狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

卑弥呼は歴代 representative の称号!「邪馬台国」は首長国!?の連合体!で"都"などは無く!探しても...

前書き(要約)"後漢"王朝以来約1000年!に渡り中国王朝の冊封国(属国!)だった...

古代の日本列島は"巫女"の占いによる神のお告げで成り立っていた!

約7万年前!から続く石器時代(縄文人)の日本列島は、女性 Shaman (司祭;"巫女")の占いによる「神のお告げ」で政(まつりごと;祭事)を行うNative people(土人)が暮らす region(一帯)でした。

つまり石器時代の古代日本列島は「女性shaman(司宰)」の"お告げ"を拠り所とする「自然崇拝のCommunity(部族国家)」が群雄割拠?する列島だったわけです。

その後、ユーラシア大陸から「稲作を携えて」弥生人が渡ってきて、「弥生人の那の倭国・連合!」と、(稲作は取り入れても「文字文化」は拒否!し続けた)女性shamanによる口承・伝承文化圏「縄文人の倭国!」諸国に分かれて、互いに激しいTerritory(実行支配地・縄張り)争奪戦!を繰り広げていたわけです。

傀儡国家!邪馬台国

中国王朝の傀儡国家である(渡来人集団・弥生人の)「邪馬台国」は...

九州北部の筑紫 region から瀬戸内海沿岸そして飛鳥に至る region(一帯)の「渡来人集団・弥生人」の Community(地域共同体;首長国?)の federation (連合体)であり、卑弥呼は、宗主国!(中国王朝)の使節団を迎える際の接待役!としての Representative(総代)にすぎなかった!のでしょう!

統一国家"那の倭国"・邪馬台国など無かった!

「那の倭国」邪馬台国の統一国家説???は、明治維新以降の"権力者!"が、律令制・郡県制に下ずく「大日本帝国」を正当化するために、

『起源2600年?の古来より「ミカド」を頂点とする「統一帝国」を貫いてきた???』

という「統一国家論fiction!」をでっち上げたかった!だけで、考古学者の発見を「異端児の国辱!研究」として、日本史から抹消!したにすぎません。

つまり、邪馬台国という統一国家?そのものが無く!中心となる都(みやこ)も存在しなかった!わけです。

迎賓施設としての疑似宮殿!

但し、宗主国の国使(視察団!)を歓待!する迎賓施設!は、連合の"何処か"には造営されていたのかも?...

さらに4世紀ころに中国で"漢字"が体系化されて以降の?(中国の幾つかの)古文書には、邪馬台国が周辺の熊襲(縄文人)と"抗争"を繰り返していたことも示されています。

但し日本列島全土が冊封国では無かった!

つまり、日本列島を代表する統一国家などは無かった!訳ですが...

古代・神代の時代?の日本列島には「2つの倭国」勢力圏があった!

稲の品種改良!が進み、寒冷地でも「安定して栽培」できるようになるまでは、稲作に頼る弥生人勢力「那の倭国」と、採取・狩猟文化を基本とする縄文人勢力「蝦夷の倭国」が、拮抗!して日本列島を二分?!ていたのでしょう。

※東北大学の某教授が...

伊勢神宮を信仰の拠り所とする弥生人集団「那の倭国」に対して、鹿島神宮を拠り所とする「蝦夷の倭国」が存在したと主張しています!

この説では、鹿島神宮と春日大社の"鹿"親類?説は、両民族の融和策(和平策)の一つとして、奈良時代に捏造!されたfantasy(神話・おとぎ話)であることが裏付けられるわけですが...

つまり、邪馬台国から続く、弥生人の「那の倭国」は、西暦25年~57年の光武帝時代の後漢(25年→220年)以来、遣隋使(600年→618年)遣唐使(618年→907年)と約1000年間にわたり、中国王朝に"朝貢使"を派遣して「臣下の礼!」を行っていた、中国王朝の冊封国(さくほうこく);属国!(植民地?)だったわけです。

"トラの威を借りて"「蝦夷(縄文人)の倭国」侵略・征服に乗り出した渡来人集団・弥生人の"那の倭国"

弥生人勢力(日乃本政権)は、前途した光武帝から、冊封国(属国!)の証である金印(国書に使う国印)を印綬されて、日本列島を代表する?部族としての"お墨付き"を得て、後漢TerritoryのFrontier()の東進!を始まました。

つまりは(宗主国中国王朝の)"トラの威を借りて、"敵対!する「蝦夷(縄文人)の倭国」侵略・征服に乗り出した訳です。

参※)当サイト内関連記事 東北にみる"シャーマン伝承文化"の先住民族・縄文人・蝦夷と、"文字・宗教文化"の渡来人系・弥生人の鬩ぎあいとは... はこちら。

東北蝦夷民族征服・攻防の歴史において存在した"出羽柵"?とは...

さらに時代は下って、東北の native people(土人)縄文人・蝦夷民族を、新興勢力!の弥生人(日乃本政権・朝廷)が征服!した過程で登場する出羽柵というFrontier(境界)に関する表現も、(宗主国"唐"王朝が滅びた後の)鎌倉幕府の時代になると用いられなくなっています

冊とは中国王朝 Territory の Frontier を表す用語

その理由は、国粋主義者・国文学者達の偏向教科書で洗脳!されてきた、大多数の「日本人」にとっては"ショッキング"でしょうが...

「柵=冊 ! 」中国王朝のTerritory(実効支配地)のFrontier(境界線)を表す用語!だからです。

つまり、(907年)中国王朝の唐が滅びて、冊という名の中国王朝のFrontier(境界線)も自然消滅!したわけです。

冊封国には"自治権"はあっても"主権"は無かった"!

国粋主義者・国文学者(歴史家)が都合よく、「印綬の等級?を歪曲」して...我が「日ノ本」は建国?以来「一貫して統一国家の独立国!」であったかのように主張して"流布"!していますが、これはFake!です。

印綬の等級には"主権"特認する条項などは無い!

印綬されたsovereign(君主)の領土はすべて「中国王朝の"冊封国(属国")!」であり、

印綬の等級(金印・銀印・銅印...)には"主権"に関する特認条項等はありません!

朝鮮半島(※00)の諸国の様な歴代中国の"植民地"!と、ローマ帝国や"嘗ての大英帝国"の Dominion (自治領)程度の差で、いずれにしても単なる属国!

自治権はあっても主権(統治権・外交権!)は与えられてい無かった!」訳です。(※01)

参※00)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国国民と日韓関係 はこちら。

参※01)当サイト内関連記事 国際社会(西欧社会)における"主権国家" とは? はこちら。

Territoryの拡張・柵の北上!は漢字・仏教文化の浸透で

shaman文化(口承文化)の縄文人・蝦夷(エミシ)は、稲作は取り入れても「仏教(文書)文化は受け入れなかった!のでしょう。

前途した様に、東北先住民の縄文人・蝦夷にも、"大陸からの輸入品"である青銅機・鉄器が存在していたわけで...

しかも前途した様に東北大学の某教授によると、

『西日本の「那の倭国」連合よりも、(圧倒的に)「蝦夷の倭国」Territory(勢力圏)の人口のほうが多かった!』とされています。

稲作には金属製・農耕具が必要!

通説では

『石器文化の縄文人は、青銅器、鉄器を持たず!「鉄器・青銅器で武装した弥生人」に征服された!』

ことになっていますが...

東北各地の「古代米(の化石)が出土」する"遺跡"があるregion(一帯)は、「本州の最果て!青森県」にまで至っています。

同時に、「古墳(王族の墳墓)」も見つかっています!

つまり、稲作には金属・木材のhybrid(合成)農耕具が必要で、「日本の古代!(縄文時代後期の金石併用時代)」には、すでに東日本の「蝦夷の倭国」Territoryにも(輸入品として)の青銅器・鉄器が伝来していた!ことになります。

7万年!の歴史を持つ「縄文人・蝦夷の倭国」が征服されたのは

邪馬台国・大和王国と続く大陸渡来の弥生人勢力が、7万年!の歴史!を持つ「縄文人・蝦夷の倭国」を制覇!できたのは...

(もちろん、後述するように銅山開発による「銅の国産化」や、砂鉄による「たたら製鉄」などの技術革新!に、一歩先んじた弥生人「那の倭国・日乃本連合」の、"武力装備"の差もあったでしょうが?...)

弥生人の文書(文字・仏教)文化が、縄文人の口承(shaman)文化を屈した!といえるのではないでしょうか。

縄文人文化圏=shaman文化圏は、「文字(漢字)文化・仏教で理論武装した弥生人に敗北」したわけです!(※03)

参※03)当サイト内関連記事 東北にみる"シャーマン伝承文化"の先住民・蝦夷と"文字・宗教文化"の新生弥生人の鬩ぎあいとは... はこちら。

novelist(歴史創作家!)のfictionにはfantasy?で対抗...

native japanese;縄文人に焦点を当てた日本史シリーズ第2弾として、「御先祖様(縄文人)からの夢枕のお告げ?!」に霊感を得て、朝廷派の国粋主義・国文学者・歴史創作家?のfiction!(作り話!)に真っ向から対立!する♥縄文fantasy(夢物語)♥を、"思い巡らして"みました。

歴史教育は考古学的な「史実に基づいた真実」でなければ...

歴史教育は、考古学的な「史実に基づいた真実」に基づいていなければなりません。

国粋主義者の国文学者「勝者の論理で捻じ曲げられた」日本史"狂育!" 

歴史屋・有識者?(古文書愛好家)の親睦会?は、考古学者達の"学会"とは異なり...

"国粋主義者"が主流を占る思想家!国文学者の親睦会であり、現在の為政者(政権与党)に都合よくねじ曲げられた(彼らが創作!・捏造した)日本史 fiction!(作り話が、(隣国K国の両班(ヤンパン)学派同様に)もっともらしく流布!されているわけです...

考古学者・科学者は正直!

地政学(※00)に基づいた「発掘調査で得られた結果」を、evidence(証拠)、rationale (論拠)として、古代史(石器時代の倭国)を研究している"研究者!"たちは、古文書に頼る古文書愛好家・国文学者(有識者?)連中とは違い、帝(ミカド)などという表現は用いません!

「狂信的な国粋主義者」のテロから身を守る為に?当時の敬称"大王!(おおきみ)"(※01)という表現で躱しています。

参※00)当サイト内関連記事 地政学・geopoliticsの"概念"とは... はこちら。

参※01)「天皇」は天武朝以後の大和政権の大王(おおきみ)が用いた称号。

...古代の日本では、ヤマト王権の首長を「大王」(オオキミ)といったが、天武朝(天武天皇 在位673年3月20日→686年10月1日)ごろから中央集権国家の君主として(の称号)「天皇」が用いられるようになった。《日本語ウィキペディアより引用

といわれています。

那の倭国「邪馬台国」は首長国!?の連合国家!で中心都市"都"などは存在し無く探しても無駄! の目次

※リンク、その他の断りついて

(参※xx) は当サイト内の参照関連記事リンクです。
但し、その他の直接 hyper-link は当事者・関連団体の公式サイト若しくはオリジナル各国語版Wikipediaへ直接リンクしています。

英単語優先!表記について

更に,末尾の断り書き※歴史専門用語の英単語表現について で説明したように、できるだけ歴史制度用語(国文学用語)に頼らないように英単語表現を用いて専門歴史用語を整理しています。

本サイトでは

本稿では、建設中の新規路線(鉄道・道路)については、航空写真(Googlearth)を参考に、旧線に関しては国土地理院地図(電子国土Web )を参考にしてできるだけ正確を期しています。

又「不信?な箇所!」は国土地理院地図と照合して正確を期し、標高は「標高地図」に記載された値を用いています!

※本ファンタジーについて

本レビュー記事は、出来る限りの"記録(時系列)に下ずいた史実に、地政学的!・工学的 検証"を行ってるセミドキュメンタリー!ですが...

筆者の億測を交えたファンタジー?でもあります。

後述する各団体とは直接関連はありません。

また各団体では"答え難い大人の事情、あまり触れられたくない内容!"も含まれています。

本件に関してのお問い合わせはご無用に願います。 

プロローグ 日本の歴史家は国文学者!

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義務教育では日本語圏?の部族をまとめて大和民族・日本民族として、古来より"統一国家"を形成してきたかのように、"洗脳狂育"を行っていますが...

これは、いまだ隣国を牛耳っている元・両班(ヤンパン)共(※01)が大半を占める「学閥」がプロパガンダしている「fantasy」と大差ありません!

我が倭国・日乃本は、はっきり言ってEUのような寄り合い所帯で成立した連合体?でした。

参※01)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国国民と日韓関係 はこちら。

古文書研究屋?と鉄オタの共通点とは...

元来が古文書を紐解くことを生業(なりわい)とする連中なので、専門用語(業界用語?)がお好きですが...

歴史屋(歴史学者)と「鉄道オタ」の共通点であり最大に弱点は、地理に疎い!ことです。

彼らの描くfiction!は、常に英雄伝説に下づき叙事詩(英雄・偉人伝説)」として、歴史をとらえることです

つまり司馬遼太郎を「歴史フィクション作家」として評価するではなく、「歴史学者」として祭り上げてしまう過ち!に尽きるわけです。

第1項 我が日ノ本には有史以来emperorは存在したことがない!

第1目 日本史を騙る(紐解く)上で重要なキーワードは

  • ●古代日本列島は、女性shaman(司宰)が司る自然崇拝の民が暮らす地だった。
  • ●古代日本には統一国家は無かった!
  • ●中国王朝の傀儡政・弥生人政権は長らく冊封国(属国)を受け入れた。
  • (中国王朝の覇権)虎の威を借りて、縄文人勢力圏を侵略した!
  • ●(紙の伝来とともに始まった)文書文化!を取り入れた弥生人が、口承・伝承文化の)文盲!縄文人征服した

事でしょう...

第2目 歴史創作家(国粋主義・国文学者)の最大の間違いは...

現在日本の歴史狂育怪を牛耳っている歴史専門家?有識者の多数派は、

国粋主義者・国文学者で占められており、時代考証を重んじる考古学畑の研究者・学者ほとんど加わってい無い!事実です

そして国文学者・歴史創作家の最大の改竄事項は、

前途した「約1000年!に渡り中国王朝の冊封国(属国)だった歴史!」を隠蔽していることです。

律令制(官吏制度と郡県制)を維持したい体制派!

更に、体制派の連中は、大宝律令(701年制定)から続く官吏体制と郡県制に下ずく「律令制」を堅持!したく、建国?以来日本列島は統一国家!であったことにしたい!訳ですが...

後述するように、当初は、国家体制(政府・政権)などというものは無く!列島各地の首長国・種族が群雄割拠するregion(一帯)だったわけです。

そして、弥生人政権(大和朝廷)が"まがりなり"にも列島制覇!を成し遂げられたのは、超大国中国王朝の冊封国(属国)としてのお墨付きを得て、「トラの威を借りて」Frontier(冊)の北進・南進、つまり中国王朝のTerritory!(実効支配地)の拡大・侵略の為の代理戦争!を行ったからです。

907年に中国"唐"王朝が滅亡して、冊封は解かれた(自然消滅!)したわけですが、

代わって中国大陸を占領した蒙古民族の傀儡政権"元"が日本列島に触手を向けて、行われたのが1274年と1281年の2度の元寇だったわけです!

つまり中国王朝後漢から正式な冊封国(属国)として金印を印綬(AC25年~AC57年の間の何時か)されて、那の倭国・邪馬台国として建国?して以来、約1000年間は、中国王朝の属国!として庇護?の下で発展できたわけです。

この決断が無ければ、中南米の諸国の様に、大陸の超大国の侵略を躱すことはできなかったでしょう!

建国以来日本列島には emperor など存在しなかった!

更に紙の伝来以降に伝承に下ずいて編纂された、(三国志同様の)一大叙事詩(英雄列伝伝説!)「日本書紀(720年編纂)」を信奉する国粋主義者・国文学者たちは...

『有史以来「我が日ノ本」にはautocracy(専制政治)を行っていたemperor、(皇帝)king(王)、an absolute monarch(専制君主)、sovereign(主権者)等はいなかった!』史実を改竄していることです。

つまり、我が日ノ本は、古来から「原始議会政治・原始民主主義」で運営されてきた日本列島連邦!だったわけです。

第3項 古代史の specialist? は古文書研究家・国文学者!

