狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

イギリスの高級ブランド車

前書き(要約) 馬車時代から続く有名コーチビルダーの系譜

歴史ある 大英帝国 で育まれた ヴィンテージカー

歴史ある大英帝国は、貴族社会の国でもあり、長く続いた馬車時代から彼らが御用達としていた今も残る歴史ある「コーチビルダー」が群雄割拠?して手作り高額車両を製造していた国でもあります。

英国病が常態化したこの国の輸出産業は、今やスコッチウィスキーとhigh-priced luxury automobil marquesしか残されていないようです...

蒸気機関車を発明した馬車王国だった"大栄帝国?"

嘗て、動力革命で大英帝国が栄えていた頃、Inter-City蒸気機関車馬車に取って代わりましたが...

自動車が登場してからも街中は馬車であふれ、自動車は街中では赤旗法で馬車以下の歩行者同然のスピードで...

《時代の流れに翻弄された Vintage car Brand 》§2 の目次

※リンクについて

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第1節 Jaguar Cars (ジャガー) 

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Official Site https://www.jaguar.com/market-selector.html

2008年3月にランドローバーと共にインドのタタ・モーターズ(1945年創業1990年代乗用車生産開始の戦後の企業)に売却されて同社の子会社となっています。

1922年に「スワロー・サイドカー・カンパニー」として創業しました。

第1次大戦前の1920年代のイギリスでは、手軽な?モーターサイクルメーカーが無数?に存在していてそれに"快適なキャビン?"を付けたサイドカーが流行っていました。

当時のイギリス製サイドカーの殆どは、鋼管パイプフレームに、軽量なアルミ外板のボディーと幌をコンプリートしたデザイン(設計)でした。

1926年には新たに移転した新しいガレージで自動車のボディ修理も手がけるようになりました。その後自動車ボディーの架装業コーチビルダーの世界に足を踏み入れました。

1927年に、BMWもバッジエンジニアリングで製造した事のあるベストセラー大衆車オースチン・セブンのシャシに、「スワロー・サイドカー・カンパニー」でデザインした高級感のあるアルミ製ボディに換装したモデル「オースチン・セブン・スワロー」を発売しました。

1928年に社名を「スワロー・コーチビルディング・カンパニー」に改称して当時英国自動車産業の中心地だったコヴェントリーに居を移して、複数のメーカーからベースとなる車種を調達してオリジナルボディを架装して、内装も本革やファブリックを使い豪華に仕立て直すコーチビルダーとして成功しました。

さらに戦前の1933年には、「SSカーズ」と社名を解消して自社設計のシャシーフレームに量産車メーカー・スタンダード社製の実用エンジンを搭載した「SS1」と「SS2」を発売て大ヒットしました。

イギリスの高級車で上のクラスに属するベントレーをも思わせる見栄えの良いエクステリアと豪華な内装を備えていてコスパが良かったので不況下でも堪えない中産階級(日本で言うお金持ち)に受けて予想以上の好成績を上げました。

しかしジャーナリスト、自称自動車評論家、マニアたちからは「見かけ倒しのまがい物」と侮られましが所詮そういう人たちは顧客層ではなく...

1935年にはエンジンも独自設計して「ジャガー」という車名を付けて「SSジャガー2½」として発表、続いて大排気量エンジンを積んだスポーツモデル「SS90」「SS100」を相次いで発売しました。

これらの新しいジャガーシリーズは優れたスタイリングと豪奢な内装に加え、強化されたエンジンと量産効果によるコストダウンで、ベントレーやアストンマーティンなどの高級車高性能車に劣らない性能と仕上がりでそれらより遙かに安い1/3以下の400ポンド足らずの価格で販売されて当時の中産階級のみならず富裕層(富豪)からも高い支持を得ました。

この頃から、上級車製造を事業の中核に移していった。上位メーカーに劣らない内外装デザインや性能を、相対的に安価で顧客に提供するというこの手法は、現在まで続くジャガーの基本ポリシーの1つとなる。

終戦後

社名の「SSカーズ」、ブランド名の「SSジャガー」はかつての敵国であるドイツの国家社会主義ドイツ労働者党の親衛隊の略称「SS」と重なり、その好ましくないイメージを想起させるため、第二次世界大戦後の1945年に社名を「ジャガー・カーズ」、ブランド名を「ジャガー」に変更した。

1948年に復興した工場で戦後型スポーツカーのXK120の生産を開始して、その流麗なスタイリングと高性能、高級感あふれる仕上がりはライバルのアストンマーティンやベントレーと比べて優れたコスパを持っていたので大人気となり、高性能車ブランドとしてのイメージを決定付ける重要なモデルとなりました。

その多くが、戦火を免れて好景気だったアメリカに輸出されて裕福層に売れて発展型のXK140やXK150と共に、戦災の復興下にあったイギリス経済にとって貴重なドル獲得源となりました。

1960年デイムラー買収!


