狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

八尾市《 タウンヒストリア 》発展路線に 転線しそこねた"老人特急!"

八尾市とこれ迄の歩み

八尾市

推計人口、266,897人2018年4月1日。

旧河内国に属していた、大阪府中部に位置する都市。

第1項 主要駅

第1目 近鉄八尾駅

準急・普通のみ停車

近鉄八尾ー(鶴橋)ー大阪難波 20分/300円/大阪線-奈良線乗り換え。

2018年度(コロナ禍前)19,259人/日・年間平均

2020年度(コロナ禍後)不明?人/日・年間平均

第2目JR八尾駅

JR八尾⇔JR難波 19分/220円/JR普通

2018年度(コロナ禍前)13,174人/日・年間平均

2020年度(コロナ禍後)10,820人/日・年間平均

第3目 JR久宝寺駅

大和路快速停車駅・おおさか東線乗換駅

2018年度(コロナ禍前)17,732人/日・年間平均

2020年度(コロナ禍後)14,747人/日・年間平均

第4目 OsakaMetro 八尾南駅

谷町線ターミナル駅(終着駅)

特定日利用者数(乗車のみ)

2018年(コロナ禍前)5,857人/11月13日

2020年(コロナ禍後)5,241人/11月10日

第2項 ヒストリア

江戸時代中期、※大和川の付け替え工事(1704年(宝永元年)10月完成)が行われ、大和川の付け替え後の旧大和川・川床跡の砂地は木綿栽培に適しており、商品作物としての木綿の栽培や、農村工業としての紡績(河内木綿)が盛んになり、全国でも有数の裕福な農村となった。

※参、「大和川付け替え」には今に至っても賛否両論あり、必ずしも最善策であったとは言われていない。

農地を奪われた農民たちや、渇水に苦しむこととなる旧下除川沿いの農民たちが新田(八尾市・柏原市・東大阪市)に「水のみ百姓」として移り住んで大地主の小作の使用人に貶められたり、身売り・一家離散・餓死など多くの被害者も発生しており、このことが今に至る旧河内国と旧泉国地域の不協和音の火種の一つともなっている。

明治以降は八尾も綿糸生産で繁栄したが、次第に紡績業界から外国産の安い綿花の輸入を求める声が高まり、輸入綿花の関税が廃止され、八尾の綿花栽培は大正末期までに急速に衰えていった。

その後は綿を生産していた農家や工場がブラシ生産に転換し地場産業へと発展した。

第3項 21世紀を生き抜くためには...

近鉄八尾駅前に固執せずに...

人口密集地の近鉄八尾駅周辺ですが、言い換えると、頭の固い(古臭い!)老人たちが多い訳です。

昔からの native Kawachian の方々は認めたくないでしょうが、21世紀に入り大阪から繫栄(経済力)は消え失せ!、最早嘗ての天下の台所ではなくなっています!

つまり、八尾駅前が栄えた時代ではないのです!

何時までも急行も停車しない様な不便な!近鉄八尾駅前に固執していては、八尾市全体が活気のない"スラム街"になり果ててしまうでしょう!

第1目 八尾市の失敗!は...

八尾市の失敗!は、河内の Municipality に共通した近所付き合い!?

ライバル?の近隣 Municipality の"動向"ばかりに気を取られている!ことです。

更に、人口増加(歳出増!)に積極的に対処していない!点でしょう。

つまり、市民が増加して、上下水道整備、ゴミ収集、初等教育充実などの公共サービス(住民サービス)費に見合うだけの税収UPが果たせていない!点でしょう。

一般市民は勘違いしている!人口増は発展にはむずびついていない!

つまりは税収UP(事業税、固定資産税、所得税、市民税などなど)に繋がる企業誘致・雇用創出が伴わない!人口増加に悩まされているわけです。

第2目 駅前モール(小売業)に頼る事業税収UPの目論見は見当違い!

御多分に漏れず、まちづくり3法(※10)に翻弄されて!、アクセス道路整備もできていない近鉄八尾駅前に巨大ショッピングモールを誘致したわけですが...

参※10)当サイト内関連記事 "まちづくり3法"は「持続可能な都市開発(税収UP)」を阻害!している はこちら。

大店法は弊害が多すぎる

都市計画法に乗せられて!ゾーニングを行い、駅前を商工地域指定して、第2種住宅地域からは外してしまうと...

