狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

東北にみる自然崇拝"シャーマン伝承文化"の先住民・蝦夷と、"文書文化"の新生・弥生人の鬩ぎあいとは...

前書き(要約)歴史は"書き換え"できてもDNAは書き換えられない!

何れ最新の遺伝子工学が解き明かす、日本列島のNative Japanese;縄文人"蝦夷(エミシ)民族" vs 新生・弥生人の攻防の歴史に迫る一大ファンタジー...

歴史屋?の古文書愛好家・国文学者が「古代史を筆先で改竄」できても、

史実・事実を示す遺跡をerase(消し去る)したり、遺骨のDNAをrewriting(書き換え)たりはでき無い!わけです。

何れは、考古学者と、遺伝子研究者等の科学者が、「日本古代史の噓を暴く!日」が来るでしょう。

弥生時代に入っても 数の上で勝っていた「蝦夷の倭国!」

最近の研究では...

稲作が始まったとされる古代・金石器併用時代・弥生初期(※00)の日本列島では、

「那の倭国連合」が成立して中国王朝の後漢から金印を印綬(西暦25~57年)されて、冊封国(属国!)となり、日本"劣等"?唯一の政権!として、後漢の"お墨付き"を得て、縄文人の「蝦夷の倭国連合」征服!に乗り出した頃でも、

縄文人・蝦夷の暮らす東日本・東北地方のほうが、新生・弥生人勢力が暮らす西日本より、圧倒的に人口で勝っていた!とされています。

東北大学の某教授は...

さらに東北大学の某教授の様に、弥生人の「那の倭国」に対して、鹿島神宮を天守神の総本社とする縄文人の「蝦夷の倭国」連合が存在した!と唱える考古学者も現れています!

国文学者(義務教育教科書編纂者)の主張は...

義務教育上の「勝者(那の倭国)の立場に立った、国粋主義者・国文学者!」の定説では...

石器を用いた狩猟・採取民族であった「粗野!な先住民・縄文人(蝦夷民族)」を、「稲作(奴隷制!)」を背景にした(那の倭国→日乃本連合国と続く)弥生人が平定!して、「日本列島を統一国家」に導いたとされていますが???...

稲作文明は同時期に開花していた!

実際には縄文人の暮らす地方にも同じころに"稲作が広まって(伝って)!います。

ということは、青銅器・鉄器(※00)も"職人"(※01)ともども技術導入していたということになります。

つまり、一時期二つの倭国連合(那の倭国連合と蝦夷の倭国連合)の勢力圏は拮抗していた!...というより「蝦夷の倭国連合」ほうが武力でも勝っていた!ということになります。

参※00)日本列島における金石器併用時代の古代は、縄文時代末期に稲作とともに農耕具としての鉄器と武器としての青銅器が「ほぼ同時」に渡来!して、金石器併用時代を築いています。

参※01)稲作伝来については諸説ありますが、稲作に必要な一部鉄製(鉄の刃先を持つ木製品)の農機具に使用する鉄の鍛冶職人は朝鮮半島から渡来したと考えるのが妥当でしょう!何故なら、古来彼の国では、「職人を卑下」する風潮があり、鍛冶職人に限らず、陶工(土師)など多くの"職人"が脱出!して日本列島へ(帰化!)渡っているからです!

当サイト内関連記事 今に続く反日感情は両班(ヤンパン)どもが仕組んだ! はこちら。

中国王朝の"属国政策"をとった那の倭国!

「宗主国の計らい」で次第に差が開き

但し、宗主国である後漢王朝が冊封国(属国)として「那の倭国」連合へ金印を印綬した後、後漢(25年→220年)、西晋(せいしん265年 →316年)、途中の「三国志」の時期を除き、隋(581年→ 618)年)唐(618年 - 907年)と続く歴代の中国統一王朝計らいで、敵対する「蝦夷の倭国」へは鎖国禁輸処置!で、青銅器・鉄器の原料・製品輸出及び技術供与は中断!されたと推察できます。

遣隋使で再び"朝貢"を再開してからは特に優劣が明確

特に「那の倭国」連合(大和王国連合)が遣隋使(600年→ 618年)で再び"朝貢(臣下の令)を再開してからは、大陸への留学生(僧侶)の派遣や技術者(僧侶・学者)の招へい!に熱心だった「那の倭国→日乃本」連合では、

銅山開発・たたら製鉄の開始などで急速に文明開化・技術革新が起こり、それに対して紙・記述文化(仏教=僧侶・技術者・学者)を受け入れなかった「蝦夷の倭国」の技術革新は後れを取り、少数派の「日ノ本」連合(大和王国連合)に比べ劣勢となり、虫食い状態の様に、次第に日乃本連合に侵略(制覇)されていったのでしょう。

文書(仏教)を受け入れながった自然崇拝shamanの口承文化があだとなり

見方を変えれば稲作は受け入れても、紙・記述文化(仏教=僧侶・技術者・学者)を受け入れなかった、自然崇拝shamand伝承文化の縄文人・蝦夷連合が、中国仏教の戒壇(仏門認証・身分制度)に下づいた文化で、理論武装!した「弥生人の大和王国連合」に征服された!とも言えなくも無い!わけです。

東北にみる"シャーマン伝承文化"の先住民・蝦夷と"文字・宗教文化"の新生弥生人の鬩ぎあいとは... の目次

※リンクについて

(参※xx) は当サイト内の参照関連記事リンクです。
但し、その他の直接 hyper-link は当事者・関連団体の公式サイト若しくはオリジナル各国語版Wikipediaへ直接リンクしています。

プロローグ 古代史は"シャーマン伝承文化"と"文字・宗教文化"の攻防史!

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日頃"勝者である大和朝廷側に立った歴史談義"が幅を利かせている状況で、征服された側・敗者である縄文人・蝦夷民族の目から見た「正義」とは?を考えた一文です。

植民地から出発して広い国土を"懐柔"と"買収"で拡張していったアメリカにはFrontier(Territory境)と言う都合の良い表現があります。

そして。中国には冊(さく)という言葉があり、共にTerritory(領土・実効支配地)のboundary(境)を表す表現です!

そして紀元以来、約1000年の長きに渡り歴代中国王朝の冊封国(さくほうこく)=属国の道!を歩んだ弥生人の大和朝廷連合国と、7万年!の歴史を持つ先住民族である縄文人「"蝦夷(えみし)の倭国」連合との間で、territory争いをめぐる壮絶な冊=Frontierを巡る攻防が繰り広げられたわけです。

参※)当サイト内関連記事 日乃本の起源・弥生人の邪馬台国は統一国家ではなく「女系シャーマン率いる小国の連合体 "那の倭国連邦!"だった はこちら。

第1項 そして日ノ本連合国を形成した弥生人が「蝦夷の倭国」を征服!した

本項では、史実「記録」に下づいて、どうして弥生人が"日本列島を席巻"できたのかを、自然崇拝シャーマン(祈禱師)伝承文化と、紙文書文化(仏教文化)という「文化論観点」から考察してみました!

第1目 遺伝子工学と考古学が解き明かす「古事記・日本書紀」の噓!

最近の遺伝子研究の成果で...

江戸時代に始まった北回り、南回り廻船が生まれるずっと以前の、(国文学者・国粋主義者が「神代の昔!」として語り継いでいる)古代・石器時代から、日本列島先住民の縄文人(狩猟・採取文化・原始民主主義集団!)の勢力分布と、稲作(青銅器・鉄器文明)と身分制度(農奴!)戒壇(認証制度)を持ち込んだ、大陸系渡来人との混血「新生・弥生人」の勢力分布が明らかとなっていきました!

新生・弥生人(倭国連邦)が憎悪を込めて縄文人を"蝦夷"民族と命名して、その征伐?に当たる総大将を"征夷大将軍"に命じたのは、ネイティブ民族"縄文人"にとっては容認しがたい「随分失礼な表現」と言わざるを得ないでしょう!