日本の歴史研究者・specialist(有識者)は古文書研究者・専門家で、古文(漢文)専門の国文学者!がほとんどです。

「文字が伝来」してから「書き起こされた」、古文書、日本書紀を"正"として、歴史fiction!を"創作"している"Writer(創作家)"たちにすぎません。

つまり、論拠となる古文書が、作成された時点で、すでに何百年・何千年!も経過しており、

古文書そのものがfantasy(口承伝説)を文字化して記述した、伝承・伝説文書"おとぎ話"にすぎないわけです。

第1目 古文書に記載された治世"用語"当時の"為政者が創作"した造語に過ぎない!

更に、その時々の政府・政権(朝廷、幕府)により、任地に赴いた,officer(行政長官)はその「時々の制度」で目代・城代・代官などと呼称されているわけですが、実態はagent(代理人)です。

国文学者(古文書解読者)はクハ・クモハ・キハといった専門用語?を嬉しそうに使っている「鉄オタ」共と大差ないわけです。

当サイト内関連記事 白人" 耶蘇 "社会や、全体主義国家の"ご都合主義"imperialism は通用しなくなってきている はこちら。

第2目 古文書として残っている「律令(絵に描いた餅!)」の数々

大宝律令(701年)で確立された?(※02)とされる古代政権の掟"律"と、統治の基となる"令"(郡県制)に関しても、当時の大国"大和王国"内での local rule にしかすぎず!弥生人社会全体の律令では無かった!わけです。

なので、大和王国の覇権(勢力拡大)の為に、当時の大和王権組合!の構成員 (-_-メ) である地方の共和国(首長国!)の"実情"に沿うように度々改定(多くの律令が発令)がされているわけです(※02) 

参※02)実際に、大宝律令(701年)以前!から(7世紀以降とされる)"紙"(漢字による古文書)文化の伝来(すなわち中国王朝に対する朝貢使(遣隋使600年→618年)遣唐使(618年→907年)の再開による)、留学生(留学僧)が持ち帰った文書から得られた知識で、多くの律令が発令されていて(国文学者大好きの)"古文書"として発見!されていますが...

これらの律令が実行力を伴っていたのかどうかは???...

つまり、有名無実の「絵に描いた餅」同然の"掟"・お達し"にすぎず、(おひざ元の畿内ですら!)守られていなかった!からこそ、再三にわたり発令されたのでしょう。

つまり、考古学者の間では、瀬戸内運河?沿いに散在する小さなemirate(首長国)では、大和政権(朝廷)の覇権も及ばす!殆ど有名無実!だったろうと解釈されています!

第2目 藤原京・平城京...平安京と続く"都"は大和政権(朝廷)が宗主国"中国王朝"の使節を迎える迎賓館!だった

古墳時代末期・奈良時代の公共事業?

日本には「民(たみ)の営み・暮らし向き」に関わる"公共事業"という概念は「明治維新まで長らく無かった!のでしょう!

つまり、"都"造営も公共事業などではなく!ましてや"国家事業"でも無かった!と解釈するのが妥当でしょう。

つまり全ての建造物の造営"(土木・建設事業")は全て各Chief(首長)の私的事業!だったわけです。

なので、各Chief(首長)の権力・財力を誇示するために、大規模な古墳(王墓)が日本列島ほぼ全土に造営されたわけです。

中でも大和王国はずば抜けた財力を持っていた!

初期の稲作に適した肥沃な大和盆地(の大河川の扇状地)に、大規模?稲作を定着させた、大和王権はずば抜けた存在でもあったわけで...

宗主国である中国王朝が倭国の"朝貢使"(遣隋使・遣唐使)にこたえるべく、冊封国(さくほうこく;植民地)の視察!に訪れた正式使節団を迎えるために、

上陸地点の石津浜から(迎賓施設としての)都に向かう竹内街道(羽曳野丘陵)沿いに、

権力を誇示するように数多くの"巨大王墓群(百舌鳥・古市古墳群)を造営して、中国王朝に大和王権の統治力をアピールした訳ですが...

これらの王墓も大王(おおきみ)の王墓だけではなく!

畿内を統治していた大和王権連合の共和国(首長国)のChief(首長)達が、挙って(張り合って)造営した王墓群にすぎません!

(※飛鳥村の石舞台古墳は当時大和王国連合に加わっていたChief(首長)の実娘!のために造営された墳墓で、失脚後!に、敵対する陣営により、王墓が暴かれ!墳墓の"盛り土・丘"が撤去!されて、石棺が露出した遺跡であることが判明しています!)

第3目 最初の迎賓施設としての"都"は

本稿の主題である「那の倭国」邪馬台国の都?にも通じる最初の迎賓施設としての"都"?は...

弥生人の「那の倭国」邪馬台国の都???にも通ずる、宗主国中国王朝の使節団(視察団)を迎えるための最初の「迎賓施設"都"」の所在地は諸説紛々している訳ですが...

おとぎ話!「日本書紀』では、600年→907年の間の"朝貢使!"(遣隋使・遣唐使)には一切触れず!

いきなり、661年に最初の迎賓施設!娜大津が造営されたことになっています。

そして、幾多の変遷(遷都)を経て、中国・唐王朝(618年→907年)の時代になり、藤原京(694年完成遷都)が完成して、その後更なる変遷を経て、平城京(710年→)に遷都するわけですが...

これらはすべて、大王(おおきみ)家の宮殿(私邸)造営で、当時畿内を制圧していた大和王権組!の構成員 (-_-メ) である「畿内の地方豪族」Chief(首長)」達関与(建設費供与)して無かった!と推察できます。

その後に続く「都?造営」も

その後、天変地異で疫病が蔓延するたびに度々行われた遷都も、すべて私邸・宮殿の造営であり、「当時の幹部?(特権階級)は拠出していなかった」と考えた方が自然です!

これは各地に設営されたmanor(荘園)の多くが朝廷(王家)直轄であったことからもうかがえます!

つまり、「金の切れ目が縁の切れ目」で度重なる改正!で平安中期(900年頃)に所領を与えられた公家!)が上洛したまま!京に留まり、自らは京で贅沢三昧をするthe exploited classes(搾取階級貴族)スタイルが定着して、所領にはagent(目代を派遣して荘園管理を委ねて、律令制(郡県制)有名無実化し崩壊!した訳ですが...

この時代でも、官吏・公家共は、朝廷からgrant(給与)を得ていたのでは無く!各個人の所有する地方の荘園からの"水揚げ"で暮らしていたわけです!

なので、後年律令制が完全崩壊!して、武家の世の中になると、公家共は"食い扶持を無くして困窮"したわけです!

第4目 史実は権力者に都合よく改竄される!

更に、文字が定着した中世以降に寄稿された古文書も、私文書(書状・手紙)・公文書?にかかわらず、(勝者側の)支配者・起筆者・差出人に都合よく脚色(改竄)されているので、信憑性に欠ける古文書が多い訳です。

古代・中世日本史研究家は地政学に疎い!

さらに前途した様に、一部の古建築研究者・城郭研究者を除いて、ほとんどの「日本史研究の有識者」と祭り上げられている連中は、鉄オタ同様!に地理、文化人類学、経済学つまり「地政学」に疎い!連中です。

参)当サイト内関連記事 地政学・geopoliticsの"概念"とは... はこちら。

第1節 日本人の起源とは...

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アフリカ大陸で旧石器時代の現生人類ホモサピエンスが誕生したのが約20万年前!といわれていますが...

第0項 日本列島誕生より古い!約7万年前に移り住んだ先住民・縄文人(蝦夷民族)の起源

日本列島が、ユーラシア大陸から完全分離する前、南端と東端で日本海(巨大湖)を挟んで大陸と繋がっていた約7万年前!に、「マンモスなどの多くの動物を追い求めて北上」してきた現生人類の亜流ウラルアルタイ系民族が移り住み現・日本列島全域でnative people(土人)「縄文人」蝦夷として暮らしだした!わけです

約1万2千年前に完全孤立!した日本列島

そして今から約1万2千年前に、中央にあった巨大湖が日本海となって両端で太平洋と繋がり!大陸と完全分離した日本列島が形成された!といわれています。

つまり日本列島の形成より約6万年も前からnative people「縄文人」・蝦夷民族が暮らしていた!訳です。

第1項 shaman による伝承文化と採集文化に基づいた縄文人"蝦夷(エミシ)民族

今からおよそ1万2000年前日本列島が形成(完全分離)された頃に、土器の製作と定住生活も始り、縄文時代となったわけです。

つまり現在の東北各地や、熊野、九州南端の日向・薩摩・隼人(※100)等の日本列島全域に縄文人(蝦夷)による縄文・文化が芽生えていたわけです。

※参100)当サイト関連記事 鹿児島市《 タウン・ヒストリア 》"質実剛健・時代の先取り・エコノミー"が薩摩・隼人の伝統はこちら。

第1目 shamanが政(祭事)を司る自然崇拝の多くのcommunityが併存した社会だった

古代石器時代のnative people(土人)の縄文人・蝦夷民族は採取・狩猟民族でした!

leaderとしてgroupを纏められる強いChief(族長)の下に、民(たみ)が衆参するいわば「原始民主主義」の♥community♥(共同体)を形成していた訳です。

つまり、狼などと同じ「生存本能に基づくgroup」を形成して、「各自がそれぞれの役割」を果たしていたわけです。

更には女性shaman(祈禱師・霊能者!?)である巫女(司宰)が政(まつりごと;祭事)を司(つかさど)る「自然崇拝!(多神教)」の社会だったわけです。

これに反して、弥生人の稲作(耕作)社会では、強権を持つruler(為政者!)が、農民を農奴として支配(搾取)する奴隷制度が必要だった訳です!

第2目 太平洋戦争中は旧軍部により「神代」(かみよ)の遺跡」として扱われたストーン・サークル

戦前の1931年(昭和6年)に秋田県鹿角市十和田大湯で「古代・縄文時代後期(金石併用時代)」の遺跡であるストーン・サークル(大湯環状列石・石籬;せきり)が、発見されました。

敗戦後の1946年に発掘調査が行われ、1951年(昭和26年)(※11)と翌年の1952年(昭和27年)には国家事業(文化財保護委員会)として発掘調査が行われましたが...

同規模の2つの環状列石で構成された遺跡群で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡です。

やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルもあり、太平洋戦争中は旧大日本帝国軍部により「神話集"古事記・日本書紀」に記された「神代(かみよ)の時代?」の遺跡として扱われていました。

※11)いみじくも小生の生まれた年!です。

第2項 現在「我が国の狂育怪を牛耳っている朝廷派の有識者?歴史屋!」は

現行政府の"律令体制!"(郡県制)堅持の為に、日ノ本は古代石器時代の「那の倭国・邪馬台国」の時代から、一貫して「女帝・卑弥呼」に始まる「emperor(皇帝)が専制政治を行っていた「統一国家」であったかのように取り扱っていますが...

第1目 古代石器時代の日本列島では自然崇拝・多神教が主流!だった

日本列島のnative People(先住民)縄文人社会は...

沖縄のノロユタ、東北恐山のイタコ、に代表されるように、

女性shaman(祈禱師・霊能者!?)である巫女(司宰)が政(まつりごと;祭事)を司(つかさど)る「自然崇拝!(多神教)」の民(たみ)で構成されたcommunity(部族)が各地に並立した社会だった訳です。

女性shaman(祈禱師・霊能者)が伝える天守神の"お告げ"を大事にする、自然崇拝の文化圏だったわけです。

第3項 稲作とともに大陸から渡来した弥生人

その後、古代石器時代の終わりごろに、ユーラシア大陸から稲作とともに渡来した弥生人が、九州北部・瀬戸内海沿岸に、colony(入植地)を開くようになり、次第に影響力を持つようになっていった訳です。

弥生人(といわれる大陸系漢民族の混血種?)は、大陸から稲作と青銅器・鉄器そして「文字(漢字)文化」をもたらして、日本"劣島!?"に"文明開化!"をもたらしたわけですが...

それ迄、Chief(酋長・首長)とshaman(司宰・祈禱師・霊能者!?)の"お告げ"を拠り所として、まとまっていた、縄文人の原始・民主主義!社会に、" lord;(搾取階級・領主・王族)とslave(農奴)"という"階級制度・搾取制度!も持ち込んだ訳です。

第1目 稲作とともに持ち込んだ搾取社会!

つまり稲作と同時に、後の律令制の基となる戸籍制度で本貫(※00)と呼ばれた「民(たみ)を領地に縛る!」仕来り・制度も持ち込まれ「民(たみ)lord(領主)のproperty(財産・所有物)」となったわけです。

以後、2千年近く!にわたり、「領民は土地に縛られ」転出(逃亡・脱藩!)を厳しく規制されたわけです。

参※00)浮浪者の語源となった"浮浪"は"唐"の律令制度をまねた!大宝律令(701年発令)で戸籍制度が導入されたときに、戸籍を持つ民(たみ)本貫に対して、戸籍を持たない民を浮浪と呼んだことに始まります。

その後、寺社などの荘園造営が認められて、戸籍制度によらない農奴や"用心棒"が出現して浮浪(者)が増加して戸籍制度そのものが廃止(消滅!)されたわけですが、

江戸時代に、「寺院による檀家登録?」や藩士(藩籍制度)が本貫(戸籍制度)に代わり、檀家名簿に載っていない民(農奴)や流民が「浮浪」と呼ばれるようになったわけです。

更に、坂本龍馬の様な脱藩者も浮浪=浪人と呼ばれるようになったわけです。

つまり現在"浮浪者"と呼ばれるホームレスの多くは、(一部の出生届をしてい無い!"無国籍"の人たちを除き)いちおう"本籍(戸籍)"を持っており、浮浪(者)!ではないわけです?

第2節 邪馬台国とともに始まった冊封国・属国!の歴史

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現在の国威発揚!歴史狂育では後述する様に西暦607年の遣隋使に委ねた書簡(国書)で聖徳太子が「那の倭国」を代表するsovereign(天子?統治者)として、「日乃本宣言!」を行ったことだけが強調されていますが...

これでは、隣国の両班(ヤンパン)出身者(※21)で固められた!学閥の連中がやっている偏向教育大差ありません!

参※21)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国(国民)と、日韓関係! はこちら。

第1項 世界史(世界の外交史)に初めて登場する日本列島「那の倭国」は

光武帝(BC6→西暦57年)が後漢(25年→220年)の皇帝在任中に、「那の倭国」のsovereign?卑弥呼(女性shaman(司宰・祈禱師)に「"自治"を認めた?属国冊封国(さくほうこく)」を示す"認証印"として金印(属国承認印)を印綬したわけですが。

"ユーラシア大陸"の知識人・支配者層の間では、(魏志倭人伝にも記述されている)邪馬台国(連合)!が「"那の倭国"として広く認知」されていた!わけです。

そして同時にユーラシア大陸の超大国「"後漢王朝"の"お墨付き"(印綬)」を得た邪馬台国連合(後の日乃本・大和政権・朝廷)」が、トラの威を借りて!日本列島統一(制覇)に向けて"蝦夷の倭国"征服!に乗り出したわけです。

※かつての琉球王朝(1429年→1879年の450年間)も同じで、(1368年→1644年)、(1616年 →1912年)に"朝貢使"(使節団)を派遣して「朝貢」を行い「臣下の礼」をとり、琉球の支配者!であるお墨付き!(印綬)を得て沖縄諸島制圧!したわけです。

第1目 魏志倭人伝とは...

魏志倭人伝は3世紀末(280年(呉の滅亡)→297年(陳寿の没年)の間)西晋の陳寿により草稿された伝承『三国志』の中の1節です。

ただし起草された"3世紀ごろの邪馬台国連合!"の情報を基にしており、金印を印綬された当時(西暦25年→57年)の、邪馬台国の状況を表す歴史資料ではありません!

さらに『三国志』そのものが...

