狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

イタリアの高級ブランド車

前書き(要約) 全ての途はローマに通じる!ローマ帝国の栄光ある伝統・戦車を引き継ぐ続く

馬車時代からのカロッツェリアが支えるイタリアン・エキゾティックカー

ローマ帝国の時代から馬車が発達していたイタリアは、貧しいが情熱的な一般庶民と大富豪や貴族が同居?する国で、馬車の時代から続くカロッツェリア(コーチビルダー)がフェラーリなどのシャシーメーカーと組んで独自の高級車を綿々と制作し続けているお国柄です。

近年は嘗ての敵国米国のCHRYSLERもFCA US LLCとして傘下に収めるFiat Chrysler Automobiles NV(※1)の本家FIAT S.p.A.を育んだ国でもあります。

(※1)2020年7月15日 仏グループPSAと経営統合して「ステランティス」(STELLANTIS)となり、巨大多国籍企業グループとなりました!

《時代の流れに翻弄された Vintage car Brand 》§4 の目次

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第1節 Maserati S.p.A.(マセラティ)  

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1914年創業で2020年7月15日現在グループPSAと旧フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)が経営統合した巨大グループ「ステランティス」(STELLANTIS)傘下の子会社FIAT S.p.A.の所有となっています。

イタリア北部ピアチェンツァ出身の鉄道機関士ロドルフォ・マセラティの6人兄弟として育った四男アルフィエーリ(Alfieri, 1887年生)、六男エットーレ(Ettore, 1894年生)、七男エルネスト(Ernesto, 1898年生)の3人で独立して1914年にボローニャで自動車工房ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティを開業しました。

創業者の一人カルロはIsotta Fraschiniやビアンキでエンジニア兼レーサーとして活躍していた経験があり、ビンドとアルフィエーリとエットーレもイソッタ・フラスキーニで働いていました。

初期は市販車のレーシングチューンを生業として、第一次世界大戦中は雲母を絶縁体とするスパークプラグを開発し、軍需産業向けに業績を伸ばしました。

第一次大戦終戦後はDiattoと契約してグランプリマシンの製作を委託されました。

ディアットが資金難になって計画は、マセラティに引き継がれて記念すべき最初のオリジナルレーシングカー「ティーポ26」を完成させました。

1926年のタルガ・フローリオではアルフィエーリ自らがドライブしてデビュー戦でクラス優勝を果たしました。この時初めてグリルには、五男マリオ(Mario, 1890年生)がデザインした三叉の銛(トライデント)のバッジが付けられました。

以後、レーシングカーを製造販売するコンストラクターとして名を広め、ライバルメーカーのアルファロメオと国内外のレースで競い合う事となりました。

1932年世界恐慌の最中に44歳の若さで大黒柱のアルフィエーリが他界すると、エルネストが会社を引き継ぎ、次男ビンド(Bindo, 1883年生)も経営に加わりました。

ナショナリズム発揚の場となったグランプリレースにおいて、ムッソリーニ政権下で国有化されたアルファロメオや、ナチスドイツの威信を背負うメルセデスやアウトウニオンを相手にして、家族経営のマセラティは限られた戦力で健闘しました。

不況下で販売台数が伸びずに資金難が続いた結果、1937年にマセラティ兄弟はその後もコンサルタントとして10年間会社に在籍するという契約を交わして、モデナの実業家アドルフォ・オルシ (Adolfo Orsi) に経営権を譲渡してその息子のオメール・オルシが社長となりました。

1940年にはモデナのチーロ・メノッティ通りに本社工場を移転しました。

同時期に1940年エンツォ・フェラーリも、アルファロメオから手にした退職金で「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」という名の自動車製造会社をこの地モデナに設立して自らの手に最初のモデル「815」を製造して4月28日から行われたミッレ・ミリアに参戦して好成績を上げています。

1943年にフェラーリが近郊のマラネッロへ移転するまで、同じ田舎町にふたつのレースチームがあったわけです。

第二次世界大戦後の1947年、マセラティ兄弟は会社を離れてボローニャでO.S.C.Aを創立しました。

同年、ジュネーヴ・モーターショーでマセラティ初のロードカー「A6 1500(英語版)」を発表しました。関連会社として"Fabbrica Candele Accumulatori Maserati S.p.A."を設立してスパークプラグやアキュムレーターなどの自動車部品を生産し、後にモペッドやオートバイも生産しました。

1950年代はF1やスポーツカーレースの世界選手権で成功を収めましたが、1957年を最後にワークス活動を停止して、プライベーター向けの車両供給に転じました。

そして、レーシングエンジンをデチューンした6気筒/8気筒エンジンを搭載したグランドツーリングカー「3500GT」「5000GT」を発売して、高級スポーツカーメーカーへの脱皮を図りました。

1963年に発表した初の4ドアラグジュアリーセダン「クアトロポルテ」は高級車メーカーのブランドイメージを確立してマセラティの主力モデルとなりました。

1966年、フランスのシトロエンと業務提携してシトロエン・SMに搭載するDOHCV6エンジンの開発を請け負いました。

経営難になっていたマセラティは株式の60%をシトロエンに売却して1968年に傘下に入りました。

しかし、ここでも1970年のオイルショックの影響で親会社シトロエンの業績が悪化して1976年には前途したように親会社シトロエンはプジョーのもとに集まってグループPSAとなりましたが、PSAはマセラティとの契約を破棄したためにマセラティはまたまた破産寸前に追い込まれました。