小生・出自多留狸は、蝦夷のChief(酋長・首長)公阿弖利爲(アテルイ)とshaman(祈禱師)盤具公母礼(モレ)が、田村麻呂の計らいで「熊野の同胞の元」に落ち延びた経路に当たる河内国を、塒(ねぐら)としており、母も徳島の蜂須賀小六の家臣団(縄文人系)の出身です!

つまり、「誇りある縄文人・蝦夷民族の末裔!」だと自負している一人です。

狸穴総研 地政学・歴史研究班 出自多留狸

第1節 縄文人・"蝦夷(エミシ)民族こそ日本列島のNative People

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アフリカ大陸で旧石器時代の現生人類ホモサピエンスが誕生したのが約20万年前!といわれていますが...

第0項 日本列島誕生より古い!先住民・縄文人(蝦夷民族)の起源

日本列島が、ユーラシア大陸から完全分離する前、南端と東端で日本海(巨大湖)を挟んで大陸と繋がっていた約7万年前に我々の先祖縄文人が、

(マンモスなどの多くの動物を追い求めて北上してきた)現生人類の亜流「ウラルアルタイ系民族」が移り住み、現在の日本列島全域でnative people「縄文人」蝦夷として暮らしだした!わけです

そして今から約1万2千年前に、日本列島がプレート移動でユーラシア大陸と分離されて、(中央にあった巨大湖が)両端で太平洋と繋がり!日本海となって大陸と分断されて日本列島が形成された!といわれています。

つまり日本列島の形成より約6万年も前からnative people「縄文人」蝦夷暮らしていた!訳です。

第1目 自然崇拝"シャーマン伝承文化に基づいた縄文人"蝦夷(エミシ)民族

今からおよそ1万2000年前日本列島が形成(完全分離)された頃に、土器の製作と定住生活も始り、縄文時代となったわけです。

つまり現在の東北各地や、熊野、九州南端の日向・薩摩・隼人(※100)等の日本列島全域に縄文人(蝦夷)による縄文・文化が芽生えていたわけです。

※参100)当サイト関連記事 鹿児島市《 タウン・ヒストリア 》"質実剛健・時代の先取り・エコノミー"が薩摩・隼人の伝統はこちら。

第2目 太平洋戦争中は旧軍部により「神代」(かみよ)の遺跡」として扱われたストーン・サークル

戦前の1931年(昭和6年)に秋田県鹿角市十和田大湯で「古代・縄文時代後期(金石併用時代)」の遺跡であるストーン・サークル(大湯環状列石・石籬;せきり)が、発見されました。

敗戦後の1946年に発掘調査が行われ、1951年(昭和26年)(※11)と翌年の1952年(昭和27年)には国家事業(文化財保護委員会)として発掘調査が行われましたが...

同規模の2つの環状列石で構成された遺跡群で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡です。

やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルもあり、太平洋戦争中は旧大日本帝国軍部により「神話集"古事記・日本書紀」に記された「神代(かみよ)の時代?」の遺跡として扱われていました。

※11)いみじくも小生の生まれた年!です。

第1項 稲作を携えて渡来した新生・弥生人

渡来当初は少数派だった稲作を携えて渡来した新生・弥生人は、稲作以外に"風土病"も持ち込み、風土病に対する免疫が無かった縄文人の数を減らしたのも国文学者・国粋主義者たちが触れない史実でしょう。

そして、彼らは大陸王朝の庇護(バックアップ)を受けた"傀儡政権"として、「冊封国(さくほうこく)=属国」「那の倭国」連合の道を歩みだし、次第に縄文人の「蝦夷の倭国」を侵略・制覇していくわけです。

第1目 世界史(世界の外交史)に初めて登場する日本列島「那の倭国」は

後述する様に西暦607年の遣隋使に委ねた書簡(国書)「那の倭国」を代表する大王(おおきみ)?として「日乃本宣下」を行ったわけですが...

中国最初の統一王朝・後漢(25年→220年)の光武帝(BC6→西暦57年)が皇帝在任中(西暦25→57年)に、「那の倭国」の元首?卑弥呼(女性シャーマン・祈禱師)に「属国・冊封国(さくほうこく)」として「那の倭国」を認証!した"認証印"として金印属国承認印)を印綬したわけです。

なのでそれ以降は"ユーラシア大陸"の歴代の皇帝・知識人の間では、三国志の一節「魏志倭人伝」にも記述されている"中国統一王朝の属国"として、那の倭国「邪馬台国連合!」が広く認知」されていたわけです!

魏志倭人伝とは...

魏志倭人伝は3世紀末(280年(呉の滅亡)→297年(陳寿の没年)の間)西晋の陳寿により草稿された伝承『三国志』の中の1節。ただし記述された3世紀ごろの邪馬台国連邦!の情報を基にしており、金印を領布した西暦25年→57年当時の、邪馬台国の状況を表す古文書ではありません!

さらに『三国志』そのものが...

さらに『三国志』そのものが、後漢(25年→220年)から西晋王朝(265年→316年)建国迄の歴史を、伝承・や古文書にヒントを得て「創作された一大叙事詩!」であり、

古事記・日本書紀同様に著作者「陳寿」の「個人的"解釈・創作"」が随所にちりばめられた(歴史資料とはかけ離れた)fiction・創作物・fantasy(おとぎ話)と解釈するほうが妥当な古文書です。

参※)当サイト内関連記事 邪馬台国は地方国家ではなく女系シャーマン率いる共和国の寄り合い所帯 「那の倭国」連邦だった! はこちら。

いずれにせよ...

いずれにせよ、逆説的には古事記(712年編纂)の700年近く以前!の光武帝時代(25年→57年)の髄の時代から、

那の倭国連邦連邦」には、青銅器の刀剣と農耕具を使った稲作と、そして「文字(漢字)」文化が、渡来技術者(僧侶)によってもたらされていた!ことになります。

※ご承知の通り「かな文字」は平安時代になってから「表音文字」として発案された「純国産」文字なので、それ以前(言語体系が異なる日本では)は、「表意文字」としての漢字を使った「漢文」で古文書が草稿されていたわけです。

第2目 西暦607年の遣隋使に委ねた"国書"で初めて「日乃本」宣言した大和国

聖徳太子(大和国の大王)が、当時の中国統一王朝"髄"に対して、

冊封国(さくほうこく);属国!として送った外交使節団の"朝貢使"が遣隋使(600年→618年)です

数度の"正式"(※12)な!"朝貢使"を派遣していた時期に、(何度目かの)遣隋使(西暦607年)に委ねた書簡(国書)で、「日乃本」宣言をしてその後は国名を「那の倭国」から日乃本と改称された!とされています。

つまり遣隋使を始めた頃は「那の倭国」を表す金印が押捺されていたのでしょう。

注※12)金印の印綬以来大陸とは正式な使節団以外にも、(前途した様に3世紀に寄稿された魏志倭人伝にも記されているように)民間人レベル?で「僧侶・技術者・留学生・職人等の交流」があったはずですが、これらの"非公式"な史実(記録・古文書・私文書)は残って(発見されて)いません!

聖徳太子の日乃本宣言の狙いは...

つまり、大陸の専制国家・超大国(髄)を、宗主国として認めることで、小国の日本列島を侵略から守り植民地!化させないように、「臣下の礼」をとって、先手を打ったのでしょう!

"自治権"をもった冊封国(さくほうこく)=属国として認めさせるために...

前回の遣隋使で隋から持ち帰った"紙"にしたためた"国書"に、自らが「邪馬台国」を引き継いだ正統・日本列島の統一国家!「那の倭国」の後継「日ノ本」のsovereign(元首;大王(おおきみ))であり、自治権をよこすならば!冊封国(属国・兄弟国!)に"なってやってもよい"ぞ!印綬された金印を押捺した"国書"親書で宣言したのでしょう。

つまり「那の倭国・日乃本」は自らをsovereign(元首;大王(おおきみ))として擁立した"統一国家"であることを装った、外交策!であったわけです。

髄のemperorが激怒したという有名な逸話は...

