ドイツ と フランス の 高級ブランド車
前書き(要約) Vintage car Brand 毒物(ドクフツ)過激変?
第1次大戦・第2次大戦と2度も不幸な戦いに見舞われた犬猿の仲?の両国ですが...
自動車産業では、長らく友好関係を保ってきました。
ライセンス生産で誕生したフランス車はその後、アバンギャルドな数々の"独自のメカニズム"を誕生させて、
自動車史に貴重な1ページを書き加えました!
プロローグ 2度の戦火に見舞われてながらもその都度息を吹き返した名車達
アメリカ、イギリス同様に馬車時代が長かった独・仏にも多くのコーチビルダーが存在していました。
そして、2度の戦火に見舞われて、その都度力強く復興した両国にも多くのVintage Brand Carが存在していました。
そんな"時代の流れ"に押し流されたVintage Brand Carの数々を綴った特集です。
《時代の流れに翻弄された Vintage car Brand 》§3 の目次
※リンクについて
(参※xx) は当サイト内の参照関連記事リンクです。
但し、その他の直接 hyper-link は当事者・関連団体の公式サイト若しくは各国語版Wikipediaへ直接リンクされています。
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パナールは1887年に René Panhard と Émile Levassorによって創設されたPanhard et Levassorが起源です。
Levassorの友人でもあるゴットリーブダイムラーのフランスでの代理人 弁護士Edouard Sarazinからライセンスを取得しました。
サラジンが1887年に亡くなった後、ダイムラーはサラジンの未亡人Louiseに亡き夫の代理人を引き継ぐように依頼しました。
1890年にLevassorと再婚したLouiseの助力でDaimlerとLevassorは友達になり、お互いに改善点を共有しました。
そして最初のPanhardが1890年に発売されました。
これらの初期の車両は多くの近代的なメカニズムを採用しましたが、それぞれが手作りの1オフモデルで、量産車ではありませんでした。
これらの車はクラッチペダルを使ってチェーン駆動のギアボックスが操作できるようになっていました。
また、最前部にラジエーターを配置する手法も考案しました。
1891年に、最初のモデルLevassorを設計して完成させました。
このモデルは「最新技術」フロントマウントエンジン(それまではアンダーフロア配置)の摺動選択歯車伝動装置、のチェーン駆動の後輪駆動で20世紀初頭のほとんどで自動車の標準レイアウトになるひな形でもありました。
1894年のパリ〜ルーアンラリーでは、アルフレッドヴァシュロンは彼の4馬力(3.0 kW、4.1 PS)の車両にステアリングホイールを装備しました。(※当時は1本のレバーハンドルが当たり前でした。)
1895年のPanhard et Levassorは、最初のトランスミッション搭載車となりました。
同じ年、Panhard et Levassorは、元自転車メーカーのArmand PeugeotとDaimlerエンジンライセンスを共有することになりました。
1895年から1903年まで数多くのレースに勝利て名声を勝ち得ました
1895年には、1,205 cc(74 cu in)のPanhard et Levassor車両が、パリ-ボルドー⇔パリレースで1 位と2位を独占しました。
翌年1896年のパリ-マルセイユ-パリのレース中に、レバソールは犬を避けようとして事故を起こし致命傷を負い、翌年パリで亡くなりました。
この年に前途したDaimler Motor Company として誕生した英国のディムラーにプラットフォームのライセンス供与を行い、同社の創業を支援しました。
1897年からジェネラルマネージャーに就任したアーサークレブスが、パナールエレヴァッサーカンパニーを成長させました。彼は1916年までその職を歴任しました。
この時代にその後他の多くのメーカーで取り入れられたパナールロッド(ラテラルリンク)を初めて採用しました。
一時スリーブバルブシステムにも傾倒
1910年以降、アメリカのチャールズエールナイトが特許を取得したスリーブバルブテクノロジーを使用して、Poppet Valveなしのエンジン(※81)の開発に取り組みました。
パナール自身のエンジニアリング部門によるスリーブバルブの改良が続き第2次大戦勃発前の1925年にはすべてのパナール生産車がスリーブバルブエンジンを搭載するようになっていました。
参※81)当時のエンジンは大排気量・低圧縮比・低出力の時代で、ロータリースリーブを用いた吸排気システムでも問題はなく、低品質・低信頼性のスプリングを用いた旧来のポペットバルブエンジンより信頼性も上がったわけです。
例えば第一次世界大戦(1914年7月から1718年11月)中ジョフレ将軍自身が専用車に使用していた2台のパナールタイプX35は4気筒7,360 ccで35馬力?!のエンジンを搭載していました。
第1次大戦中は軍需品生産を中心に
第1次大戦中、パナールは他の主要な自動車生産者と同様に、多数の軍用トラック、V12シリンダー航空機エンジン、銃のコンポーネント、75と105の大口径砲などの軍需工場になっていました。
その間に生産された8CVおよび20CVモデルは1913年から1920年にまたがり第一次世界大戦を通じてフランスの大統領を務めたレイモンドポアンカレの大統領専用車にも選ばれていました!
