タヌキがゆく《狸穴総研機関誌・狸穴ジャーナル》

河内国・旧堺県《 タウンヒストリア・ファンタジー 》

元・堺県・県庁所在地『堺市』

大阪府の中心部にあり現大和川を挟んで大阪市と接している政令指定都市。元大阪府(堺県)の中心都市。

1704年(宝永元年)の大和川付け替え工事完成まで、商都「なにわ」の勝手口として、「国内・外の海運の要」物流の拠点として繁栄していた。

推計人口830,695人/2019年1月1日現在

堺東駅(堺市役所)ー(天下茶屋)―(南森町)ー天満橋(大阪府庁本庁舎)37分/¥490‐/南海-大阪メトロ/15.7km

堺東駅ー(難波駅)-(新大阪)-品川駅 3時間17分/¥14,990-/南海-大阪メトロ-新幹線/563.5km

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている.。

河内国

概ね淀川(大川本流)以南と寝屋川流域と大和川付け替え(1704年(宝永元年)10月完成)までの旧大和川(現長瀬川、分流玉串川、恩地川)寝屋川と下除川以東の河内大地から流れる上除川(現平野川)、和泉山脈から流れる大和川支流石川の各流流域のエリア。

中央部に大阪府の東部「河内湾・河内湖」を起源とする堆積平野・湿地帯がほとんどを占め律令国が制定された頃も草津江(くさつえ)と呼ばれた湿地帯が広がっていた。(江戸時代を通じて大和川付け替えまで深野池/大東市、新開池/東大阪市鴻池新田周辺が残っていた。)

近年昭和迄で「河内レンコン」の産地として蓮畑が、また寝屋川流域に運河(排水路)を張り巡らせた「水郷・水田」が広がっていた低湿地帯が占めていた。

和泉山脈に源を発する石川(大和川支流)流域の扇状地が南端にあり、有名な楠木正成の千早赤坂城があった千早赤坂村もこの地域。

古来より奈良の大和朝廷の玄関口・交通の要所として南部の河内台地、上町台地からつながる泉北台地が栄え、古市・百舌鳥古墳群もこれら台地上に作られている。

都が京に移ってからは、中部の低湿地が時の豪族たちの勢力争いの場となり、戦火が絶えなかった。

豊臣政権下で、安定したが、徳川幕府下では「入組支配」が徹底され、ために「近隣村間の不公平」も多く生まれのちの大和川付け替え問題にもつながっている。

以下の郡部からなっていた。

茨田郡;守口市、門真市、大阪市鶴見区、枚方市、寝屋川市、
交野郡;交野市、枚方市、寝屋川市
讃良郡;四条畷市、大東市、寝屋川市の一部
河内郡;東大阪市の一部、八尾市の一部、
高安郡;八尾市の一部、
大県郡;柏原市の一部、八尾市の一部地域
若江郡;八尾市、東大阪市の一部、
渋川郡;大阪市生野区、平野区、八尾市、東大阪市の一部。
志紀郡;八尾市、柏原市の元柏原町部分、
安宿部郡;柏原市(旧国分町域)
古市郡;羽曳野市の一部。
石川郡;現南河内郡全域と富田林市の一部。
錦部郡;河内長野市、富田林市の一部。
丹南郡;大阪狭山市の全域、堺市の一部、松原市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部。

丹北郡;東住吉区の一部、平野区の一部、松原市、八尾市の一部、羽曳野市の一部、藤井寺市の一部。

八上郡;堺市(北区の一部、東区の一部、美原区の一部)、松原市の一部

生い立ち

704年(大宝4年) 国印鋳造時、河内の名が確定したとされている。

古代の大豪族の物部氏の勢力があり、東大阪市衣摺は、その本拠地のひとつであった。

716年(霊亀2年)4月16日に、大鳥郡・和泉郡・日根郡を割いて和泉監を分立させた。

740年(天平12年)8月20日に和泉監を併合するが、

757年 5月8日に、今度は和泉国として再び分立させた(一時769年に西京と称し由義宮(八尾市)が建設され、一旦河内国が廃止され、「河内職」が設置されたが、翌年元に戻された。)

現羽曳野市壺井は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖とされる河内源氏が本拠地とした地で、その祖・源頼信や子の頼義、孫の義家の三代の墓が、河内源氏の菩提寺通法寺跡の近くに残っている。