さらに『三国志』そのものが、後漢(25年→220年)から西晋王朝(265年→316年)建国迄の、歴史を「伝承・や古文書にヒントを得て創作された一大叙事詩!」であり、

古事記・日本書紀同様に作者「陳寿」の「個人的"解釈・創作"」が随所にちりばめられた「(歴史資料とはかけ離れた)一大叙事詩・fiction(創作・伝説)」と解釈するほうが妥当な文書(代物)です。

つまり、那の倭国として、認知されていた頃(3世紀末)に漢字(漢文)(※11)が体系化されて三国志が起草されたわけです。

と同時に、当時すでに(インドから)中国に伝わっていた仏教(僧侶・技術者)とともに、日本にも改めて伝来したわけです。

※参※11)漢字(の原型)が出来たのは紀元前1300年ごろだとされています!

三蔵法師に関する歴史創作家!の噓

仏教そのものは、インドで紀元前5世紀!ごろ「釈迦が編み出した哲学!」の一つで、起源100年ごろに中国に伝来していて、その後の南朝宋(420年→479年)、北周(556年 →581年)の時代に「多数の三蔵法師翻訳家!)」がインドに赴き(体系化された漢字で)「サンスクリット(梵語)で書かれた原典版(複製)を漢文翻訳して」中国に持ち帰りました。

いずれにせよ漢字伝来は...

いずれにせよ、逆説的には古事記(712年編纂)の700年近く以前!の光武帝時代(25年→57年)の髄の時代から...

「那の倭国連邦連合」には、青銅器の刀剣と農耕具を使った稲作と、そして「文字(漢字)」(※11)文化が、渡来技術者によってもたらされていた!ことになります。

※ご承知の通り「かな文字」は平安時代になってから「表音文字」として発案された「純国産」文字なので、それ以前(言語体系が異なる日本では)は、「表意文字」としての漢字を使った「漢文」で古文書が草稿されていたわけです。

第2項 弥生人の「那の倭国・邪馬台国」の実像とは...

弥生時代初期(古代・石器時代・縄文時代後期)の弥生人の「那の倭国・邪馬台国」も、当然・女性shaman(祈禱師)の"お告げ"に下づき祭事(政;まつりごと)を行う Community(小国家・部族)が並立したfederation (連合体)でした!

つまり、嘗てのEECの様な自由交易圏!だったわけです。

米(稲作)だけではなく、もちろん"塩"も交易の重要な産品だったわけで、元祖JAともいえるfederation(連合会) だったわけです。

第1目 日本海と太平洋に挟まれた古代「那の倭国連邦」

古代「那の倭国連邦の原動力となった瀬戸内海エリアは、四国山地、九州山地、中国山地、大峰・鈴鹿山系等の、"山地"で取り囲まれた地形となっています

つまり、太平洋、日本海、東シナ海でたっぷり水蒸気を含んだ気団が、九州の阿蘇山系、中国山地・近畿の大台ケ原から続く山系、そして四国山地とぶつかり降雨となり、これらに囲まれた瀬戸内海は降雨の少ない晴天の多い「地中海気候」となるわけです。

特に四国では、夏季の"南風"シーズンには、高峰が連なる3つの連峰で構成された四国山地によりさえぎられて、瀬戸内運河?沿いはほとんど降雨のない温暖で好天が続く「地中海気候」となるわけです。

なので、瀬戸内海沿いは古来から製塩が盛んだったわけです。

塩田以前の製法

諸説あるが、出土品や文献から西暦400年ころから平安時代(西暦1100年頃)までは、乾燥した海藻の表面の塩分を土器にくりかえし洗い出して(または、焼いた海藻の灰を海水に溶かして布で濾過し)鹹水をつくり、火で焚いて濃縮する方法が用いられていたと推定されている。《日本語ウィキペディアより引用

第2目 製塩に向いた瀬戸内沿岸と稲作に適した河川中流部

降雨が少なく製塩に向いた瀬戸内と温暖で豊富な水資源(河川)に恵まれ、稲作に適した?太平洋岸

前途した様に、古来(製塩法が確立されてなかった頃)より、温暖で雨の少ない「地中海気候?」の瀬戸内運河?沿いで、作られた「塩」と、温暖ではあっても雨量が多く製塩には適さない土佐湾、豊後水道沿いの土佐国間では、Salt roadが開かれて、交易がおこなわれていたわけです。

特に、幡多郡と伊予を結ぶ四万十川水系の広見川・三間川が流れる、現県道31号沿いの街道は、塩などの重量物を輸送する"荷車"に適する比較的なだらかな、交易路だったわけです。

もちろん、豊後水道に面した"幡多郡"の港"宿毛"から、豊後水道を北上して豊予海峡を通る海路もあったわけですが...

宇和島を拠点とする海賊(水軍?)が「風待ち港」となる現・愛南町から八幡浜にまたがる豊後水道の制海権を握っていた!ので、大和政権となり「海賊を連邦に取り込む!」までは海路での交易は困難だったわけです。

古代倭国連合成立の一方の立役者九州北部

弥生人による元祖「那の倭国JA?」の立役者・幹事? Community(地域共同体)の本拠地となった、筑後川流域の筑紫平野、阿蘇、豊予海峡・豊後水道、周防灘沿いの西海道3国(筑紫・肥・豊)ですが...

筑豊(遠賀川流域)は古代から栄えていた

文明開化後の炭鉱開発で名をはせた筑豊(遠賀川流域)ですが、筑豊の名が示す通り、古代から栄えていた要衝!だったわけです。

肥前・肥後、備前・備後はビンゴ(ピンポン)では無い!

最近某有名鉄道系Youtuber(※41)が、正体不明?の大スポンサーの指示?で、西海道3国(筑紫・肥・豊)を細分化した肥(肥前・肥後)、豊(豊前・豊後)間では、険しい九州山地(阿蘇連山)にさえぎられて、「民の交流がなかった?」かの様に吹聴していますが、そんな事実はありません!

四国の項でも述べたように、瀬戸内(豊)で"収穫?"される天日塩と、有明海沿岸(肥)収穫される米の交易は、古代倭国連邦の時代から行われていた交易路で、律令制で線引き(国割)された後も、重要な往還路として人の交流・物流は途絶えていませんでした!

※南九州薩麻(薩摩)国は大宝2年(702年)に律令化(明文化!

江戸時代までは3国(筑紫・肥・豊)間でも「民の営み・暮らし向き」に欠かせない「Salt road」による交易・交流は盛んに行われていたわけです。

つまり久大本線、豊肥本線、旧筑豊本線(原田線)などは、殖産(colliery (炭鉱))のためのexploitation railway(開拓鉄道)"殖産鉄道"では無く!古代からの重要路」に沿って敷設された重要なtraffic(往還路)、 railroad(鉄道)だったわけです。

参※41)当サイト内関連記事 今どきの 鉄道系Youtuber・鉄オタ・フリーター , ゴーストライター , 鉄道コラムニスト,マスコミとは?... はこちら。

第3目 共通言語日本語の始まりは?...

しかしもとより、石器時代の古代縄文人・渡来混血民・弥生人との間で、共通言語「日本語」が確立?していたかどうかも明確にはわかっていません!

つまり、ウラルアルタイ系縄文人と、渡来人(漢民族)弥生人とでは、言語体系(単語・構文)も全く異なるわけです。

なので、交易があまりなかった縄文後期・弥生初期には、列島共通言語・日本語は、確立して無かったのではないでしょうか?

弥生人陣営の人口が増えだし、生活圏が広がりだして縄文人とも、交易(交流)をするようになると、必要に駆られて共通言語体系が生まれたのでしょう!

方言が強くなったのは

日本語が体系化?してからも、後の江戸幕府によって、作為的にcommunity(地域共同体)が分断されて、各district(藩)間の・交易が厳しく制限されたので、次第に「民の営み・暮らし向き」つまり交流が少なくなり・方言がきつく!になったのでしょう。

第4目 邪馬台国・連合組合の representative(総代)卑弥呼(職)は複数いた?!

前途した様に、3世紀末に起筆された中国の古文書『三国志』の中の1節「魏志倭人伝」で、「那の倭国」として記述された「邪馬台国」は巫女(女性shaman)が政(まつりごと;祭事)を取り仕切る国家として紹介されているわけですが...

実際には女性shaman(祭司・祈禱師)が政(まつりごと;祭事)を司る、Community(小国・部族)で構成されたFederation (連合体)を形成していた可能性が濃厚!です。

つまり極端に言えば各 Community(部族)に、各々の卑弥呼が居た!わけです。

これは、採取・狩猟民族の土着民・縄文人が、築いてきた自然崇拝文化の伝統で、女性shamanつまり"女性・司祭"の"占い"に下づき政(まつりごと;祭事)が行われていた!為です。

卑弥呼は倭国連邦加盟各国の「山の神(内助)」の持ち回り当番制!だった?

もっと極端に言えば、Community(地方部族)のChief(首長)の内助(妃)である「shaman(禱師・山の神!)」が、中国王朝・後漢の使節(国使)が視察!に訪れた際に、邪馬台国を代表して視察団を歓待する接待係!のrepresentative(総代)としての「卑弥呼・職を、各部族の女性 Shaman が「持ち回り当番制」で務めていたのでしょう!

当時は大陸(中国王朝)と"しょっちゅう(毎年)"公式な使節外交は行って無く!

写真はおろか"似顔絵"すらない状況で!、おまけに同じ「外交官(使節)」が来日していたわけでも無い!ので、「卑弥呼」が入れ替わり立ち代わり毎年交番していても"ばれなかった"わけです!

神無月(旧暦10月)は本当にあった?!

日本語ウィキペディアでは

(伊勢神宮・内宮に居る天照大御神以外の)神々が出雲に集まって翌年について会議するので出雲以外には神がいなくなるという説は、平安時代以降の後付けで、出雲大社の御師が全国に広めた語源俗解である。なお、月名についての語源俗解の例としては、師走(12月)も有名である。《日本語ウィキペディア(2022年12月17日現在在)より引用

となっていますが、神無月(旧暦10月)は本当にあった話なのかもしれません?!

邪馬台国・経済連合の Territory は...

元祖JA!邪馬台国・経済連合会を構成するCommunity(部族)の Territory,(実効支配地)は、近畿・四国・九州の瀬戸内運河!沿いと玄界灘・有明海の一部の狭い Region(一帯)に限られていました

関西圏の一部 Zone(地域)で成立していた邪馬台国・経済連合!では、年に一度「諸国の女性shaman(内助;山の神)が集まり、親睦会・大宴会?を行い、併せて翌年の邪馬台国のrepresentative(総代)卑弥呼を"選出"していたのではないでしょうか?...

つまり、一か月で往復するのは無理としても、祭事に記された日程(約一か月の道程)であれば、年に一度、自国を開けて出雲大社に集参できた!わけです。

第3項 邪馬台国の場所を特定できないのは...

邪馬台国の場所を特定できないのは正にこのためです。

つまり、九州(吉野ヶ里遺跡)説・大和(明日香)説・東北(三内丸山遺跡)説?などいろいろありますが(※12)...

中国の後漢王朝の光武帝(BC6→西暦57)から、金印(属国承認印)を印綬した時点では、中国には製紙技術(BC140年~AC87年)がすでにあり邪馬台国へは「漢字の原型」も伝わったのでしょうが...

中国に仏教が伝わったのが西暦100年頃で、その後に後漢(25年→220年)は滅亡して、その後の正式な朝貢使(遣隋使600年~)が始まる迄の「数百年間は正式な使節団の交流はなかった!わけです。

参※12)三内丸山遺跡では、(稲作を導入した縄文人?が暮らしていたことは間違いないでしょうが)大規模な王宮・館(やかた)や王墓は発見されていないわけです。

日本史の(記録)空白期間?!

この間は、日本列島には古文書(木簡)すら残って(発見されて)いない!訳です。

つまり、AC220年以後も、民間レベルの交流(通商)で青銅器・鉄器などの農耕具・武器貿易はあったのでしょうが...(※13)

密貿易?密航者による仏教伝来で本格的に漢字文字文化が伝来するのは、中国で漢字が体系化して、三国志が起筆された3世紀末(280年(呉の滅亡)→297年(陳寿の没年)の間)から南朝宋(420年→479年)、北周(556年 →581年)の時代の「多数の三蔵法師(翻訳家)」が「原典を漢文翻訳して」中国に持ち帰って、更に日本へ伝えてからだと考えるのが妥当で!

つまりは朝貢(ちょうこう)使"(遣隋使)が再開された(600年)以降に、本格的な文字文化(仏教文化)が花開き、それまでの女性shaman(司祭)による自然崇拝・口承文化が次第にとって変わられた!と考えるのが妥当でしょう。

参※13)国粋主義者・国文学者などの古文書愛好者!が論拠!としている中国で起草された(魏志倭人伝どうようの)叙事詩(英雄伝説・創作物!)でも"交流"があり、邪馬台国を巡る"噂話"が伝わっていたことが、判明しています!

田正、これらの古文書は全て噂話を基にに起草した叙事詩(英雄伝説)であり、マルコポーロの東方見聞録の様な、自らの体験に下づく Documentary (取材記事)ではありません!あくまでも著作者の主観を交えたFiction(叙事詩)にすぎません!

最も東方見聞録でもジパングについては、当時の中国で聞きかじった"噂話"を基にしていますが...

当時「平野部が無かった日本列島!」には中国大陸奥地!より古代米が伝来した可能性が...

更に、弥生人(混血)の祖先・南方民族説をとる歴史フィクション創作家?!は、南シナ海沿岸の諸国で盛んな「水耕・水田」を前提に想定していますが...

稲作が伝来したころの日本各地は、縄文海進が終わったころで、河川による河口部の堆積(三角州形成)は進んでおらず、加賀平野など、各地の平野?はほとんど形成されてなく、せいぜい「河口部の小島」を中心に「葦の生い茂る」湿地帯がわずかにある程度でした。

更に現在全国各地にある"盆地"も、河川上流部からの堆積がまだまだ十分ではなく!平地部はほとんど無がった!わけです...

なので、中国大陸奥地で行われている"段々畑"「棚田」による「(陸稲に近い)"古代米"」の稲作が、大和盆地など、各地の河川の「盆地部の山麓」や「大河の河口部の山麓」に伝わった可能性があります!。(※24)

「明日香の里」の段々畑や、筑後川・矢部川水系上流部で行われている「棚田による稲作」が普及したものと考えられます。

つまり前途した漢字伝来後の朝貢(ちょうこう)使"(遣隋使)が再開された(600年)以降の仏教伝来とともに、大陸から高度な測量技術を学んだ利水専門家(僧侶)も渡来して、灌漑施設(用水)網を整備(※25)していったと考えるのが妥当でしょう。

つまり、当初弥生人の「那の倭国連合・邪馬台国連邦」に稲作が伝わった当初は、その後の本格的な稲作文化(荘園・農奴制度)は普及しておらず、弥生人ですら!農耕・狩猟の兼業民族であった可能性が強いわけです!

参※24)古代遺跡から出土する、状態の良い稲の化石?のDNA分析を行えれば...証明できる!でしょう。

これで長年論争が繰り広げられてきた、稲作南方渡来説が覆されることになるでしょう...

参※25)最近の発掘・発見で灌漑(水路)技術も、稲作と同時に列島各地に伝わったことが証明されています。材木と土石を用いた、護岸工事を施した用水路が各地の古代遺跡で発掘されています!

つまり、邪馬台国以前から稲作を持ち込んだ弥生人(渡来人集団)は、簡単な土木(灌漑)技術を持ち合わせていた、農耕技術者・集団だったともいえます。

但し、大規模な利水事業(用水)開削には、高度な測量技術も必要となるので、前途した筑紫平野(柳川)、佐賀平野などのでの、灌漑事業の"走り"は、後年になって遣隋使により「帰国留学僧や、招へい?した渡来技術者」が伝来させたものと考えられます。

一時中国王朝"唐"と国交が断絶(冊封を説いた)原因となった白村江の戦いは

大和政権は、百済に加担して白村江の戦いで敗れたわけですが...このことが中国王朝"唐"と国交が断絶(冊封を説いた)した要因にもなる訳ですが、大事なのはこの時に、百済に加担したわけですが...

百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋を擁立しようと、倭国に救援を要請した。

中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。

日本語ウィキペディアより引用

とあるように、660年3月の百済滅亡!の際に技術者・職人含むを多くの難民を受け入れているわけです!