髄のemperor(皇帝)が「聖徳太子の親書に激怒した」というのは「日之出国の天子より日の没する国の王へ...」の下りで激怒したのではなく!

「金印を押した冊封国(さくほうこく;属国)のChief(酋長・首長)の分際!」

でありながら、主権を持つsovereign(君主)の様に対等!の立場を主張した内容!にあったのでしょう。

まあ、朝貢使の謁見に同席した"髄"の通訳・学僧が、「那の倭国は野蛮な"未開人が暮らす属国!"なので、漢字(漢文)を心得た人物がいない!?のでは...」とかなんとか「その場を繕った」のでしょう

前途した様に、唐が滅びるまで、"朝貢使"による朝貢(配下の礼)をとり続けたので、

その後中国を占領!した元(1271年→1368年)の様に、日本列島に攻め入ることはなかった!のでしょう。

血統的(遺伝子的)にも、弥生人は漢民族に近く、縄文人の様に"元"と同じ流れをくむ「ウラルアルタイ系民族」とは異なり、親類?として扱ってくれたのでしょう。

その後に続く大和国の大王(おおきみ)も

事実"髄"が滅びた後の唐(618年→907年)が滅ぶ907年まで幾度の"朝貢使"(遣唐使)を派遣して「臣下の礼」を取り続け、同時に大和朝廷が日本列島(倭国)を代表する唯一の政権であることをアピールし続け、「蝦夷の倭国」との交流を妨げ、大和大国連合の優位性を維持したわけです。

「日本語ウィキペディア」で日本初の歴史書???!とされている古事記(712年編纂)は...

前途した様に、漢字伝来より数百年を経過して、日本初の叙事詩!(fiction!fantasy!)が起草されたのは、製紙技術の伝来とも関係があるわけです!

聖徳太子の、倭国宣言(西暦607年)から100年以上!たった和銅5年(712年)に(漢文で)編纂された古事記は、

当時の大和国の"大王(おおきみ)"を正当化するために、取り巻き(支援者・後援会!)の搾取階級・公家の一人、太安万侶が、面々と受け継がれてきた?口承・伝承神話!にヒントを得て!

大王の公式出生証明となる家系縁起を"創作!"して、「大和国の大王に献上」した"私文書"にすぎません!

その後に編纂された日本書紀(720年編纂)と同様に、遣隋使の頃仏教伝来と同時に僧侶(技術者)が持ち込んだ文字(3世紀には体系化されていた漢字)により、口頭伝承されてきたlegend(神話・昔話)を文字化(文書化)した、神話集!昔話集にすぎないわけです!

これらは、autocracy(専制政治)を行っていた中国大陸・唐(618年→907年)のemperor(皇帝)に対して、遣唐使が携える"親書"の発行者である自称「天子」が、新生・日乃本の主権者?である証(あかし)としての添付書類!(出生証明)に用いられたのでしょう。

※しかしながら。歴代の中国王朝のemperor(皇帝)(とその側近の学者・有識者)は当時バイブルとなっていた三国志の中の1節「魏志倭人伝」にある女帝?卑弥呼が率いる邪馬台国が日本列島の「真の自治政権」であったことを衆知していたので、天照大神神話には興味が無かった!でしょう。

つまり、「卑弥呼の血統を継ぐ正当な後継者」を示す根拠は、「押捺された金印」封印しかなかったでしょう!

つまりは所期の目的である対外的(外交上の)な、日ノ本連合の主権者?大王(おおきみ)を証明する、血統書・出生証明にもなら無かった!わけです。

第4目 当時の書簡は木簡・竹簡(ちっかん)の時代だった

非公式の民間レベルでは大陸と「蝦夷の倭国」との交流(交易)も...

「縄文人・蝦夷民族は文字文化の無い文盲!の口承・伝承の部族だった」とする説が多いようですが...

非公式レベルでは「蝦夷の倭国」も"大陸"と交流(交易)があり、銅製品・鉄器などと共に"漢字"も伝わっていたと推測できます。

古代弥生時代初期から遣唐使の始まる古代天平文化の頃までの、朝貢使(600年→618年の遣隋使)が再開される前は日本列島には、中国の製紙技術(紀元前140年~87年に発明)は伝来しておらず、遣隋使以前の時代の「書簡」は木簡・竹簡(ちっかん)が主流の時代でした。

縄文遺跡から木簡・竹簡は出土していないが...

縄文人(蝦夷)の遺跡の出土品に木簡・竹簡(ちっかん)は見つかっていません!が...

厳しい東北の気候、特に河川沿いに開けた定住地(遺跡)では地下水などの影響で、朽ち果てたものと推測できます。

802年の坂上田村麻呂によるアテルイ拘束

後述するように西暦802年5月19日に蝦夷討伐!に差し向けられていた坂上田村麻呂が、最後まで抵抗していた部族のChief;大墓公阿弖利爲と盤具公母禮、部族一統500余人を武装解除して、阿弖流為とモレを都に連行したわけですが...

京への伝令に公阿弖利爲(アテルイ)や盤具公母礼(モレ)といった風に「正式な名称?」が記されていたのは「田村麻呂」の東北遠征に同行した書記官が「当て字」で戦記を記したのではなく!

それ以前の、大和朝廷と友好を保っていた当時、朝廷側から拝名したということになっていますが、

紙・文字文化の存在は承知していても...

つまり、反乱?が起こる前からすでに、紙・文書が蝦夷夷社会にも伝わっていた!ことは間違い様ですが...

紙・文書文化を伝来させた遣隋使(600年→618年)以来200年も経過していて、日本日本列島に紙・文書文化が定着していた当時でさえ、蝦夷陣営では、日常の政(まつりごと・祭事)に、文書に記された祝詞(のりと)などは用いずに、口承されてきた"呪文"を用いていたのでしょう!

そういう点では、紙・文書文化とは縁のない"文盲"部族!であったのは間違いないでしょう。

第2項 北米大陸、南米大陸にまで及ぶ自然崇拝 Shaman 口承文化の流れ

当時の日本列島だけでなく、ベーリング海を超え北米大陸・中南米迄広範囲に、渡り

shaman(祈禱師)による多神教自然崇拝"口承"文化をもった、ウラルアルタイ系民族と呼ばれる狩猟・採取民族の生活圏が広がっていった訳です。

第1目 ウラルアルタイ系民族の特徴は

  • ●狩猟・採取による「営み・暮らし向き」
  • ●文字を持たない自然崇拝のシャーマン(祈禱師)による政(祭事)と口承・伝承文化
  • ●Chief(酋長・族長)の指揮下で、互いの役割分担を果たす原始民主主義!

以上3つの文化背景を持った、ウラルアルタイ系民族の特徴は、シャーマン(祈禱師)の占いによる自然崇拝の"原始民主主義文明"ともいえるわけです。

そしてに日本列島では、沖縄のノロやユタ、東北恐山のイタコに代表されるように、「(女性シャーマン)巫女」が神(天)からのお告げを、民に伝える!祭事・政(まつりごと)の中心人物となっていたわけです。

男性のChief(酋長)は、主に「狩猟や敵対する種族との戦闘のleader(先達)Commander(指揮官)」としてグループをまとめていたにすぎないのでしょう。

稲作と文字文化で、先住民縄文人を「蝦夷の倭国」を屈服させた!弥生人の「那の倭国」大和政権(朝廷)でも...

大化の改新(645年 → 650年)から100年後!の大仏建立(745年→752年)の時点ですら、大王(おおきみ)の妃(きさき)が大きな政治権力を行使して、政(まつりごと;祭事)に関与していた!ことが知られています。

第2目  インカ帝国、メキシコのアステカ文明全て文字を持たない文明でした

西洋人(キリスト教徒)の倫理観(※1)から見ると、祭司(シャーマン)が仕切るこれらの文化は、野蛮で残虐にも映る一面もあわせもっていたわけですが...