1893年に次項で述べる同じコヴェントリーにあったデイムラーの工場を手に入れて生産増大を図りました。

品質を落とさずにプラットフォーム(シャシー&ボディー)の共通化によるリバッジ(Rebadge)モデルとなったデイムラーも、それまでより大幅なコストダウンが実現してジャガーの重要なVintage Brandとして残しました。

1963年に1961年から始まった1500ccFI時代に一世を風靡したFWMVエンジンを開発した1903年創業のCoventry Climax(※7)も買収して傘下に収めました!

これによりジャガーのエンジン技術は当時世界最高レベルに達しました!

(※7)小生が子供のころのFI界ではフライング・スコッツと呼ばれたジム・クラークと共にフェラーリなど寄せ付けない常勝エンジンでした!

その後

1966年7月に、初代miniで有名なオースティン 、Morris、MG、などのブランドを抱えたBMC(British Motor Corporation)との合併を行いBMH(British Motor Holdings)を結成しました。(企業集合体のホーディングスでした)

1968年 BMH主要モデルの販売不振からイギリス政府指導の下にスタンダード・トライアンフ(1960年買収)、ローバー(1967年買収)等のブランドを持つ1896年創業の「Leyland Motors」との事業統合を決め「British Leyland Mortor Company(BLMC)」となりました。

大英帝国病に感染?して弱り目に祟り目に...

BLMC統合は大失敗に終わり、品質低下を招きこれ以降のジャガーは、大衆車並みの品質でアメ車と大して変わらない位のほど品質が低下しました。

その後に起こった1973年10月6日に第四次中東戦争の余波でオイルショックが世界に広がり、BMLCに深刻な打撃を与えて借金まみれとなったBMLCは1975年8月に国営化されてBritish Leyland (BL)となりました。

1979年には当時頻発していた労働争議の影響もあり、更に生産が落ち込みBLMC当時の半分以下(年産14,000台!)に迄落ち込んでしました。この年にジャガーは社外からジョン・イーガン氏を新たな経営トップとして招きました。

イーガンは時代遅れは乱れた生産体制や経営の改革に着手し、作業員の意欲向上、ジャガー本体のみならず取引先メーカーから納入されたパーツ類への厳格な品質チェックの実施、経営側と社員側が品質向上のため直接話し合うという日本企業並みの品質管理(QC運動)、販売手法の刷新と顧客からのフィードバック反映、そして経営のリストラを推し進めた。この改革はすぐに結果となって表れ、ジャガーの品質は改善し生産台数も急回復した...

1984年、ジャガー、デイムラー事業部が国営企業BLから分割民営化される

その後の1984年...は再び民営化された...

ジャガーの立て直しに貢献したイーガンは、1986年に創業者のライオンズ同様に王室より「ナイト」の称号を授かる。

1985年からは世界耐久選手権(WEC)に参戦し、1986年にはXJR-8でシリーズチャンピオンを獲得、さらにXJR-9LMで31年ぶりに1988年のル・マン24時間レースに優勝し、かつての名声を取り戻すことに成功した。

イーガン院長?の処方箋?による治療?も大英帝国病を完治するには至らず!FORD病院に転院?

1989年に、ブランドイメージを高く評価したフォードグループが、(破格の)25億ドルで(累積負債込みで)ジャガーを買収し、フォードの傘下に入ることとなる。

フォードは1999年に設立した社内ディビジョン Premier Automotive Groupを立ち上げて世界中の高級ブランドを集結しました!(その後Ford本体の経営再建の為に2006年から2010年にかけて徐々に解体されました)

同時期にバーゲンセール?中だったイギリスの高級車ブランドのランドローバーやアストンマーティン、自社のリンカーンなどとともに、PAGを構成する需要な存在でしたが...