第1次大戦終戦後
終戦後の1919年3月に4気筒2,140 cc10馬力?のエンジンを搭載したX19で乗用車の生産を再開しました。
1925年までに、パナールのすべての車は、鋼製スリーブを使用したスリーブバルブエンジンに置き換わりました。
1925年 4気筒4,800 ccのモデルが、最速の1時間の連続走行平均185.51 km / hの世界記録を樹立しました。
当時のパナールはベアシャシー(シャシーフレーム)の販売にも熱心で
1926年10月の第20回パリモーターショーのPanhardスタンドには、初の6気筒エンジンとなった3445ccエンジンを搭載した3,540 mmのホイールベースを持つPanhard 16CV "Six"。
1927年モデルとして登場した7台の4気筒エンジン搭載モデル。
そして1921年以来提供していた8気筒6350cc(35CV)モデルすべてがベアシャシー(ボディーを持たない裸シャシー)のプライスカード付きの製品!として展示されていました。
勿論完成車も展示していましたが、前途したようにヨーロッパの高級車市場では馬車時代からの伝統で各地に有名なコーチビルダーが存在していた時代背景もあります。
ボディー開発も熱心に
1936年には現代の乗用車に通ずる"モノコック構造"を採用したDynamicシリーズを1938年登場のVWより2年も早く登場させました!
しかし1929年以来の世界恐慌が続いていたヨーロッパでは一部の高級車市場を除いて自動車の需要は低迷して大衆車市場等は存在していませんでした。
第2次大戦後
第二次世界大戦後Panhardと改称された新体制の下に、軽自動車やPL 17、24 CTおよび24 BTの生産を再開しましたが。
戦後の鉄鋼配給制度も絡み政府はお幅にアルミ材を採用した"高コスト"な代替案に転換することを求めました!
残念ながら、会社を相続したマネージングディレクターのJean Panhardのコスト計算がおおはばに外れ!生産を開始するとコストはスチールの15,600frに対して、3.6倍!にもなる55,700frとなってしまいました。
アルミニウムの使用により、経営危機に見舞われたPanhardは急遽従来の"鉄材"使用に設計変更しました。
戦時中から開発されていたコンセプトカーPanhard Dynavia(1948年パリサロンで発表)を発展させた Dyna Zを市販化して24CT(1963年夏以降)スタイリッシュな2 + 2人として登場させてさらにストレッチバージョンの通常の4人乗り24BTを登場させてパナールの看板車両となりました。
この時期経営危機から脱却しきれていないPanhardは1934年以来ミシュランの傘下となっていたCitroënに自動車部門の再建を託して、徐々に生産を移して1967年の秋にはシトロエンに吸収合併されてJean Panhard侯爵は引退して、1890年以来77年間続いたパナールブランドの自動車は消滅しました。
1968年以降、Panhardブランドは主に装甲車を生産する軍用車両製造企業として存続しました。
2005年になってグループPSAの子会社となっていたPanhardがAuverland に転売されて第1次大戦以降以降続いたフランス軍用車にPanhardのバッジ(ブランド)が誇らしげに冠せられました。
そして2012年10月に旧Renault Trucks Defense(2001年からスウェーデンのボルボグループの一部門となり2016年は一時売りに出されましたが2018年5月24日以来Arquus(アーカス公式サイトはこちら)に社名変更されていまもボルボグループとして軍事車両を製造しています)に買収されてPanhardブランドを冠した車両は完全に無くなりました!
