狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

新潟市《 タウンレビュー 》

新潟市とこれ迄の歩み

新潟県の県庁所在地。

信濃川の河口部に開けた町。洪水・地震・大火・などの天災復旧に明け暮れ、信濃川の治水事業に明け暮れてきた町である。

推計人口、801,298人/2018年4月1日。

新潟ー東京 1時間47分/10,570円/新幹線/333.9km

新潟市の中心市街地は中央区の信濃川を挟んだ両岸部に所在し、大きく分けて古町、万代、新潟駅周辺の三つのエリアに分けられる。

「新潟島」と呼ばれる信濃川左岸側に位置し、1655年(明暦元年)の移転以来の新潟の業務・物販・飲食などの複合的中心地で商店街、歓楽街などが集まる地区で、現在に至るまで中心市街地に位置付けられているエリアが「古町」。

信濃川右岸側の、前述の古町・本町と新潟駅万代口のほぼ中間点に位置する地区が「万代」

大正末期に大河津分水路通水によって狭まった信濃川の流路跡が埋立地として開発された地区で、昭和初期に開発が始まり戦後から本格的に開発が進められた。隣接する八千代とともにデパートの集中する商業エリアである「万代シテイ」と「万代シテイバスセンター」などが整備され、主に若年層向けの商業地になっている

新潟駅周辺は、1958年の新潟駅移転で北側の万代口周辺の開発が一気に進み、1964年の新潟国体までの間に急速に市街地化した。現在では東大通を中心にオフィスビルが立ち並んでいる南口周辺(笹口、天神尾、米山)は、1970年代から都市開発が本格化した。1982年の上越新幹線開通に合わせ南口が開設され急速に市街地化が進んだ。

新潟県・新潟市のこれまでの主立った出来事

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている.。

新潟県

古代新潟県は高志(越)国の一部であったが、7世紀末に高志国は越前・越中・越後の三国に分けられた。

1335年(建武2年)12月 : 蒲原津に陣取る新田方の小国政光らを足利方の色部高長らが攻撃。蒲原津の争奪戦が始まる。

1581年(天正9年) : 6月16日 : 新発田重家が新潟津を奪取、同地に新潟城を築城し独立する。
同年6月22日 : 上杉景勝が木場城を築城する。
1598年(慶長3年)4月2日 : 堀氏・溝口氏が入封。新潟島を中心とする西部は長岡藩領、沼垂を中心とする東部は新発田藩領になる(市域の一部は村上藩領)。

江戸幕府の「入組支配」

江戸幕府はかつて7世紀後半に天智天皇によって制定された令制国(律令国)の「団結による反乱」を極度に警戒し、幕府安康の最善策として「令制国の解体政策」を推し進めた、それが「入組支配」と呼ばれる政策で、地方の大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い「地方の統一・団結」を阻もうとした。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

現在の新潟県も幕末に幕府直轄領(天領)となり、安政条約で開港場に指定された新潟町を抱え、長岡藩、会津藩、桑名藩などが領地(飛び地)を持ち、戊辰戦争の主戦場のひとつとなったことから、その成立までの経過は他の府県に比べても非常に複雑なものであった。

1631年(寛永8年)9月 : 阿賀野川の洪水で信濃川と阿賀野川を結ぶ加茂屋堀が決壊。阿賀野川と信濃川の河口が合流する。
1676年(延宝4年) : 長岡藩により、新潟町奉行が置かれる。

1731年 : 阿賀野川の水を排水するために前年に設けられた松ヶ崎堀割が洪水で決壊し、阿賀野川の本流となる。このため、新潟湊に流れ込む水量が減少するも、周辺の排水が良くなって潟の干拓と新田開発が進む。

1820年 : 新川が開通。
1843年 : 新潟町は天領となり、川村修就が初代新潟奉行に任命。

1858年 : 日米修好通商条約によって開港五港の一つに指定されたが、水深不足で開港が遅れる。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

廃藩置県とは一般的には1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日)( 旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1871~1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め現新潟県も幾多の行政変遷にさらされた。

