狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

日本における 広域 LRT 網 の故郷 信達軌道 発祥の地 福島県 伊達市

前書き(要約)福島交通飯坂線の始祖"信達軌道"とは

嘗て、伊達市域には「ヨーロッパ型 LRT 網」が張り巡らされていた!1960年代後半まで地域住人の大切な足として、「域内アクセスの柱」的役割を果たしていた...

現在も一部区間で福島交通飯坂線として、嘗ての栄光ある歴史を背負って福島盆地をのんびりと走っている...

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★プロローグ 日本における広域 LRT 網の草分け 信達軌道

幕末からの養蚕業による好景気に後押しされ、明治後期 1908年 7月13日信達軌道(しんたつきどう)(現福島交通の始祖)により『軽便軌道』が敷設され、1922年(大正11年)には現・伊達市域のほぼ全域と隣接の桑折町、現飯坂温泉にまで至る『広域トラムネットワーク』(福島交通飯坂東線)が完成し旧伊達郡のアクセスの柱となっていた。

最盛期の1934年当時 福島 - 長岡間は15分間隔(5 → 22時運転で早朝深夜は30~ 60分間隔)所要時間34分で、その他の支線でも30 ~60分間隔で運行されており、福島 ー長岡間34分、福島 ー保原間50分、福島ー梁川間1時間12分の所要時間で結んでいた。

当時東北本線は既に国有化されていたが、1961年!までこの区間の電化は完成しておらず、全日を通じ数本程度しかない国鉄普通列車の運行に比べ遙かに便利で役に立っていた。

1967年 聖光学院前 - 湯野町間(現飯坂温泉)間営業廃止に伴い長岡分岐点 - 伊達駅前間の旅客運輸営業も廃止したために国鉄からの乗り換えが不便になった。

廃止2年前の1969年(昭和44年)4月当時ですら福島駅前 - 長岡分岐間は日中15分間隔運転でラッシュ時間帯は増発も行われ、福島駅前 ー保原間で12列車の折り返し運転が設定されていた。

当時23両あった電車のうち22両が稼動し予備車両が無いフル稼働に近い盛況ぶりであった。

...がその後のモータリゼーションの急激な進展により道路交通事情が悪化し併用軌道を走っていた「馬面電車」は定時運行がままならなくなる一方で、競合する東北本線は電化により「国電」の増発・時短効果が現れだし、乗客を奪われた福島交通飯坂東線(軌道線)は1971年に全線廃止となった。

★第1節 伊達軌道が走っていた伊達市のこれまでの歩み

第1項 福島経済を支えてきた衛星都市

阿武隈川西側の旧長岡村地区の西外れに東北本線がかすめており、伊達駅があるが、伊達市になってからは伊達市役所のある阿武隈急行線沿いの井原駅と国道349号線沿いに「町の中心」が移っている。

伊達駅の近くに1937年創業の伊達製鋼(三井ミーハナイト・メタル)が、保原駅南側に隣接する形で造成された工業団地に1957年創業の富士通アイソテックがあり、ともに伊達市の発展に貢献してきた。

幕末からの養蚕業による好景気は明治になるまで続いたが、その後の養蚕業の低迷によって現在、農業は果樹中心に転向している。

特に桃やりんご、柿の栽培が盛んであり、特に五十沢で大正時代に発明されたあんぽ柿はこの地方の特産物として名高い。

福島市が福島県の県庁所在地となって急速に都市化したことにより、伊達郡域の町は福島市の衛星都市化した。

特に高度成長期後にその傾向が顕著で、通勤・通学で福島市内に通う住人が多い。

第2項 福島市の経済停滞に歩調を合わせた昨今

但し、福島市自体に大企業の工場進出が少なく、王子ネピア、福島キャノン、森永乳業、など従来からあった企業に限られ、2000年の国勢調査時点の297,894人をピークに人口減少が続いている。

前回2015年の国政調査資料でも、未成年層が全国平均を上回っているにもかかわらず、20代から40代前半のいわゆる働き盛りの転出者が多い傾向を示しており。

伊達市も共倒れ傾向にある。

★第3項 その他の所感

※1 入れ替わり立ち替わり異なる領主の支配に

梁川藩の置かれた梁川一帯でもすべてが梁川藩領ではなく、藩領の中に天領があったり、五十沢(いさざわ)(伊達市梁川町)が桑折陣屋管轄、川内は川俣陣屋管轄、半沢や成田(いずれも伊達郡桑折町)が福島藩の飛び地、福島藩と梁川藩の間に二本松藩の飛び地があったり、さらには梁川藩も、廃藩され松前氏梁川藩や会津藩、平藩の飛び地になるなどの激しい為政者の変化を続けた。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

根深く残る各村間の遺恨

明治以降現在に至るまで全国各地の市町村合併がスムーズにいかない様に福島盆地の北東部市町村の『合併・離反・分立』には江戸時代に「為政者が激しく入れ替わり」その都度、隣接各村間で『飢饉』対応が異なり各村間の『嫉み、やっかみ、遺恨』が根強く残っていることに起因している様である。

一般的には「天領・旗本領」対「大名領」の確執が多く見受けられる

特に大飢饉が多く発生した東北地方や、河川付け替えなどによる「人災による飢饉」が発生した大阪南部、関東北部などではこの傾向が強い。

第4項 伊達市の歩んだ歴史

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戸時代初期の伊達郡は全エリアが上杉氏米沢藩領であった

その後米沢藩の福島奉行(信夫伊達両郡代)の支配下となった。

伊達郡北部では西根堰の完成により、飛躍的な米の増産を実現している。

1664年 信夫郡、伊達郡は米沢藩より召し上げられ、信夫郡と伊達郡は天領(幕府直轄領)となった。

江戸幕府の「入組支配」の影響

江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。

1683年に松平氏梁川藩3万石が成立するが、梁川藩の成立によって、明治維新まで信達平野(信夫郡伊達郡)は、村単位で梁川藩領、福島藩領、天領、他藩の飛び地、預かり地などが激しく入り乱れ、さらには桑折藩(伊達郡桑折町)や下手渡藩(伊達市月舘町)など飛び地も置かれていた。(※1)

