狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

耶蘇社会に取って江戸時代末期の日本(江戸幕府)は《 帝国主義とは...第6回》

第6回 耶蘇社会に取って江戸時代末期の日本(江戸幕府)は

逆説的には、現在公海(国際航路)として認められている津軽海峡、は江戸時代の日本国(徳川幕府)が、当時の「欧米列強間の大人の事情」で主権を持つ主権国家?として"容認"されていた証でしょう。

第0項 チッポケな島国だったので?大国同士で奪い合いするほどでは...

13世紀のマルコポーロの東方見聞録の時代から知られていた日本ですが、

大陸中国の陰に隠れたチッポケな島国だったので、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸ほどの魅力も無く、態々武力闘争による争奪戦を行うほどでも無かったのでしょう。

1492年に奴隷貿易で富を築いたコロンブスが新大陸アメリカの存在(航路)を知り、その後数度にわたる偵察で、南北アメリカがの存在を知ったスぺインによって"蹂躙"された中南米諸国とは違い、ヨーロッパの本国からも遠かったわけです。

第1項 カソリック2国が勝手に決めた世界を2分する密約!トルデシリャス条約

1385年にスペインから独立した、ポルトガルが先鞭をつけた東回りの貿易航路は、1494年にスペインとの間で締結されたトルデシリャス条約で、ヨーロッパ以外地域の両国のテリトリーを!スペインは大西洋へ、ポルトガルは東洋・インド洋方面へと定めた為に本格的に進出して南蛮貿易を始めたわけです。

第1目 カソリック宣教師フランシスコザビエルと日本の関わり

そして、宣教師フランシスコザビエルがポルトガルのインド進出の拠点としていたゴアに赴き、

1548年11月に「東洋の宣教監督」となり1549年8月に薩摩半島の坊津に初上陸して、

15日に薩摩国の守護大名・島津貴久に許しを得て鹿児島市に上陸したわけです。

そして9月には鹿児島での正式な布教の許可を得たわけです。

その後1550年に貿易船が入港して貿易拠点となった肥前国平戸にの8月に入り、長崎での布教活動に入り、その後先を得て京にも上りましたが、当時衰退していた足利幕府からは得られるものが...

1-1-1 日本国内の仏教各派とも交流した

当時日本国内の国教・仏教各派とも、交流?があり宗教論を戦わせたそうです。

その後、豊後国府内(現大分県大分市)にもポルトガル船(貿易船)が来着した情報を知り備後に赴き、1551年9月から布教活動を行い11月15日に鹿児島の日本人4人を連れて翌年1552年2月15日に本拠地ゴアに戻り、新たに日本全土の布教の為に宣教師を日本に差し向けたわけです。

つまり、植民地政策の先兵でしたが、その前に聖職者でもあったわけです。

ザビエル自身は、2年ほどで日本を離れ、さらに中国への布教を目指すこととなったが、ザビエルに続き、多くのイエズス会員が日本を訪れた。彼らの戦略は適応主義とよばれ、ヨーロッパ本国における価値観や方針を守ることよりも、現地の文化を尊重して、教勢を拡大することを優先した。《ウィキペディアより引用》

1569年に二条城の建築現場で(1576年に安土城を築き日本統一を目指す以前の)織田信長、にバテレン・ポルトガル人ルイス・フロイスが謁見して畿内での布教を許可されたのはこの頃です。

但し、布教が目的の彼らイエズス会の宣教師とは違い、彼らの祖国ポルトガル政府は「黄金の国ジパング」の利権(貿易)が目的だったわけです。

これが、その後の鎖国「バテレン禁止令」「弾圧」に繋がるわけです。

1584年にはイスパニア(スペイン)がその後オランダ・イギリスの船も来航して1599年には、平戸城築城も始まり、

1609年にオランダ商館、1613年にウィリアム・アダムス(三浦按針)によってイギリス商館が設立され南蛮貿易の窓口となりました。

第2項 プロテスタントのオランダは残った!