鎌倉時代末期、南河内の豪族の楠木正成とその一族が、後醍醐天皇に呼応して幕府打倒の兵を挙げ、下赤坂城・上赤坂城・千早城に立て篭って幕府の大軍を苦しめた。

1336年に南北朝の内乱が始まると、

1382年に河内守護となった畠山基国の命で 若江城が築城開始。

若江城周辺の河内国内は主戦場となることが多くなった。

南北朝の内乱が始まると、河内は主戦場となることが多くなり、正成の長男・正行は高師直率いる室町幕府の軍勢と四條縄手(四條畷)で戦い戦死した。

応仁の乱

室町時代、河内守護は三管領の1つ畠山氏が世襲していたが跡目を巡って畠山政長とその息子・義就が争いを続け、これをきっかけに足利将軍家や守護の家督相続問題も絡んで、応仁の乱が勃発した。

応仁の乱終息後も、両畠山氏の戦いは継続し、河内は戦国時代に突入した。

政長は管領細川政元と義就の息子義豊らに討たれたが(明応の政変)、子の細川尚順は河内・紀伊の守護として返り咲きに成功する。

細川稙長の時に河内は統一されたが、長らく続いた戦乱によって荒廃し、実権は守護代・遊佐長教の手にわたり、守護は傀儡化されていく。

細川晴元の時代、阿波国から上洛した三好長慶は晴元に従い、敵対する木沢長政を高井田(大阪府柏原市高井田)で討つなど活躍した。

後に三好長慶は細川晴元と対立し江口の戦いで細川政権を打破すると、幕府の実権を握り、摂津から河内の飯盛山城(大阪府大東市)に移り、以後三好氏は強勢を誇った。

三好長慶の没後、三好三人衆と松永久秀の抗争で河内・大和が戦場になった。

織田信長が上洛すると、河内の北半国を三好義継、南半国を畠山昭高(信長の妹婿)に安堵するがまもなく三好3人衆は没落した。

河内は信長の重臣佐久間信盛の支配に入ったが後に信長に疎まれ追放される。

1582年6月21日(天正10年6月2日)本能寺の変の後、羽柴秀吉が河内を領国としておさえる。

天正13年(1585年)3月から天正18年(1590年)にかけて秀吉が天下人となり、若江城を廃城し石山本願寺のあった上町大地旧難波宮のあたりに大阪城を築き領国として治めた。

秀吉の没(慶長3年(1598年)8月18日)後、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が江戸幕府を開くが、河内は秀吉の子・秀頼の領国として幕藩体制には入らなかった。

大坂夏の陣では、前年の冬の陣で外堀を埋められ裸城となった大坂城では、篭城戦はできないと判断した大坂方は、京都から大坂をめざす徳川方を城外で迎え撃ち、河内の各所で戦いが繰り広げられた。

江戸幕府の「入組支配」

江戸幕府はかつて7世紀後半に天智天皇によって制定された令制国(律令国)の「団結による反乱」を極度に警戒し、幕府安康の最善策として「令制国の解体政策」を推し進めた、それが「入組支配」と呼ばれる政策で、地方の大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い「地方の統一・団結」を阻もうとした。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

江戸時代、河内国には、狭山藩、丹南藩の2藩のみが存在し、ほとんどが代官支配地で天領、旗本領、諸藩の飛び地などが入り組んでいた。

「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での河内国内の支配は以下の通り。
錦部郡(49村) 代官支配;幕府領、旗本領狭山藩、伊勢神戸藩、近江膳所藩
石川郡(48村)代官支配; 幕府領、旗本領、常陸下館藩、相模小田原藩、近江膳所藩
古市郡(14村) 代官支配; 幕府領、旗本領狭山藩、常陸下館藩、相模小田原藩、和泉伯太藩
安宿部郡(4村)代官支配; 幕府領、旗本領、相模小田原藩
大県郡(11村) 代官支配; 幕府領、旗本領狭山藩、相模小田原藩
高安郡(14村)代官支配; 旗本領、相模小田原藩、山城淀藩、備中岡田藩
河内郡(30村)代官支配; 幕府領、旗本領、京都守護職役知狭山藩、相模小田原藩、大和小泉藩
讃良郡(35村)代官支配; 幕府領、旗本領、京都守護職役知、大和郡山藩
茨田郡(85村) 代官支配; 幕府領(一部は高槻藩預地)、旗本領、美濃加納藩、摂津高槻藩
交野郡(39村)代官支配; 幕府領、旗本領、京都守護職役知、相模小田原藩
若江郡(64村) 代官支配; 幕府領、旗本領、京都守護職役知、上野沼田藩、下野高徳藩、相模小田原藩、山城淀藩、大和郡山藩
渋川郡(34村)代官支配; 幕府領、旗本領、下野高徳藩、山城淀藩
志紀郡(22村)代官支配; 幕府領(一部は宇都宮藩預地)、旗本領丹南藩、上野沼田藩、相模小田原藩、和泉伯太藩
丹北郡(45村) 代官支配; 幕府領(一部は宇都宮藩預地)、旗本領丹南藩、狭山藩、上野館林藩飛地、下野高徳藩飛地、相模小田原藩飛地、和泉伯太藩飛地
丹南郡 (51村)丹南藩・佐山藩及び代官支配; 幕府領、旗本領、上野館林藩、相模小田原藩
八上郡(11村) -代官支配  旗本領、上野館林藩