象形文字を持っていたとされるマヤ文明等一部の文明を除き「文字による文化の伝承」は無く口承による伝承文化だったわけです。

※1、「征服者の色眼鏡」で当の西洋人も中世には「キリスト教布教」の名のもとに、ずいぶんと残虐な行為を行っていました。

第2節 日乃本連邦の「侵略と植民地政策!」

★第1項 中国に「臣下の礼」をとっていた"倭国連邦!"

前途した様に、稲作と文字(漢字)をもたらした大陸系渡来人との混血・弥生人はその生い立ち故に、中国数千年の歴史の恐ろしさ?を心得ており、「臣下の礼」を取り、遣隋使(600年~618年)の18年間に)そして「その後618年に隋が滅び唐が建った」のちも907年に唐が滅ぶまで遣唐使を派遣し「臣下の礼」を取り続け、同時に大和連邦が倭国(後の日乃本)を代表する「唯一の政権」であることをアピールし続けた訳です。

第1目 日乃本と改めたのは7世紀!

倭国が大和連邦政権によって国号を「日本」と改めたのは、前途した様に聖徳太子が朝貢の為の遣隋使派遣を始めてのちの607年の遣隋使に所持させた「那の倭国金印」を押した書簡(国書)に、日出国「日ノ本」を名乗ったのが最初とされています。

その後、派遣した学生(僧侶)が持ち帰った資料で「髄の律令制」を学び、大化の改新(645年 → 650年)を行い大宝律令(701年制定)を制定して、「国家の体裁」を整え、連れ帰った僧侶(技術者)により、銅山開発が成功して、国産銅!による国産銭貨(銅銭)の発行(※30)和同開珎に繋がり、その後の(国分寺・国教制定に伴う)奈良の大仏(745年→752年)建立につながる、大量の銅と、金箔に用いる大量の"金"完全国産化!が達成されたわけです。

※参30)、和同開珎以前の通貨!、青銅器製武器・農機具は中国から輸入されていました!

第2目 「臣下の礼」が髄・唐の日本侵略を未然に防いでいた!

すなわち軍事力に物を言わせた「強大な中国」から、「中国の属国」になることで「ちっぽけな日本列島の独立」を守っていたことになる訳です。

其の後鎌倉時代に、中国王朝が蒙古に征服されて占拠されて元が誕生して、2度の来襲を受けることとなるのは諸兄ご存知の通り。

第2項 弥生人政権"日乃本連合国"の「蝦夷の倭国」東北への侵略は...

大陸文明(中国文明)文化を見習った日乃本連邦(大和政権)は、先住民(縄文人)蝦夷民族のTerritoryだった東北一帯を侵略して、一進一退を繰り返しながらも、次々と平定(征服)しTerritoryとしていった訳です。

第1目 8世紀に一進一退を繰り返した日乃本連邦

780年には出羽国府が秋田に移されましたが、蝦夷(エミシ)民族(日ノ本連邦に属さない蝦夷:縄文人の末裔?小国)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び南方に敗退することに...

気候変動による凶作も影響を?

日本史創作家?は英雄伝説を好み、武力抗争(出入り?)の記述のみを取り上げますが...

「地学的に地層を分析」すればこの間に何度も冷害・飢饉が生じていたことが証明できます!

武力だけではなく自然災害で、「日ノ本連邦が撤退」した可能性も非常(非情!)に高い!訳です

つまり、再び気候が安定?(小康状態)したので田村麻呂の派兵となったのでしょう。

第2目 阿弖利爲(アテルイ)は処刑されていない!?

前途した様に

802年1月9日の田村麻呂の陸奥派兵

蝦夷の自治区・陸奥を平定(制服)するための拠点として、陸奥国胆沢城を造営するために田村麻呂が陸奥国に派遣されました。

日乃本連邦側の記録文書『日本紀略』では、同年4月15日の報告として、蝦夷(エミシ)民族のリーダーである公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したと記されていますが...

母盤具公母礼(モレ)まで拉致された訳は

母盤具公母礼(モレ)まで拉致された訳は、阿弖利爲酋長率いる部族500人の、中心指導者「女性シャーマン」だったに他なりません!

つまり、指導者2人を捕縛すれば、残りの種族は指導者を失った有象無象に民で、日ノ本連邦の植民地「荘園」の労力"農奴"!として活用できるわけです。

その後"都に公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が連行"される! 

2人は田村麻呂に連行されて7月10日に平安京に到着、田村麻呂の助命嘆願にも拘わらづ、

当時の朝廷高官(荘園主の公家)供の決定により、8月13日にChief(族長)アテルイとその実母つまり女性シャーマンの大巫女モレは「"河内国"処刑された?」と朝廷の公式記録(古文書)には記されてますが、確固たる証拠(阿弖流為塚?)は発見されていません。

第3目 阿弖利爲と盤具公母礼は熊野に逃がされた?!

数多くの状況証拠

伝・阿弖利爲の」首塚は、旧河内国の枚方(ひらかた)市にあるそうですが...

確固たる証拠は見つかっていません!

  • ●グレーのマークは城跡・砦跡・関所跡
  • ●旅人マークは古代:日乃本成立(伝741年)以前からある峠道
  • ●紫ランドマークは古墳(王墓)
  • ●緑色のさざ波マークは棚田
実は容易い熊野落ち

確固たる証拠はありませんが、多くの状況証拠が...

公阿弖利爲と盤具公母礼は大和国南部の非武装地帯!を経由して、同朋の暮らす熊野に難を逃れたのではないでしょうか?。

熊野国に至る峠道はさほど険しくない!

GoogleMapを拡大するとお分かりいただけるはずですが...

熊野古道の出屋敷峠(標高660m)は現R168号線沿いの旧天辻峠(標高700m)に至る街道と比べて意外と険しくありません」!

更に、旧大塔村(現五条市内!)、十津川村一帯は、自給自足の農地程度で、年貢を納められるような、荘園(農耕地)を持つ城跡や砦跡はほぼほ0で、江戸幕府成立以降に、街道警護(関所)の為に築城されたにすぎず、802年当時はマタギが暮らす"非武装地帯!"であり、当時の国境(旧大塔村と旧五条市)を過ぎ、旧本宮町(現田辺市)まで「修験者?またはマタギ」の案内で、落ち延びれば、同朋の住む熊野国に落ち延びれたわけです!

阿弖利爲と盤具公母礼はもともと東北マタギ!一族

更にもともと東北のマタギである阿弖利爲と盤具公母礼は、獣肉(狩猟)や・木の実・キノコ(採取)などといった、山里の暮らしには慣れており、案内人(マタギ・修験者)さえいれば、難なく熊野の同朋の基へ落ち延びれたわけです。

熊野国は、国主・荘園主ともに地元に代理人!

更に、大宝律令で熊野国になってはいたものの、熊野は完全には日乃本連邦には加盟しておらず!荘園主もほとんどが地元出身で、都の公家ど共とは違い「自治を守っていた!」わけです。

河内国には、縄文人が多い!

最近のDNA調査(分析)で河内には縄文人が多く住んでいたことがわかっています!

理由は簡単で、当時は(奈良盆地と違って)大阪平野(河内平野)の大部分は河内湖と湿地帯が占め!

陸稲(りくとう)に近い古代米を作付け出来る耕作地は、河内国では生駒山脈の山麓、南部では中百舌鳥古市古墳群のある羽曳野丘陵、泉北丘陵、そして楠木正成で有名な金剛山地や、和泉山脈の山麓にある谷合にしかなく、日乃本連邦(大和連邦)の貴族たちの荘園は、奈良盆地に集中していた!からです。

更に、生駒山脈は嘗て鉱山(銅山)が開かれていた地帯でもあり、さらには大勢の「河内マタギ」も暮らしていた山系でもあります。

骨相学的にも...