駅前を商工ゾーンに指定してショッピングモールを誘致してしまうと...

それ以上「地上げ(固定資産税評価額UP)」に繋がらない!結果になって終うわけです。

つまり、駅前の「持続可能な都市開発(地上げ!)」に繋がらない!訳です。

Rural Town では高額なテナント料に見合う売り上げは期待できない!

Metropolis(大坂市)近隣の Rural Town では高級店舗は成立しません!

態々田舎町の百貨店に行かなくても、電車に乗れば数十分以内に、Metropolisの繫華街に行けるからです!

つまり、スーパーは営業できてもデパート(百貨店)は成立せず嘗ての八尾西武デパートの様に敗退せざるを得ない!わけです。

大型モールに入居する専門大店も同じ

専門大店もMetropolisの目抜き通りにある様な高級品を品ぞろえしても、買ってくれるお客は居ません!

なのでモールテナント(個人商店主)は地価が高騰して、家賃が高騰すると経営が苦しくなり店じまいせざるを得なくなる成るわけです。

モール渋滞で地域住人の経済活動にも支障

「まちづくり3法」特にしんがりを務めた大店法(出店規制!)を考案した老人たち!は...

Megalopolis(首都圏)でも特に、23区内の世田谷辺りに邸宅を構えている方々で、マイカーはおろか運転免許証すらお持ちでないような、"爺様方"なのでしょう!

だから、アクセス道路も整備されていない様な、「郊外の田舎駅前に大型モールを作れ"」などという、非現実的な御触れを思いつき、お殿様に提言したのでしょう!

御触れに忠実に従った、痴呆自治体ではどこでも、駅前モール入店待ち渋滞に悩まされています!

郊外に新規開店したロードサイド店舗に客足を奪われる結果にも

更に、始終、入店(駐車場)待ちの状態で、周辺の生活道路で渋滞が生じていると、目新しさが無くなり、客に飽きられ!周辺都市にも新しいモールが誕生すると、モール自体の集客力が落ちて、メイン店舗の撤退とともに、モールが廃虚化することになって終うわけです。

第3目 久宝寺駅がモデルケースに

持続可能な「駅前都市開発」にはタワマンが最適

「持続可能な都市開発(地上げ)」には立地を生かした、都市型高層集合住宅(タワマン)街化が最も適している!訳です。

インフラ(歳出)整備も容易に

歳出を抑えながら歳入を確保するには都市型高層集合住宅化!が最も容易い方法です。

つまり上下水道整備、ゴミ収集、の集中・合理化!が図れるわけです。

アクセス至便ゾーンにある都市型集合住宅(分譲・賃貸タワマン)ならば、一度駅前人気に火が付くと、転入(入居)希望者が殺到!して、継続して地上げ(固定資産税評価額UP)が可能となります!

モールは市街地周辺部のバイパスに配置するのが得策!

公害のRural areaの市街化調整区域指定を解除して、ロードサイドモールを認めると、お客も利用しやすくなり、より集客が見込めるわけです!

これも、すでに市内に例があります!

つまり、地価が安い市街地周辺部ではおのずと借地代、物件リース料も安く、テナントも出店しやすく、営業継続もやりやすくなるわけです。(※11)

つまり安定した雇用(パートタイマー)創出にも繋がるわけです。

参※11)通常ロードサイド店舗は、地主と借地契約を交わし、上屋も15年程度のリース契約で、開店しています!

当サイト内関連記事 大型規模小売店舗は永住・永続は考えて無! はこちら。

第4目 今後は子育て環境充実を行い"暮らしやすい駅前作り"を目指せば...

今後は、共働き世代のヤングジェネレーションファミリーに焦点を絞り!

子育て環境が充実した"暮らしやすい街駅前!"を目指すべきでしょう!

今一久宝寺人気に火が付かないのは...

久宝寺駅前に大型ショッピングモールを誘致しておけばよかった

久宝寺駅前再開発(旧龍華操車場跡地再開発)事業に、久宝寺駅前の広大な用地に、アリオを誘致しておけば、周辺生活道路への影響も最小限に済み!市民生活に影響も少なかった?でしょう...

