タヌキがゆく

宜野湾市《 タウンレビュー 》

沖縄県と宜野湾市のこれ迄の歩み

沖縄県

日本で最も西に位置する県。鹿児島県の薩南諸島を除く南西諸島の島々(沖縄諸島・先島諸島・大東諸島)から構成されており、東シナ海と太平洋に挟まれている。面積は2,281㎢と香川県・大阪府・東京都に次いで小さく、また人の居住する日本最南端の地域を含む県でもある。

沖縄本島・宮古島・石垣島など多くの島々から構成される。

県庁所在地は那覇市。
推計人口、1,444,226人/2018年5月1日

基地関連と公共事業を除けば、これといった大きな産業は観光くらいしかなく、日本で一番完全失業率が高い状態が長年続いている。

宜野湾市

沖縄本島の中部、那覇市の北東約10kmに位置する。

市の中央部の台地を普天間飛行場(Marine Corps Air Station Futenma)、北部をキャンプ・フォスターが占める基地の街。

1945年(昭和20年)にアメリカ陸軍工兵隊が日本本土への攻撃に備えて現普天間飛行場の用地を強制接収し飛行場を建設して以来60年以上米軍施設として使用され続けている。

ほとんどが民有地で、1972年の本土復帰以後は土地使用の見返りとして約2,800人の地権者へ軍用地料が(日本国政府より)支払われている。

1972年(昭和47年)の沖縄返還の際に普天間海兵隊飛行場、普天間陸軍補助施設、普天間海兵隊飛行場通信所が統合し現在の普天間飛行場となった。

2018年6月18日現在「移転・土地返却問題」に決着は着いていない。

沖縄県のこれまでの主立った出来事

琉球王国

最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。

先祖はやはり日本人

近年の考古学では南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されており、遺伝子研究では沖縄県民は遺伝子的に九州以北の本土住民と近く、同じ祖先を持つという研究結果が複数出ている。

勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きも知られている。

外交的には「貿易上の理由」から、中国「清」の冊封国(君臣関係)であった、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし「対外的には独立した王国」として王朝は存在し、鎖国下での薩摩藩の密貿易?の隠れ蓑になっていた。

主だった出来事

12世紀ごろから琉球でも稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、集落は海岸部から農耕に適した台地に移り住みこの時代を「グスク時代」と呼ぶ。

14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまった。

英祖王統を滅ぼした察度が治める中部の中山、承察度が治める南部の山南(、帕尼芝が治める北部の山北でありこの時代を三山時代と呼び、約100年続いた。

このころ中山王が初めて明の皇帝に朝貢したことで認識が高まり、朝貢した沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。その後、「琉球」は琉球王国(琉球国)の勢力圏を指す地域名称として定着していく。

1429年尚巴志王が三山統一を果たしこれをもって琉球王国の始まりとされている

統一後も依然として地方の諸按司や豪族の勢力が強く、ついに王府が有効な中央集権化政策を実施することはなかった。

政権としては63年間で瓦解した。

クーデターで王位を奪取し第二尚氏王統が成立した

1462年、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)がクーデターで王位を奪取し第二尚氏王統が成立した

第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の諸按司を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功した。彼の治世において、対外的には1500年には石垣島にてオヤケアカハチの乱を平定し、さらに1522年には与那国島を制圧して、現代まで続く先島諸島の統治権を確立した。

この時代琉球王は、明国から朝貢国(冊封国)として、形式上その臣下となることを強いられた。

1604年 野国総管が甘藷(サツマイモ)を中国よりもたらす。サツマイモは琉球諸島全土の食糧事情を劇的に改善し野国総管の功績は現在も称えられている。

1609年3月4日、樺山久高ら島津軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆し

3月26日、には沖縄本島北部の運天港に到達した。琉球からの申し入れにより4月1日、薩摩軍は軍使を那覇に向かわせ那覇で和睦調印が行われた。

4月5日に島津軍は首里城を接収し、5月半ばに琉球王尚寧と共に薩摩に帰った。

1610年、薩摩藩主・島津忠恒が尚寧を伴い江戸へ向かい、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ薩摩藩の直轄地とした。

1665年 羽地按司朝秀が摂政に就任し、疲弊した琉球を立て直すために行った一連の改革はその後蔡温へと受け継がれた。この頃、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が麻平衡・儀間親方真常によって確立され、黒糖は貿易のための商品作物となった。羽地朝秀、蔡温、儀間真常は琉球の五偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

1847年幕府が琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可しに薩摩が琉球を英仏に開港した。
1853年 アメリカ海軍のペリー提督が来航する。