冒頭で述べたように、小生(の家系)は多くの「縄文人」の特徴を有しています!

祖父、親父とその兄弟(叔父・叔母)は、京都・奈良辺りの弥生人(渡来人)系とは異なり、鼻が高く(立派)で、骨格がしっかりしていて、「がたい」が立派で、美人・美男子が多い家系です。

更に、実母は蜂須賀家の(地元出身)家臣つまり・縄文人の家系です。

なので、小生も...

わが愚妻は安倍貞任の子孫

更に・わが愚妻は安倍貞任の子孫で、蝦夷の末裔でもあります。

しかも、ご近所から亡き実母によく似ている"!といわれます。

決して高くはありませんが立派なお鼻の持ち主です!

まあ「類は友を呼ぶ」の例え通り、お互いに何か惹かれるところがあったのでしょう!

第3節 やがて蝦夷の自治領「陸奥国」は、日ノ本連邦のterritory(領有地)になることに...

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元慶2年(878年)に重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷の秋田城司に対する反抗として元慶の乱が起こりました。

日乃本連邦は藤原保則を新任の出羽守(でわのかみ)国司として派遣しました。

保則は「朝廷に服属したエミシ(俘囚)」を使うことで反乱制圧に成功しました。

しかしその後天慶2年にも再び天慶の乱が発生しました。

第1項 「荘園開発」という「植民地政策」

狩猟・採取民族でつまりは流浪民で、あった蝦夷民族を定着させ、開墾させたのは「先住民・蝦夷」の暮らしを楽にするためではありません!

都で贅沢三昧!をして"のほほんと暮らす!"「公家供の実入り」を確保するためであったに他なりません!

すなわち日ノ本連邦(大和連邦)は、征服!した東北各地や九州南部旧日向国は、colony(荘園;植民地)としてしか扱わず!

当然農民も「colonyの付属品!"農奴"と」してしか扱わなかったわけです。

第1目 東北各地・九州南部では度々の反乱も

故にその後も重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷や薩摩・隼人が、日ノ本連邦(大和連邦)の傀儡政権・国司(Governor)に対して反乱を繰り返したわけです!

東北では、元慶2年(878年)の元慶の乱(※大和連邦側の記録名)や天慶2年4月17日(938年5月22日)の天慶の乱(※大和連邦側の記録名)等が起こったわけです。

当時公家と呼ばれる「搾取階級!」は、朝廷から俸給をいただく家臣(家来)ではなく、ローマ帝国の元老院組織のように、自前で糧を得ているいわば実業家集団でもあったわけです。

つまり彼らは全国各地で、積極的に荘園という名の「plantation(植民地・大規模農園開発」を行う必要があった訳です。

そのchief executive officer(代理人)として都から「木っ端役人供」を派遣したり、「朝廷に服した地元の転向組!蝦夷(俘囚)」を配置したわけです。

当然大和連邦の議長国大和の"大王"も租税(実入り)確保の為に広大な直轄地を有して、国府に目代・管理者(administrator,agent)を配置していたわけです。

★第2項 律令制(日ノ本連邦)が崩壊して地方豪族が台頭しだすと...

中央政権の律令政治が衰えるとともに、目代(荘園のagent,に当たる木っ端役人供による)私有地の占拠が次第に増え、農民は有力豪族(武装集団・山賊?)に頼り、蝦夷地の各所には豪族を中心とする"武士"出現しました。

9世紀頃には太政官命令で、「勝手に開墾地を私有し農民を困らせてはならぬ」とのおふれが出る程でした?が...(※しかしこれも怪しい、律令制度・平安期末期においても、農奴を抱える荘園(plantation)は健在!であり、もとより農奴は困り果てていた!わけです。)

★第1目 農奴を解放して自治政権を樹立して人心を掌握した阿部氏

地方豪族は重要拠点に分家を配して勢力を拡げていきました、その中から前途した陸奥の阿部氏(故・安倍元首相の先祖!)、出羽の清原氏(後の奥州藤原氏)が出現したわけです。

北上川中流以北に勢力を広げていた安部氏は、地元(農奴)の立場に立った自治(解放)体制を取っており、中央の大王・公家共への貢租・徴役は拒否し続けていました。

これを「中央に対する反逆」と見なした大和連邦政権が、討伐を企てたのが前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)です。

源頼義が陸奥守として討伐に向かう

しかし、当時の陸奥守や秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった源頼義が目代(陸奥守(むつのかみ)として向けられ、七年以上にわたり戦いが繰り広げられることとなったわけです。

頼義もわずか"三千ばかりの手兵"では歯が立たず、

横手付近に根拠を置き朝廷に属した「俘囚の主」(転向組)と呼ばれる豪族・清原光頼に臣下の礼(家来になること)の形をとってまで援軍を依頼したわけです。

清原光頼は弟・清原武則を大将とする一万余!の兵を出して、安倍氏を駆逐しました。

★第3項 一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄えた奥州藤原氏

しかしこの後、武則の孫の代にいたって一族で内紛が起こり、これが後三年の役(永保3年(1083年) - 応徳4年/寛治元年(1087年))であり、この戦の後に清衡が奥州藤原氏となり荘園管理者(agent,administrator )に収まるわけです。

四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄えた奥州藤原氏の誕生です。

第1目 奥州藤原氏は「地元蝦夷の世に戻した!」が...

東北は中央政権の影響下を離れ、完全に蝦夷支配(自治区)にもどったわけですが...

藤原氏の統治方法は、国司と地領(荘園)を世襲することで、公的に権力行使!して、

併せて政権側の「公家供のplantation(&の農奴!)の管理」も請け負うというものでした。

ミニ京都と称される「平泉」などにみられるような艶やかな「公家志向」の館(やかた)で、都の搾取階級・公家共の荘園管理を執行するいわばGovernor(知事)、chief executive officer(執行官)、そして荘園のadministrator (管理者)を請け負うagent,(代理人)でもあったわけです。

つまりは「都」の回し者、「傀儡(かいらい)政権」のagentに過ぎなかった!訳です。

さらに出羽北部である秋田地方では「公家の荘園」そのものも存在せず、大和連邦議長国(大王国)の領地一色であったため、どの程度まで奥州藤原氏の所領が及んでいたかは不明であるとも言われています。

いずれにせよ、農奴を解放した阿部氏とは異なり、再び平安朝の農奴制度に下ずく「colony(植民地),plantation(大規模農園)!」制度に逆戻りした!わけです。

第2目 奥州藤原氏は王朝文化に毒された朝廷の手先「俘囚の長」(寝返り蝦夷)だった!

この頃になるとagent,として雇われたが目代が開墾した(荘園)の私有も認められ、豪族の勢力が拡大しました。

当時はこのように目代に対する朝廷の力は絶対的なものではなくなていましたが...

その後朝廷に服属する「俘囚の長」と呼ばれたエミシ民族出身の「寝返り組」の雇われ目代の権力(武力)は次第に強大になっていきました。

第4節 征夷大将軍とは東北各地にとっては随分と失礼な称号!

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文治5年(1189年)、鎌倉幕府を創設し征夷大将軍となった源頼朝が19万!もの大軍勢を率いて奥州討伐に向かいました。

※その後の徳川家康も武家の総領として、朝廷より「征夷大将軍」に任じられましたが、征夷大将軍とはエミシ(蝦夷)を征伐(征服)する将軍という意味であり、武力をもって領土拡張する為の遠征軍の総大将を任じられたようなものでした。

第1項 史実だったのか?創作逸話!だったのか...

注※40)ここで疑問(矛盾)が生じるのが、19万!もの大軍をどうやって、布陣させたか!です。英雄伝説大好きの歴史屋!と「鉄オタ」は何ら疑問を抱かないのでしょうが...