1868年(慶応4年)旧暦7月 : 戊辰戦争で幕府側との攻防戦の末に新政府軍が新潟町を占領し、新潟民政局を設置。

1868年5月11日(慶応4年=明治元年旧暦4月19日):新潟奉行所に代えて新潟裁判所を設置

1868年5月16日(慶応4年旧暦4月24日):佐渡奉行所に代えて佐渡裁判所を設置
1868年7月18日(慶応4年旧暦5月29日:越後国に越後府(第1次、上越市高田 ⇒ 柏崎市)を設置。以後1869年
1869年1月1日(明治元年旧暦11月19日) : 新潟港が外国船に開港。

1871年12月31日(明治4年旧暦11月20日):第一次府県統合により新潟県、柏崎県、相川県の3県を設置。
1879年(明治12年)4月9日 : 郡区町村編制法の新潟県での施行により、新潟町・寄居白山新田村の区域をもって行政区域としての新潟区が発足

1880年(明治13年)8月7日 : 新潟大火で市街地を焼失。

1886年(明治19年)、若松県を経て福島県の管轄となっていた蒲原郡の一部が新潟県に移管されたことにより、現在の新潟県の県域が確定した。同年 : 初代萬代橋が完成。

1889年(明治22年)4月1日 : 市制の施行により新潟区235町および西蒲原郡関屋村古新田の区域をもって新潟市が発足

1893年(明治26年)4月1日:横川駅 - 軽井沢駅間が延伸開業し、直江津ー高崎間の信越線(官設)が全通。

1897年(明治30年)11月20日 : 北越鉄道(現信越本線)開通により新潟-上野間がつながる
1908年(明治41年)3月8日 : 若狭屋火事により、初代萬代橋が焼失。同年9月の大火で、市街地の大半を焼失する
1909年(明治42年) : 二代目萬代橋が完成。
1913年(大正2年)8月28日 : 木津切れにより被災。
1914年(大正3年) : 中蒲原郡沼垂町と合併。その後も周辺町村を合併して市域を拡大。

1916年(大正5年)から日本石油株式会社により、大面油田(現・三条市)の採掘が始まる。同年(大正5年)3月には、1日にドラム缶300本分の石油が噴出した。(同原油は市熱本線ルートで首都圏に送られていた。)

1917年(大正6年)10月2日 : 曽川切れにより被災。

1929年(昭和3年) : 三代目萬代橋が完成。同年本州日本海側で初となる万代飛行場が、信濃川下流の中州の万代島(現中央区万代島)に開港。

1930年(昭和5年)万代飛行場が北蒲原郡松ヶ崎浜村へ移転し、新潟市営飛行場として開港。

子の頃、新潟油田は最盛期を迎え、北潟の谷間には石油会社の社屋や鉱夫小屋、商店や旅館などが建ち並び、大いに繁昌した。

栄村(現・三条市)吉野屋から本成寺村(南蒲原郡、現・三条市)如法寺にかけても油井が建ち並び、信越本線の車窓から燃えさかる炎が眺められるほどだったという。しかし太平洋戦争後には石油の産出量は減少し、安価で質のよい外国産の原油が輸入され始めたこともあって、油田は低迷しだした。

1931年(昭和6年)9月1日:水上駅 - 越後湯沢駅間延伸開業(清水トンネル開通)し上越線全通。それまで上野駅 - 新潟駅間は信越本線経由の急行列車で11時間6分を要していたのが、新設された上越線経由の急行列車は7時間10分で結び、一挙に4時間の所要時間短縮が図られた。

1933年(昭和8年) : 新潟電鉄(後の新潟交通電車線)県庁前 - 燕全線開通。

1941年(昭和16年) : 新潟市営飛行場が日本陸軍の徴用飛行場となる。

1945年(昭和20年)同年7月17日 : 新潟飛行場がアメリカ軍艦載機の攻撃を受ける
同年7月24日 : アメリカ合衆国が新潟市などを原子爆弾の投下目標地に定める。(後年判明)
同年8月6日 : 広島市への原子爆弾投下
同年8月9日 : 長崎市への原子爆弾投下
同年8月10日 : アメリカ軍の航空母艦から発進した艦載機16機が新潟市を攻撃。
同年8月11日 : 新潟県が新潟市民に対して「原爆疎開」を命じる8月10日付の知事布告を発表。
同年8月15日終戦

