狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

岡山県・岡山市《Community Historia》

前書き(要約)アクセス網の発達と岡山市

律令制以来旧令制国備前国に当たる都市として栄えたCommunity岡山と、古代吉備国の一部で旧令制国の備前国・備中国・美作国の広大なエリアに跨る岡山が、明治維新以降幾多のmunicipality、administrationの変遷で翻弄され続けた、municipality 岡山県のgeopoliticsとtransportation networkの変遷について考察したHistoria。

岡山市がある岡山県

古代吉備国の一部で概ね旧令制国である備前国・備中国・美作国の部分から成る。

推計人口、1,900,689人/2018年4月1日

岡山市とは

旧令制国備前国に当たる都市。

推計人口、721,294人2017年10月1日。

岡山-品川(東京) 3時間14分/17140円/新幹線/726.1km

広島市に次ぎ山陽瀬戸内・地区第2の都市として発展を続けている。

(東京都区部除く)人口増加率(平成22年国勢調査ー平成27年国勢調査)で政令指定都市20市中8位(1.40%増)となっており現在も増加傾向にある。

近年1988年瀬戸大橋開通以来の旺盛な企業進出で「若い活気ある企業」が多く若さあふれる活気ある町と成っている。

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている。

岡山市の属していた旧備前国

現岡山市中区の大部分に当たる上道郡、赤坂郡、御野郡、児島郡、邑久郡、和気郡、磐梨郡、津高郡,の8郡から成っていた。

室町時代以前、単なる農村にすぎ無かった現岡山周辺が「宇喜多直家」の手により、岡山城が拡張拡充され「山陽道を城下経由」に付け替え商業の発展で備前国の政治経済の中心地となった。

その後江戸時代に入り1603年に池田忠継が入城、1707年頃には国内でも十指に入る大都市と成ったがその後明治期に成るまでは藩政の農耕優先策転換により、商業都市としての城下町・岡山は衰退していった。

旧備中国

古代から開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった。造山古墳と作山古墳があることなどから、吉備の最有力豪族の拠点だったと推定される。鎌倉時代のころ、都宇郡、窪屋郡、賀陽郡、上房郡、下道郡、川上郡、浅口郡、小田郡、後月郡、哲多郡、阿賀郡、の11郡となった。

戦国時代末期羽柴秀吉を先鋒に織田信長が進出してくると、備中国高松城が織田・毛利両軍の対峙の場になった。織田信長の死による講和で、毛利輝元は備中の三郡を譲り、残りを保持することになった。

江戸幕府の「入組支配」

入組支配;江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられ岡山県(備中国)も幾度の変遷にさらされた。

江戸時代の備中国は、数多い知行地に分割領有された。現在の高梁市にある松山城が備中国唯一最大の城下で江戸時代初期には備中国最大の人口を抱えていた。残りの備中足守藩(33郷)、備中松山藩(11郷)、備中庭瀬藩(8郷)備中浅尾藩(7郷)は何れも弱小藩で知行地には陣屋を構えた。

倉敷代官所のあった窪屋郡倉敷村は、天領(幕府直轄地)として江戸時代を通じて発展を続け備中松山藩と肩を並べ、やがてこれを凌駕して備中最大の都市となって現在に至る。

備中では綿作が広まり、江戸時代後期になるとその加工も盛んになった。また、製鉄もなお重要であり続けた。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日/旧暦6月24日)を挟み、1871年7月14日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革で、その後の離合も含め岡山県(備前・備中・美作)も幾多の行政変遷にさらされた。

明治期以降の近代・現代の躍進。
1871年8月29日 廃藩置県布告により、岡山城下(現岡山市)は岡山県の県庁所在地となる。窪屋郡倉敷村に倉敷県役所が置かれる。

1872年(明治5年) - 倉敷県・福山県等が合併し深津県になり、翌年小田県に改称。

1873年(明治6年)1月1日(旧暦明治5年12月4日)新政府太陽暦採用を布告。

1875年(明治8年) - 小田県が岡山県と合併。

※つまり倉敷県が「備中の夢?」として消えうせた、この辺りの事情が、岡山、倉敷両市の長年にわたる確執・しこり?・勢力争い(市域拡大)の根深い原因の一つとなっている。

1889年(明治22年)岡山市市制施行

1891年(明治24年)3月18日 - 山陽鉄道(現JR山陽本線)三石駅 - 岡山駅間延伸開業と同時に開業。同年4月25日 - 山陽鉄道が倉敷駅まで延伸開業。

1901年5月27日 山陽鉄道神戸 - 馬関(現下関)間全通。

1925年(大正14年) - 高梁川改修工事完成。

1928年(昭和3年) - 都窪郡倉敷町が市制施行し、岡山市に続き倉敷市(初代)が発足。

1962年(昭和37年)10月13日 - 初代岡山空港(現県営岡南飛行場)が開港。

1972年(昭和47年)3月15日 山陽新幹線岡山駅が開業、

1988年(昭和63年)3月20日 瀬戸大橋線が開業し、以来は岡山市は鉄道交通の要衝となっている。

同年同月 - 岡山市日応寺に新・岡山空港2,000 m滑走路で開港。

同年 - 山陽自動車道倉敷JCT - 福山東IC間、同早島支線倉敷JCT - 早島IC間が開通。

1993年12月16日 : 山陽自動車道 備前IC - 岡山ICが延伸開通。山陽姫路東IC以西の本線が全通し、播但連絡道路と合わせて中国自動車道のバイパスルートが形成された。

同年  岡山空港 滑走路を2,500 mに延長、エプロン拡張、国際線ターミナル供用開始。

1996年(平成8年)、岡山市が中核市に指定される。

1997年12月10日 :山陽自動車道 三木小野IC - 山陽姫路東ICが延伸開通し、本線が全線開通。

瀬戸内海の主要都市から離れ山間部を通りUpDownの激しい中国自動車道から、瀬戸内の主要都市を直接結ぶ比較的平坦な山陽自動車道にトラック物流の本流が移る。

2001年(平成13年)10月 - 岡山空港 滑走路を3,000 mに延長。

2009年(平成21年)4月1日 岡山市が政令指定都市となる。

 

公開:2016年10月31日
更新:2022年10月 7日

投稿者:デジタヌ

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