前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)の源頼義か"三千ばかりの手兵"を行軍させれたのは「多少のサバ読み(水増し)」を考慮しても納得の行く数値ですし、援軍の奥州藤原の援軍一万余!も、多少の水増しはあっても移動距離から考えて妥当でしょう。

遠路はるばる19万人の大軍勢の行軍となると...

しかし、遠路はるばる19万!の大軍を、数週間もかけて遠征させるとなると、行軍に関するlogistics(兵站)の問題を抱えることとなります。

いくら、梅干し・干飯などの携帯食だとしても、19万人と、軍馬の消費する食料は膨大な量!となります。

これだけの、兵糧!と兵器(弓矢)を荷車の車列(荷駄)でカバーしようとしても、当時のtraffic(往還網)では不可能です!

更に、奈良時代は全国に立派な高速街道(早馬伝令)が整備されて、通信(書状)はか確保されていましたが...

よく知られているように、幅の広い、排水設備の完備した高速道路」?でしたが...

とりあえず最短距離「直線」を優先したために、山野も直線で結び、斜面がきつく、とても荷駄(大八車、牛舎)logistics(兵站)に使用できるような代物ではありませんでした。

しかも、時代が下って12世紀にもなると、往還道は完全に廃れて山野に戻っていました!

当時のtrafficでは不可能!

つまり19万人が話半分!の10万人の軍勢だとしても、実際の遠征(行軍)を考えてみると、当時のtraffic(往還路;街道)では不可能!だったなのではないでしょうか!?

仮に?沿道の日ノ本連邦側の"荘園管理者(地頭)"の全面協力があったとしても、奥州まで荘園(集落)が連なっているわけでもなく...

長期に渡る遠征(行軍)は不可能だったはずです!

しかもすべて直参の手勢・家臣団と、頼朝政権に賛同した関東武家で賄ったことになっていますから...

更に当時の日乃本の全人口は、現在に比べて桁違いに少なかった!わけで、いくら関東全域から挙兵させたとしても、19万人もの大軍勢記述は、後に戦記(古文書・行軍記)を編纂した「勝者側の創作家!」の大法螺(ホラ)話でしょう!

つまり現在の歴史屋!(古文書研究家)が論拠とする"古文書"とはその程度の「きわめて信憑性に欠けた・考証されていない贋物・創作私文書」がほとんどなわけです。

第2項 征夷大将軍はスペインの南アメリカ征服の総大将コルテスと似たり寄ったり!

征夷大将軍とは東北各地にとっては随分と失礼な称号でもある!ことになるわけです。

隆盛を極めた藤原氏も、頼ってきた頼朝の弟義経をかくまったのを口実!に追討されて、藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡の途中で、配下の裏切りに遭い討ち取られました。

つまり、いかに配下の裏切りにあったとはいえ、搾取していた民衆(農奴!)を見方につけることができなかった!ためでしょう。

第1目 奥州藤原氏の滅亡は因果応報?!

現在、天皇制を支持する主流派(朝廷派)の歴史学者(古文書研究家!)は奥州藤原氏を称賛しますが...

地元民に支持(慕われ)されていたのならば、北へ落ち延びれたはずです!

藤原氏は、大和連邦の傀儡政権・寝返り蝦夷であり、のちの鎌倉幕府の地頭( plantation owner)同様に、(大和連邦の搾取階級である)公家共の代理人(agent)荘園の管理者にすぎなかったわけです。

豪華絢爛な平泉も、農奴!を搾取した結果であり、"血を絶やした"のも因果応報の末路だったのでしょう。

第2項 東北各地の豪族支配(自治)が終わる!

数世紀にわたった蝦夷出身地方豪族の支配も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に鎌倉幕府の支配下となりました。

藤原氏を倒した頼朝は幕府を開き、崩壊した律令制度に代わって新たに法度を制定して、御家人(家臣)を、守護(=国司)や地頭(荘園管理者)として東北各地に差し向けて、東北における大きな政治的転換点となったとされています。

(※ただし、制度が変わっただけで、守護職は国司、地頭はplantation のagent(代官・代理人)であり、元となる階級制度(農奴制度)は踏襲されていました)

頼朝が秋田に配した御家人(家臣)成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などでした。

また奥州藤原氏に仕えていた由利氏のみは、そのまま地頭として由利地方(の荘園)を治める(完治者)とされました。

つまりはこれらの人々は「蝦夷」の末裔ではなく「日乃本連邦」の「構成員!」である搾取階級の公家(元地方豪族出身者)の傭兵・新興"武装集団"であり、混血・弥生人の系統を引き継ぐ人たちであったといえます。

その後室町幕府のころになり、日本海北部で勢力を伸ばした地方武家の安東氏(安藤氏ともいう)が津軽地方から南下して、安東愛季の時代に最盛期を迎えました。

横手盆地では戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力圏を競っていましたが、秀吉が天下統一を果たして、東北の地元武家も豊臣政権に服することとなりました。

第5節 江戸幕府の執った反乱防止策!「入組支配」

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江戸時代幕府が開白されて、家康に実権が移ったのちも、「蝦夷の脅威」は去りませんでした。

(歴史書を読み漁り古今東西の歴史に精通していた)家康とその家臣団は、蝦夷勢力の復活を恐れ、東北における「入り組み支配」(※1)を徹底しました!

例えば秋田県の場合、当初は(西軍についた)小野寺氏以外の諸大名は、所領を安堵されましたが、慶長7年から慶長8年の期間にかけてほとんどの大名が常陸国に転封(国替え・左遷!)され、鎌倉以来となる長年の「領主と住民の絆」は切れました!

★第1項 転封(転勤!)改易(解雇!)と、所領の細分化!の嵐

現秋田県の殆どを領していた久保田藩は、秋田実季(津軽安藤氏の末裔)が改易(解雇!)されて領地召し上げ!となり、常陸国から転封(転勤!)された佐竹氏が立藩した小藩で、由利郡でも山形藩主最上氏が改易(解雇!)されて、幕府領(直轄地)と中小の大名所領に細分割され、蝦夷の末裔は完全に排除されました。

明治維新・戊辰戦争にもつながる潮流

このことが、幕末の戊辰戦争勃発前後の久保田藩内の重臣によるクーデターなどによる、藩政の歩調の乱れにも繋がり、現秋田県域にあった諸藩の奥州列藩同盟からの離脱と、維新政府軍(官軍)参加(寝返り)などにも繋がったとみるのはあながち 「うがった見方」でも無いでしょう。

さらに言えば、秋田新幹線が、会津若松・新庄を結ぶ山形新幹線延伸を拒否!するように、盛岡から伸びて、大曲で大曲?していることも、新庄⇔大曲間の冬季の尋常ならざる積雪を避けるためだけではないでしょう!

※参1)入組支配

江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名(外様)に対して頻繁に「転封(転勤 )・減封(領地召し上げ)、改易(解雇)・領地召し上げ」を行い、旧所領を集落単位!分割して、地方の統一・団結を阻む政策で

具体的には、外様大名の所領(Territory)を「集落ごとにまで細分化!」して、徳川の旗本・譜代の所領(飛び地)として分割統治する手法。

このために明治維新後も全国各地で府・県・郡・村の離合集散が繰り返されました。

この結果、複雑に入り組んだ支配で、各支配地(郷)間で待遇(身分)・処遇(年貢)に大きな格差が生じて市域紛争(農民一揆)の火種ともなっていました。

※小生が生まれ育って今も済み続けている南河内の我が故郷では、東北同様に、知行地が集落単位にまで細分化されて、小生の村は旗本領!、南隣の村は小田原藩!、東隣は天領!といった具合に、数町歩(数Hr)ごとに区切られて、それぞれ"年貢"が異なり、とくに小田原藩領では飢饉!の時にも年貢米の取り立てで苦しみ、人身売買(女郎、農奴など)、一家心中、一家離散、等の「悲惨を極めた」そうです。

さらにその隣村では、全村域が別の集落の豪農!に買い取られて、村人全員が小作以下の農奴!(水飲み百姓)に貶められて、明治維新後も被差別部落として差別を受けていました。

エピローグ 歴史は繰り返される

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第1項 「先住民と侵略者との闘い」でみると理論武装は武力よりも強し!

