへの生産集中は、生産を徐々に減らし、最後まで残ってくれた販売網へのデリバリー義務を守る為の方便でした?

最晩年1965年と1966年のスチュードベーカー車は、General Motors of Canada Companyから供給されたV8「McKinnon」エンジンを使用していました。

閉鎖当時ハミルトン市の10番目に大きな雇用主で700人の従業員抱えていたStudebaker Canadaの閉鎖はハミルトン市にも大きな打撃を与えました。

自動車メーカースチュードベーカーの自動車生産終了後

スチュードベーカーのディーラーの多くは、カナダ工場の閉鎖に伴い、メルセデスベンツのディーラーや他の自動車メーカーへ鞍替えして行き残りを図ったり、廃業しました。

政府との防衛契約にも続いて車両を製造したStudebakerのGeneral Products Divisionは、サウスベンドで軍用および郵便用車両を製造していたKaiser Industriesによって買収されました。

そして1970年に、アメリカン・モーターズ(AMC)は、いまも残っている部門を購入しました。

アメリカ最古のPGは1966年にベンディックスがさらにその大部分を1996年に電装品メーカーのボッシュに買いとられました。

同じくボッシュの手に渡っていたサウスベンドでの操業を閉鎖した2011年後も試験場の一部が保持されて2013年4月の時点で、「New Carlisle Test Facility」という名前で使用できるように復元されました。

1967年5月、Studebakerとその多様なユニットは1891年創業のWagner Electricに転売されました。

資産を分割売却処分したスチュードベーカーはその後1967年11月に転売先の一つであるWagner Electricと合併してStudebaker-Worthingtonとなり1979年に McGraw ElectricとなりStudebakerの名称はアメリカのビジネスシーンから姿を消しました。

1985年には自走車部品のアフターマーケットに部品を供給しているCooper Industriesに買収されましたがCooper Industriesは2018年10月にTennecoに買収されています。

この時点でクーパーインダストリーズは、自動車部品部門をFederal-Mogulに売却しました。

更に2012年11月26日アイルランドのEaton Corporationに買収されました。

McGraw-Edison自体は、1985年にクーパーインダストリーズによって購入されました。

というわけで、嘗ての栄光ある世界1の馬車メーカーStudebakerは連れ合いとなった名門Packardともどもに埋葬されて?永い眠りについています!

完成車メーカー以外の道を求めて

1960年代初頭までに、Studebakerは自動車から離れて事業の多様化の道を模索し始めました。

資金の目途を立てて数多くの企業が買収されたり、新規事業を起こして、さまざまな分野でのStudebakerとしての生き残りを策を模索しました。

同社の1963年の株主に対する年次報告書には、次の部門がリストされていました。

これらの企業の中には、分割転売されても今もある企業や、その後無くなった企業など様々ですが、Studebakeが必死で生き残りを賭けていた事業であることは事実です。

Clarke(https://new.nilfisk.com/en-us/clarke/
CTL - オハイオ州シンシナティのミサイル/宇宙技術部門
Franklin- ミネソタ州ミネアポリスのアプライアンス部門。White Sewing Machine Companyに売却されるまで、大手小売店向けのプライベートラベルキッチンおよびランドリー器具を製造。
Gravely Tractor - ウェストバージニア州ダンバーのトラクターズ部門とジョージア州アルバニー
International -インディアナ州サウスベンド(海外で事業を行うすべての部門のビジネス問題を処理)
Cummins Onan - ミネソタ州ミネアポリスのエンジン/発電機部門
Paxton Automotive -自動車用過給機
STP - 化学物質部門。自動車用エンジン添加剤を生産。
Schaefer -商業冷凍部門、
Studebaker of Canada - オンタリオ州ハミルトンの自動車製造
SASCO - Studebaker Automotive Sales Corp.
Studegrip -タイヤスタッド課、サウスベンド、インディアナ、ジェファーソン、アイオワ州、およびミネアポリス、ミネソタ州

Trans International Airlines (TIA)

偉そうなことを言わせていただけば?

幹となる本業が儲かっているときに、枝葉(えだは)的に周辺企業の買収や新たな関連事業を起こすとかの事業拡大は必要でしょうが、本業が火の車になってしまってから悪あがきで?で後日資産を分割転売して資金繰りに使おう等と甘い考えを持って、全く脈絡(技術展開・既存の販売網)がない異業種のベンチャービジネスに新規参入しても、そんな子会社に買い手がつくハズイもなく、足元を見られて叩かれて、投資を回収できないどころか"大損をこいて"ますますビジネス全体が"苦境に立たされる!"という事ではないでしょうか?

嘗てのように「高い技術力」を持つ製造業に惚れこんで、大金持ちが投資・融資をしてくれる時代ではなくなってきています。

投資ファンドが、欲しているのは「投資に見合う見返り」であり、投資相手の企業の繁栄・永続などは眼中にありません!

合理化(リストラ)でスリム化を図って、見かけ上利益の出るように見せかけて、買い手がつくうちに「事業を分割転売して」投資を回収したい!だけです。

製造業では、生産設備が旧態化して生産効率が悪くなると「動産価値」そのものが薄れて「ハゲタカ(投資ファンド)」も見向きもしなくなり、身動きが取れない状態で起死回生の治療法もなくなり「衰弱死」を待つ以外に打つ手も無くなるのでしょう!

結果的に「日本とは違う能力主義?」だといっても「職工」は「職工」さらに高度に自動化が進めば進むほど「特殊技量」の発揮できる職場は少なくなり、季節労働者でも事足りる現在、「ブルーワーカー」「ホワイトワーカー」に関わらず高学歴を持たない人たちが「斜陽産業・斜陽ビジネス」の一従業員として働くのはよほど慎重に考えないとならないでしょう。

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『人は歴史から多くの事を学んだ』といわれていいますが、

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多くのVintage Brand Carはお金儲けの手段として"ブランド転がし?"に利用されて、転々と投資家の手を渡り"埋葬?"されたり、大メーカーの思惑で"ブランド復活"して企業イメージの向上ために"ハクをつける"ことに利用されたりしています。

そんな"時代の流れ"に翻弄されたVintage Carの数々を綴ったシリーズ記事です。

狸穴総研 経済研究所 出自多留狸

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公開:2020年8月17日
更新:2022年8月24日

投稿者:狸穴猫

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