狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

第2話 徹路の語る父の生い立ち《連載小説》在る鉄道マンの半生 69年間待ち続けた男

ー 阪神 近鉄 友情物語 ー 第2話 

徹路の故郷は今の吉野町、近鉄上市駅から10㎞ばかり入った山間の集落である。

父 庄一は1893年(明治26年)1月15日生まれの林業従事者、俗に言う木樵であった。

母、寿美は1897年(明治30年)4月10日生まれで、近くの営林署の署長の娘。

旧制の高等女学校を出ており、女学校を卒業する16才迄、所長の実家である埼玉県の旧家で所長の実父母と暮らしていた。

関東の出であったので、この辺りでは珍しく標準語に近い言葉で話した。

父は、幼かった頃、隣村の尋常小学校の分校に通う子供の中ではずば抜けて成績が良かったらしい。

明治元年生まれの祖父信好は、父が幼い頃、

『これからは、勉強次第でいくらでも偉くなれる時代だ、お前は勉強も良くできるし、木樵は俺の代限りで継がなくて良い、シッカリ勉強して、町に出て立派な人になってくれ。』

と口癖のように言っていたらしい。

父 庄一は、そんな祖父の思いと校長のすすめで、村役場のある上市の高等小学校に進学した。

父が12才に成った1905年(明治38年)の春、祖父 信好が山仕事の最中、事故で亡くなった。

切り出した材木を吉野川に運ぶ為にひかれた木馬道(きんまみち)を材木を満載した木馬を下ろしていた時、誤って木道から外れ、崩れた材木の下敷きになって全身打撲・内臓破裂の出血多量で亡くなった。

まだ38才の若さ、働き盛りであった。

当時60になる祖祖父は元気に働いていたが、妹2人と4才の末っ子の弟を抱え、一家の大黒柱であった祖父を失ったので父は進学を諦め、営林署に下働きの用務員として入った。

努力家であった父は、営林署の2代目の署長から、当時は珍しい林学の専門書等を借りてはむさぼるように読み、独学で猛勉強をしたらしい。

14才になる頃には、祖祖父について山にも入りだし、曲がりなりにも働き手となっていた。

1910年(明治43年) 祖祖父 一作が仕事中に倒れて亡くなった、享年65才 俗に言う脳溢血であった。

その時17才になっていた父は、もう立派な若者として、一家を支えるまでに成長していた。

1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発した。

世の中は大戦景気で湧いた。

21才になった父庄一は人一倍仕事熱心で現場仕事も良くでき、仲間内からも慕われ、若くして、親方になった。

1916年(大正5年)大戦景気に湧く中、そんな父を営林署の署長が気に入り、

『娘を是非に』

と言って、母 寿美が嫁いできた。

<続く>

※<本稿は11/25/2007に旧サイトで初稿公開した小説のお引っ越し記事です>

 

公開:2007年11月25日
更新:2022年9月 5日

投稿者:デジタヌ

TOP第3話 徹路の幼少期 前編《連載小説》在る鉄道マンの半生 69年間待ち続けた男


 

 



▲デジタヌ作小説コーナーへ戻る

 

ページ先頭に戻る