「歴史は繰り返される」の言葉通り、東北各地は冬季「雪に閉じ込められる貧困」故に、時の為政者・中央政府側からみると反乱・一揆の歴史を繰り返し、その都度「為政者に鎮圧」されてきたことになります。

そして歴史を振り返ってみると、最初に述べた通り「文字・宗教の理論武装が、先住民達のシャーマンによる伝承文化を征服せしめた」ともいえる訳です。

第2項 嘗て帝国主義の欧米列強が行った植民地政策!

世界的に見ても、大航海時代のスペイン王国、大英帝国、などは世界各国に植民地を造り、先住民を服従させて彼らから膨大な財宝を略奪して本国に送り、国本は繁栄を謳歌していたのは史実です。

そして自然崇拝の原始宗教(多神教)のシャーマン(祈禱師)文化に対する、文字文化(ラテン語・英語)に根差した「耶蘇教の布教・浸透」がその背景にあるわけです。

第1目 正義とは勝者の論理!?

大英帝国がイギリス連邦となり、スペインの植民地も次々と独立して、海洋帝国・列強と呼ばれたヨーロッパ諸国の植民地も次々独立した20世紀後半でも、

ナチスドイツの国粋主義!結果引き起こされた第2次大戦ヨーロッパ戦線の傷跡として、欧米の嫌われ者?「ユダヤの民(富)」を、列強がもともと植民地として占拠していたパレスチナの地へ、「終戦のどさくさ紛れ」に追いやって建国と称して占領!させて、今もって多くのパレスチナ難民を創出したにもかかわらず、彼らのphilosophy(哲学・宗教)シオニズムは「正義」?とされている!わけです。

過去の戦争犯罪(軍事)裁判でも...

極東軍事裁判やロシア革命の革命犯罪法廷、イラクの軍事裁判などを取り上げるまでもなく歴史は常に勝者(永続している侵略者)の言い分正義とし、敗者すなわち侵略され(服従を強いられ)た側言い分は認めないわけです。

第3項 入植・移住という名の融和策も東北には...  

入植・移住というのは、宗教(共通の倫理観)の布教とともに、常套手段としてして侵略者が使用する手法であり、

侵略地域の先住民に対する「融和策」の一つでもあります。

国際間では、西欧列強諸国が行った、南北アメリカ大陸のアメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、中南米諸国、オーストラリア、ニュージーランドなどへの「民間人移民」とキリスト教の「布教」は、征服した「先住民」との融和策として有効な施策でした。

日本においては、日向(宮崎県)薩摩・隼人(現鹿児島県)侵略に際して、日ノ本連邦が行った「既存植民地!」から地元の先住民(農奴!)を、新たな占領地に設けた荘園に強制移住!させて、地元種族同士で融和を図り、占領体制を固める!やり方でした。

明治維新後の北海道への開拓団の移住、戦前の「満州国」への日本内地からの移住等々に代表される「民間人レベル」の融和策でしたが...

第1目 残念ながら東北では

余りにも雪害がひどい東北各地では、他地域からの入植も困難なほどに大規模開拓は難しく、

維新後になって始めて日本三大開拓地と呼ばれる「成功を収めた福島県吹町区、青森県十和田市」くらいしか開拓地は見当たらず、しかも少数の地元藩士が入植できたにすぎず、北海道のように他府県から大勢の入植者を受け入れられる状況ではありませんでした。

※(歴史書を読みあさり)歴史家でもあった徳川家康が開幕した江戸幕府ですら、東北への民間人移住という融和策はとれなかった!訳です。

第2目 「白河の関より北にはぺんぺん草も生えない!」

江戸末期になって「朝廷」を担ぎ上げた、長州・薩摩を中心とする「官軍」と奥州連合・東北軍との間で戊辰戦争が起こり、再度「錦の御旗」の下につるんだ新政府軍に屈することとなり、「白河の関より北にはぺんぺん草も生えない!」、と東北日報を引き継いだ現・河北新報の創始者「一力健治郎」が嘆いた程の貧困が、第2次大戦後の1970年代まで続くこととなったわけです。

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《歴史ファンタジー》関連特集記事のご案内 

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後書き《 geopolitics と logistics 》シリーズについて

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当シリーズではLogistics(兵站)とGeopolitics(地政学)に関する"話題"を取り上げていますが...

同時に現状の"垢にまみれた人達"が推し進めている、初等・中等教育についても"問題を投げかけ"ている!

つもりです。

ポイント切り替えを誤った"狂育路線"が...

つまり、現行の大学入試を目指した「記憶力」に頼る"年表重視"の、歴史書・歴史教育では、「歴史的事実」が個別事柄として語られている場合が殆どです。

1番大事な「なぜそうなったのか?」と言う「相互間の因果関係・相関関係」が語られれいない場合が殆どで、「年号記憶」に終始しているわけです。

これでは、義務教育・高校教育を含めた一貫教育課程の「地理・歴史」が面白く無くて当然です!

更に初等数学・初等科学教育(理科)においても

与えられた課題解決には幾通りもの"論理過程"があり、更に条件付け次第では"いくつもの解"も存在!します。

特に現状の初等教育における"算数教育"では、日凶素患部が干渉した検定教科書?に記載された「1つの論理過程、一つの解」である模範解答を金科玉条のごとく押し付けて!います。

これでは日常の問題に即応した「臨機応変な思考力」を身に着けることはできません!

地政学そのものについて迄「枠にはめよう」!と...

最近、地政学アナリストを装った"正体不明の人物(団体?)"が、「判りやすい地政学入門シリーズ」と称して、Youtubeに"静止画投稿"を始めましたが...

彼らは「日本における「地政学」(独: Geopolitik)の学説」を盾に、地政学を狭い範囲に押し込んで、「広い意味での地政学geopolitics」から関心をそらそうとプロパガンダ!しています。

geopoliticsはborder(国境)territory(実効支配地)のlife lineであるtraffic networkつまりはlogistics(兵站学)とも密接に結びついていて、国防と密接な関係!にもあるわけです。

なので、USAでさえ時代(政権)によっては、"迫害"を受けてきた研究分野!でもあるわけです。

更に、その成り立ちから、戦後の日本では「垢にまみれた狂育者たちに毛嫌いされてきた"研究分野"」でもありますが...

地政学には学会は存在しない!

更に、世界的に統一された学会・協会(特殊法人)も存在しません!

(※NPO法人 国際地政学研究所?はあるようですが)

日本では地理学の一分野とされているようです。

つまり前途したように、"研究分野"ではありますが、一部の"職者?(思想家)"が唱えている様な狭義の「単なる学説」に則った学問分野ではありません!

地理学、経済論(経済学)、文明論(文化人類学・歴史研究・言語研究・政治学・社会学)、思想論(哲学・宗教)に跨る「民の営み・暮らし向き」、つまり文化圏・生活圏・経済圏どうしの"相関関係"を、為政者(国家権力)間の力関係(軍事力)ではなく、communityどうしの相関関係で解き明かそうとする研究分野です。

つまり、♥"タブーの無い自由な発想"を展開できる研究分野!なのです。

なので実践論に近く、中共でもっとも進んでいる!研究分野でもあるわけです。

明日を担う未成年層に、世界を知ることで日本の鉄道網の将来の姿を考える大人に育つように...