但し、前途した様にいずれにせよ「持続可能な都市開発(地上げ)」は実現できなかったわけです。

駅前には市民サービスセンター(市街地改造ビル)が必要

21世紀になっても成長を続けている地方都市に共通しているのは、駅前の都市型高層住宅化!と、駅前の公共サービス充実!です。

  • ●改札から3分に以内自治体の branch office(支所)がある!
  • ●駅前に医療サービス(診療所・クリニック)が充実している
  • ●金融サービス(銀行窓口が充実している!)
  • ●子育て支援施設(託児所・こども園)が駅周辺に集結している。

の4条件が必要なのです、

上図をご覧になれば一目瞭然、久宝寺・八尾南駅両駅ともに必要条件が満たされていません!

今後より一層の発展が期待できる久宝寺駅と、八尾南駅前に、八尾市(又は3セクビル会社)が駅前ビルを取得して、上記の、施設が一堂に会した市民サービスセンターを開設すれば、両駅周辺は一躍人気が沸騰してタワマンゾーンとして大躍進を遂げて、八尾市の財政も安定するでしょう!

更に将来的にはモノレールも寄り道させれば...(※24)

参※24)当サイト内関連記事 大阪モノレール が大和川以南に延伸できたとしても?中央環状線ルートに拘っていては... はこちら。

第2節 河内・大阪府のヒストリア

大阪府

旧・摂津国の一部・河内国・和泉国からなる府。

かつては、都道府県で東京都に次ぐ第2の人口だったが、2006年5月1日に神奈川県が大阪府の人口を上回ったため、現在の人口は第3位である。

府庁所在地大阪市
推計人口、8,819,416人/2018年4月1日

古代から近世を通じ、大阪平野を形作ってきたのは、淀側・旧大和川・石川水系であった。

これらの水系は「河内湖」に注ぎ河内は湿地帯であった。

有名な、古市、百舌鳥古墳群は、河内湖周辺の先に堆積した比較的標高の高い堆積平野に作られている。

奈良時代においてはこれらの水系が旧大川(上町大地北端・現大阪城北側天満)の辺りに集中し、たびたび水害を起こすとともに、肥沃な平野を形作っていった。

つまり、これら旧河川を境に、上町大地周辺と淀川以北・以西を摂津国、上町大地の東側を流れる下除川(現下除川・現今川)以東を河内国、

上町台地以南の下除川以西の地域を「泉国」と定めた。

これら3国が元となり現在大阪府が形造られている。(概ね猪名川以西は現兵庫県域)

河内国の歩み

概ね淀川以南で大和川付け替え(1704年(宝永元年)10月完成)までの旧大和川(現平野川、現寝屋川)流域と下除川(しもよけがわ;現下除川&現今川)以東の上除川(現平野川)流域地域。

河内湖起源の堆積平野・湿地帯がほとんどを占め、近年迄昭和の時代「河内レンコン」の産地として蓮畑、また寝屋川流域の運河(排水路)を張り巡らせた「水郷・水田」が多くみられた。

704年(大宝4年) 国印鋳造時、河内の名が確定したとされている。

古代の大豪族の物部氏の勢力があり、東大阪市衣摺は、その本拠地のひとつであった。

716年(霊亀2年)4月16日に、大鳥郡・和泉郡・日根郡を割いて和泉監を分立させた。

740年(天平12年)8月20日に和泉監を併合するが、

757年 5月8日に、今度は和泉国として再び分立させた(一時769年に西京と称し由義宮(八尾市)が建設され、一旦河内国が廃止され、「河内職」が設置されたが、翌年元に戻された。)

応仁の乱終息後も、両畠山氏の戦いは継続し、河内は戦国時代に突入した。

織田信長が上洛すると、河内の北半国を三好義継、南半国を畠山昭高(信長の妹婿)に安堵するがまもなく三好義継・三好昭高は没落した。

河内には信長の重臣佐久間信盛の支配に入ったが後に信長に疎まれ追放される。

1582年6月21日(天正10年6月2日)本能寺の変の後、羽柴秀吉が河内を領国としておさえる。

秀吉の没(慶長3年(1598年)8月18日)後、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が江戸幕府を開くが、河内は秀吉の子・秀頼の領国として幕藩体制には入らなかった。

江戸幕府の「入組支配」

入組支配;江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

江戸時代、河内国は、狭山藩、丹南藩の2藩のみが存在し、ほとんどが代官支配地で天領、旗本領、諸藩の飛び地などが入り組んだ。

「旧高旧領取調帳」の記載によると、
河内郡(30村)は全て代官支配地で幕府領、旗本領、京都守護職役知、狭山藩飛び地、相模小田原藩飛び地、大和小泉藩飛び地からなっていた。