何を勘違いしたのか、"マスプロの典型アメ車"の大衆車FORDと部品の共通化を進めてしまい、品質・人気共に急落!してしまいました。

21世紀に入り2001年の同時多発テロの余波でアメリカ経済が急速に低落して高級車市場も冷え込み、それよりなによりFORD本体が深刻な経営危機を迎えてPAGは切り売り状態となり、2008年3月にランドローバーと共にインドのタタ・モーターズ(1945年創業1990年代乗用車生産開始の戦後の企業)に売却されたました。

第2節 Daimler (ディムラー)  

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由来はガソリン自動車開発者の1人として名を残すドイツ人のゴットリープ・ダイムラーで、ダイムラーの開発によるガソリンエンジンをイギリスで生産する目的で起業されたことによる。《Wikipediaより引用》

1893年に、創業者のフレデリック・リチャード・シムズが"大英帝国"内のイギリス本国およびイギリスの(カナダを除く)全植民地!におけるダイムラーエンジンの製造・販売権を手に入れロンドンにデイムラー・モーター・シンジケート(Daimler Motor Syndicate )を設立しましてモーターボート(パワーボート)へのダイムラーエンジンの架装をはじめました。

当時イギリスではまだ自動車走行速度を制限する赤旗法?が施行されていた時代でもありました。

赤旗法が廃止された1896年、創業者シムズから会社を引き継いでいたハリー・ローソンは会社をコヴェントリーに移転し、社名をデイムラー・モーター・カンパニー(Daimler Motor Company )と改称して、シャシー・ボディーはフランスのパナールのバッジエンジニアリング、エンジンだけが独ダイムラーのバッジエンジニアリング品という仏独混成?の完成車両を製造・販売開始しました。

...1900年にはデイムラーがイギリス初の王室御料車に指名され、6馬力のフェートンが王室に納入されている。これにならって各国の王室でもデイムラーを御料車として採用するようになり、日本の皇室も1912年、初の御料車にデイムラーを採用している。

1910年 バーミンガムのバーミンガム・スモール・アームズ(略称BSA)の傘下に入り、軍用車両の製造を開始しました。


1960年にデイムラーの親会社のBSAはジャガーに340万ポンドでデイムラーを売却してしまいました。

1962年にはジャガー・Mk2のラジエターグリルをデイムラー伝統のフルーテッドに改め、デイムラー製V型8気筒2.5Lエンジンを搭載したデイムラー初のバッジエンジニアリングモデル、2½V8サルーンがデビューしている。

1968年から1992年にかけて製造・販売された「デイムラー・DS420」を唯一の例外として、すべてのデイムラーの車種は、ジャガーのバッジエンジニアリングモデルで占められるようになる。《Wikipediaより引用》

2008年、親会社ジャガー諸共インドの自動車会社タタ・モーターズに買収されました。

第3節 Rolls-Royce (ロールスロイス) 

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上流階級の家に生まれたチャールズ・スチュアート・ロールズとリンカンシャーの貧しい製粉業者の家に生まれたフレデリック・ヘンリー・ロイスが別々に会社を起業した2人が1906年に合同で興した会社がRolls-Royce Ltdです。

1920年代までは、高級車オーナーはボディのないベアシャーシを購入し、外部のコーチビルダーに発注して好みのボディを架装するのが、ロールス・ロイスに限らない馬車時代からの伝統であった。しかし世界恐慌以降の1930年代からはレディメイドのボディが一般化し、ロールス・ロイスも有名コーチビルダーのパークウォードやH・J・ミュリナーで標準ボディを架装させることになりました。

1931年Bentley を買収

1931年には、ル・マン24時間レースなどで数々の勝利を収めながらも経営不振に陥っていた1919年創業のベントレーを、創業者ウォルター・O・ベントレーから譲り受け、自社ブランドに加えました。以後のベントレーは1990年代までロールス・ロイスのバッジエンジニアリング(同一設計の兄弟車)でオーナー・ドライバー向けで幾分スポーツカー的なニュアンスを加えた姉妹車として存続したしていました。

第2次大戦中は軍事産業となって航空機エンジン専業に

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると自動車生産を中止し、航空用エンジンをはじめとする軍需生産に特化した。ダービー工場は、軍需工場としてドイツ空軍による爆撃の被害を受けている。なお、ロイスが最晩年に手がけた液冷V形12気筒エンジンは「マーリン」の愛称で改良を重ねつつ、第二次世界大戦中を通じて大量に生産された。

