タヌキがゆく

東北での"先住民・縄文人 えみし 民族"と"渡来系混血・弥生人 大和民族 "との攻防の歴史...

前書き(要約) 大和朝廷 東北制圧!の歴史

何れ、最新の遺伝子化学が解き明かす、真の日本民族・縄文人"蝦夷(エミシ)民族"の謎に迫る...

東北をめぐる先住民・縄文人「蝦夷」と征服者・南方系混血・弥生人「大和朝廷」との内戦の歴史を「一大ファンタジー」としてとらえた、デジタヌの文明論レビュー記事。

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プロローグ 古代史は"シャーマン伝承文化"と"文字・宗教文化"の鬩ぎあい

日頃"勝者である大和朝廷側に立った歴史談義"が幅を利かせている状況で、征服された側・敗者の目から見た「正義」とは?を考えた一文。

植民地から出発して広い国土を"懐柔"と"買収"で拡張していったアメリカにはterritoryと言う都合の良い表現があります。

領土・縄張りを示す言葉ですが、我が国においても、先住民族である縄文人"蝦夷(えみし)"と連合国家"日乃本"を目指した新興勢力"弥生人(大和朝廷)"との壮絶なterritory争いをめぐるfrontier(国境)の攻防が繰り広げられていました!

そして、朝廷側の弥生人が国家統一?を果たしたわけですが...

本項では、史実「記録」に下づいて、どうして弥生人が"日乃本を席巻できた"のかを、文字(仏教)文化とシャーマン(祈禱師)口述文化という「文化論観点からの観点」から、考察してみました!

遺伝子化学が解き明かす「日本書紀 古事記」の噓!

最近の遺伝子研究の成果で、北回り廻船、南回り廻船の寄港地であった、熊野、鹿児島、富山、などのエリアの人たちの"顔つき"(骨格)が似通っているのは単なる偶然ではないことが、解き明かされてきています!

朝廷側が憎悪を込めて縄文人を"蝦夷"民族と命名して、その征伐?に当たる総大将を"征夷大将軍"に命じたのは、ネイティブ民族にとっては容認しがたい随分失礼な表現と言わざるを得ないでしょう!

小生・出自多留狸は、アテルイが田村麻呂の計らいで、熊野の同胞の元に落ち延びた経路に当たる、河内国を塒としており、母は徳島の旧家の出身です!

つまり、誇りある縄文人・蝦夷民族の末裔だと自負しています!

狸穴総研 文化人類学研究所 出自多留狸

第1節 "蝦夷(エミシ)民族こそ日本列島の先住民

"シャーマン伝承文化と採集文化に基づいた"蝦夷(エミシ)民族

義務教育で学習され?ご存じのとおり「陸続き」であった人類発生の頃、モンゴル、シベリア、カムチャッカ半島、北方領土?北海道、東北各地に縄文人の祖先たちが渡って来て、先住民文化を開花させ、一部は太平洋岸沿いに紀州熊野、九州南部(※1)、にもわたっていった。

今からおよそ1万2000年前になると土器が製作されはじめ、定住生活も始まった、縄文時代である。

縄文人によって、現在の秋田県域にも縄文文化が栄えた。

※参1)当サイト関連記事 鹿児島市《 タウン・ヒストリア 》"質実剛健・時代の先取り・エコノミー"が薩摩・隼人の伝統はこちら。

旧軍部により太平洋戦争中は「神代」(かみよ)の遺跡として扱われたストーン・サークル

縄文後期の墓地遺跡であるストーン・サークル(環状列石・石籬;せきり)が1931年(昭和6年)に確認された。1951年(昭和26年)と翌年の1952年(昭和27年)にも考古学研究の国営事業として発掘調査が行われたので全国的に知られるようになった。

その遺跡は鹿角市の大湯にあり、同規模の2つの環状列石で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡である。

やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルもある。

太平洋戦争中は旧軍部により「神代」(かみよ)の遺跡として扱われた。

北米大陸、南米大陸にまで及ぶ一つのながれ

当時の日本列島だけでなく、ベーリング海を超え北米大陸・中南米迄 シャーマン文化をもつウラルアルタイ系民族と呼ばれる種族の生活圏が広がっていった。

ウラルアルタイ系の特徴の一つは、採集文化と文字を持たないシャーマンによる伝承文化ともいえる。

インカ帝国、メキシコのアステカ文明全て文字を持たない文化・文明であった。

西洋人(キリスト教徒)の倫理観(※1)から見ると、祭司(シャーマン)が仕切るこれらの文化は野蛮で残虐にも映る一面もあわせもっていたが、象形文字を持っていたとされるマヤ文明等一部の文明を除き「文字による文化の伝承」はなかった。

※1、「征服者の色眼鏡」で当の西洋人も中世には「キリストの名」のもとにずいぶんと残虐な行為を行っていた。

農耕文化と文字・宗教で「理論武装」した弥生人と言われる南方系の移民文化

縄文人に加え西日本では、弥生時代頃から弥生人と呼ばれるユーラシア大陸東部からの移住民が増えたが「雑多な民族」は次第に統一されて、九州北部から近畿地方に拠点を移して統一国家が形成されて、後に「朝廷」と呼ばれるようになる。

