狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

倉敷市《Community Historia》

前書き(要約)アクセス網の発達からながめた歴史

江戸幕府成立後、天領として平穏に過ごし、明治維新以降は幾多のmunicipality、administrationの変遷で翻弄され続けた、Community「倉敷」のgeopoliticsとtransportation networkの変遷について考察したHistoria。

倉敷市

音楽祭の主舞台となる白壁の町並みが残る倉敷美観地区や、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋などで知られる。中国地方で三番目の人口を擁している。

推計人口、477,181人/2017年10月1日。

東京-倉敷 3時間49分/岡山乗り換え新幹線-在来線/¥17,140/748.8km。

岡山-倉敷(4駅目) 16分/JR/¥320/15.9km

岡山都市圏に含まれ岡山市とは人的交流に加え行政面でも密接な関係を持ち、全体的に岡山への通勤・通学者が圧倒的に多い。

倉敷市のこれまでの主立った出来事

かつて倉敷市は代官所が置かれた天領、岡山市は外様大名の城下町であったという中心地域成立の歴史的違いによる対抗心もある。

平成の大合併で倉敷市と成った旧児島市域は岡山市と同じ旧備前国、江戸時代は岡山藩の支配下におかれ、交通の便も岡山市の方が良いなど岡山市との繋がりが強い。

県境を越えて西にある福山都市圏や、瀬戸大橋(瀬戸内海)を越えた対岸の高松都市圏との交流はあまりない。

但し両地域とも地理的な位置関係からJR山陽本線沿線の玉島地域・倉敷地域では福山が、南の児島地域は高松が通勤・通学圏になっていたりする。

天領になった倉敷旧市街は高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ内陸の港町となった。

1550年 - 玉島湊と松山(高梁市)間で高瀬舟による物資の輸送がはじまる。
1584年 - 宇喜多秀家が早島から高梁川河口まで汐止め堤防を築く。

1614年備中松山城の城番で備中代官であった小堀政一が陣屋を構えた後、代官所(支配所)がおかれ玉島地区一帯が備中松山藩の支配になる。

1616年 - 倉敷・玉島近辺の水島灘で新田開発が始まる。
1642年 - 倉敷村が幕府の直轄地(天領)になる。

倉敷代官所は商人たちの自治を認め優遇したことで人口も増加し、領地は名目上5万石であったが、実質は10万石以上の領地を支配した。美観地区の蔵屋敷はこれによって富を得た商人の蔵である
1656年 - 児島阿津に塩田が開かれる。

1871年(明治4年) - 廃藩置県により、窪屋郡倉敷村に倉敷県役所が置かれる。

1872年(明治5年) - 倉敷県・福山県等が合併し深津県になり、翌年小田県に改称。

1875年(明治8年) - 小田県が岡山県と合併。
1881年(明治14年) - 乙島(玉島乙島)に玉島紡績所が操業。
1891年(明治24年) - 窪屋郡倉敷町に山陽鉄道倉敷駅が開業、初めて鉄道ができる。

1925年(大正14年) - 高梁川改修工事が完成。
1928年(昭和3年) - 都窪郡倉敷町が市制施行し、倉敷市(初代)が発足
1930年(昭和5年) - 大原美術館が開館。
1945年(昭和20年) - 水島空襲が発生(6月22日)。水島航空機製作所が米軍の空襲により破壊される。
1948年(昭和23年) - 児島郡の3町1村が新設合併し、児島市が発足。
1952年(昭和27年) - 浅口郡玉島町が市制施行し、玉島市が発足。
1953年(昭和28年) - 水島臨海工業地帯の建設が始まる。
1967年(昭和42年) - 倉敷市(初代)・児島市・玉島市が新設合併し、現行の倉敷市(二代目)が発足。
1975年(昭和50年) - 山陽新幹線新倉敷駅が開業(玉島駅から改称)。
1988年(昭和63年) - 山陽自動車道倉敷JCT - 福山東IC間、同早島支線倉敷JCT - 早島IC間が開通。
1988年(昭和63年) - 児島・坂出(香川県)を結ぶ瀬戸大橋が完成し、瀬戸中央自動車道が開通、JR瀬戸大橋線が開業。
2002年(平成14年) - 中核市に指定される(全国で30番目)

 

公開:2016年10月31日
更新:2022年10月 7日

投稿者:デジタヌ

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