第1目 安全パイ!だったオランダ

しかしその後の鎖国政策によって1623年にイギリス商館が閉鎖して、オランダ商館のみが残り。

(※オランダ商館が残れたのは、プロテスタントのオランダは「積極的な布教活動"宣教"」とは無縁で、貿易のみに専念して、貿易商(中日公使?)とfort(交易所)を通じて、海外情勢入手、西洋医学や「最新兵器」等の最新科学情報入手など、江戸幕府から見れば、情報源でもあり"安全パイ"だったわけです。

第2目 ポルトガル人は出島居留地に

1634年にカソリック国ポルトガル貿易商人の管理(封じ込め)の為に、長崎に出島居留地(ポルトガルから見ればfort)を設けましたが...

2-2-1 島原の乱以降はポルトガルの対応に苦慮!

1638年島原半島・天草諸島のキリシタン百姓による一揆「島原の乱」以降、キリシタン禁教・弾圧の徹底のためにカトリック国であるポルトガルとの関係を断とうとしましたが...

2-2-1-1 互いに物々交換(貿易)が必要!だった

当時、日本は絹糸を、ポルトガルは金銀を必要としたわけです。

1641年にポルトガルの後釜としてオランダ商館が平戸から長崎の出島へ移転して、平戸港での南蛮貿易は終わったわけです。

同時に日本におけるカソリックの布教活動も後退して、「隠れキリシタン」の時代になった訳です。

第3目 新教国家オランダはオランダ東インド会社を設立して東洋進出を

さらに16世紀初めに起こった宗教改革で非カソリック国となったネーデルランド(オランダ)はスペインからの独立を目指して...

2-3-1 東インド会社の設立

1568年以来1648年の独立までの80年間!の独立戦争を継続しながらトルデシリャス条約に縛られることなく海洋進出を計たオランダは、

1602年3月に東洋進出を成し遂げて有名なオランダ東インド会社を設立して海洋国家となった訳ですが...

2-3-1-1 その後大西洋にも進出

東洋だけではなく大西洋にも漕ぎだし1614年にはニューヨーク州のオールバニ市近くナッソーfort(砦・交易所)を築き、更には1625年には現在のニューヨークにアムステルダムfort(砦・交易所)を築いて、本格的に移民の受け入れを始めて、植民地政策をとり始まています。

そして1648年の独立後は一層植民地政策を推進させて、ポルトガルが持っていたインド洋のterritory(領有地)を奪い東南アジアへのより一層の積極進出(植民地政策)も始ました。

2-3-2 しかし数次にわたる英蘭戦争に"イギリス帝国"が勝利

1689年にイギリス東インド会社にインド洋・南太平洋(南シナ海)のterritoryを譲り渡し以後イギリス帝国が、東南アジア(インド洋・東シナ海)の覇者!となった訳です。

2-3-3 1783年のUSA独立で

更に、USAが1783年のパリ条約で大英帝国から独立して"主権国家"として国際社会から承認されてからは、急速に国力を付けて太平洋に乗り出して...

第3項 西欧列強が日本に不平等条約を迫った!のは...

日本に開国を迫り不平等条約(日米通商条約)の締結を迫ったのは...日本侵略が目的ではなく!イギリス帝国、ロシア帝国、仏蘭西、などの他国同様に、「貿易船や捕鯨船の食糧(水)の補給ポイント」として必要だった!からでしょう。

第1目 日本列島の"地勢"と"大国間の大人の事情"が一国の植民地化から守った!

ある意味、「日本列島の地勢と、大国間の大人の事情(利害・思惑)」が"日本を国際共有物!"として一国のcolony(植民地)化から守ったともいえるでしょう。

但し清国とは違い、「武力を持った"主権国家"」としては認められて無かった!わけです。

幸運の神(知略!スパイ戦!)の気まぐれ?で、明治維新後の日露戦争に勝利!するまで、各国と結ばれていた"不平等条約"の改正が成しえ無かった!ことでも、裏付けられるでしょう。

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公開:2021年9月25日
更新:2025年9月15日

投稿者:デジタヌ

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