つまり、後述する大和政権誕生後に、筑州(筑後;筑紫平野)・豊州(豊後;阿蘇国・)・肥州(肥前;佐賀平野)の稲作 region(地帯)の開発(灌漑)もより一層進んだものと考えられます。

これは、儒教思想に下ずく労働蔑視!(※26)の施策!の中国"唐"王朝勢力が朝鮮半島を席巻して、有能な技巧者(職人)達が、技術導入に熱心だった弥生人の"倭国"へ亡命!したためと考えられます。

これはその後の秀吉の朝鮮出兵時(1592年5月24日→ 1593年8月5日)も同じで、多くの職人たちが朝鮮半島を脱出して、日本に亡命しています。

参※26)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪を根絶しないと韓国は再び中共の属国に... はこちら。

第3節 邪馬台国を引き継いだ大和政権も属国路線を踏襲!

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元祖「那の倭国」"邪馬台国"から派生した日乃本連合大和王国政権も同じ寄り合い所帯!でした...

お互いの「大人の事情(利害関係)」が一致した、瀬戸内運河?沿いの"部族(小国)"が、「那の倭国連合」を結成して、お互いのリソース(財力・兵力)を合わせて、緩やかな邪馬台国連合を形成していたわけです。

いわば現在のEUと同じような経済圏を基本に置いた国家連合です。

第0項 せいぜい古代・連邦国家?の元祖JA!倭国経済連合会

その時々の、加盟国(種族)のChief(若頭?)がお互いに「都合の良いchairman(組長)」を祭り上げて「大人の事情で所場争い(Territory抗争)」を繰り返していたわけです。

実態は嘗ての各region(地域)にあるcommunity(部族)のChief(部族長)が、互いに「自己の利権(大人の事情!)」を主張し合うfederation(経済・連合体)だったわけです。

ある意味民主的でもあり・ある意味「統一性にかけた連合体だったわけです。

古代・倭国連邦(大和"調停?")、中世(鎌倉・室町幕府、戦国時代)、近世(江戸幕府)近代(明治新政府・大日本帝国)と繋がる ruler(為政者・権力者)共は、

「大王(おおきみ)をemperor(帝)に祭り上げて!」専制政治体制の統一国家を装った!わけです。

第1項 西暦607年の遣隋使に委ねた"国書・親書"で初めて「日乃本」宣言した大和政権

聖徳太子(大和国の大王)が、冊封国(属国!)として、宗主国である当時の中国統一王朝"髄"に対して、「臣下の礼」をとるために覇権された"正式"(※12)な!外交使節団としての朝貢(ちょうこう)使"(遣隋使)を派遣していた期間中(600年→618年)の、(何度目かの)遣隋使(西暦607年)に委ねた書簡(国書)で、「日乃本」宣言をして、その後白村江の戦い(663年10月)以来、途絶えていた"朝貢使"(遣唐使)が則天武后により8世紀初頭の701年に、約40年ぶりに再開された際に、宗主国の中国王朝"唐"に申請!されたとされています。

第1目 当初の"朝貢使!"(遣隋使)が携えた「国書」には印綬された「那の倭国金印」が押捺されていた!?...

遣隋使(朝貢使)"を始めた頃の国書(木簡※13)にも、冊封国(属国!)「那の倭国」の正式な国書を証明する「金印」が捺印されていたのでしょう。

注※12)日本列島とユーラシア大陸とは、金印の印綬以前から(正式な使節団以外にも)民間人レベルでの交流があり、正式な"朝貢使"が途絶えていた?期間中も

前途した魏志倭人伝(3世紀末草稿)にも記されているように、大陸⇔日本列島の交流(交易)は続いていた!訳ですが、史実を示す"非公式"な記録(古文書・私文書)は残って(発見されて)いません!

参※13)後述するように、遣隋使以前の日本列島には製紙技術が伝来しておらず!書簡は全て木簡にしたためられていました。

西暦607年の遣隋使が携えた国書で聖徳太子が行った日乃本宣言の狙いは...

つまり、大陸の専制国家・超大国(髄)を宗主国として認めることで、小国の日本列島を侵略から守り植民地!化させないように、「臣下の礼」をとって、先手を打ったのでしょう!

自治権をもった冊封国(さくほうこく)=属国として認めさせるために、日ノ本連合国の幹事国!大和国の大王(おおきみ)である、「自らがsovereignである統一国家!」を装った、外交策!であったわけです。

第2目 遣隋使以前の書簡は木簡・竹簡(ちっかん)の時代だった

非公式の民間レベルでは大陸と「蝦夷の倭国」との交流(交易)も...

非公式レベルでは大陸は「蝦夷の倭国」とも交流(交易)があり、銅製品・鉄器などと共に"漢字"も導入されていたと推測できます。

古代弥生時代初期から天平・奈良時代にかけて、中国の製紙技術(紀元前140年~87年に発明)は日本列島には伝来(7世紀頃までに輸入されだしその後技術も伝来したとされる)しておらず、それ以前の「文書は木簡・竹簡(ちっかん)が主流の時代」でした。

紙文書文化は遣隋使により伝来した!

つまり紙文書文化は遣隋使(600年→618年)により、倭国に持ち帰られた「髄王朝の国書」や仏教の経典により初めて日本に伝わった!と考えるのが妥当でしょう

第3目 古事記・日本書紀は"おとぎ話!"にすぎない

紙伝来後に編纂された、わが国最古の古文書といわれている古事記(712年編纂)は、

その後に編纂された、日本書紀(720年編纂)と同様に、仏教伝来と同時に僧侶(技術者)が持ち込んだ文字(漢字)により、口頭伝承されてきたlegend(神話・昔話)を文字化(文書化)した、神話集!昔話集!にすぎないわけです!

これらは、autocracy(専制政治)を行っていた中国大陸・唐(618年→907年)のemperor(皇帝)に対して、遣唐使が携える"親書"の発行者である大王(おおきみ)が、新生・日乃本のsovereign?である証(あかし)としての添付書類!(出所証明)として用いるために、家系図として書き表された代物なのでしょうが...

※しかしながら。歴代の中国王朝のemperor(皇帝)(とその側近の学者・有識者)は当時バイブルとなっていた三国志の中の1節「魏志倭人伝」にある女帝?卑弥呼が率いる邪馬台国が日本列島の「真の自治政権」であったことを衆知していたので、天照大神神話には興味が無かった!ので古事記は無視!されたわけです。

つまり、「卑弥呼の血統を継ぐ正当な後継者」を示す根拠は、「押捺された金印」封印しかなかったでしょう!

つまりは所期の目的である対外的(外交上の)な、日ノ本連合のsovereign?大王(おおきみ)を証明する、血統書・出生証明にもなら無かった!わけです。

「日本語ウィキペディア」で日本初の歴史書???!とされている古事記(712年編纂)は...

前途した様に、漢字伝来より数百年を経過して、日本初の叙事詩!(fiction!fantasy!)古事記が起草されたのは、製紙技術の伝来と深く関係があった!わけです。

聖徳太子の、倭国宣言(西暦607年)から100年以上!たった和銅5年(712年)に(漢文で)編纂された古事記は、

前途した様に当時の大和連合国の"大王(おおきみ)"を正当化するために、取り巻き(支援者・後援会!)の搾取階級(政権)の一人の太安万侶が、面々と受け継がれてきた?口承・伝承神話!にヒントを得て!

大王の公式出生証明となる家系縁起を"創作!"して、「大和国の大王(おおきみ)に献上」した"私文書"にすぎません!

その後に編纂された日本書紀(720年編纂)と同様に、仏教伝来と同時に僧侶(技術者)が持ち込んだ文字(3世紀には体系化されていた漢字)により、口頭伝承されてきたlegend(神話・昔話)を文字化(文書化)した、神話集!昔話集にすぎないわけです!

その後の「大和政権の大王」も

事実その後も大和政権の歴代大王が、「髄が滅びた」後の唐(618年→907年)が滅ぶ907年まで幾度の朝貢使("遣唐使")を派遣して「臣下の礼」を取り続け、同時に大和政権が「日ノ本連邦」を代表する唯一の政権であることをアピールし続けた訳です。

第4目 髄の emperor が聖徳大使の国書に激怒した訳は...

髄の emperor(皇帝)が親書を受け取って激怒した理由は、「日之出国の天子より日の没する国の王へ...」の下りでは無く!。

金印を押した冊封国(さくほうこく)=属国のChief(酋長・首長)の分際!でありながら、主権を持つking(王)の様に、対等!の立場を主張したcontent!にあったのでしょう。

まあ、居合わせた通訳・学僧が、

『那の倭国は野蛮な"未開人が暮らす属国!"なので、漢字(漢文)を心得た人物がいない!?のでは...』とかなんとか「その場を繕って」くれたのでしょう。

前途した様に、唐が滅びるまで、"朝貢使"(遣唐使)による朝貢(配下の礼)をとり続けたので、その後中国を占領!した蒙古民族の元(1271年→1368年)の様に、日本列島に攻め入ることはなかった!のでしょう。

血統的(遺伝子的)にも、弥生人は漢民族に近く、縄文人の様に"元"と同じ流れをくむ「ウラルアルタイ系民族」とは異なり、漢民族の親類?として扱ってくれたのでしょう

現在大和朝廷として持ち上げられている"大和王国"は大和盆地をホームグランドとする「議長国(一領主・一部族)」にすぎなかったわけです。

つまり帝王が絶対権力を握る専制政治(君主)体制では無かった!わけです。

第2項 大化の改新と律令制

大和政権を牽引する大国?「大和王国」の大王(おおきみ)聖徳太子が、中国王朝"唐"の体制を模倣!して行った、制度改革?大化の改新(645年 → 650年)後に、唐(618年→907年)の制度を取り入れた律令制を、大宝律令(701年制定)として制度化(明文化)して、令制国(日乃本連邦のテリトリー分け)に繋げ、(外交上)対外的には大王(おおきみ)を頂点とする統一国家「日乃本」を装ったわけですが...

第1目 律令制は中国王朝"唐"の受け売り

"朝廷派"の歴史学者?は、21世紀の現在も引きずっている令制国を、もっともらしく正当性しますが...

律令制そのものが中国の受け売りで、(加盟国協議で)倭国連邦が勝手に線引きした国割にしかすぎません!

現代風に言えば?植民地政策の大和朝廷バージョンです。

しかも、宗主国である中国王朝"唐"に対する忠節の証でもあったのでしょう...

大宝律令は「協同組合の組合規約!」程度

大化の改新で生まれた大宝律令は、前途した様に専制君主のcharter(憲章)ではなく、

協同組合の組合規約」程度にすぎませんでした

第2目 遣隋使・遣唐使に代表される外交面での必要性

中国大陸では髄が起こり

一方大陸では、強大な武装集団(軍隊)を要するemperor(大帝・帝王)が起こした専制国家が、広大な領域を「統一国家」として統治するようになってきていたわけです。

そこで、"海外"(天然のお濠・日本海の向こう)からの「大国の侵略」に抗するために、「見かけ上!統一国家(武力集団)」であることを示す必要があり、

議長国である大和国を強朝(強調)して、「日本列島の専制君主」に仕立て上げて、外交(折衝)を代表するsovereign(主権者・代表者)としたわけです。

遣隋使・遣唐使の史実

前途した様に光武帝(BC6→西暦57年)時代の後漢(25年→西暦57年)に始まった「那の倭国」の"朝貢使"(使節団)以来、遣隋使(600年→618年)遣唐使(618年→907年)の長いに"朝貢使"の歴史を通じて、"幻の邪馬台国"と跡を継いだ大和王国連邦が「倭国を代表する唯一の政府」であることをアピールしたわけです。

更には、相手国(中国)の拘り(権力体制)を逆手にとって、"統一国家であることをアピールする為に、急遽!大宝律令を策定して、中国を模した「帝(ミカド)を頂点とするピラミッド機構」を持つ統一国家を"装った!訳です。

元寇に対する対処は...

このように表現すると、王朝派の古文書研究者は、その後に起こった『2度の元寇(1274年・1281年)に対する、我が日ノ本の"団結"は...』

と反論するでしょうが、これとて、日ノ本連邦崩壊!後に誕生した鎌倉幕府の"構成員"の守護大名の「大人の事情(共通利害)」が一致しただけのことで、各守備隊(豪族隊)が、互いの拠点を死守!しただけです。

当然各守備隊の「事前の軍議」は行われたでしょうが、執権時宗が「大本営」を立ち上げて「参謀本部」が作戦を指揮したわけでも何でもありません!

あくまでも、各守備隊(派兵隊)の「武将の自己責任に下づく自己判断」で戦われたわけです。

第3目 但し完全な律令制(郡県制)は行われていなかった!

「捕らぬ狸の皮算用」政権の方針表明にすぎなかった大宝律令

今に続く!郡県制(律令制)は、古代・石器時代の後期に当たる飛鳥奈良時代に、西日本の諸国(小国)が集まって形作った「那の倭国」連合!のChief(酋長・首長)達が集まり、「日本列島完全制覇!後の未来図;基本構想!」として、郡県制(律令制)を取り入れた大宝律令(701年制定)の大綱・原案が検討されて、参加部族長のconsensus(協心)を得たうえで、制度化(明文化・文書化)されたわけですが...

帰国留学生(僧侶)から得られた知識が元になった律令制度

当時行われていた中国王朝への「臣下の礼」に当たる"朝貢使"(遣隋使(600年→618年)遣唐使(618年→907年))で得られた(留学生;僧侶が持ち帰った)知識に基づいて、統一国家を装う!為の政権体制つくりとして、「大化の改新(645年 → 650年)」時の権力者(地方小国・都市国家・種族のChief)たちからconsensus同意・賛同を得た制度ですが...

当初は「那の倭国」「日ノ本」連合陣営の未来構想つまり採らぬ狸の皮算用!だったわけです。

不完全な形の律令制(郡県制)!

更に、律令制(郡県制)を完全導入したわけでは無く、当時は連邦を構成する小国・部族のChief(首長・族長・酋長)が各自のTerritory(領有地)を直接governing(統治)していたので、唐王朝の様に軍官によるGovernor(地方長官)任官制度は、見送られました。

任官によるagent(代理人)である目代を、自らのTerritory(所領)であるmanor (荘園)に差し向けるようになったのは、彼らが「都に定住」して the exploited classes(貴族・公家)となった平安期(784年→ 12世紀末)中期に当たる900年頃以降に王朝・貴族体制(ピラミッド型官吏制度)が確立してからだといわれています。

大王(おおきみ)は emperor では無く president だった

国粋学者・国文学者により創作された、義務教育の社会科教科書では、わが日ノ本は建国当初から絶対的な権力を持つemperor(帝)が支配するabsolute monarchism(絶対王政)の統一国家であった???かのように洗脳狂育されていますが...

国粋学者・国文学者により創作された、fiction(虚構)です。

那の倭国連合・日乃本連邦は、各地の小国(都市国家)の連合体つまりは連合国・連邦だったわけで、中国王朝の様なemperorは存在せず!各小国(部族)のChief(酋長・首長・族長)が集まって協議する、合議制!の民主的!な国家連合だったわけです。

つまり大宝律令当時の大王(おおきみ)は、宗主国!「唐」に対する「外交上の方便」として、倭国の「国書に署名する」表むき(外交上)のsovereignで!実態はpresident,representative(代表者)だった!わけです。

日本の朝廷では古来から「君臨すれども統治せず」が貫かれていた

日本で(好き勝手し放題!の)絶対君主・独裁者だったのは、信長・秀吉や後述する藤原 純友などの一部の暴君(狂君)!だけでした。

律令制の世に戻そうとした明治新政府の「大日本帝国」も、議会制をとっており、天皇は"現人神"と祭り上げられて「君臨すれども統治せず」の立場におられました。

つまり、日華事変から始まる一連の海外侵略政策!も、「時の政権権力者が、財怪に穴を叩かれて行った政策!」にすぎず、開戦後は逃げ出し!あとを継いだ(実部隊である)"軍部"に全責任をおっ被せて「知らん振り」を決め込み、敗戦後に表舞台(政財怪)に復帰!して、日ノ本を今の様に"ダメにした!"わけです。

第3項 大宝律令(701年)は詫び入れ!朝貢使(遣唐使)再開の為に制定された!