この時にモデナの後発スポーツカーメーカー、デ・トマソがイタリア政府の産業再生機構から資金を調達してマセラティを傘下に収めて経営再建に乗り出しました。

デ・トマソ体制下で当初発表された「キャラミ」や三代目「クアトロポルテ」は、デ・トマソのロンシャンやドーヴィルのリバッジモデルでした。

1993年に親会社のデ・トマソはマセラティ株をフィアットに売却しました。

この時にマセラティもフェラーリやアルファロメオと同様に、イタリア最大のFIAT S.p.A.の一員となりました。

1997年にはフェラーリの子会社(つまりFIAT S.p.A.の孫会社)となり、ルカ・ディ・モンテゼーモロ会長の下で再び高級スポーツカーブランドとして生成されて、デ・トマソ時代に落ちていたクォリティーが回復しました。

カロッツェリア(コーチビルダー)のピニンファリーナがボディを担当して、フェラーリの工場でエンジンを組み立てて、フェラーリ製F1マティック譲りのパドルシフト式セミAT「カンビオコルサ」を採用するなど、フェラーリカラーが色濃くなた時期でもあります。

2005年にはフェラーリ傘下から離れ、かつてライバルだったアルファロメオと事業統合して、グローバルカーとして量産ラグジュアリーブランドへの変化を目指してこれまでの少量生産から一転した量産高級車市場に舵を切りました。

2013年よりトリノ市グルリアスコの新工場「アッヴォカート・ジョヴァンニ・アニェッリ(AGAP)」で、主力車種の三代目「ギブリ」と六代目「クアトロポルテ」を量産開始しました。

さらに人気の高級SUV「レヴァンテ」を発売して、ラインナップを広げた結果、2017年には全世界の新車販売台数は5万台を突破したました。

第2節 Isotta Fraschini(イソッタ) 

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1900年創業のIsotta Fraschini は舶用・航空用のエンジンやトラックも製造していたイタリアの高級車メーカーでした。

DuesenbergでNaviったように、1919年から1929年9月4日のブラックチューズデーまでの第1次大戦終戦ご好景気に見舞われたアメリカ市場でイスパノ・スイザ、メルセデスベンツ、ロールスロイスと並んで裕福層に大人気で、 Cordグループの一員となった後のDuesenbergにインスパイアを与えたluxury automobileメーカーでした。

1900年創業

1900年に Società Milanese Automobili Isotta, Fraschini & C. として Cesare Isotta と Vincenzo, Antonio, Oreste のFraschini 兄弟で創設されました。

当初はフランスからMors (シトロエンの始祖)とルノー自動車とAsterの各種エンジン(舶用の灯油・ガス内燃機間)を「輸入、販売、修理」を行う輸入販売店として誕生しました。

1904年にAsterエンジンを搭載した、Renaultと非常によく似た外観の自社ブランド車の製造もおこなうようになりました。

最初のIsotta Fraschiniは、出力24馬力の4気筒エンジンを搭載していました。いくつかのレースにVincenzo Fraschiniが運転して出場しました。

翌年1905年に登場したIsotta FraschiniはCoppa Florioで着目されました。

17.2リットル!の100馬力化け物エンジン!を搭載したTipo Dに入賞しました。

1907年に、Isotta Fraschiniはフランスの自動車会社Lorraine-Dietrichに吸収合併されました。

この間Bugattiが設計した10 hpを含む2つのOHC車エンジンを搭載したIsotta Fraschini独自設計のしゃりょうに搭載して販売されました。

同社はこの同じ100馬力(75 kW)のエンジンを使用してレースカーの製造を開始して、会社の評判を確立しました。4輪ブレーキ付きの自動車の販売に成功した最初の企業の1つでもありました。

彼らはまた、スコットランドのGiusti Catateoが1909年に発明したOHCバルブシステムを採用したの初期の先駆者でもありました。

1919年にパリサロン(自動車ショー)で、OHC直列8気筒エンジンを搭載したモデルを発表して翌1920年からデリバリーを開始しました。

前途したように第1次大戦の戦火を免れたアメリカは戦後ヨーロッパに向けた復興景気に沸き立ち新たな裕福層がこぞってヨーロッパの高級車を購入していました。

Isotta Fraschiniはリムジンをアメリカに輸出して大成功を収めました。

しかし1929年9月4日のブラックチューズデーに端を発した世界不況でアメリカの富裕層が後退して、高級車は売れなくなりました。

それに続く1939年に始まった第2次大戦が深刻な影響を与えて、終戦後も低迷を続けて戦後(1949年)ティポ8Cモンテローザボネスキカブリオレプロトタプは製造されることなく終わりました。

工場閉鎖して一切の製造から遠ざかった同社ですが、会社としての冬季は継続されて休眠会社となりました。

最後のモデルであるモンテローザの5つだけが生産されました。生産プラントは船舶用エンジン生産に転換されました。

同社は会社の登録簿に残され、1955年にエンジンメーカーのBreda Motoriと合併し、F.A. Isotta Fraschini e Motori Breda.となりました。

。同社はトロリーバスの生産を再開し、1960年代にBariに新しいディーゼルエンジン工場も建設しました。

1980年代に、会社はIsotta Fraschini Motori SpAに改名され、Fincantieriグループの一部となり、バーリの古い工場に管理本部を置きました。

1990年代には、Isotta Fraschiniの自動車産業を復活させる試みが行われました。1996年にはクーペタイプのIsotta Fraschini T8、1998年にはロードスタータタイプのIsotta Fraschini T12の2台のコンセプトカーが制作されましたが...

親会社の造船業が業績不振となり支援が仰げなくなり1999年に破産申告して工場は閉鎖されて生産を停止しました。

そしてIsotta Fraschini ブランドは埋葬されて永眠しました!

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そんな"時代の流れ"に翻弄されたVintage Carの数々を綴ったシリーズ記事です。

狸穴総研 経済研究所 出自多留狸

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公開:2020年8月13日
更新:2023年3月28日

投稿者:デジタヌ

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