当シリーズでは、日本の鉄道網を中心に、日本国内事情だけではなく「人類皆兄弟!」が営む「地球規模での国家間の力関係(軍事力)、相互干渉(外交関係)」から考察して、21世紀の日本のLogistics、transportation(運輸)、Transport network のあるべき姿を探っています。

同時に未成年の「鉄オタ」や、某国のプロパガンダに乗せられた一部のお気楽な運輸族代議士が"ぶち上げた馬鹿げた整備新幹線建設推進プロジェクト妄想"に踊らされないで済むように、

「大きな視野・世界観」に下ずいて、鉄道事業を冷静に"俯瞰"出来る「常識を兼ね備えた、ビジョンのある"大人"に育つ」ことを願って寄稿しています。

勿論小生は右翼(金権慾?)ではありませんが...

赤(垢)にまみれた日凶祖?の教職員や、それを先導(煽動)している研究者・大学教員・教育アナリスト?たちのような"頭空っぽの理想酒義?者"でもありません!

次世代を担ってくれるはず?の"脳天気な若者たち"と、金権慾"にまみれた"お気楽な運輸族"の発言・政治活動と、その手先にされている「鉄道傾YouTuber」のコンテンツを眺めていて、日本の行く末を案じているだけです!

狸穴総研 代表 出自多留狸

※英単語の"多用"と"古文書"に使用される用語の解釈について(Revision 5)

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義務教育では日本語圏?の部族をまとめて大和民族・日本民族として、古来よりNation(統一国家)を形成してきたかのように、"洗脳狂育"を行っていますが...

これは、いまだ隣国を牛耳っている(元・両班(ヤンパン)共(※01)が大半を占める)「学閥」がプロパガンダしている「fantasy!(おとぎ話)」と大差ありません。

我が日本国の始祖(那の倭国;邪馬台国、大和政権)は、はっきり言ってEUのような寄り合い所帯で成立したFederation(連合組織・連邦)であり、president,(主宰者)、 chairman(議長)に当たるrepresentative(総代)はいても、

絶対的権力者emperor(皇帝)は居ません!でした。

参※01)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国国民と日韓関係 はこちら。

第1目 古文書研究屋?と鉄オタの共通点とは...

日本史を操っている"歴史屋!"は元来が古文書を紐解くことを生業(なりわい)とする国文学者!なので、専門用語(古文書中の正式表現・業界用語?)がお好き!です。

つまり専門用語を自慢げに吐きまくる「鉄オタ」と同じなわけです。

さらに歴史屋(国文学者)と「鉄道オタ」の共通点であり最大の弱点は、地理に疎い!ことです。

彼らが根拠にする"古文書"は三国志日本書紀の様に、(数百年経った)後年になってから語り継がれた「英雄・偉人伝説」に下ずいて"創作"された、epic(叙事詩)が大半です。

"台帳"などの実用・実務記録に関する古文書は軽んじていますつまり「おとぎ話大好き人間なのです。

つまり一般人と同じく司馬遼太郎を「歴史フィクション作家!」として評価するではなく、「歴史学者」として祭り上げてしまう過ち!に陥りやすい人たちです。

英単語を多用する理由は...

専門用語、特に歴史用語は、時々の為政者が都合の良い"造語"を編み出して、"古文書"に使用しているために、"同異義用語"が多く煩雑すぎる傾向にあるからです。

なので、"あいまい"かつ煩雑な表現"を避けるために、"事柄の性格"を的確に表す英単語の同意語を多用しています。

つまり国司・守護・藩主などの表現は、異なる時代の「時の政権(為政者)が明文化した制度」の下に、任官された職種(専門用語)で、実態(権限)は全て"≒"といえます。

日本語表現(単語)は前後関係に依存する場合が多い

更に日本語の表現(単語)は前後関係に依存する場合が多いために、一つの単語が多くの異なる事柄を示す場合が往々にしてあります。

例えば"地域"に関連する英単語は

  • ●Area(ほとんど手付かずの原野・空地!
  • ●Region(漠然とした地方・一帯
  • ●Zone(共通の条件;気象条件・河川流域・穀倉地帯・工業地帯などの同一条件を備えた地域
  • ●District(明確に区切られた,行政区などの区域!

などに細かく分類されているわけですが...

日本語、特に外来語起因のカタカナ単語では、「地域」を指す英単語localが、rural(田舎・田園地帯)と混同されて、本来は形容詞のregional (地方の)を用いるべき、regional line(地方交通線)や、rural line(田園路線)を(マスコミの連中は)"ローカル路線"としたり酷い場合は、「地方ローカル線の旅」などと、平気で蛇足表現を用いています!

つまりカタカナ外来語と、本来の英単語の意味がずれて終っている訳です。

国家!に関する表現
  • ●Federation(連合組織・連邦)
  • ●Nation(統一国家)
  • ●State(主権国家)
  • ●Dominion(イギリス帝国時代の自治領)※つまり中国王朝の"属国"であった当時の大和王国連合は一応自治を認められていたのでDominionということになります。
生活圏に関する表現
  • ●Tribe(部族)
  • ●Community(共同体)
  • ●Village(集落)
  • ●Municipality(自治体)
tribe(部族)間の縄張りに関する表現は
  • ●Territory(領土・実効支配zone)
  • ●Country(国土)※国土を表す表現で国家を示す表現ではありません!
  • ●Boundary(境界)
  • ●Frontier(Territoryのboundary)
  • ●Border(主権国家間の国境

として明確にしています。つまり国際間主権認められて無い単なるNation(統一国家)では、Territoryを示すboundaryはあってもborder(国境)を持たないわけです!

その他のTerritory(実効支配地・領土・領土)を"種別"する表現では
  • ●Emirate(首長国)
  • ●Manor,plantation(荘園)
  • Colony(植民地・入植地)
権威を表す表現としては
  • ●Emperor;皇帝
  • ●King;王
  • ●Sovereign;元首,君主,統治者
  • ●Lord;領主
  • ●Chief;首長・族長・酋長
  • ●Shaman;司宰・祈禱師・霊能者!?
  • ●Ruler;為政者
  • ●the exploited classes;搾取階級、特権階級、貴族階級=公家
組織 Top の職制
  • ●President(主宰者・大統領・総統)
  • ●Leader(引率者・座長)
  • ●Representative(総代)
  • ●Chairman(会長・議長)
職務(職権)を表す表現としては
  • ●Governor(chief executive officer):(官吏・役職としての)国司・守護・藩主・知事・総督
  • ●Officer;行政官は(※例えば大宰府転勤後の菅原道真の職制はofficerとなります)
  • ●Administrator (管理者)
  • ●Agent;代理人(目代・城代・代官・地頭 はadministrator であると同時にagentでもあったわけです)
  • ●manor owner(荘園主)≒ lord(領主、室町幕府末期の"地頭"も
又古文書記述用語は、できるだけ現代語・日常口語表現に口語訳?しています
  • 印綬;冊封国(属国)の認証印!を授かること。
  • ●"朝貢使";冊封国(属国)として、宗主国である中国王朝へ「臣下の礼」をとるための朝貢に覇権された外交使節団!

なので属国を示す冊封国(さくほうこく)"冊"はFrontierが正しく、borderではありません。

東北などで繰り広げられた出羽柵などの冊を巡る攻防戦はFrontierを巡るTerritory!争奪戦!だったことになります。

国文学者が「冊=中国王朝のFrontier」であると認めない理由は...

日本語ウィキペディアの起筆者などの歴史屋!は国粋主義者!国文学者が多く,

大和朝廷(政権)が『宗主国・中国朝廷の"属国"としてのお墨付きを得て、唐王朝のTerritory!拡大のための代理戦争!をしていた』ことを認める!と

中国王朝の傀儡政権!弥生人の大和政権(朝廷)の Nation(統一国家)&State(主権国家)説崩れてしまう!ためです。

あえて「柵は建造物として設けられていた施設であり、概念的なFrontierでは無い???」と唱えてるわけです...

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公開:2018年8月 5日
更新:2023年2月 9日

投稿者:デジタヌ

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