大戦終了後

第二次世界大戦後の1946年、工場はダービーからクルーに移転され、1947年から「シルヴァーレイス」の生産を開始した。第二次世界大戦後も、ロールス・ロイスは古くから培ってきた名声によって広い販路を得るとともに、特に本土がほとんど戦禍を受けなかったアメリカを主なマーケットとして販売を伸ばし続けた。

第二次世界大戦後の最上級リムジンとしては、1950年に復活した「ファントムIV」を皮切りに、1959年に「ファントムV」、1968年には「ファントムVI」が登場している。なお、第二次世界大戦前からの長きに渡ってイギリス国王の御料車はデイムラーであったが、1955年に「ファントムIV」がエリザベス2世女王の御料車に採用され、念願の頂点を極めている。また「ファントムIV」は、昭和天皇の御料車としても短期間使用されている。

1959年登場当初バッジエンジニアリング品とうわさされたV8エンジン

エンジンはオーバーヘッドバルブ(OHV)式で、角度は90度につけ、センターカムシャフトとくさび形の燃焼室を採用した。発売当初のボア×ストロークは4.1インチ×3.6インチ(104.14mm×91.44mm)、排気量は6,230cc(380cc)で、これを切り上げて6.4リッターエンジンと呼称した。

開発時、ロールス・ロイス=ベントレーV8はアメリカのエンジンデザインのライセンスによるエンジンと噂されたが、ロールス・ロイスとベントレーのエンジニアによって自社開発された。

ウェットライナー付きアルミニウム合金製シリンダーブロック、ギア駆動カムシャフト、(当初は)アウトボード点火プラグ、ロールス・ロイス製航空機用エンジンのマーリンに影響されたポート加工などに自社設計の特徴がある。ボア間隔は120.7mmで点火順序も1-5-4-8-6-3-7-2という、アメリカ製V8エンジンにはどの時代にあっても珍しい形となっている。深いスカート状のクランクケースデザインもアメリカのV8エンジンでは見当たらない特徴である。《Wikipediaより引用》

当時のロールスロイスではベンツなどの追い上げがきつく新たにv8エンジンを新規開発する余裕(資金力・時間)は無く、最新の高度な鋳造技術が必要な「高靭性鋳鉄」の技術も持っていなかったLLでは軽量な鋳鉄製のV8エンジンブロックを製造する技術はなく「シェルモールド法」で鋳造できる手慣れたアルミニウム合金製のデザイン(設計)を採用した鋳鉄スリーブウェットライナー入りのシリンダーブロックを持ったエンジンを開発したのでした。

為にこのエンジンは、当時の最新型鋳鉄ブロックのアメリカンV8と比べてアルミブロックなのに重量はあまり変わらず!かつ煩いエンジンでした!

1965年になってようやく近代化されたサスペンション

1965年に発表された「シルヴァーシャドウ」とそのホイールベース延長型「シルヴァーレイスII」、ベントレーでは「T」及び「コーニッシュ/コンチネンタル」)では、後輪独立懸架(セミ・トレーリングアーム式)が導入され、車体はフルモノコック構造となった。またゼネラルモーターズ製の3段ATをオプション設定するなど、これまでのモデルに比べて著しく近代化されている。また2ドア版をコンバーチブルにした「コーニッシュ」も1971年に追加されている。

ロールスロイスの足を引った航空機用ジェットエンジンRB211プロジェクトの大失敗!

第二次世界大戦中からジェットエンジンの開発を始めており、1949年に初飛行した世界初のジェット旅客機にも同社製のエンジンが搭載された。...1960年代、大型ジェット旅客機向けに開発中だった新機軸を大幅に盛り込んだRB211エンジンがトラブルを招いた...搭載が試みられた炭素繊維複合材料製のターボファンブレード...バードストライクの試験に合格できず、また採用試験運転中にファイバーが剥がれ落ちてしまう事故も発生した。...ターボファンのみを通常の金属製に変更することは不可能であり、エンジン全ての再設計が必要となった。この経過は、ロールス・ロイスにとって莫大な経済的損失となった。

RB211エンジンの失敗などによってロールス・ロイスの財政は逼迫して、

1971年には遂に経済破綻して公的管理下におかれました。

同社は国有化されることによって消滅を免れました。

1973年、自動車部門(ベントレーを含む)は当時同国の大手メーカーであったヴィッカースに売却して分割民営化されることが決定しました。

そしてRolls-Royce Motorsとなりました。

1992年に、ロールス・ロイス・モーターズはドイツの自動車会社BMWと提携しました。

1998年3月に発表された「シルヴァーセラフ」には、BMW製のV型12気筒エンジンが搭載されることになりました。(英国のダグラス社のモーターサイクルエンジンのリバースエンジニアリング から出発したBMWが高級車の本場イギリスの飛び切りの高級車にエンジンを供給するようになったのです!)