というわけで栄光に満ちたPanhardブランドは現在volvoグループの手に渡って埋葬されて?「安らかな眠りに」ついています...
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Peugeotは現在フランスCitroënと共にGroupe PSAを構成している自動車メーカーです。2019年12月にFiat Chrysler Automobiles NVと経営統合を発表して2021年の第1四半期に新会社Stellantisとなり世界第4位の自動車メーカー(企業グループ)となる予定です。
19世紀のプジョー
1810年にフランスで創設された現存する最も古い企業の一つです。
最初はその後の製品となる金属製品(、傘のフレーム、のこぎり、ノミ、ワイヤーホイール、自転車等)に派生したCage crinoline underskirt がメインでした。
1842年に今に続くコーヒーミルや自転車の生産を始めました。
(1926年に自動車会社と自転車会社は別れましたが、プジョーの自転車はごく最近まで製造され続けてツールドフランスなどで大活躍をしてマニア垂涎の自転車でした。Peugeotブランドのコーヒーミルは現在でも製造が続いています。)
その後の製品、鋼材を使用した、傘のフレーム、のこぎり、ノミ、ワイヤーホイール、自転車等に派生したCage crinoline underskirt が最初の製品でした。
ご存じにとおり、19世紀に入っても続いたフランス王家の居城ベルサイユ宮殿やルーブル宮にトイレが無かった!ことからできたスカートです!
1858年11月20日、エミールプジョーはライオンの商標を申請し取得しました。
1889年に創始者のひとりであるArmand PeugeotとLéon Serpolletと共同で、同社の最初のAuto Mobilである蒸気三輪車を製造しました。
1890年に当時フランスにおけるDaimlerエンジンのパテント保有者だったPanhard et Levasso から購入したDaimlerエンジンを搭載した同社初の内燃機関車両が登場しました。
つまり現存するフランス最古の歴史あるメーカーではありますが自動車メーカーとしては前途したPanhard et Levasso の方が先輩にあたります。
プジョーはモーターレースの初期のパイオニアであり、Albert Lemaîtreは3馬力のプジョーで世界初のモーターレース、パリ⇔ルーアンレースで優勝しました!
しかし1895年に行われた、パリ⇔ボルドー⇔パリレースでは1 位と2位を独占した。Panhard et Levassorに敗北しました。
翌年のパリ⇔ボルドー⇔パリレースでは宿敵?Panhard et Levassorを打ち負かして優勝しました。
これは、ミシュラン空気入りタイヤのレースデビューでもありましたが...Peugeotはミシュラン空気入りタイヤの実用には程遠い耐久性も暴露?してしまいました。
しかし、車両の外観は馬のない馬車そのものであり、耕運機のようにフロント部分が折れ曲がる構造でした。
そして1895年には正式にDaimlerエンジンのパテントを取得してエンジン製造にも取り組みました。
1896年、最初のプジョー内製エンジンが製造されました。
Rigoulotが設計した最初のエンジンは、ロシェ・シュナイダーによって作成された8 hp(6.0 kW)の水平ツインのリバースエンジニアリング品で、それを搭載したType 15では当時一般的なドライバーの背面に取り付けられました。
タイプ36からはステアリングも採用されました。
