タヌキがゆく《狸穴総研機関誌・狸穴ジャーナル》

摂津国《 ヒストリア ・ファンタジー》

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている.。

摂津国

淀川(大川本流)以北の六甲山系と伊丹台地に挟まれた三田から流れる武庫川、伊丹台地、と千里丘陵に挟まれた能勢郡から流れる猪名川、淀川分流の神崎川、の各河川流域の比較的早く形成された平野部と古くは難波宮が置かれた上町台地とその周辺部で構成されている。

島上郡;高槻市・三島郡島本町など

島下郡;吹田市・茨木市・摂津市など・

豊島郡;豊中市・池田市・箕面市西部など

能勢郡;豊能郡能勢町・豊能町

西成郡;現在の大阪市北西部。

東成郡;現在の大阪市東部。

住吉郡;現在の大阪市南西部

などと、現兵庫県川辺郡(。現在の尼崎市東部・伊丹市・宝塚市北部など全8郷)有馬郡(現在の神戸市北区北部・三田市など全5郷)武庫郡(現在の西宮市南部・尼崎市西部・宝塚市南部など...全8郷)菟原郡(現在の芦屋市・神戸市東灘区・同市灘区・同市中央区東部など...全8郷。)八部郡(現在の神戸市兵庫区・長田区・須磨区南部・中央区西部・北区南部など...全5郷。)とで構成されていた。


瀬戸内海航路の起点で、旧淀川・旧大和川水系との結節点でもある難波津があり、津国(つのくに)と呼ばれた。

旧大川(旧淀川)以北と上町台地周辺の比較的高地(東側河内国は河内湖を起源とする湿地帯)

593年、推古天皇の摂政聖徳太子が難波(上町大地)の荒陵に四天王寺を造立した。

645年 孝徳天皇は難波に遷都し、大化の改新が行なわれた。

652年 上町大地に難波宮(前期難波宮=難波長柄豊崎宮)が完成した。孝徳天皇の後、都は飛鳥に戻ったが、「壬申の乱」の後天武天皇は、「畿内の外港」であり要地である難波宮を「副都」とした。

726年(神亀3年)、聖武天皇が難波宮(後期難波宮)の造営に着手し、平城京(奈良)の副都とした。

744年(天平16年)には恭仁京から「難波京への遷都」が実施されたが聖武天皇は遷都の「翌年再び平城京」に遷ったが、その後も難波は「副都として維持」された。その後(再利用のため)長岡京遷都に伴って難波宮が解体され消滅した!

793年(延暦12年)旧暦3月9日に摂津職を廃し、新たに摂津国を置いた。

難波津は土砂の堆積が進み、湊は淀川分流(神崎川)にある神崎や江口などに移っていった。

前身の摂津職から引き継いで「摂」の字を冠し、「せっつのくに」とも呼び、また元の津国の訓みそのままに「つのくに」とも呼んだと伝えられている。

難波津も土砂の堆積が進み、その機能は淀川分流にある神崎や江口などに移っていった。

現兵庫県エリア

平安時代末期、日宋貿易を重視した平清盛は大輪田泊(神戸市兵庫区)に着目し、湊の前面に人工島(経が島)を築いて安全な碇泊地を設けようと、私費を投じて修築工事を行なった。

仁安3年(1168年)、清盛は出家して福原(神戸市中央区から兵庫区)に別荘をかまえ、以来ここに住んで周辺一帯を経営した。

治承4年(1180年)、清盛は大輪田泊を見下ろす山麓に福原京を築き、平安京からの遷都を強行した。しかし、11月には京に還都となった。

鎌倉時代に入ると、東大寺の重源が中絶していた大輪田泊の修築事業に乗り出し、やがて兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて国内第一の港として発展し、室町時代には日明貿易の拠点となった。

室町時代、摂津の守護職は管領細川氏が世襲した。室町時代初期(南北朝合一を果たした明徳年間前後)に細川氏の安定した支配が確立していた今日の千里丘陵より東側の地域(島上郡・島下郡のほぼ全域)を上郡(かみのこおり)と総称された。