大和政権では、白村江の戦いで中国王朝"唐"と国交が断絶していた期間中の天武朝(天武天皇 在位673年3月20日→686年10月1日)の頃から、大王(おおきみ)に代わり「天皇」という称号が用いられだし、則天武后により約40年ぶりの701年に、朝貢使(遣唐使)が再開されて"臣下の礼"(冊封体制)を復活させる際に、宗主国の中国王朝"唐"に倭国→日本の国号変更申請!がされたとされています。

第1目 抑々が「民(たみ)の営み・暮らし向き」を無視!した律令制

大宝律令(701年)発令により、布告?された律令制(郡県制)による線引き!は、合理的な根拠に乏しい!「民(たみ)の営み・暮らし向き」を無視"!した制度でした。

中央政権?のmember(構成員! (-_-メ) )である加盟国の Chief(族長)共が協議して、手中に収めてもいないarea(空地・原野?)までも手前勝手に線引きして、分割して征服後の領地分けを構想したわけですが...

これは、敵対勢力(縄文人の倭国)を征服するために、則天武后が、白村江の戦い(663年10月)以来、途絶えていた"朝貢使"(遣唐使)を(約40年!ぶりに)再開させ「再び唐王朝の冊封国(属国!)となり」宗主国"唐"王朝の"お墨付き"(後ろ盾)を得る必要から、征服後の国割構想(統治策)を大宝律令として策定したのでしょう。

つまりは15世紀のカソリック西欧社会でスペイン王国とポルトガル王国で交わされたTreaty of Tordesillas(トルデシリャス条約)と同じような「捕らぬ狸の皮算用」にすぎません!

うがった見方をすれば...

前途した様に白村江の戦いは当時中国唐王朝(冊封国)陣営と戦っていた!"百済"と、主権(外交権)も与えられていない無い、冊封国(属国!)の倭国が友好(外交)関係!を持ち、しかも敵の百済に加担!したことで、怒りを買い!冊封を解かれて!、唐王朝の敵国!に成って終った!訳です。

つまり、「弥生人の倭国」政権が「縄張り抗争!」を繰り広げていた、「縄文人の倭国」を侵略・征服する「大義名分(後ろ盾)」を無くしてしまった!わけです。

当然、青銅器・鉄器などの武器輸入も途絶え!国産化の模索をするわけですが、国交断絶で"唐"からの技術者(僧侶)の来日は無くなり!鉱山開発も一朝一夕には進まなく!

逆に敵方「縄文人の倭国」に、(朝鮮半島を通じて)青銅器・鉄器が流れると、再び軍事力の優位性は保てなくなって行ったわけです!

そこで意を決して約40年ぶり!に、"唐"へ詫びを入れ!、冊封国(属国!)として交易・交流(留学生受け入れと僧侶派遣(来日)の要請!)再開を求めた!訳です。

第3項 伝741年に仏教が国教となり諸国に国分寺が建立されたが...

"朝貢使"(遣隋使;600年→618年、"遣唐使"、618年→907年)が続いていた飛鳥・奈良時代中に留学(僧侶)が帰国して、仏教が日本列島にも伝わった!訳です。

大化の改新から1世紀後!741年に仏教を国教として、諸国に国分寺が配置されて、いわば廃仏毀釈、とは逆の自然崇拝棄却一神教に方針を大転換転換?したわけです。

そして奈良の東大寺大仏(745年→752年)建立と繋がるわけですが...

第1目 753年4月に行われた「日本初の"合同入信式!」"菩薩戒

753年12月20日に「仏舎利を携え来日に成功した唐僧鑑真」が、同年12月26日太宰府の観世音寺に戒壇院(かいだんいん)を設け、日本初の戒壇(僧侶認定)を行い、その後奈良の都に上京し、752年に大仏開眼した奈良の東大寺に入り。754年4月大仏殿に設けた戒壇で上皇から僧尼まで400名に薩戒を授けた。(つまりキリスト教の"洗礼"に当たる仏教と入門が許されたわけです!)これが日本の登壇授戒とされています。

第2目 妃(きさき)は未だにshamanだった!

有名な話で「この時ですら、御妃(おきさき)の政(まつりごと)に対する発言権は絶大なものがありました。

つまり、この当時でさえ日本古来の自然崇拝・女性shaman(祈禱師・霊能者!?)(巫女・祈禱師)の祭事(まつりごと;政)関与当たり前!で、

大王(ミカド)の御妃(おきさき)の政(まつりごと)に対する発言力も(政権内でクーデターを引き起こすほど)大きかった!訳です。

自然崇拝・女系shaman文化はその後も...

青銅器・鉄器の国産化!とともに...

"朝貢使"(遣隋使;600年→618年、"遣唐使"、618年→907年)の開始の為に、鉄板を用いた外洋航路用の大型船が開発されたのは有名なお話ですが...

6世紀半ばの吉備地方...では、最初期には磁鉄鉱、6世紀後半からは...国内で調達が容易な砂鉄を原料とする...製鉄法は吉備地方から日本各地へ伝播した...日本の製鉄法...大陸や朝鮮半島での製鉄では円筒形で高さのある炉が用いられているのに対し、吉備地方から伝わった製鉄法では箱型で高さの低い炉が用いられた。なぜこのような独特の技法が編み出されたのかは解明されていない...

なお、近年の発掘、研究の進展によって、福岡県福岡市の博多遺跡群や、長崎県壱岐のカラカミ遺跡などでは、弥生時代の製鉄遺跡と思われる痕跡が相次いで見つかっている。《日本語ウィキペディアより引用》

つまり西日本では、考古学的には渡来技術者(僧侶)による銅山開発とともに、銅製品(銅貨)や青銅器(農耕具)・武器の国産化も達成されて、更には刀工・刀にも繋がる「砂鉄による製鉄」も開始され、世界的には珍しい「青銅器・鉄器併用の金石器併用時代」が訪れたわけです。

この当時でも日ノ本連邦(弥生人勢力圏)のTerritoryは、若狭湾以西の日本海・紀伊半島・瀬戸内沿いの西日本にとどまっていたために、東北・東日本の"蝦夷(エミシ)(縄文人)討伐?(侵略)を行うため、

前途した802年1月9日に征夷大将軍として東北に派遣された坂上田村麻呂がとらえた、Chief(酋長)の阿弖利爲(アテルイ)とその母のshaman盤具母禮(モレ)が平安京に連行されて、(表向きは)処刑!されたわけです。

つまり、"蝦夷(エミシ)民族(縄文人社会)は、伝統的な「女性shaman」が政(まつりごと)に関与する部族(小国家)だったので(※11)、蝦夷部族(小国家)組織を崩壊!させて、部族の民を新たに日乃本連邦が設営する「荘園の農奴!」として取り込むには、「女性shaman」を連行(隔離)する必要!があったわけです。

参※11)当サイト内関連記事 東北での"先住民・縄文人 えみし 民族"と"渡来系混血・弥生人 大和民族 "との攻防の歴史... はこちら

第3目 仏教の国教制定後の10世紀に入ってからも"式内社!?"が...

国分寺とともに新たな式内社(927年時点でも)が造営されて設置された訳は、全国各地の新たな占領地・令制国"にはまだまだ「自然崇拝・シャーマン文化」が強く残っていたことを示すものです。

そして(3世紀から6世紀にかけて各地で盛んに造営されていた)前方後円墳(王墓)の禁止令!発令後も、各地に「土着王族(豪族)の墳墓」が造営されたのもこのためです。

土佐国(幡多郡)では室町幕府になっている15世紀!でも

四国の土佐国(幡多郡)では、鎌倉幕府を起こした頼朝が律令制崩壊(1185年の武家の統領(源頼朝)による守護(旧国司)・地頭(旧荘園主)任免権成立)させて開闢した鎌倉幕府(1192年→1333年)を、継いだ室町幕府(1336年→1573年)の時代になっているにも関わらず、任地・幡多郡に国司!として赴いた(1468年以後)土佐一条氏が、荘園を構えた土佐・中村では、式内宮と国分寺の両方がある!わけです。

これは海路で蝦夷(縄文人文化圏)として結ばれた太平洋岸(※12)には、まだまだ自然崇拝女系shaman(祈禱師・霊能者!?文化が、根強く残っていたことを物語っています。

一方、古墳(王族墳墓)があるということは、土佐一条氏が下向する室町時代よりずっと以前の古代古墳時代(奈良・明日香時代)から、瀬戸内・日ノ本連邦と交流のある、稲作を取り入れた縄文人?の小国(荘園)があったことを証明しています。

事実、大宝律令で土佐国としてのTerritory分け(律令制・郡県制度)が決められ、入植!が始まって以来、幡多郡は古代米の稲作に適する耕作地として、日ノ本連邦加盟国の王族の荘園が数多く設営されていたことが、冒頭で述べたように天満宮(豊穣の神)の多さからも、うかがい知れます。

参※12)鹿島(千葉)・熊野(紀伊半島)・土佐・薩摩・隼人そして日本海側の出雲・富山等の縄文人遺伝子エリアにも。

第4節 Territoryのboundary;Frontierと borderの関係は...

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Territory(実効支配地)のboundary(境界)Frontier(冊)と border(国境)の関係とは...

第1項 territoryの最小単位となる"荘園"とは

律令制度の根幹をなす大宝律令(701年制定)は、倭国連邦が制圧する予定のarea(原野・事業用地?)を、幾つかのdistrict(分譲区画!)に分けて、連邦加盟のRepublic(加盟国)のChief(後のthe exploited classes:搾取階級)に"搾取"districtつまりmanor(荘園)を分譲!するために制度化・明文化した分譲構想!「絵に描いた餅」にすぎません。

そしてその最小単位「分譲区画」がmanor(荘園)であるわけです。

そして、複数のmanor(荘園)をまとめたdistrict(行政単位)が令制国でそこを統治するのがGovernor(国司)ということになります。

なので、当初は、分け与えられた令制国へ着任して、実施にsovereign(統治者)としてgoverning(統治)していました。

しかし、前途した様に「平安中期(900年頃)になると」、上洛して定住していた地方のChiefが貴族化してthe exploited classes(搾取階級=公家)となり、実際に分譲された任地・領地に赴かなくなり・agent(目代)を派遣するようになり、律令制は有名無実となり崩壊した訳です。

第1目 植民地政策が必要だった平安中期の貴族社会

倭国連邦(大和調停!政府?)は、給与性(俸禄制度)でもなく、上納金(事業税)でもなく、いわば大王(おおきみ)と lord(搾取階級:領主)の貴族共の"協同組合体制・共同運営"でなりたっていました。

つまり組合長の大王家と lord(公家)は別所帯!だったわけです。

つまり国家事業は、「組合員の持ち寄り」で行い、プライベート事業(自領整備)は、「各自の自腹」で行っていたわけです。

第2目 貴族化と律令制の崩壊

地方豪族共が自らのterritory(所領)を離れ、「都に上洛」して居を構えるようになり、territoryのlord(国司)業務をGovernor;総督、agent(目代)にゆだねるようになると、律令(組合規約)は形骸化して、公家共の利害の争奪戦となり、互いに「大人の事情」で手前勝手な「大王(おおきみ)」を擁立して、権力抗争に明け暮れた!訳です。

なので、大王家(おおきみ)が幾つも並立して、日ノ本territory(実効支配地)内に幾つもの「大王墓」が存在するわけです。

このような過程で律令体制が崩壊して、再び「地方分権?」の法度に下づいた、Governor(守護大名)・manor owner(地頭)の社会に突入していった訳です。

第3目 荘園の農民は付属品・奴隷だった!

前途した様に縄文人社会は、原始民主主義に近く、自分たちで統率力のある信頼できるleaderを選び(仲間入りして)、部族を守って生きていたわけですが...

弥生人は稲作とともに階級制度も...

弥生人の諸国(倭国連邦の共和国)は、稲作とともに"階級制度(奴隷制度)"も持ち込み、colony(集落)内に耕作専業のslave(農奴)を擁して、manor(荘園)化して、同時に当初はmanorの"用心棒"にすぎなかった武装集団(山賊?)も、自らのmanor(所領・荘園)の付属品?として"領民"化していった訳です。

なので、それ以降明治維新まで江戸時代を通じて、脱藩者などの「人の移動(転入・転出)」を厳しく規制していたわけです。

つまり、弥生人たちは、稲作とともに「隷属文化」も導入したわけです。

律令制の制度化(明文化)

そして、大化の改新(645年 → 650年)後に成立した大宝律令(701年制定)で律令制を制度化(明文化)して、新たな侵略エリア(令制国)に、倭国連邦加盟国(公家・朝廷派豪族)の荘園(manor,plantation)の開設を奨励して、倭国連邦(大和朝廷)の勢力拡大を図っていったわけです。

そして後の幕府制度につながる"征夷大将軍"を任命して、縄文人のterritory(実効支配地)、東北・四国・九州を次々と"制圧"して日乃本連邦!のterritory(実効支配地)を拡大していった訳です。

第2目 テリトリー争いの足跡

領地内の(territory・縄張り)にみられる、勢力拡大の足跡は、

古参の地方豪族の領地では生活圏を尊重し、新たな覇権areaでは、manor(荘園)の利権範囲を基本にboundary(縄張り・境界)が設定されました。

つまり、制覇した新たなterritory(支配地)は、上洛しているthe exploited classes(搾取階級・公家)の糧(租税徴収)の為に、先住民の「営み・暮らし向き」とは関係なくdistrict(知行地)を区画した訳です。

平野部では

農耕に適した「大河川の河口部に広がる平地部(三角州エリア)」は、「旧河川本流とその分流」で区切られ、その後現在まで続く「治水と利水」の背反する問題の火種となってしまったわけです。

つまり、梅雨時には河川氾濫で苦しめられ、渇水期には水不足による「飢饉(ききん)」に悩まされることとなったわけです。

つまり為政者の勝手な都合で決められた「集落のboundary(縄張り)」がもとで、土地に拘束された「村人間で血みどろの水争い!」が絶えなかったわけです。

第2項 自然崇拝・多神教の古代文化の歴史を改竄!したのは...

国粋主義者の"でっち上げた"虚構の最たるものは、「菅原道真を祭った天満宮は学問の神???」という戯言!です。

平安以降表音文字の「かな文字」が発明されて、各地の社寺で「縁起の捏造!」が始まったわけですが...

第1目 水天宮・荒神さんは「治水の神

後述する「天神さん」と同様に"暴れ川(大河・急流)"の流域にみられる「水天宮・荒神・龍神さん」は"治水の神"で、"鬼怒川!"などに代表される"暴れ川"の水害を"治める"治水の天守神として「在郷の民」が鎮守(祈禱所)として祭ったものです。

つまり、自然崇拝;shaman(祈禱師・霊能者!?)文化の一つです。

第2目 天満宮は豊作の神!

  • ●さざ波印は(観光)棚田
  • 鳥居マークは、天満宮(天神さん)・稲荷など"豊穣"の神
  • モニュメントマークは古墳(王族の墳墓)
  • 塔(天守)マークは、古城・砦跡

「天満宮を学問の神に仕立て上げた!」のは、「縄文人の倭国」を滅ぼした!後年の「弥生人の倭国!である日乃本連邦!」の指導者(搾取階級;公家)達が、「歴史を捻じ曲げる」ために、菅原道真の逸話!を利用して、"古代史改竄・捏造"をしただけです。

菅原道真は

菅原道真(845年8月1日〉→903年3月26日)は、平安時代の搾取階級・貴族・公家の出、で、政変に巻き込まれて九州の大宰府へ大宰員外帥(officer)として左遷?されて、現地で没したとされていますが...

大宰員Governor(chief executive officer)でありませんでしたが、大宰府の長官代理職(officer)であり、都(みやこ)で高い地位を得ていた道真にとっては左遷といえば左遷?ですが

...佐渡や隠岐へ流刑(島流し)に処せられた訳でもなく。

クーデター未遂事件の主犯?としては軽い処罰だったはずです。

つまり前途した様に政変に巻き込まれて失脚した!程度です。

但し、前途した様に平安中期の律令制(任官制度)が崩壊していたこの当時には、Governor(chief executive officer)でさえ目代を立てる時代に、単なるofficer(行政官)に就くためにわざわざ、都を離れて遠隔地に"ご本人"が赴く"仕来り"(制度)はもはやなくなっていたわけです!