それに続くタイプ48ではPanhard et Levassorのようにエンジンはフロントのボンネットの下に収まる最新のレイアウトになり、馬無し馬車からやっと現代風のAuto Mobilに成長しました。
しかし同族間で内紛が起こり1896年にArmand Peugeotが独立して新たに Société des Automobiles Peugeot,を設立しました。
1898年、プジョーモーターサイクルは、パリモーターショーで、1883年創業のDe Dion-Bouton社(※1)の単気筒エンジンを搭載した世界初のオートバイを発表しました。
1899年に4輪にゴム製のソリッドタイヤを装着したAuto Mobilを発売して最初のゴム製タイヤを採用したガソリン車メーカーになりました。
(※それまでは馬車同様の鉄輪タイヤ!をハメた木製スポーク車輪が一般的でした。)
参※1)De Dion tube(ド・ディオン・アクスル)を発明した企業で、その後この方式は、アウトウニオンレーサーをはじめ日本の初代プリンスグロリア、Mazda Cosmo、近くでは本田TN360から続く本田の軽トラックシリーズなどにも採用されたシステムです。
ダイアゴナルリンクなどのスイングアーム方式とは異なりキャンバー変化がなく、しかもバネ下重量が軽減出来て乗り心地が良いために、Opel Diplomat 、マセラティ・クアトロポルテ、などの高級車や、メルセデスベンツW125およびW154、アウトユニオンタイプD、ブガッティタイプ251、アルファロメオ、フェラーリ375などの第2次大戦前後のレーシングカーにも採用例が多いシステムです。
1895年、ブートンはtrembler coil(Switchable systems)を備えた新しい137 cc(8.4 in 3)の1気筒エンジンを作成しました。
テストではそれまで担い高回転3500 rpm!を達成して常用でも2,000 rpmまで使用可能な高速機関でした(※2)。さらにサイドバルブが当たり前の時代にピストン上面にバルブを配置したOHV!でした。
参※2)当時は現在の舶用ディーゼルのように1000 rpm以下が常識で、これは驚異的な数値でした。
20世紀に入って
1901年にオートバイ(※3)発売して正式に製品ラインナップに加えてました。
そして Peugeotは、世界で最も古いオートバイメーカーとなりました。
(※3)戦後フランス映画にたびたび登場したプジョーのモペットの原型ともいえるでしょう。
さらに1901年パリサロン(モーターショウ)で、当時としては画期的なシャフト駆動(※4)の652 cc単気筒5馬力の「ベベ」(「赤ちゃん」)と呼ばれる軽車両を発表しました。当時画期的なデザインで当時のスタイルリーダーになりました。
※4)当時はチェーン駆動が常識で大排気量のレーシングカーはおろか、小型排気量の軽車両迄後輪のチェーン駆動が当たり前でした。
1902年のパリ⇔ウィーンラリーで50馬力の11,322 cc!のレーサーを出走させて1台は19位に終わり、残りのマシン2台は途中リタイアの不本位な成績に終わり一時レースの世界から撤退しました。
1903年までに、当時のメルセデスモデルに似た5馬力(4 kW)ベベ、6.5馬力(4.8 kW)の4人乗り、および8馬力(6.0 kW)と12馬力(8.9 kW)をラインナップに加えてフランスで製造されたAuto Mobilの半分を生産しました。
1907年のパリサロンへはプジョー初の6気筒を出品しました。