廃藩置県と明治新政府の行政改革(大阪府の歩み)

廃藩置県とは一般的には1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還からの廃藩置県布告を挟み1872年の 第1次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革で旧河内国も幾多の行政変遷にさらされた。

1868年(慶応4年旧暦1月22日)大坂鎮台設置。

同年(旧暦1月27日)大坂鎮台を大坂裁判所と改称。

同年(旧暦2月)大坂裁判所に町地を除く周辺部を管轄する司農局設置し旧幕府領・旗本領を管轄する。

同年旧暦5月2日 大阪府設置。

大阪府発足当時の管轄地域は、摂津国東成郡61村、西成郡132村、住吉郡37村、河内国交野郡1村(加納藩預地)であった。

1868年6月21日(旧暦5月2日) - 大坂裁判所司農局の大阪府司農局の管轄地域がとなる。
1868年7月27日(旧暦6月8日) - 大阪府司農局が南北司農局に分かれ大阪府南司農局の管轄となる。

1869年3月2日(明治2年旧暦1月20日) - 大阪府南司農局の管轄地域が河内県の管轄となる。

同年9月7日(旧暦8月2日) - 河内県の管轄地域が堺県の管轄となる。

1869年11月24日(旧暦12月26日) - 狭山藩が廃藩。管轄地域が堺県の管轄となる。
1870年4月19日(旧暦3月19日) -河内国内の高徳藩領地が堺県の管轄となる。
宇都宮藩預地・高槻藩預地が堺県の管轄となる。

1872年1月2日(旧暦11月22日 )- 第1次府県統合により、全域が堺県の管轄となる。
1874年(明治7年旧暦8月4日) - 摂津国島上郡磯島村の所属郡が河内国交野郡に変更。
1881年(明治14年旧暦2月7日) - 堺県が廃止となり旧河内国が大阪府の管轄となる。

八尾市のこれまでの主立った出来事

江戸時代初期には浄土真宗の宗派対立を発端とし、八尾寺内町が創設され、現在の八尾市発展の基となった。

1889年(明治22年)4月1日、若江郡八尾町、他15ヶ村が合併して、若江郡八尾村が発足。

同年5月14日 初代・大阪鉄道(現JR)湊町駅(現JR難波) - 柏原駅間(16.29km)が開業。八尾駅開業。

1903年(明治36年)8月1日、町制を施行して、中河内郡八尾町となる。

1924年 大阪阪電気軌道(現近鉄大阪線)国分線・足代駅(現布施駅) - 八尾駅(現・近鉄八尾駅)間開業により上本町と八尾がつながる。

1938年 20ヘクタールの広大な敷地に当時日本最大級の竜華(貨物)操車場が開場し運用開始される。

これ以降1997年の久宝寺駅(1910年開業)橋上駅舎化まで、上り・下りホーム間が1㎞以上あり日本一上下ホームが離れている駅として、何度もマスコミに取り上げられたこともある。

戦後になって奈良街道に沿った国道25号などの道路網整備が進んだ。

1979年(昭和54年) 11月 近鉄大阪線高架化事業完成、近鉄八尾駅前広場完成
1980年(昭和55年) 11月 八尾飛行場縮小・市街地改造整備計画により大戦中の同空港西端部南側の旧空港部分に市営地下鉄(現大阪メトロ)八尾南駅及び車両基地が完成し「地下鉄谷町線 天王寺?八尾南間」が開通。

1984年(昭和59年) - 八尾南駅北側にあった旧エプロンが廃止され、新たに整備された現ターミナル地区へ移転。

1986年 竜華(貨物)操車場廃止信号所となり操車場跡地は長らく放置されることとなった。

1987年(昭和62年) 3月 近畿自動車道八尾IC供用開始。この頃八尾空港地下道解消埋め立て完成。

1988年(昭和63年) 11月 八尾市文化会館(プリズムホール) 開館

1997年 7月24日 JR久宝寺駅橋上駅舎が完成。竜華操車場正式廃止。大阪竜華都市拠点土地区画整理事業が開始され、市立病院の移転をはじめ、多くの施設が建設された。

2006年(平成18年) 3月 大阪竜華都市拠点土地区画整理事業 竣工
2013年(平成25年) 7月 JR八尾駅橋上駅舎が完成

 

公開:2016年11月 3日
更新:2023年4月22日

投稿者:デジタヌ

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