1998年に、親会社であるヴィッカーズはロールス・ロイス・モーターズを売却することにしました。

売却先は提携関係にあったBMWが有力であったものの、買収に成功したのは最高額を提示したドイツのフォルクスワーゲンであった。

ここで大問題が発生しました、ロールスロイスの商標は航空機エンジン部門となった国営企業 Rolls-Royce が1987年に再び民営化された Rolls-Royce Holdingsが保有したままでした、つまり Rolls-Royceの商標は同社の有償許諾なしには使用できない状況でした。

そこで、BMWとフォルクスワーゲン両社間が協議を行い2003年1月に、和解が成立して、「ロールス・ロイス」のブランドを冠した乗用車はBMWが製造・販売してフォルクスワーゲンは「ベントレー」のみを製造・販売継続する」ことで合意(契約)が交わされました。

2003年に「ロールス・ロイス」ブランドの乗用車を生産・販売する権利を獲得したBMWは同年、イギリス南部のウェスト・サセックス州グッドウッドに設立した新会社「ロールス・ロイス・モーター・カーズ」の新工場でロールス・ロイスブランドの乗用車を製造・販売することとなりました。

付け加えるなら、人的資産、製造ノウハウ、生産設備一切を購入したVWは従来からある工場でVW製エンジンを搭載したベントレーをハンドメイドでせいさんして、BMWは全くの新工場で「BMW]エンジンを載せたBMW自社で開発した全くの新車を「ロールス・ロイス」ブランドで製造するという事です!

嘗てのローバーでの失敗を繰り返さないように祈るだけですし...qualityは「超お金持ちのオーナー」になられた"貴方"だけにしかわかりません!

第4節 Rover (ローバー)

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1901年にローバー社 (Rover Company) が自動車の生産を始めて以来、イギリスを代表する自動車会社/自動車ブランドとして存在していたが、2005年をもって、その名前を冠する自動車会社や自動車モデルは消滅した。ローバーから派生したブランドとして、現在インド・タタ自動車傘下の「ランドローバー」がある。《Wikipediaより引用》

1878年創業の自転車メーカー!Starley & Sutton Co. of Coventry がローバー社の前身です。

1885年には今日の自転車の原型ともいえる前後のタイヤサイズが同じでチェーンで後輪を駆動する「ローバー安全型自転車」を発売しました。

1890年代後半に Rover Cycle Company Ltd. に改称して

1904年にRover Company Ltd.になり、 初めてエンジンを使用したオートバイと2人乗りの最初の乗用車ローバー・8を発売してAoto movil メーカーの仲間入りを果たしました。オートバイと自転車の生産は1925年まで行われていました。

大戦後の1947年に大戦中に大活躍したジープにヒントを得て、四輪駆動多用途車のランドローバーを発売しました。

1967年にレイランド・モーターズ (Leyland Motors) に買収されました。

この時期英国に蔓延した英国病はLeyland Motorsを蝕みついに1975年、破産寸前となり半国営化されて、国営企業「British Leyland Mortor Corporation Ltd. (BLMC)」の子会社となり「BL社 (BL Ltd.)」と改称しました。

一時はHONAと蜜月状態に!

1979年、本田技研工業(ホンダ)とのあいだでホンダがBL社株の20 %を取得し、BL社はホンダ英国子会社株の20 %を取得する日本で言うアライアンスを取り決めて。

トライアンフ、ローバーブランドで、バラードやレジェンドのリバッジカーが次々と投入されて成功を収めました!