またあらたに、Tony Huberからもエンジンの供給を受けるようになりました(※5)。1910年、プジョーの製品ラインナップは、外部調達の、1,149 CCの小型 2気筒エンジンと自社製の2〜6リットルの4気筒・6気筒エンジンをそろえていました。さらに、同じ年にソショーに1928年にメイン工場となる新工場がオープンしました。
参※5)つまりこの時期"Peugeotは自らは少量生産の大型エンジンを開発して大型高級車を市場に投入して、一般大衆?向けの量産車市場には"車体メーカー"としてフランスの中小メーカーから小型エンジンを購入して自社で制作したシャシーフレーム・ボディいわゆるプラットフォームに搭載して完成車として市場に投入していたわけです。
第一次世界大戦前のモータースポーツ再開
1906年以来自身の設計事務所を開設していたEttore Arco Isidoro Bugattiに依頼して、1912年の新しい850 cc4気筒ベベを設計してもらいました。
同じ年、プジョーは3人のエンジニアでもあるドライバーと1人のスイス人技術者を抱えたワークスチームでレースに復帰しました。
、Jules Goux、Hispano-Suizaから移籍して1913年6月19日にテスト中に事故死したPaul Zuccarelli、Georges Boillot、Ernest Henryをエンジニアにして、アイデアを現実のものにします。
7.6リッターの4シリンダー(110x200 mm)のエンジンは、当時としては画期的なDOHC!で1気筒あたり4バルブの構成はそれまでの大排気量(10000cc以上)の巨なエンジンとはガラッと変わった近代的な高回転型のレーシングエンジンでした。
Georges Boillotは1912年のフランスグランプリで平均68.45 mph(110.2 km / h)で優勝しました。
Jules Gouxは1913年5月のインディアナポリスに初挑戦して、平均75.92 mph(122.2 km / h)で勝利して、93.5 mph(150.5 km / h)の直進速度を記録しました。(※99)
フランスグランプリを制する!
1913年のフランスグランプリでは、先駆的なボールベアリングクランクシャフト、ギア駆動のカムシャフト、ドライサンプ潤滑!の採用で改良された5,655 ccのL5エンジンを登場させました。
公道でのテスト中にPaul Zuccarelliが事故死しましたが、Georges Boillotが優勝して、プジョーはレースで初のフランスグランプリ、インディのダブルタイトルホルダーとなりました。
1914年のフランスGPではプジョーのためにメルセデスのみにより厳しくなった四輪ブレーキ装着の新レギュレーションで行われたにもかかわらずGeorges Boillotが運転する車がレース中に壊れてリタイアするトラブルに見舞われました。
1914年モデルのレーシングカーは、第2次大戦後の1949年になってもインディのクオリファイで毎時103マイル(毎時165.8キロ)のラップを記録しています(但し予選通過は出来ませんでした。)
フランスGPの後1914年7月から始まった第一次世界大戦中に、プジョーは主に武器の生産に転向し、装甲車や自転車から砲弾まで、武器や軍用車両の軍需工場となりました。
1918年11月に第1次大戦が終戦を迎え
1918年11月に第1次大戦が終戦を迎え、本格的に自動車生産が再開しました。
1929年 フランス市場で最も安価な大衆車?として新車プジョー201が登場しました。
1931年型では前輪独立懸架を採用しました...
しかし1929年9月のブラックチューズデーに端を発する世界大恐慌の真っただ中では中産階級(日本で言うお金持ち)の財布も固くプジョーの売上は減少しましたが、会社何とか存続しました!