その後、応永年間までに千里丘陵以西の摂津平野部を掌握した細川氏は豊島郡・川辺郡南部・武庫郡・菟原郡・八部郡を下郡(しものこおり)と称した。

川辺郡北部や能勢郡は清和源氏ゆかりの多田院に与えられていた(多田院御家人)が後に同地の国人・奉公衆であった能勢氏は細川氏の傘下に加わっている。

神崎川以南の西成・東成・住吉の3郡(ほぼ現在の大阪市域)は細川氏の支配から欠けていたため、欠郡(かけのこおり)と総称された。欠郡は「嘉吉の乱」後に細川氏の支配下に入る、赤松氏宗家が衰退すると、有馬氏が細川氏(実質は下郡の守護代であった三好氏)の傘下に入ることになる。

江戸幕府の「入組支配」

入組支配;江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

大和川付け替えによる影響

「旧高旧領取調帳」によると、独立した藩としては、尼崎藩、三田藩、麻田藩、高槻藩のみであった。太字意外は大名の飛び地。
島上郡(32,889石余) - 高槻藩及び代官支配地;幕府領(天領)、旗本領、美濃加納藩、公家領
島下郡(57,496石余) - 高槻藩及び代官支配地;幕府領(天領)、旗本領、一橋徳川家領、田安徳川家領、下総古河藩、美濃加納藩、大和芝村藩、仙洞御領、宮家領
豊島郡(31,640石余) - 麻田藩 及び代官支配地;、幕府領、旗本領、一橋徳川家領、武蔵岡部藩、上総飯野藩、備中岡田藩
能勢郡(12,736石余) - 高槻藩及び代官支配地;幕府領(天領)、旗本領、上総飯野藩、武蔵岡部藩
川辺郡(66,655石余) - 尼崎藩及び代官支配地;幕府領(天領)、旗本領、一橋徳川家領、大洲藩預地、田安徳川家領、麻田藩、武蔵岡部藩、上総飯野藩、大和小泉藩、公家領
有馬郡(45,961石余) - 三田藩及び代官支配地;幕府領(天領)、田安徳川家領、尼崎藩飛び地、武蔵岡部藩、上総飯野藩
武庫郡(23,754石余) - 代官支配地;幕府領(天領)、旗本領、尼崎藩飛び地、尾張名古屋藩、丹波篠山藩
菟原郡(13,975石余) - 代官支配地;幕府領(天領)、旗本領、尼崎藩飛び地、下総古河藩
八部郡(19,631石余) - 代官支配地;幕府領(天領)、旗本領、下総古河藩、大和小泉藩
西成郡(54,057石余) - 代官支配地;幕府領(天領)、旗本領、田安徳川家領、下総古河藩、宮家領
東成郡(36,679石余) - 代官支配地;幕府領(天領)、旗本領、大阪城代役知、京都守護職役知、相模小田原藩
住吉郡(20,759石余) - 代官支配地;幕府領(天領)、旗本領、高槻藩、下総古河藩、相模小田原藩

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日/旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め

大阪府(旧摂津国)も幾多の行政変遷にさらされた。

1868年2月24日(慶応4年2月2日) - 有馬郡・武庫郡・菟原郡・八部郡の幕府領・旗本領が兵庫裁判所の管轄となる。
同年2月 - 豊島郡・川辺郡・西成郡・東成郡の幕府領・旗本領が大坂裁判所司農局の管轄となる。

1871年12月31日(旧暦11月20日) - 第1次府県統合により、猪名川以東の島下郡・豊島郡・能勢郡・西成郡・東成郡・住吉郡および島上郡の大部分(山崎村を除く)が大阪府、猪名川以西の川辺郡・有馬郡・武庫郡・菟原郡・八部郡が兵庫県の管轄となる。

1873年(明治6年)1月1日(明治5年旧暦12月4日)新政府太陽暦を採用・告示

1873年10月5日 - 島上郡山崎村が大阪府の管轄となり

1881年(明治14年)2月7日 - 第2次府県統合により新大阪府の管轄となりほぼ現在の大阪府県域が完成した。

 

公開:2016年11月 4日
更新:2020年11月10日

投稿者:デジタヌ

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