1988年にBAe (British Aerospace)に買い取られて再びBAe 傘下の民間企業となりました。

1994年、突如としてBAe とBMWとの間で自動車部門The Rover Group Limitedの売買交渉が成立して、BMWの子会社となりました。

(この間1991年に親会社のBAe が有名な銃器メーカーモーゼル社の流れをくむ1950年設立のHeckler & Koch GmbH(H&K)を買収しており、国家間の政治力が働いて、BL社を取引材料にした邪推?もできます。)

しかしや1998年にロールスロイスのブランド入手にめどが立ちかけていたBMWは自社のラインナップと重複するBLCarsに興味はなく、1999年に発売された当時のBMWのリバッジモデルローバー・75は劣悪な整備性とエンジントラブルが多発して一気に自動車部門を赤字企業に転落させて、分割転売!することを決定しました。

そして2000年にはバーゲンセール?に出されて、ランドローバーをフォードが買い取りました。

その後残ったローバーとMGは、フェニックス・コンソーシアム(代表者はジョン・タワーズ。元ローバーグループ会長)に僅か10ポンドで厄介払い?されてMG Rover Group として存続しましたが2005年に見事に?倒産して従業員を除く!MGブランドを含む生産設備などの資産の大部分は、中国の自動車会社・南京汽車が買い取りました。

そして、2008年3月にフォードはローバーとデイムラーの商標を含むジャガーとランドローバーブランドをインドのタタ・モーターズに売却しまた。

現在、ローバーの商標権はタタ・モーターズが所有していますが、ローバーブランドの車両は消滅しました!

第5節 Aston Martin (アストン・マーティン)

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Aston Martinは1913年にRobert Bamford、Lionel Martin、が自らもレースに参加していたルイス・ズボロフスキー伯爵の資金援助のもとに「バムフォード・アンド・マーティン」を設立したのが起源です。

1920年には「スポーツ」がデビューしてこの車でズボロフスキー伯爵自らが数々のレースに参戦し、1923年には市販が開始されました。

1924年にはパトロンだったズボロフスキー伯爵がイタリアのモンツァ・サーキットのレースで事故死亡したために資金繰りが悪化して倒産!何とか再建しましたが翌年1925年にも再度倒産して創業者の一人マーティンが会社を去りました。

その後1926年にアウグストゥス・チェーザレ・ベルテッリが資金・開発に参画して、「インターナショナル」「アルスター」、「MkII」など、歴代の名車を次々に送り出して、1931年のル・マン24時間レースでは総合5位に入る健闘を見せました。

しかし量産とはかけ離れた生産方式やモータースポーツへの傾倒でたがくの負債を抱えて、1932年には再度経営危機に陥いることとなりました。

アーサー・サザーランドが手を差し伸べた、1936年以降は収益に直接貢献しないレーシングカーの開発とモータースポーツへの参戦から撤退して「15/98」や「2リッター・スピード」などの市販車の製造に専念することとなりました。

1939年9月ドイツの宣戦布告で第二次世界大戦が勃発したために高級スポーツカーの市場がなくなり、さらに戦時体制下に入ったため、「2リッター・スピード」を最後に市販車の製造販売から撤退して、軍需産業の下請け工場となり軍用機の部品の製造を行っていました。

終戦後の自動車業界復帰

終了後の1947年に、イギリスの実業家David Brownが起こした、トラクターをはじめとする工業機械などの製造業のグループDavid Brown limitedが倒産した高級車ブランドの「Lagonda」と「Aston Martin」の両社を統合して傘下に収めてAston Martin Lagonda Limitedを起こしました。

当時ラゴンダに移っていたベントレーの創設者のひとりエンジニアのウォルター・オーウェン・ベントレーもそのままアストンマーティンに移籍してラゴンダのエンジンデザインがアストンマーティンに使用されました。

1948年 大戦後、初のモデル「DB1」が発表された。さらに1950年にはウォルター・オーウェン・ベントレーがエンジンを設計した「DB2」と、立て続けに「DB」の名が付いたモデルがデビューしました。

これ以降のデイヴィッド・ブラウンのイニシャル「DB」がモデル名に付けられるようになりました。

1949年より「ル・マン24時間レース」に復帰して、1959年と1960年には、F1世界選手権にも参戦していました。

1955年のル・マン24時間レースと1956年、1958年には総合2位に入り、1959年のル・マン24時間レースでは、「DBR1」が強豪を退けて総合優勝を飾るなど、「黄金期」を築きました。