1854年7月11日(咸豊4年6月17日)に琉米修好条約を結んだ。

1859年、箱館、横浜、長崎(下田を閉鎖)が開港され、本格的な貿易が開始され、江戸時代の薩摩藩 - 琉球 - 清ルートを含む4つの貿易ルートから開港5港に貿易ルートの中心が移った。そのため、薩摩藩の琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失った

1872年(明治5年)国王尚泰を藩主とする琉球藩を設置。

1879年(明治12年)1月26日、松田道之が再度琉球に出張し、清国との絶交を督促するが同意得られず。

同年3月27日、松田道之が軍隊300名余、警官160名余を率いて首里城に入り、城の明け渡しと廃藩置県を布告した

その後沖縄県が設置。これにより正式に琉球王国は消滅する。廃藩置県により、琉球藩は廃止され国王尚泰は東京に連行された。

清は、この動きに反発し、日清両国関係が緊張した。

1880年(明治13年)、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに、沖縄本島を日本領とし先島諸島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案し仮調印までしたが「清は八重山諸島と宮古島を望まず、琉球領としたうえで清と冊封関係を維持したままの琉球王国を再興させる」という李鴻章の反対によって妥結にはいたらず、琉球日本帰属問題は棚上げ状態になった

1890年1月、天皇への崇敬心を養うことを目的に、琉球八社の中心であった波上宮を官幣小社に列した。これらの動きと並んで、沖縄各所にあった御獄(うたき)、拝所は村社として整理・統合され、拝殿や鳥居を設置し、神道の布教が実施された

1894年(明治27年) 日清戦争開戦。

1895年日清戦争集結。敗れた清は台湾を日本に割譲し同時に琉球に対する日本の主権を認めた。

琉球王朝時代の統治体制が長く残存

国際的に沖縄県が正式に日本の領土として認められるのが遅れたために法整備(日本の国内法の施行)が遅れ、琉球王朝時代の統治体制が長く残存することとなった。

概ね日本本土から10年から25年遅れて徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが順次施行された。

1898年(明治31年) 沖縄県下で徴兵令施行。

1944年(昭和19年)10月10日に太平洋戦争で激しい空襲によって那覇市の90%が壊滅した。

1945年(昭和20年)3月26日、慶良間諸島にアメリカ海軍艦隊が集結し、3月29日にこれを占領した。4月1日に米軍は55万人の兵力で沖縄本島の読谷村(沖縄本島中部)から上陸し、圧倒的なアメリカ軍の火力の前に、首里城地下を本部にした日本軍との間で壮絶な地上戦が行われ、沖縄県民も沖縄防衛隊を配置、多くの一般人も戦闘に参加し、犠牲になった。

6月23日には組織的戦闘は終結したが「実質的な戦闘」は7月4日まで続き、9月7日に日本軍との間で降伏文書が取り交わされた。

太平洋戦争終結直後はアメリカ政府は沖縄県は、日本人(大和民族)に同化された「独自した国(琉球国)」であるとし将来の独立を前提にアメリカ軍政下に置いた。

しかし、朝鮮戦争の勃発によって「東アジアの要石」「最前線の基地」と見なされる様になり、アメリカ本土からの駐留アメリカ軍が飛躍的に増加した。

駐留米軍は旧日本軍の施設以外にも、広範囲にわたって一般県民の私有地を強制的に接収した。

1952年(昭和27年)4月28日発効のサンフランシスコ講和条約で正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。

アメリカは「琉球政府」を創設して軍政下に置いた。

1960年代(昭和35年-昭和44年)のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し沖縄各地にアメリカ軍基地・施設を整備拡張(建設)した。

このころ(1960年)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され祖国復帰運動を開始した。

1969年(昭和44年)の日米首脳会談で当時のアメリカ大統領ニクソンが米軍基地温存、日本本土並みを条件に沖縄返還を約束した。

1972年(昭和47年)5月15日「日本へ復帰」した琉球政府組織はそのまま沖縄県庁となった。

1975年(昭和50年)には沖縄国際海洋博覧会が開催された

1998年(平成10年)から「沖縄県マルチメディアアイランド構想」に基づき、コールセンターやIT企業の優遇策による誘致を活発に行なっている。

2000年(平成12年)主要国首脳会議(サミット)が行われたのをきっかけに、国際会議、コンベンションといったイベント開催地としての体勢作りを進めている。

 

公開:2016年11月 1日
更新:2018年11月24日

投稿者:デジタヌ

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