太平洋戦争終結により、新潟飛行場をアメリカ軍用飛行場として接収される。
1948年(昭和23年) : 栗ノ木排水機場が完成。これ以後、亀田郷の土地改良が進む。

1950年(昭和25年) :新潟飛行場 A滑走路1,829mの供用開始。

1955年(昭和30年) : 新潟大火で中心市街の大部分を焼失。

1958年(昭和33年)3月31日 : 連合国軍より新潟飛行場が返還される。初の定期路線、新潟 - 東京間が開設される。

同年4月29日 : 新潟駅が現在地に移転。
1959年(昭和34年)12月14日 : 在日朝鮮人の帰還事業の第1次帰国船が新潟港を出港。

1963年(昭和38年) : 新潟飛行場、A滑走路1,314mに短縮、B滑走路1,200m新設。

同年大面油田は閉山。

1964年(昭和39年)この年までに市内の堀が全て埋め立てられる。
同年1月26日 : 新潟国体開催。同年6月16日 : 新潟地震が発生。大きな被害を受ける。液状化現象と津波により新潟飛行場滑走路が浸水するなど被害が出る。

1972年(昭和47年)新潟飛行場 B滑走路1,900mに延長。ジェット化される。
同年10月27日 : ターミナルビル(2代目)の改築が完了し供用を開始。

同年(昭和47年) : 関屋分水が完成。
1973年(昭和48年) : 新潟バイパスが開通(以後、新新バイパス、新潟西バイパスなども順次開通)。同年6月 : 初の国際定期航空路となるハバロフスク線を開設。

1978年(昭和53年)9月21日 : 北陸自動車道・新潟黒埼IC(当時) - 長岡JCT・長岡ICが開通。

1981年(昭和56年) : 新潟空港、B滑走路2,000mに延長。

1982年(昭和57年) : 上越新幹線・大宮駅 - 新潟駅間が開業。
1983年(昭和58年) : 同年暮れから翌1984年(昭和59年)初春にかけて59豪雪に襲われ、新潟市ではシーズン総降雪量が観測史上最高の422cmを記録する。
1985年(昭和60年) : 関越自動車道全線開通により、関東地方各地と結ばれる。

同年上越新幹線上野駅乗入れ開始。

1988年(昭和63年) : 北陸自動車道全線開通により、北陸地方各地と結ばれる。
1991年(平成3年) : 東北新幹線・東京駅 - 上野駅開業に伴い、上越新幹線東京駅乗り入れ開始。
1994年(平成6年) : 北陸自動車道・新潟亀田IC - 新潟西IC開通により、新潟市域初めての高速自動車国道が開通。
1996年(平成8年)中核市に移行。同年3月28日 : B滑走路2,500mに延長し供用を開始。

1997年(平成9年) : 磐越自動車道全線開通により、東北太平洋側と結ばれる。
1998年(平成10年)8月4日 : 8.4水害発生。市内各所で床上浸水等の甚大な被害を受ける。交通も主要幹線道路が水没し、機能が麻痺。
1999年(平成11年) : 新潟交通電車線全線廃止。
2004年(平成16年)7月13日 : 7.13水害発生。同年10月23日 : 新潟県中越地震発生。新潟市には直接的な被害はなかったものの、関東・北陸方面との交通網寸断により10月27日より11月10日まで新潟空港が臨時の24時間運用を実施した。また風評被害などで甚大な経済的損害を被る。

2005年(平成17年)3月21日 : 平成の大合併でd周辺12市町村を編入合併。同年10月10日 : 西蒲原郡巻町を編入合併。

2007年(平成19年)4月1日 : 政令指定都市に移行。

2009年(平成21年)12月17日 : 59豪雪以来、26シーズンぶりの豪雪。

2010年(平成22年)2月4日午前7時には中央区で81cmの積雪を記録。連日にわたって積雪被害や市内交通の機能低下などが生じる。
2010年(平成22年)第1回ラ・フォル・ジュルネ新潟が開催される
2011年(平成23年)8月 : 日本海横断航路(新潟 港- ザルビノ)が開設される。
同年11月11日 : 新潟港が日本海側拠点港となる。

 

公開:2017年11月 5日
更新:2018年11月24日

投稿者:デジタヌ

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