一定の名声を勝ち得たので1959年でモータースポーツへのワークス参加は終了しました。

1964年には「DB5」が、アメリカ映画「007シリーズ」の「007 ゴールドフィンガー」で「ボンドカー」に抜擢されたことで世界的な知名度を得て、1965年には改良型の「DB6」を発表し、最大の市場となるアメリカでの販売を伸ばすなど絶頂期を迎えた。

しかし1972年に親会社の「デイヴィッド・ブラウン・グループ」が経営不振に陥り、経営権を手放すことになりました。

同年にはウィリアム・ウィルソン率いる投資グループ「カンパニー・ディベロップメント」に、わずか100ポンド!で負債込みで経営権(発行株式)が移りました。

デイヴィッド・ブラウン時代と同様に順調に経営が回復する間見えましたが、生産する各モデルが、アメリカの新たな排ガス規制法に対応できなくなったことから、

1974年にはアストンマーティンにとって最大の市場であるアメリカから撤退を余儀なくされました。

このために運営資金にも事欠くような状況になったために急激な経営不振に陥りついに管財人の手に渡りました。1975年には数百人の従業員を解雇して工場を閉鎖するなど完全に休業」状態になりました。

同年4月カナダ人のJ・ミンデンとアメリカ人のP・スプラーグ、イギリス人のA・カーティス、D・フラザー、J・ターナーらが中心になった投資家グループとアストンマーティン・オーナーズクラブによる"救済ファンド"が誕生して再度売却されて、Aston Martin Lagonda Limitedとなりました。

1981年には石油開発及び流通企業の「ペース・ペトロリアム」を経営するイギリスの大富豪のヴィクター・ガーントレットに株式が売却されました。

1970年代後期に起きたオイルショック以降の不景気を受けて、本業の自動車製造の方は低迷を続けて再度従業員の解雇を行なわざるを得なかったものの "投資グループ"からの投資も引き入れたガーントレットの下で経営は安定を取り戻し、1955年に買収していた「ティックフォード」ブランドのエンジニアリング子会社で「フォード・カプリ」や「オースチン・メトロ」の開発を引き受けて事業多角化を進めました。

しかしニューポート・パグネル工場の旧退化した生産設備や、燃費効率が悪く、もはや時代遅れだったV8エンジンに代わる新エンジンの開発などの新規投資は行えませんでした。

Jaguar Carsの項目で前途した通り当時Vintage Brandを買いあさっていたフォード・モーターのヨーロッパ代表のウォルター・ヘイズと当時のオーナーのガーントレットが、パーティーで同席したことをきっかけに、フォード・モーターによるアストンマーティンの買収が急きょ決まり、1987年にはウォルター・ヘイズの持ち株はフォード・モーターに売却をされて同社の傘下となりました。

その後1991年に別の投資グループが持っていた残りの株式の取得がフォード・モーターにより完了してフォードから送り込まれたウォルター・ヘイズ率いるアストンマーティンの新しい経営陣によってさまざまな改革が行われました。

1994年には、フォードの最新の生産技術が導入されたバンバリーにある新工場で新モデル「DB7」がラインオフしました。

また、買収完了後にデイヴィッド・ブラウンが、新生アストンマーティンの役員として再び招かれて「DB7」以降の多くの主力車種では再び「DB」が車名に関せられました。

買収完了後もフォードが多額の資金を注入したことで、1990年代に入ると旧態化していた生産設備や研究開発への投資が強化されて、新しいエンジンや新技術を導入した新型車の投入も可能となり、世界各国で販売台数が増加しようやく経営状態が安定するようになりました。

また、「PAG(プレミアム・オートモーティブ・グループ)」のもとで、部品の共通化、共同購入によるコスト低減の試みもなされましたが...。

前途した2001年のアメリカで発生した同時多発テロのあおりで、2000年代中盤以降にフォード本体の経営が悪化したことから、3たびバーゲンセールに出されました。

2007年3月には前途したようにプロドライブの創設者であるデイヴィッド・リチャーズやクウェートの投資会社2社などにより構成される投資家グループに、売却されました。

なおその後フォードの「PAGグループ」は、ジャガーやボルボも手放し消滅しましたが、現在もアストンマーティンの株式の一部はフォードが所有しています。

2012年には、イタリアの投資会社「インベスティンダストリアル」が37.5パーセントの株式を取得して、さらに2013年には「ダイムラー(ベンツ)」との提携を開始しました。