大和川の付け替え工事(1704年(宝永元年)10月完成)

大和川の付け替え後に新田開発された旧大和川・川床跡地は、砂地で木綿栽培に適しており、商品作物としての木綿の栽培や、農村工業としての紡績(河内木綿)が盛んになり、東大阪市、八尾市、柏原市は全国でも有数の裕福な農村地帯となった。

しかし「大和川付け替え」には今に至っても賛否両論があり、必ずしも最善策であったとは言われていない。

農地を奪われた農民たちや、渇水に苦しむこととなる旧下除川沿いの農民たちが新田(現八尾市・現柏原市・現東大阪市)に「流民・農奴」として移住し大地主の小作の農奴・使用人に貶められたり、身売り・一家離散・餓死などの多くの被害者も発生しており、このことが今に至る明治以降に新設された、中河内郡(河内郡、高安郡、大県郡、若江郡、渋川郡、志紀郡の一部を統合)と南河内郡(安宿部郡、古市郡、石川郡、錦部郡、丹南郡、八上郡を明治期に統合)の不協和音の火種の一つともなっている。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日)( 旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め大阪府(旧河内国)も幾多の行政変遷にさらされた。

1868年(慶応4年旧暦1月22日)大坂鎮台設置。

同年(旧暦1月27日)大坂鎮台を大坂裁判所と改称。

同年(旧暦2月)大坂裁判所に町地を除く周辺部を管轄する司農局設置し旧幕府領・旗本領を管轄する。

同年旧暦5月2日 大阪府設置

大阪府発足当時の管轄地域は、摂津国東成郡61村、西成郡132村、住吉郡37村、河内国交野郡1村(加納藩預地)であった。

1868年6月21日(旧暦5月2日) - 大坂裁判所司農局の大阪府司農局の管轄地域がとなる。
1868年7月27日(旧暦6月8日) - 大阪府司農局が南北司農局に分かれ大阪府南司農局の管轄となる。

1869年3月2日(明治2年旧暦1月20日) - 大阪府南司農局の管轄地域が河内県の管轄となる。

同年9月7日(旧暦8月2日) - 河内県の管轄地域が堺県の管轄となる

1869年11月24日(旧暦12月26日) - 狭山藩が廃藩。管轄地域が堺県の管轄となる。
1870年3月28日(旧暦2月27日)- 錦部郡・石川郡の旧狭山藩領を除く堺県の管轄地域が五條県の管轄となる。
1870年4月19日(旧暦3月19日) -河内国内の高徳藩領地が堺県の管轄となる。
宇都宮藩預地・高槻藩預地が堺県の管轄となる。

1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の廃藩置県布告 により旧藩領が丹南県および沼田県、館林県、下館県、加納県、神戸県、膳所県、淀県、伯太県、小泉県、郡山県、高槻県、岡田県の飛地となる。

1872年1月2日(旧暦11月22日 )- 第1次府県統合により、全域が堺県の管轄となる

1873年(明治6年)1月1日(明治5年旧暦12月4日)新政府太陽暦を採用・告示

1874年(明治7年旧暦8月4日) - 摂津国島上郡磯島村の所属郡が河内国交野郡に変更。
1881年(明治14年旧暦2月7日) - 堺県が廃止となり旧河内国が大阪府の管轄となる!

 

公開:2016年11月 4日
更新:2021年4月21日

投稿者:デジタヌ

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