そういう意味では、強制的に都落ち!させられて、防人の基地大宰府に、強制就任させられたのは、島送りに匹敵するくらいの"処分"だったでしょう!

更に、前途した様に中国唐王朝が滅亡する907年までは、「大宰府の防人の任務」は海外の侵略者から祖国を守るでもなく、中国唐王朝の冊封国(属国)として、九州南部の日向国・薩摩・隼人とのFrontier(冊)を南下させて、唐のTerritory拡大を担う"代理戦争"を行う任務だったわけです。

天満宮は道真着任以前から水の神として稲作耕作を行う各地にあった!

天満宮は道真以前の「ず~っと」昔の稲作が伝わった、縄文時代(紀元前!)から、「お稲荷」様とともに豊穣の天守神として、Chief(酋長・首長)の元に、shaman(祈禱師・霊能者!?)と民の信仰の対象となってきた鎮守です。

つまり天満宮のある地域には必ず!「田んぼ」が広がり、稲作が行われていたことがわかります!(※お稲荷さんも同様です、GoogleEarthモードでご覧ください。)

なので学問(文字文化)を広めるために"造営"された社(やしろ)ではありません!

つまり、後年の統治者(sovereign)が、shaman文化を駆逐?するために創作したfiction!にすぎません。

ついでに言えばこの時期(平安時代)に捏造された、各社寺の縁起には、fantasy(伝承・おとぎ話)をさらに改竄して、中央政権側(の特権階級;公家共)が、「民心をたぶらかす」ために、大胆に捏造!された神話が大多数を占めています!

第2目 恐れ多くも「お伊勢さん」も...

国粋主義者がよりどころとしている、天照坐皇大御神をお祭りしたとされる?伊勢神宮も、

天照坐皇大御神=邪馬台国の初代卑弥呼!であることは間違いないでしょうが...

元々卑弥呼自体が天守神に仕える自然崇拝の大巫女shaman(祈禱師・霊能者!?)であり!

「人を神格化」するのは、東照大権現(家康)等、仏教の影響が入った後年の風習!で、伊勢神宮創建のころにはなかった風習で、「天照坐皇大御神=邪馬台国の初代卑弥呼!をお祭りしている」というのは、出雲大社・鹿島神宮等の大社の縁起とともに平安時代に創作(捏造)された縁起でしょう!

つまり、お伊勢さんは古事記に始まる「神代の昔fantasy(おとぎ話)」に登場する現人神天照坐皇大御神をお祀りしたのではなく!

弥生人の連邦国家?「那の倭国」連邦(邪馬台国)を構成していた小国(部族)の、shaman(祈禱師・霊能者!?)がお祀りした天守神の"御社(おやしろ)の総社"日ノ本の鎮守"天守の神"」をお祀りしていると考えるのが妥当でしょう!

なので、東北大学の某教授の唱えるように、もう片方の勢力;縄文人の小国で構成されていた「蝦夷の倭国!」の氏神の総本社として、「鹿島神宮」があったのかもしれません?...

第5節 渡来人混血種・弥生人が作り出した「日ノ本!」の潮流!

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とかく現在の日本史研究家(古文書研究家・国文学者!)は、「話をすり替えて」稲作伝来を主眼にした農耕文化と、縄文人の狩猟・採取文化の「対比・利害得失」を主眼に、統一国家「日ノ本」形成論を論じますが...

観点を変えれば日本建国史は、「縄文人の"自然崇拝・シャーマン口述・伝承文化"と弥生人の"文字・宗教文化"の鬩ぎあい」といえるのではないでしょうか...

参※)当サイト内関連記事 東北での"先住民・縄文人 えみし 民族"と"渡来系混血・弥生人 大和民族 "との攻防の歴史... はこちら。

第0項 日本史の常識?古代・中世・近世とは

彼ら日本史創作家!・古文書愛好家共が、古代としている時代は、律令制度が確立して、倭国連邦が機能していた頃と、それ以前の石器時代も含めて一括りにして古代と称しているわけですが...

第1目 日本土着民族・縄文人による石器時代・前古代!

前途した様に、渡来人が漢字をもたらし、古文書(記述)をしたためだした石器時代の飛鳥・奈良時代、日本最初の古文書・古事記(712年)、日本書紀(720年)の"2大fantasy"が書き起こされ、その中で神代の時代」とされている時代が石器時代・前古代!と称されている訳です

第2目 仮説が定説・常識となり義務教育にもつながった日本史?

前途した様に、日本国の"生い立ち"をtrace(なぞる)する日本史創作家?の国文学者!達は、稲作と測量技術・土木技術(灌漑技術)、そして仏教と漢字を"伝来"させた、渡来人僧侶・技術者集団を受け入れた(ひきつれた)「弥生人」側の立場で見た、「上から目線!勝者の論理"仮説"」に則った「建国?のシナリオ」をぶち上げているわけですが...

「弥生人」渡来!以前から、数万年にも渡り日本列島に"定住"していたnative(土着)民族「縄文人」の文化(歴史)を否定している!わけでもあるわけです。

第3目 native japanese 縄文人

前途した様に、約1万2千年前に大陸と完全分離!された日本列島には、それ以前の約7万年前のころ、日本海(巨大湖)の南端と東端から、多くの動物とともに旧石器時代の現生人類ホモサピエンス(約20万年前に誕生)が渡来して、日本列島全域で「縄文人」として暮らしていたわけです。

第1項 渡来人集団・弥生人!が中心となった金石併用時代の古代!

これに対して、"西日本"に稲作を伝来させた「大陸(中国?)」と繋がりのある、渡来人集団"弥生人"の文化圏"が「那の倭国」連合国の"始祖"となる訳です。

第1目 古代の文化・経済圏「那の倭国連邦」(大和調停?)

現在、「那の倭国」連邦(大和政権(朝廷)支持派)は、瀬戸内海を国土軸?として、四方に勢力圏を広げていった結果、成立したのが統一国家「日ノ本」という、征服者の「上から目線("常識")」が大勢(学派)を占めているわけです。

第2目 弥生人文化圏(生活圏)の日本統一・国家基幹概念

古代における一つの区切りは、古代中国朝廷の冊封国(さくほうこく)属国化と、漢字・仏教文化伝来で、一つの節目が前途した大化の改新と大宝律令になる訳ですが...

明確な縄張りと統治者の概念

階級制度(農奴!)を伴う明確なdistrict(縄張り)分けとlord(領主)の概念が「那の倭国」連合(大和調停!政権)の基本概念でしょう。

そしてそれを支えた国土計画?のtrend,new waveの基幹をなすのが、渡来人が持ち込んだ以下の文化ではないでしょうか。

  • ●文字文化(漢字)と、仏教思想。
  • ●土木(河川改修)技術による"治水"conceptと、稲作(農耕)文化。
文字文化(漢字)と仏教思想

根幹をなす文字(漢字)と仏教思想の伝来が、古代を形作る「那の倭国」連合国(大和調停?)」を成立させた、原動力でしょう!

それまでの「自然崇拝」のshamanのお告げに下づく政(まつりごと)を基本とした自然発生的生活圏・集団から、

「文字による記述・明文化(文書)」による「lord(領主)の territory (利権範囲)」概念に基づく、階級文化圏・生活圏を基本とする、律令体制・郡県制に下ずくdistrict(令制国)体制に、移行していった訳です。

稲作と治水(河川改修)技術

大陸から伝来した稲作技術は、同時に治水・利水(灌漑技術)に繋がる土木技術(測量技術)と農耕を支える青銅器・鉄器も伝来させたわけです。

この青銅器・鉄器などの精錬技術、と土木技術のおかげで、倭国連邦(大和政権)が、各地に荘園(manor,plantation)を構えて、territory(実効支配地)を広げていけたのです。

(※但し、稲作は、弥生人の"那の倭国連合国"だけではなく、縄文人の蝦夷の倭国連合国!にも伝わっており、ということは、青銅器・鉄器もほぼ同時期に当時絶対多数派であった(とされる)、「蝦夷の倭国」連合にも伝わっていた!訳です。

同時に、渡来技術者が漢字も伝えていた!はずです。

つまり、その時点では、「両勢力が対等」というよりも、むしろ「蝦夷の倭国」のほうが人口で優位に立っていたのではないでしょうか?

但し「那の倭国連合」が石器時代から鼻先一つ飛び出せたのは...

Googl Mapをご覧の様に、"棚田""古墳""城跡"鉱山"には強い相関関係があります!

例えば九州では...

最後まで、日ノ本連邦勢力と激しく攻防を繰り広げていた薩摩・隼人両国では、連邦諸国の特徴である大規模"古墳"は見つかっていません?

更に国境に設けられた多くの砦跡(城跡)が、抵抗運動が激しかったことを物語っています

但し、城跡(砦跡)は必ずしも、古代に設けられたわけではなく、その後の中世・近世に為政者が"居城"(首都)として新築したものもありますが、いずれにせよ時代とともに「幾多の攻防」が繰り広げられた痕跡であることは間違いありません。

青銅器・鉄器製造技術の渡来

有名な別子銅山(現新居浜市)は後年の江戸時代(1690年)に発見されて鉱山開発が始まったり、古代には発見されていなかったわけですが...

701年大宝律令で鋳造された和同開珎と銅国産化

古代・瀬戸内運河?沿いに、展開していた「那の倭国」連合国時代(明日香・奈良時代・平安)の当初は、

瀬戸内連邦(大和調停政権)territoryで流通していた(青)銅器、や青銅刀、銅銭、などの大部分の銅製品はユーラシア大陸からの輸入製品でした。

前途した様に、稲作技術の伝承の為に来日した多くの技術者・僧侶の中には、古墳時代を象徴する埴輪などの土器を作る土師(はじ)とともに「鉱山技術者・冶金技術者」も含まれていたわけです。

「那の倭国連邦」は銅山開発!で先鞭を...

「大化の改新(645年)から(701年)の大宝律令発令」前後に、弥生人陣営「那の倭国連邦」では、渡来技術者(僧侶・学者)により「多くの銅山」が発見・開発されて、708年6月3日(和銅元年5月11日)の和同開珎(わどうかいちん)銭貨の発行に繋がり、

(国分寺制定に伴う)奈良の大仏建立(745年→752年)につながる、大量の銅と、金箔に用いる大量の"金"の完全国産化!が達成されたわけです。

長門国で相次いで鉱脈発見

600年代(7世紀)ごろには長門の国(現山口県)長登銅山で産出されています。

更に松崎銅山(現萩市) 大陸文化の入り口長門国の松崎八幡宮(650年、萩市)が建立されていて、それ以前から銅山があったとされています。さらに日本最初の鋳銭所がおかれていたとされています。

更に桜郷銅山跡(山口県山口市)が開発されて銅の国産化!が達成されています。

更に百年後の807年(大同2年)には吹屋銅山(岡山県)が開鉱(抗)されて、本格的な青銅器・鉄器農耕時代に入るわけです。

日本では同時に訪れ(渡来)た製鉄技術

前途した、光武帝の後漢(25年→西暦57年)時代から、遣隋使(600年→618年)、遣唐使(618年→907年)と続く長い"朝貢使"(使節団)の「臣下の礼」「朝貢」を支えた"外洋航路"用大型船。特に遣隋使の実現に一役買った「欠かせない技術」に製鉄による鉄板と犬釘があげられますが...

日本では、前途した同・青銅器の国産化(銅山開発)と同時に、砂鉄によるたたら製鉄の技術ももたらされたわけです。そしてこの技術は、後年の鎌倉武士の強さの秘密の一つ"日本刀"にもつながるわけです。

6世紀半ばの吉備地方に遡る...最初期には磁鉄鉱、6世紀後半からは...国内で調達が容易な砂鉄を原料とする...製鉄法は吉備地方から日本各地へ伝播した...日本の製鉄法は、炉の形状が特異で...大陸や朝鮮半島での製鉄では円筒形で高さのある炉が用いられているのに対し、吉備地方から伝わった製鉄法では箱型で高さの低い炉が用いられた...近年の発掘、研究の進展によって、福岡県福岡市の博多遺跡群や、長崎県壱岐のカラカミ遺跡などでは、弥生時代の製鉄遺跡と思われる痕跡が相次いで見つかっている。《日本語ウィキペディアより引用

これらの技術は、正式な"朝貢使"(使節団)が途絶えていた期間中も、体系化(完成)された漢字とともに、

「渡来技術者により伝えられ」その後「日本列島独自の進化を遂げた!と考えられています。

後れを取った「蝦夷の倭国」

一方、仏教布教(導入)にあまり熱心ではなく、したがって僧侶(技術者・学者)の受け入れに消極的?だった「蝦夷の倭国」側では鉱山(銅・錫・鉛)などの鉱山開発(発見)が遅れ、これらの「金属の国産化」が遅れたのが致命的だったのではないでしょうか。

つまり、自然崇拝のshaman(祈禱師・霊能者!?)とChief(酋長・首長)による民主的な社会では、生産性もあまり向上しなく、相変わらず、狩猟・採取と稲作の兼業農家!?存続していたのでしょう。

第3目 弥生人の国・日乃本連邦の武器は飴(稲作)と鞭(服従)

「邪馬台国→日乃本」と続く弥生人の「那の倭国連合国家!」は、縄文人の「蝦夷の倭国」連合に、勢力圏を広めるために、食料の安定確保に通じる稲作技術(高度な灌漑技術)と鞭(身分制度・農奴)政策をとったわけです。

つまり、採取・狩猟民族だった、縄文人に測量技術(灌漑技術)を伝授する代わりに、中央政権(連邦政府)への服従(隷属)を迫ったわけです。

それまでshaman(祈禱師・霊能者!?)のお告げに従い、Chief(酋長)を中心に、民主的!に暮らしていた旧石器人(縄文人)が、食料(稲)に吊り上げられて弥生人連邦国家の公家(搾取階級)の荘園(colony)に隷属する付属品の農奴!にされたわけです。

第2項 東北での柵の一進一退は

前途した様に、後漢の金印・印綬以来日本列島唯一の政権であることに「大国のお墨付き」を得た「那の倭国連合」は、(朝鮮半島から逃げ延びた!職工(土師、鍛冶職人)を別にして)技術者・僧侶・学者等の留学生・渡来人を独占して文明開化!を行い、東日本・東北の「蝦夷の倭国」連合国に対する宗主国(中華王朝)の鎖国により、技術停滞!を誘発させて、優勢に立ち「蝦夷の倭国連合」を構成する「小国(部族)を「虱潰し」に陥落!させて、次第にTerritoryを拡大して、じわじわと冊(boundary)=Frontier北限を広げていった訳です。

第1目 当時の縄文人・蝦夷民族とは

以下の特質をもちわせていたのではないでしょうか...

  • ●一つ)縄文人勢力「蝦夷の倭国」陣営にも文字(漢字)仏教文化は伝来していたが受け入れを拒んだ!
  • ●一つ)狩猟・採取を掛け持つ持つ女性shaman(祈禱師)による自然崇拝部を守り継ぐ兼業農民!?だった。

第2目 稲の品種改良が進まないと気候は克服できない!

当時の農耕具の技術革新(石器→鉄刃併用木質農機)だけに頼る(品種改良が進んでいない古代米による)稲作では、飢餓を引き起こす天変地異(干ばつ・冷害)までもは防ぎようが無かった!わけです。

なので、8世紀末から9世紀初頭にかけて、現秋田県を,めぐるFrontier(柵)の一進一退攻防戦が起こり、田村麻呂の陸奥派兵に繋がり、蝦夷(エミシ)勢力のChief(酋長・首長)公阿弖利爲(アテルイ)とshaman(祈禱師・霊能者!?)盤具公母礼(モレ)の反乱軍?500余人の討伐に繋がった訳です。

ここで、大事なのは、「反乱に至った原因は、天変地異(気候変動)による飢饉・飢饉ではなかったか?」という点です。

前途した様に、「稲の品種改良」が進んでいない当時は、いくら陸稲系の古代米でも...

干ばつ、冷害には弱く!、何らかの事情(火山噴火?)などで、気候が変化して温暖でなくなると、稲作district(地域)が大打撃を受けて、荘園が撤退して、柵が後退!して、代わって狩猟・採取と稲作を兼業!していた蝦夷族が勢力を拡大したのでしょう!