1934年には世界初となる格納式のハードトップを備えた402 ÉclipseDécapotableを発表しました。
1935年に2.1リッター402が発売されて、ナチスによるフランスの占領時代入った1941年末まで生産されました。
終戦後1946年から生産再開
終戦後1946年半ばに戦前の旧型202の生産が再開されました。
1947年に、コイルスプリング、ラックアンドピニオンステアリング、油圧ブレーキを備えた戦後型のプジョー203を発表しました。203は当時のプジョーの販売記録を塗り替えるベストセラーとなりました。
テレビ映画でお馴染みの刑事コロンボが愛用?していたプジョー403は1955年に登場しました。1.5リッターエンジンを搭載して1962年の生産終了までにシリーズ全体で100万台を販売しました。
1969年に登場してヨーロピアンカーオブザイヤーの栄冠を勝ち得た504をはじめとするモデルの多くはイタリアの老舗カロッツェリア(コーチビルダー)Pininfarinaでデザインされました。
当時子会社だったマセラーティーとの共同開発によるV6エンジンや 失敗に終わったヴァンケルエンジン開発などで多額の 出資で身動きの取れなくなったシトロエンの30%の株式を1974年に購入して
さらに1975年には、フランス政府の支援も受けてグループPSA(PeugeotSociétéAnonyme)を設立してシトロエンを完全に傘下に収めました。
1978年には当時自力での経営立て直しを図っていたクライスラーから仏シムカと英ルーツグループを買い取りました。
そしてこれらヨーロッパクライスラーの生産していた車種を復活させたTalbotブランド(※6)にリバッジして引き継ぎました。1987年にTalbotブランドはPeugeot自社シリーズのリバッジ車となり1992年にTalbotブランドが商用車シリーズとなるまでTalbotブランドで乗用車が販売されていました。
参※6)Talbotブランドは、1919年にイギリス資本のDarracqの手に渡りその後STD Motors に転売されて後1935年に倒産してThe Rootes Groupの手に渡り1938年にサンビームとタルボを統合して「サンビーム-タルボ」ブランドとなり1955年にはタルボブランドは埋葬されて?その後1967年にルーツグループがクライスラーの手に渡りその後は記述した通り、で現在はグループPSAがTalbot・ブランドを所有しています。
ベストセラーPeugeot205登場
1983年に大成功したプジョー205スーパーミニが発売されました。常にフランス国内でベストセラーの座を維持し続けて、イギリスを含むヨーロッパの他の地域でも人気車となりました。1991年に106が登場した後も人気が持続して1998年の206の発売迄生産され続けたことでも人気が高かったことを物語っています。
今に続く英国病の後遺症
21世紀を迎えた2006年4月18日、PSAプジョーシトロエンは、イギリスのコベントリーにあるライトン製造施設の閉鎖を発表しました。この工場は2006年12月12日に最後のプジョー206を生産して2007年1月に閉鎖されました。
この工場閉鎖でサプライチェーンで2,300人の雇用が失われ、約5,000人の直接雇用が失われました。
2013年10月、プジョーは国内市場の冷え込みで過剰生産能力を削減するために、Aulnay-sous-Bois の生産工場を閉鎖しました。
2013年12月までに、中国の投資家は潜在的な投資家であると噂されました。
プジョーファミリーの独裁運営からの脱皮
2014年2月、プジョー一家は持ち株を25%から14%に引き下げることで会社の支配権を放棄することに同意しました。
もはやプジョーはプジョーファミリーのマネーゲーム?の場ではなくなりました!
フランス政府が14%、中国の東風汽車が14%合わせて3者合わせて48%、残りは株式市場で募った一般投資家からの投資となりプジョーファミリーの独裁運営の時代は終焉を迎えました。
2020年に、フィアットクライスラーオートモービル(FCA)とPSAは2021年の第1四半期に完了する予定です。合併後の会社はStellantisと呼ばれる予定です。
。
参※99)1914年7月から始まった第1次大戦でプジョーレーサーの一台が
1915年にはBoillotの兄弟のAndréがドライブして、1916年ダリオレスタがそして1919年にはハウディウィルコックスが運転して優勝しました。
米国に残されたその一台の所有者となったBob Burmanをメンテナンス面でサポートしていたのがHarry Millerのspeed shopでした。
1910年代にはミラーはキャブレターの販売を通じて年間100万ドル!を稼いでいましたその後彼のspeed shopで整備されていたDuesenbergとPeugeotエンジンにインスパイアされてー、DOHC、4バルブ4シリンダ3.0リッターのレース用エンジンを製造しました。
その後、ミラーは2.0リットルと1.5リットルの過給気バージョンを使用するミラーシングルシーターレースカーの製造に進みました。エンジンは500から1929年までに4回勝利し、ミラーシャーシで2回(1926および1928)、は1929年から1938年までにさらに7回勝利しました(1930年と1932年にもう一度、ミラーシャーシで2回)。さらにこのエンジンは