明治維新後の鉄道網の発達と伊達市

1887年(明治20年)12月15日:日本鉄道(後の国鉄→現JR東北本線)郡山 - 塩竈(後の塩釜線塩釜港)間開通により上野(東京)仙台間開通。福島駅、桑折駅開業

1889年(明治22年)4月1日 町村制施行で長岡村、梁川町、保原町、掛田村、小手川村、など現市域に当たる20町・村が誕生。

1895年4月1日 旧長岡村に旧・長岡駅開業。

1898年(明治31年)1月19日 掛田村が町制施行して掛田町となる。

1906年(明治39年)11月1日:日本鉄道が国有化される。

1908年 7月13日 福島駅前 - 十綱(現飯坂温泉)、旧・長岡駅(現JR伊達駅近傍)ー保原間に信達軌道(しんたつきどう)(軌間762mm軽便軌道)開通 

1910年(明治43年)6月18日 ( 大日本軌道旧)梁川 - 梁川間延伸により保原ー梁河間全通

1911年(明治44年)4月8日 - 保原 ー掛田間開通。

1914年 旧国鉄長岡駅が伊達駅に改称。

1922年(大正11年)4月17日 信達軌道・保原 - 桑折(東北本線)間開通。伊達市域広域LRTネットワーク完成!

1926年(大正15年)4月6日 - 福島駅前 - 長岡(現JR伊達駅近接) - 湯野町(現飯坂温泉)間を狭軌(軌間1067mm)に改軌・電化(直流750V架空単線式)し電車運行開始。同年12月21日 - 保原 - 梁川間を改軌・電化により長岡(現伊達)-梁河間 全線改軌・電化完成。

1927年(昭和2年)6月28日 桑折 - 保原間及び掛田 - 川俣間の両線(軽便軌道)廃止。

1928年(昭和3年)1月1日 小手川村が町制施行して月舘町となる。

1937年 伊達製鋼(現三井ミーハナイト・メタル)伊達駅近傍に創業。
1940年(昭和15年)4月1日 長岡村が町制施行して伊達町となる。


1957年(昭和32年)1月1日 伏黒村が町制施行して新伊達町発足。同年、旧保原町の保原駅南側工業団地に富士通アイソテック創業。

1961年3月1日東北本線 福島 - 仙台間交流電化。

1967年(昭和42年)9月16日福島交通・ 聖光学院前 - 湯野町(現飯坂温泉)間長岡分岐点 - 伊達駅前間の旅客運輸営業を廃止

1971年 福島交通飯坂東線全線廃止。

高速道路とトラック輸送への物流の転換

1975年4月1日 東北自動車道郡山IC - 白石IC間開通により仙台南ー岩槻IC.間全通。同時に隣接国見町に見IC.完成。首都圏とつながり、物資の流れが鉄道からトラック輸送に転換されて行った。

1985年4月、旧柳川町「市民の森」として「現やながわ希望の森公園」開園

1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道誕生。

1988年(昭和63年)7月1日 阿武隈急行線 福島 - 丸森 (37.5km) が延伸開業&電化(交流50Hz・20kV)で全線開通。

東北本線・郡山 - 富野間(旧柳川町域)で相互直通運転開始。

旧富野村(旧梁川町域)最北部にあたる舟生(旧舟生村内)に兜駅が開業、国道349号線に頼っていた阿武隈川沿いの集落の首都圏・福島方面へのアクセスが改善された。(2018年4月14日現在無人駅)

2006年(平成18年)1月1日 伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して伊達市誕生

2011年(平成23年)3月11日 - 東日本大震災が発生。伊達市で震度6弱を観測。

エピローグ 阿武隈急行線開通で東北本線(誘致)の悲願達成

当初旧・日本鉄道(現JR東北本線)の路線は現「阿武隈急行線」のルート上に計画されていた!

福島交通飯坂東線全線廃止から17年後の1988年(昭和63年)7月1日 に阿武隈急行線が全線電化で開通し郡山から、梁川駅の2つ先の富野駅までJRと相互乗り入直通運転されるようになり1887年12月15日の日本鉄道(現東北本線)完成以来実に99年ぶりに悲願が達成された。

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後書き《 abandoned railroad 》シリーズについて

明治維新後の文明開化で訪れた陸蒸気幹線の発達と共に、日本各地で民間資本による"軽便ブーム"が起こり、その多くが昭和に至るまで大活躍していました。

今風に言うなら LRT 網と言うことになります!

そしてその多くがabandoned railroad(廃線)となって"天に召された"わけです...

これらは、市街地を駆けまわる"チンチン電車"網であったり、都市圏交通を担うインターアーバン(都市圏電気軌道)であったり、鉄道幹線(大都市)と港町を結ぶ臨海鉄道・臨港鉄道、山間部を縫う森林鉄道、更には1960年代まで北海道で大活躍した"殖民軌道"などなど...

更には、準LRTと言っても過言ではない地方ローカル線が例に挙げられるでしょう。

これらのabandoned railroad達にスポットを当てて、陸上交通における"ローカルエリア鉄道"が担ってきた役割とその"生い立ち"、更には"消えていった背景"を考察して、トランスポーターとしての『 鉄道の将来 を考えてみました!

狸穴総研 交通問題研究所 出自多留狸

 

公開:2016年10月29日
更新:2022年12月10日

投稿者:デジタヌ

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