集落跡(遺跡)の発掘調査が待たれる!

集落跡(遺跡)の発掘調査が行われれば判明する史実ですが...

802年1月9日の田村麻呂の陸奥派兵は、前世紀末から続いた火山活動などによる「気候の小変動」による、凶作で「稲作を主とする荘園」が放棄!されて、柵が後退(撤退)していたのではないでしょうか...

9世紀初頭になり、気候が"小康状態"となったので、再び弥生陣営が荘園奪還(再開発!)に乗り出すために、田村麻呂を征夷大将軍!に任命し、討伐軍を派兵して一気にTerritory奪取に乗り出し、冊;Frontierを本州末端まで北上させたのでしょう!

但しこの後も、飢饉が原因と考えられる「反乱」が度々繰り返されて、その都度、弥生人連合が討伐軍を編成してかの地に派兵しています。

第3項 元祖日ノ本連合国のTerritoryは

GooglMapが教えてくれる日ノ本連邦の足跡

第1目 ポイントは天神様・御稲荷様、砦跡と古墳!

前途した様に歴史屋!はロマン(英雄)を求めて、"古文書"(記述)に拘りますが...

実際(考古学的には)天満宮・八幡宮!城跡(砦跡)と古墳(地方王族墳墓)が重要ではないでしょうか...

天満宮・八幡宮が存在するzoneは稲作地帯!

前途した天満宮・八幡宮が散在するzone(地域)では稲作が!行われていたわけです。

城跡・砦跡が多いのは重要拠点・重要街道だった証!

砦跡が多い都市・街道は、那の倭国連邦・加盟共和国のlord(領主)にとって、死守!すべき重要拠点(都市)・重要街道だったということです。

古墳

王族の墳墓・古墳自体は全国に散見されていて、日本列島ほぼ全域に王族!(小国)が存在していたことがうかがえます!

王族の墳墓・古墳があるということは、"傀儡"ではない、地元出身の部族のChief(酋長・首長)とshaman(祈禱師)が居た!いうことで、中央政権の公家(搾取階級・官吏)や寺社のmanor,plantation(荘園)ではなかった!ということです。

特に西日本では、当初から(弥生人)が広めた"稲作"文化があった、「那の倭国」弥生人連邦国家「邪馬台国連邦」の"発起人達Chief(族長)の領地"であった可能性が高いわけです。

Governor(代官)も含めて傀儡 lord(領主)が統治していたエリアには地方王族の大墳墓、特に前方後円墳はあまり見受けられません

前方後円墳の北限

前方後円墳

(古墳・墳墓は)日本列島に広く分布し、その数は約4,800基、あるいは約5,200基ともいわれる。前方後円墳の存在が明確でないのは、北方では北海道・青森県・秋田県、南方では沖縄県の計4道県にすぎない。《日本語ウィキペディアより引用

弥生人連邦か・縄文人連邦か判断が難しい茨木県(常陸国)千葉(上総・下総国」)・埼玉!(上野・下野国)では、王族の陵墓;古墳(しかも前方後円墳!)が多く確認されています。

ということは、もともと地元部族のChief(酋長・首長・王)のdistrict(領地)だったことになりますが、

前途した東北大学教授の説の通り、縄文人文化圏「蝦夷の倭国」連合のTerritory(実効支配地)であったかどうかは...

★第4項 国割・国分けは「民の営み・暮らし向き」が重要!

国割(行政区分)には「民の営み・暮らし向き」の反映が大事な要素となります!

つまり、人口が増えだすと、自給自足だけでは「民の営み・暮らし向き」が成立できなくなります。

狩猟・採取民族の縄文人にしろ、農耕専業の弥生人にしろ、部族のTerritory内だけでは(自給自足)賄え切れずに、交易が必要となってきます。

特に、岩塩がほとんど産出しないわが日ノ本では、"塩"の入手が問題となります。

中世・室町時代後期の乱世!の時代に、「武田信玄が遠江国に南下して駿河湾に出たがった」のはまさにLogistics (兵站)・Logistics (兵站)・Salt road(塩の道)確保のためでした。

第6節 冊封から解かれて後ろ盾を無くした朝廷に取って代わった関東(蝦夷?)武士団!

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前途した様に、倭国連邦の貴族化が進み、lord(領主)がa ruler(為政者)として直接任地に赴かず都に留まり、地方へ代官職(agent,)として目代(administrator )を差し向けるようになり、律令制が形骸化していったわけですが、

もともと律令制の下で地方に差し向けられていた代官職(agent,)や、地元で雇用されて"雇人"だった地方豪族(武家)が権力を強めて、律令制の下で国司(Governor)を担っていた公家(地方出身豪族の末裔:the exploited classes)の権威が有名無実化!してついに「律令制が崩壊!」したわけです。

別の見方をすれば、後ろ盾(宗主国中毒王朝"唐")を無くした政権(朝廷)が武家を抑えられないようになった!ともいえるわけです。

第1項 関東の「武装集団・武家」の統領・源頼朝は"蝦夷"の反逆者?だった

弥生人政権の朝廷が、1189年に関東武士団の統領(Chief)頼朝を、「"征夷大将軍"に任じて19万!?もの大軍を率いて「奥州藤原氏」討伐!に向かわせた」ことになっていますが?...

頼朝と家臣団は、もともと関東武士団つまりは「縄文人・蝦夷の倭国」の末裔たち!です。

一連の鎌倉幕府による"政変"は、関東武士団(蝦夷)の弥生人政権・朝廷に対する"反逆行為"なのではないでしょうか?

つまりは、縄文人・蝦夷の血を引く頼朝が、再び「縄文人を結集!」して、「蝦夷の倭国・鎌倉幕府!」を開幕して「那の倭国・弥生人朝廷」勢力と対峙したのでしょう。

後述するように、坂の上田村麻呂の東北制覇!以来、東日本・東北は「俘囚の長」(朝廷寝返り蝦夷)達がcontrol(支配)してきたわけです。

そして、「奥州の京」といわれた平泉で「公家同様の貴族(the exploited classes;特権階級)として平安文化!」を享受していたわけです!

彼(頼朝)が奥州討伐を思い立った!のは、対立する弟・義経を匿ったことを口実!に、「弥生人の建てた平安貴族政権"朝廷"のTerritoryを、縄文人(蝦夷)が奪還!するために挙兵した!」と考えるほうが自然!です。

そうでなければ、代々"蝦夷の血"を継ぐ関東武士団が手勢に加わるはずがありません!

第1目 奥州藤原氏は王朝文化に毒された朝廷の手先「俘囚の長」(寝返り蝦夷!)だった

この頃になるとagent,として雇われたが目代が自ら開墾した「荘園の私有」も認められ、地方豪族(武装集団)の勢力が拡大しました。

当時はこのように"目代"や国司に対する中央政権の搾取階級・特権階級の公家や大王(おおきみ)の統率力は低下していました。

そして大和国の大王に服属する「俘囚の長」と呼ばれた、蝦夷の弥生人政権「寝返り組」の雇われ目代の権力(武力)は次第に強大になっていきました。

注※40)ここで疑問(矛盾)が生じるのが、"後"に朝廷側によって起草された公式戦記?(古文書)に記されていますが...19万!?もの大軍をどうやって、遠征・布陣させたか?!です。

英雄伝説大好きの歴史屋!と「鉄オタ」は何ら疑問を抱かないのでしょうが...

前九年の役(1051年→ 1062年)の源頼義か"三千ばかりの手兵"を行軍させれたのは、「多少のサバ読み(水増し)」を考慮しても納得の行く数値ですし、援軍の奥州藤原の援軍一万余!も、多少の水増しはあったとしても、移動距離(行軍距離)から考えて妥当!でしょう。

遠路はるばる19万人の大軍勢の行軍となると...

しかし、遠路はるばる19万!の大軍を、数週間もかけて遠征させるとなると、行軍に関するlogistics(兵站)の問題を抱えることとなります。

いくら、梅干し・干飯などの携帯食だとしても、19万人と、軍馬の消費する兵糧!は膨大な量!となります。

これだけの、兵糧!と兵器(弓矢)を荷車の車列(荷駄)でカバーしようとしても、当時のtraffic(往還網)では不可能です!

奈良時代には日乃本連合のTerritoryには立派な往還が整備されていたが...

奈良時代には日乃本連合Territoryに、(幅の広い、排水設備の完備した立派な往還)早馬伝令路が整備されて、通信(書状)は確保されていましたが...

とりあえず最短距離「直線」を優先したために、山野の起伏部でも直線で結び、斜面がきつく、とても荷駄(大八車、牛舎)logistics(兵站)に使用できるような代物ではありませんでした。

しかも、時代が下って12世紀にもなると、往還道は完全に廃れて山野に戻っていました!

当時のtrafficでは不可能!

つまり19万人の話半分!の10万人の軍勢だとしても、実際の遠征(行軍)を考えてみると、当時のtraffic(往還路;街道)では不可能!だったのではないでしょうか!?

仮に?沿道の日ノ本連邦側の"荘園管理者(地頭)"の全面協力があったとしても、

奥州まで荘園(集落)が連なっているわけでもなく...

長期に渡る遠征(行軍)は不可能!だったはずです。

しかもすべて頼朝"直参"の手勢・家臣団と、頼朝政権に賛同した関東武家集団で賄った???ことになっていますから...

更に当時の日乃本の全人口は、現在に比べて桁違いに少なかった!わけで、いくら関東全域から挙兵させたとしても、19万人もの大軍勢の記述は、後に戦記(古文書・行軍記)を編纂した「勝者側の創作家!」の大法螺(ホラ)話!でしょう。

つまり現在の歴史屋!(国文学者・古文書研究家?)が論拠とする"古文書"とはその程度の「きわめて信憑性に欠けた・考証されていない贋物・創作私文書」が多くを占めているわけです。

第2項 律令制に取って代わった武家法!

日本列島全域では、東北に限らず、新生・弥生人勢力と先住民・縄文人勢力の融和!は進んでいませんでした!

武家の統領・征夷大将軍?頼朝が、律令制(郡県制の国司)に代わる、任官制度(武家法)に下く守護・地頭の任官権!弥生人政権・朝廷が認める条件!で征夷大将軍?!を引き受けたわけです。

その後鎌倉幕府を開き(1192年)武家法"を制定して、守護大名(Governor)や地頭(administrator ;管理者)(※51)等の新たな官吏職を任官して、旧来の律令制に基づく国司を排斥していった訳です。

参※51)在京の公家共から奪い取った荘園(manor)は、相変わらず個人(武力集団統領)の"所有物"で、農民も農奴のままで、荘園の付属品!として厳しく管理され、時には売買(譲渡)の対象物「可処分資産」として扱われていました。

将軍職の有名無実化!と武家法(法度)の崩壊で戦国時代!

中世においても、古代の律令制社会と同じように、中央政権の貴族化!(the exploited classes;特権階級化)が進行しました!

つまり、地方豪族(a ruler)の台頭で、地方自治!?が再び隆盛し、幕府の発言力(leadership;統率力)が無くなった!わけです。

所領を私有化するに至った地頭(荘園領主)は次第に、勢力拡大を図り、守護(Governor)の影響力を排除し、守護の存在をも脅かすような武装集団となりました!

そして中央政権とは乖離して、独自の自治を歩むようになったわけです。

鎌倉幕府の重鎮だった足利家

後の室町幕府を開いた足利尊氏は、鎌倉幕府の重鎮である源氏の系統つまりは「蝦夷の末裔」ですが、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府軍の大将を務めて以来、有名な元弘の乱(1331年)で総大将を引き受けたのをきっかけに正式上洛して室町幕府を起こすわけです。

但し、室町時代になると、当初は朝廷(中央政権)を無視!していた足利氏も朝廷について!貴族化して行き、もはや地方を掌握できる力(leadership)は無くなり、群雄割拠する戦国時代に突入した!わけです。

第3項 瀬戸内連合崩壊後の四国と幕藩体制の基礎を作った豊臣秀吉

信長暗殺事件!後に秀吉の野望は膨らみ、長曾我部氏が四国統一に乗り出した際には秀吉に対して「三好氏」からの救援要請はあったにせよ...

長曾我部氏の四国統一!後に、征服欲の強い秀吉が、四国制覇に乗り出したわけです。

ここで、大事なのは「民の期待・要望」で"四国遠征が行われた"のではなく、単なる彼の征服欲で四国遠征が行われた事実です。

事実、秀吉の四国制覇後には、長曾我部氏(とその家臣団)は土佐一国に押し戻され、伊予・讃岐・阿波各国は以前にもまして細分化されて秀吉家臣団に与えられ、

その後家康の江戸時代になり、家康所縁の譜代大名が再配置されて、各国間の番屋・関所での、一般人の通行は室町末期(戦国時代)以上に厳しく制限されるようになったわけです。

土佐と「士農工商」の概念・観念

封建社会とされる江戸時代の「士農工商」概念・観念はある意味、当時の四国の世情にあっていた部分もあります。

江戸時代300年を通じて山之内家が統治していた土佐藩では

幕末に多数の志士を輩出した土佐藩は、江戸時代300年を通じて、山之内家が統治していたわけですが...

土佐藩では、初めて"四国統一"を果たした旧領主長曾我部氏の"家臣"団も積極的に?登用していたわけです。

彼ら元長曾我部家臣団は、荘園を与えられた荘園主であると同時に、"豪農"!の一面も持っていたわけです。

更に下級武士は"兼業農家"も多かったわけです。

彼らが、四国全土統一を成し遂げたのは、"武力"だけではなく、稲作が渡来した古代国家連合の時代から続く「荘園(農奴)制度」を敷く領主から「農民を解放」して、

解放したdistrictで「人の往来(交易と転入・転出)の規制を"緩め"」て、地域経済(民の営み・暮らし向き)を活性化させたいった!からでしょう、

なのでその後の新政府の北海道開拓・屯田兵制度の採用時にも、元土佐藩士の抵抗が少なかったのもこのためです。

当時吉野川流域を牛耳っていた三好氏を討ち果たし四国統一を成し遂げた際にも、

兵(団)を動かし、陣を構えるには兵糧が必要となり、

本拠地土佐から長いlogistics(兵站路)が必要だったわけで、「沿道の協力」が無ければ、「兵を動かすことも、陣を張ることも」できなかったわけです。

第4項 更に江戸時代太平の世?になると

第1目 江戸時代の入り組み支配と寺社領

時代が下って、江戸幕府が成立すると、各地の反乱を恐れた幕府は、難癖をつけては「外様大名」の改易転封(国替え)を行い、支配していた領地を「召し上げ」て幕府の直轄地(天領・旗本領)としたり、譜代大名に任せたわけです。

更に領地そのものを「集落単位の細かなterritory(所領)」に分けて、「旗本・譜代」のterritory(知行地)とする、「入り組み支配」といわれる、反乱防止策をとりました。

."民の営み暮らし向き"で決まる生活圏

利権・既得権益にしがみつく現在の為政者!は、歴史マニア(有識者・郷土史研究家?)を"擁して"、「古文書」にしたためられた記述を"錦の御旗"にして、現状の地方自治法(律令制度・郡県制)に下ずく自治体テリトリーを正当化しようとして必死の様ですが...

番屋(関所)は重要往還路(街道)にある

番屋(関所)は、往来(交易)が盛んであった主要交易路!を、厳しく規制するための検問所として設けられたものです。

つまり逆説的には、太平の世?(江戸幕府)になった後も、「番屋があった」ということは重要なtraffic(往還)だった証(あかし)です。

又江戸時代になると、国政の中心江戸⇔天下の台所「なにわ」を結ぶ物流は西回り廻船(開運)が主流となり、同じように、瀬戸内運河?沿いを結ぶ瀬戸内航路。

なにわ⇔下関⇔長門⇔敦賀⇔加賀⇔富山⇔庄内⇔秋田⇔新潟⇔津軽⇔松前を結ぶ北回り廻船が物流(年貢米・海産物)の荷駄を引き受けていたわけです。

第2目 物流の発達で新たな権益が

造船技術の発達により、大型帆船が航行されるようになると、各地で、船主(運輸業者)と藩(家老)との癒着(贈賄)が問題となったわけです。

当時は、米・塩などの、田(水田・塩田)で収穫される作物?と関所・番屋などの通行に課金(年貢・課税徴収)していたので、「商いの利益」そのものに対する事業税は設けられてなく、

むしろ藩の財政を支える「大事な(融資を行ってくれる)金融業」の側面を持っていたわけです。

第3目 天下の台所と呼ばれた"なにわ"

この年貢の一大集積地が"なにわ"であり各藩の米蔵と、米問屋・両替商・等の豪商が集まって、いたので「天下の台所」と呼ばれていて、日本経済の中心地だったわけです。

つまり、封建制の概念・観念では、「民の営み・暮らし向き」は成立しなくなり、産業革命とは関係なく「資本経済」の時代となっていたわけです。

エピローグ 観念で騙ろうとする歴史(治世・統治史)の矛盾!とは... 