1920年代と1930年代には、スピードボートのエンジンとして、いくつかのレースでの勝利と水上速度記録を達成しました。しかし事業に失敗して1933年にミラーは破産しました。
かれのshop foremanであり chief machinistも務めていたFred Offenhauserが事業買い取りアンリカレース界の傑作エンジンOffenhauserエンジンが誕生しました。
このエンジンは1950年から1960年までインディ500を連続制覇するなど1963年にフォードがV8エンジンエンジンで挑戦を開始した後も1983年迄、登場後50年以上に渡りアメリカのオープンホイールレース界に君臨していました。
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ドイツを代表する4メーカーの内1862年創業の老舗オペルは第2次大戦前の世界大恐慌のあおりを受けて1931年にGMの100%子会社となっており、ナチスドイツ政権下の戦前戦中の時期は名義上だけですべての権利を放棄させられ、終戦後の1948年になってGMの手元に無事?戻りました。
戦前の車名を復活させた新型「カデット」を登場させて以後、小型車カデットから中型車「レコルト」とその上級仕様「コモドーレ」、大型高級車「アドミラル」/「ディプロマート」までを擁するフルラインメーカーとなり、純ドイツ企業、ベンツ、VW、BMWに伍してドイツの4大ブランドとなり、GMの世界戦略yに沿って、"Tカー"として構想された第3世代のカデットはいすゞ・ジェミニや本国GMで現地生産?された米国初の本格的小型大衆車(※7)シボレー・キャバリエのベース車となりました。
1983年には「グローバルカー構想」の第2弾"Jカー"として登場したアスコナの第3世代は日本で、もいすゞ・アスカとして販売され、イギリスの完全子会社だったボクスホールからもボクスホールブランド名で販売されていました。
しかしご存じの通り親会社のGM本家が2009年に経営破綻してオペルは真っ先に売却候補となりましたが、新生GMは自社のグループ企業として自力再建(※8)を決定して何とか生き延びましたが、もはやその他の全世界の仲間(現地生産企業)がいなくなったオペルでは、ブランドを守れることはかなわなくなり、2017年3月6日、グループPSAがオペルのイギリスでのブランドのボクスホールや欧州展開の金融事業(クレジット販売)を含めてGMから買い取り企業としてのドイツオペルは消滅しました。
つまり、第2次大戦の結果通りドイツが敗れてオペルブランドはフランスのグループPSAに買い取られたわけです。
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後書き 《時代の流れに翻弄された Vintage car Brand 》シリーズについて
『人は歴史から多くの事を学んだ』といわれていいますが、
『企業経営者は、歴史から決して多くを学ぶことは無かった!』ともいえるでしょう?
多くのVintage Brand Carはお金儲けの手段として"ブランド転がし?"に利用されて、転々と投資家の手を渡り"埋葬?"されたり、大メーカーの思惑で"ブランド復活"して企業イメージの向上ために"ハクをつける"ことに利用されたりしています。
そんな"時代の流れ"に翻弄されたVintage Carの数々を綴ったシリーズ記事です。
狸穴総研 経済研究所 出自多留狸
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又、引用句に関しては《XX語版》を明確にしています。
※但しhyper-link先は
- ●日本語(カタカナ)表記は日本語版ウィキペディア
- ●英語表記は 英語版 Wikipedia
- ●オランダ表記は 欄語版 Wikipedia、ドイツ語表記は 独語版 Wikipedia、スペイン語は 西班牙語版Wikipedia 、イタリア語表記は 伊語版 Wikipedia
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- ●ロシア語表記は 露語版 Википедия、
- ●ラテン語表記は 裸展?語版 Vicipaedia
- ●クネクネ文字?は 使用各国版 ويكيبيديا
- ●中国語表記は Both China版 維基百科
にそれぞれ直接リンクしてあります。
※但しハングル表記 韓国語版 위키피디아 は著しく信憑性が無く!殆どが日本語版以下(50歩100歩?)の fake content なので無視!しました。(Red China版 維基百科のほうがはるかに信頼性があります!)
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公開:2020年8月13日
更新:2023年3月28日
投稿者:デジタヌ
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