また2014年には、元日産自動車副社長のアンディ・パーマーが経営最高責任者に迎え入れられました。

2016年には「メルセデスAMG」から供給を受けたエンジンを搭載した「DB11」を投入したほか、今後投入される新型車のエンジンはアストンマーティン製ではなく「メルセデスAMG」から供給されたものが搭載されると発表されました。

これで、BMWはロールスロイスブランドを手に入れて、ベンツはアストンマーティンのブランドに相乗りしたのです。

アストン自体は近年、新車の製造販売だけではなく、過去に製造出荷された自社の車両の「純正レストア事業」にも力を入れていて、旧型車両を購入した新興富裕層の要望にも応えています。

後書き 《時代の流れに翻弄された Vintage car Brand 》シリーズについて

『人は歴史から多くの事を学んだ』といわれていいますが、

『企業経営者は、歴史から決して多くを学ぶことは無かった!』ともいえるでしょう?

多くのVintage Brand Carはお金儲けの手段として"ブランド転がし?"に利用されて、転々と投資家の手を渡り"埋葬?"されたり、大メーカーの思惑で"ブランド復活"して企業イメージの向上ために"ハクをつける"ことに利用されたりしています。

そんな"時代の流れ"に翻弄されたVintage Carの数々を綴ったシリーズ記事です。

狸穴総研 経済研究所 出自多留狸

※hyper-linkについて

ハイパーリンクは事業者の Official Websiteを基本に、Wikipedia該当contentに直接リンクしてあります。

但し海外事情についての日本語版ウィキペディアは、英語版の"直訳"contentが多く、更に編集者(与党関係者?)に都合よいようにかなり"歪曲!"されたcontent(電子情報)が多いので、公正を期するために各国言語版 Wikipedia に直接リンクしてあります!

また、日本語版ウィキペディアは中学(教師)並み?の"直訳"が多いので、"意訳し直して"あります。

参)当サイト内関連記事 海外版Youtube 鉄道動画 と 各国語版ウィキペディアの勧め はこちら。

参)当サイト内関連記事 海外鉄道・ 空港関連 ご当地Wikipedia リンク集 はこちら。

思想(イデオロギー)に関するcontentについてのイエローフラッグ"糞"フラッグが多い!

特に歴史・イデオロギーに関するイエローフラッグは、ボランティア?で"管理人"としてウィキペディア事務局に関与している平和ボケした理想主義者、有識者?達が日"教祖"の偏向教育(大衆洗脳)方針に沿うように"注意喚起?"されており、ハッキリ言って"糞"フラッグです!

むしろ"糞"フラッグが立っているcontent(内容)のほうがfairness(公正)な立場の内容と言えなくもありません!

交通施策に関するcontentは運輸族のプロパガンダの温床に

但し、交通関係は、スポンサー(与党運輸族)の意向を強く反映しているので、イエローフラッグが警鐘(fairness)を鳴らしている場合もありますが...

更に、地名に関しては、Google地図検索を容易にするために、言語表記を基本に、(カナ表記)についてもGoogle 地図で使用されている「カナ使い」を使用しています。

又、引用句に関しては《XX語版》を明確にしています。

※但しhyper-link先は

  • ●日本語(カタカナ)表記は日本語版ウィキペディア
  • ●英語表記は 英語版 Wikipedia
  • ●オランダ表記は 欄語版 Wikipedia、ドイツ語表記は 独語版 Wikipedia、スペイン語は 西班牙語版Wikipedia 、イタリア語表記は 伊語版 Wikipedia
  • ●スランス語表記は 仏語版 Wikipédia、ポルトガル語表記は 葡語版 Wikipédia
  • ●ロシア語表記は 露語版 Википедия、
  • ●ラテン語表記は 裸展?語版 Vicipaedia
  • ●クネクネ文字?は 使用各国版 ويكيبيديا
  • ●中国語表記は Both China版 維基百科

にそれぞれ直接リンクしてあります。

※但しハングル表記 韓国語版 위키피디아 は著しく信憑性が無く!殆どが日本語版以下(50歩100歩?)の fake content なので無視!しました。(Red China版 維基百科のほうがはるかに信頼性があります!

当サイト内関連記事 日本語ウィキペディアが 鉄道(傾?)Youtuberから"こけ"にされる訳は... はこちら。

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公開:2020年8月13日
更新:2023年3月28日

投稿者:デジタヌ

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