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各歴史書?を見る限り、冒頭で述べた「武力を背景」とした英雄(強権・)志向ファンタジーや、歴史上の"思想家"が唱えた観念論・概念論が、幅を利かせているようですが...

第1項 律令制(郡県制)・封建制などという「統治用語(観念)」では...

ある「特定の制度・風習」の存在を取り上げて、律令制(郡県制)・封建制などという「用語(観念・観念)で論じても、「重複する要素」があり、明確には"分類"できないわけです。

つまり、日本の歴史学者?の主流"学閥"は、ある「 district(地域)」をTerritory(縄張り!)

として支配・統治していた領主・統領の存在を"封建制度"と呼び、律令制つまり国司等のadministrator (管理者)・Governor(地方長官)を配置していた律令制時代を、郡県制と称しているわけですが、

これでは、各地方の領主・統領・豪族( lord)が独自にTerritory(実効支配地)を確保していた古代・石器時代も、(稲作文化と文字文化で繋がった各共和国で成り立った)倭国連邦成立後の、大化の改新・律令制導入・「日乃本」声明と繋がった一連の流れも、(領主による)封建制度ということになり、私有地・荘園(農奴)を認めた律令制も、封建制度ということになってしまいます。

第1目 綺麗ごとですまそうとしても...

  • ●古代日本列島は、女性shaman(司宰)が司る自然崇拝の民が暮らす地だった。
  • ●古代日本には統一国家は無かった!
  • ●中国王朝の傀儡政・弥生人政権は長らく冊封国(属国)を受け入れた。
  • ●(中国王朝の覇権)虎の威を借りて、縄文人勢力圏を侵略した!
  • ●(紙の伝来とともに始まった)文書文化!を取り入れた弥生人が、(口承・伝承文化の)文盲!縄文人征服した

先述したように、上記に掲げた5つの前提を"ひた隠し"にして、日本史を「綺麗ごとで済まそう」としても、各歴史のターニングポイントで生じた"内政問題・外交問題"をうまく説明できない!わけです。

邪馬台国成立→大和朝廷の台頭(律令制統一国家?誕生)→封建制度(地方豪族・武家支配の中世・近世)→明治新政府(立憲制による律令制の再興)などと、律令制と封建制などという国家体制(内政問題)だけでは上手く説明がつかなくなって終って!います。

第2項 数万年に渡る古代史の解明には幅広い学問分野での論議が必要

日本の歴史屋?国文学者(創作家・評論家・思想家・有識者?)が無理やりこじつけた、概念・観念論では、矛盾だらけ!で説明が付かな無い事象(史実)と成って終います!

geopolitics(地政学)(※99)の概念と、生物科学(遺伝子工学)、医学(解剖学・骨相学)、等々広範囲にわたる関連研究で、「一連の文化・文明の流れ」つまり歴史を客観的にとらえる必要があるのではないでしょうか!

参※99)当サイト内関連記事 地政学・geopoliticsの"概念"とは... はこちら。

第1目 「気候変動」には地球物理学・気象学・天文学迄も絡む!

例えば、第4節で述べた、気候変動(日照り(渇水)・洪水・冷害)による飢饉の原因「気候変動」の要因としては...

  • ●太陽の(黒点)活動周期による小変動。
  • ●約10万年周期(確率)といわれる"小惑星衝突"による全世界的な、氷河期寒氷期
  • ●プレートテクトロニクスによる大陸移動と火山活動(噴煙)による気候変動・寒氷期
  • ●地球温暖化!の2次的変化で起こる「海流の変化!」が影響した気候変動で生じる、巨大低気圧(台風)による水害

等など約7万年前にさかのぼる、日本列島の先住民・縄文人の長い古代史!を解き明かすには、古文書に記された「神話・おとぎ話」の世界だけでは解明できない「多くの謎」が残されてしまうわけです。

第2目 神話には「民(たみ)の営み・くいらし向き」が反映されて無い!

「民の営み暮らし向き」つまり地政学(※99)の観点が欠けている!のではないでしょうか?...

地理学を基本とした、地球科学、気象学、地学(地層学)天文学!、traffic network(往還)と生活圏(経済学)、logistics(兵站)、文化人類学!、思想史(宗教史)、生活科学、などの相関関係を総合的に関連付けて、その時代・時節の「民の営み暮らし向き」を幅広く検討・考察する「地政学」の観点が必要でしょう。

つまり考古学者が行っている「冷めたスタンス」で客観的に日本史を語る必要があるでしょう。

なので本稿では、「民の営み・暮らし向き」にスポットを当てて、多方面から眺めた日本史を推理!してみたわけです。

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《歴史ファンタジー》関連特集記事のご案内 

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後書き《 geopolitics と logistics 》シリーズについて

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当シリーズではLogistics(兵站)とGeopolitics(地政学)に関する"話題"を取り上げていますが...

同時に現状の"垢にまみれた人達"が推し進めている、初等・中等教育についても"問題を投げかけ"ている!

つもりです。

ポイント切り替えを誤った"狂育路線"が...

つまり、現行の大学入試を目指した「記憶力」に頼る"年表重視"の、歴史書・歴史教育では、「歴史的事実」が個別事柄として語られている場合が殆どです。

1番大事な「なぜそうなったのか?」と言う「相互間の因果関係・相関関係」が語られれいない場合が殆どで、「年号記憶」に終始しているわけです。

これでは、義務教育・高校教育を含めた一貫教育課程の「地理・歴史」が面白く無くて当然です!

更に初等数学・初等科学教育(理科)においても

与えられた課題解決には幾通りもの"論理過程"があり、更に条件付け次第では"いくつもの解"も存在!します。

特に現状の初等教育における"算数教育"では、日凶素患部が干渉した検定教科書?に記載された「1つの論理過程、一つの解」である模範解答を金科玉条のごとく押し付けて!います。

これでは日常の問題に即応した「臨機応変な思考力」身に着けることはできません!

地政学そのものについて迄「枠にはめよう」!と...

最近、地政学アナリストを装った"正体不明の人物(団体?)"が、「判りやすい地政学入門シリーズ」と称して、Youtubeに"静止画投稿"を始めましたが...

彼らは「日本における「地政学」(独: Geopolitik)の学説」を盾に、地政学を狭い範囲に押し込んで、「広い意味での地政学geopolitics」から関心をそらそうとプロパガンダ!しています。

geopoliticsはborder(国境)territory(実効支配地)のlife lineであるtraffic networkつまりはlogistics(兵站学)とも密接に結びついていて、国防と密接な関係!にもあるわけです。

なので、USAでさえ時代(政権)によっては、"迫害"を受けてきた研究分野!でもあるわけです。

更に、その成り立ちから、戦後の日本では「垢にまみれた狂育者たちに毛嫌いされてきた"研究分野"」でもありますが...

地政学には学会は存在しない!

更に、世界的に統一された学会・協会(特殊法人)も存在しません!

(※NPO法人 国際地政学研究所はあるようですが)

日本では地理学の一分野とされているようです。

つまり前途したように、"研究分野(Theme)"ではありますが、一部の"職者?(思想家)"が唱えている様な狭義の「単なる学説」に則った"学問分野"ではありません!

地理学、経済論(経済学)、文明論(文化人類学・歴史研究・言語研究・政治学・社会学)、思想論(哲学・宗教)、心理学!(群集心理)にまで跨る、

「民の営み・暮らし向き」文化圏・生活圏・経済圏どうしの"相関関係"を、為政者(国家権力)間の力関係(軍事力)ではなく、communityどうしの相関関係で解き明かそうとする"実践論"の研究Theme"なのす。

つまり、小生が属していた"非破壊検査協会"のような多方面の学問分野に跨る"応用研究分野・実践論"なのです。

つまり、♥"タブーの無い自由な発想"を展開できる研究分野!なのです。

なので中共でもっとも進んでいる!研究Themeでもあるわけです。

"彼ら"中国人民政治協商会議中国共産党中央統一戦線工作部)にとって日本の地理学会の活動は、脅威でもあり・目障り!でもあるわけです。

つまり、単なる"学説"をネタに地理学会を分裂させて、このThemeに対する"日本の研究"をカオス(混沌)に導いて自らの優位性を維持しようとしているわけです!

明日を担う未成年層に、世界を知ることで日本の鉄道網の将来の姿を考える大人に育つように...

当シリーズでは、日本の鉄道網を中心に、日本国内事情だけではなく「人類皆兄弟!」が営む「地球規模での国家間の力関係(軍事力)、相互干渉(外交関係)」から考察して、21世紀の日本のLogistics、transportation(運輸)、Transport network のあるべき姿を探っています。

同時に未成年の「鉄オタ」や、某国のプロパガンダに乗せられた一部のお気楽な運輸族代議士が"ぶち上げた馬鹿げた整備新幹線建設推進プロジェクト妄想"に踊らされないで済むように、

「大きな視野・世界観」に下ずいて、鉄道事業を冷静に"俯瞰"出来る「常識を兼ね備えた、ビジョンのある"大人"に育つ」ことを願って寄稿しています。

勿論小生は右翼(金権慾?)ではありませんが...

赤(垢)にまみれた日凶祖?の教職員や、それを先導(煽動)している研究者・大学教員・教育アナリスト?たちのような"頭空っぽの理想酒義?者"でもありません!

次世代を担ってくれるはず?の"脳天気な若者たち"と、金権慾"にまみれた"お気楽な運輸族"の発言・政治活動と、その手先にされている「鉄道傾YouTuber」のコンテンツを眺めていて、日本の行く末を案じているだけです!

狸穴総研 地理学研究班 出自多留狸

英単語の"多用"と"古文書"に使用される用語の解釈について

義務教育では日本語圏?の部族をまとめて大和民族・日本民族として、古来より"統一国家"を形成してきたかのように、"洗脳狂育"を行っていますが...

これは、いまだ隣国を牛耳っている(元・両班(ヤンパン)共(※01)が大半を占める)「学閥」がプロパガンダしている「fantasy!(おとぎ話)」と大差ありません。

我が日本国の始祖(那の倭国;邪馬台国)は、はっきり言ってEUのような寄り合い所帯で成立した連合体?であり、president, chairmanに当たる

representative(総代)はいても、絶対的権力者emperor(皇帝)は居ませんでした!

参※01)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国国民と日韓関係 はこちら。

第1目 古文書研究屋?と鉄オタの共通点とは...

日本史を操っている"歴史屋!"は元来が古文書を紐解くことを生業(なりわい)とする国文学者!なので、専門用語(古文書中の正式表現・業界用語?)がお好き!です。つまり専門用語を吐きまくる「鉄オタ」と同じなわけです。

さらに歴史屋(国文学者)と「鉄道オタク」の共通点であり最大の弱点は、地理に疎い!ことです。

彼らが根拠にする"古文書"は三国志日本書紀の様に、後年になってから「英雄・偉人伝説」に下ずいて"創作"された、epic(叙事詩)が大半です。

"台帳"などの実用・実務記録に関する古文書は軽んじています!つまり「おとぎ話大好き人間なのです。

つまり一般人と同じく司馬遼太郎を「歴史フィクション作家!」として評価するではなく、「歴史学者」として祭り上げてしまう過ち!に陥りやすい人たちです。

英単語を多用する理由は...

専門用語、特に歴史用語は、時々の為政者が都合の良い"造語"を編み出して、"文書"に使用しているために、"同異義語"が多く煩雑すぎる傾向にあります!

なので、"あいまい"かつ煩雑な表現"を避ける意味で、"事柄の性格"を的確に表す同意語の英単語を多用しています。

つまり国司・守護・藩主などの表現は、異なる時代の「時の政権が明文化した制度」の下に、任官された職種(専門用語)で、実態(権限)は≒といえます。

日本語表現(単語)は前後関係に依存する場合が多い

更に日本語の表現(単語)は前後関係に依存する場合が多いために、一つの単語が多くの異なる事柄を示す場合がおうおうにしてあります。

例えば"地域"に関連する形容の英単語は

  • ●area(ほとんど手付かずの原野・空地!
  • ●region(漠然とした地方・一帯
  • ●zone(共通の条件;気象条件・河川流域・穀倉地帯・工業地帯などの同一条件を備えた地域
  • ●district(明確に区切られた,行政区などの区域!

などに細かく分かれているわけですが...

日本語特に外来語起因のカタカナ単語では、「地域」を指す英単語localが、rural(田舎・田園地帯)と混同されて、本来は形容詞のregional (地方の)を用いるべき、regional line(地方交通線)や、rural line(田園路線)をローカル路線や酷い場合は、「地方ローカル線の旅」などと、(マスコミの連中は)蛇足表現を平気で用いています!

つまりカタカナ外来語と、本来の英単語の意味がずれて終っている訳です。

a tribe(部族)間、国家間の縄張りに関する表現は
  • ●Territory(実効支配地)
  • ●boundary(境界)
  • ●Frontier(Territoryのboundary)
  • ●border(主権国家間の国境)

として明確にしています。

その他のTerritory;所領・領土(実効支配地)に関する用語では
  • ●colony(植民地)
  • ●manor,plantation(荘園)
  • ●Dominion(イギリス帝国時代の自治領)※つまり中国王朝の"属国"であった当時の大和王国連合は一応自治を認められていたのでDominionということになります。
  • ●emirate(首長国)
権威を表す表現としては
  • ●emperor;皇帝
  • ●king;王
  • ●sovereign;元首,君主,統治者
  • ● lord;領主
  • ●Chief;首長・族長・酋長
  • ●shaman;司宰・祈禱師・霊能者!?
  • ●a ruler;為政者
  • ●the exploited classes;搾取階級、特権階級、貴族階級=公家
組織上の立場
  • ●president(主宰者・大統領・総統)
  • ●leader(引率者・座長)
  • ●representative(総代)
  • ●chairman(会長・議長)
職制を表す表現としては
  • ●Governor(chief executive officer):(官吏・役職としての)国司・守護・藩主・知事・総督
  • ●officer;行政長官は(※例えば大宰府転勤後の菅原道真の職制はofficerとなります)
  • ●administrator (管理者)
  • ●agent;代理人(目代・城代・代官・地頭 はadministrator であると同時にagentでもあったわけです)
  • ●manor owner(plantation owner);荘園主(室町幕府末期の"地頭"
又古文書記述用語は、できるだけ現代語・日常口語表現に口語訳?しています
  • 印綬;冊封国(属国)の認証印!を授かること。
  • ●"朝貢使";冊封国(属国)として、宗主国である中国王朝へ「臣下の礼」をとるための朝貢に覇権された外交使節団!

なので属国を示す冊封国(さくほうこく)"冊"はFrontierが正しく、borderではありません。

東北などで繰り広げられた出羽柵などの冊を巡る攻防戦はFrontierを巡るTerritory!争奪戦!だったことになります。

国文学者が「冊=中国王朝のFrontier」であると認めない理由は...

日本語ウィキペディアの起筆者などの歴史屋!は国粋主義者!国文学者が多く大和朝廷(政権)が、

「宗主国・中国朝廷の"属国"としてのお墨付きを得て、唐王朝のTerritory!拡大のための代理戦争!をしていた」ことを認める!ことになると、

日ノ本政権・大和朝廷の主権国家説(独立国!説)崩れてしまうためです!

あえて「柵は建造物として設けられていた施設であり、概念的なFrontierでは無い???」と唱えているわけです...

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公開:2022年12月21日
更新:2023年2月 8日

投稿者:デジタヌ

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