"理論武装"した大和朝廷と呼ばれる渡来人集団?との闘い

大和朝廷側の立場に立った今の定説では、土器・石器に頼った採集民族であった野蛮な蝦夷民族(先住民・縄文人)を大陸渡来の金属(青銅器~後の鉄器)文化と「農耕文化」を背景にした弥生人(大和朝廷)が平定し、「日本を統一国家」に導いた、とされているが...。

見方を変えれば「文字を持たなかった先住民(縄文人)蝦夷民族」が「文字と仏教文化で理論武装した渡来人集団?」の大和朝廷との闘いの歴史と言えなくもない。

大和朝廷の侵略と植民地政策!

阿弖利爲(アテルイ)は処刑されていない!?

南方・大陸系の大和民族はその生い立ち故に、当時の中国数千年の歴史の恐ろしさ?を心得ており、「臣下の礼」を取り、遣隋使(600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に)そして「後618年に隋が滅び唐が建った」のちも907年に唐が滅ぶまで遣唐使を派遣し「臣下の礼」を取り続け、同時に大和朝廷が倭国を代表する唯一の政府であることをアピールした、倭国が大和朝廷によって国号を「日本」と改めたのは遣唐使派遣期間の8世紀のことである。

すなわち軍事力に物を言わせた「強大な中国」から「中国の属国」として「ちっぽけな日本国の独立」を守っていたことになる。

其の後鎌倉時代に、中国大陸が蒙古に占拠されるに至って、2度の来襲を受けることとなるのは諸兄ご存知の通り。

大陸文明(中国文明)文化を見習った大和朝廷は先住民(縄文人)蝦夷民族の支配地であった東北各地を侵略し一進一退を繰り返しながらも、次々と平定(征服)し支配地域としていった。

780年には出羽国府が秋田に移されたが、蝦夷(エミシ)民族(朝廷に属さない蝦夷:縄文人の末裔?)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び後退する。

802年1月9日 蝦夷の自治区・陸奥を平定(制服)するための拠点として陸奥国胆沢城を造営するために田村麻呂が陸奥国に派遣された。

大和朝廷側の記録文書『日本紀略』では、同年4月15日の報告として、蝦夷(エミシ)民族のリーダーである大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したと記されているが。

2人は田村麻呂に連行されて7月10日に平安京に到着、田村麻呂の助命嘆願にも拘わらづ、当時の朝廷高官(荘園主の公家)供の決定により、アテルイとモレは"河内国"で8月13日に処刑されたと朝廷の公式記録には記されていますが、確固たる検証は行われていません!

田村麻呂の配慮で難を逃れて奈良県の未開の山野に隠れ住んだとも伝えられており、ともに確固たる証拠はありませんが...

ただ、DNA調査では、河内から・紀州・熊野にかけて「蝦夷」「隼人」との類似点が指摘されていいます。

更にヤタガラスとともに有名な、「熊野の天狗」の面相は...

「荘園開発」という「植民地政策」

採集民族であった蝦夷民族に農耕を定着させ開墾を奨励したのは「先住民・蝦夷」の暮らしを楽にするためではない!

「都の公家供」の実入りを確保するためであった、すなわち朝廷側は征服した東北各地や九州南部旧日向国は「植民地」としてしか見ていなかったのである!

故にその後も重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷や隼人が大和朝廷側の傀儡政権・国守に対して反乱を繰り返したわけである!

東北では、元慶2年(878年)の元慶の乱(※大和朝廷側の記録名)や天慶2年4月17日(938年5月22日)の天慶の乱(※大和朝廷側の記録名)等が起こったわけだが、

当時公家と呼ばれる「特権階級」は、朝廷から俸給をいただく家臣(家来)ではなく、ローマ帝国の元老院組織のように、自前で糧を得ているいわば実業家集団でもあった。

つまり彼らは全国各地に積極的に荘園という名の「プランテーション開発」を行う必要があった訳である。

その監督官(総督)として都から「木っ端役人供」を派遣したり、地元の「朝廷に服した蝦夷」を配置したわけである。

当然朝廷も租税(実入り)確保の為に広大な直轄地を有し国府に役人(守)を配置していた。

やがて蝦夷の自治地域「陸奥国」は、大和朝廷のterritory(領有地)になることに...

元慶2年(878年)重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷の秋田城司に対する反抗として元慶の乱が起こった

朝廷は新任出羽守の藤原保則を派遣した。

保則は反乱制圧に「朝廷に服属したエミシ」を使うことで制圧に成功した。

しかしその後も天慶2年に再び天慶の乱が発生した。

奥州藤原氏は王朝文化に毒された朝廷の手先「俘囚の長」(裏切り者)だった!

この頃になると(地方豪族による)開墾田の私有が認められ、地方豪族の勢力が拡大した。

当時はこのようにエミシに対する朝廷の力は絶対的なものでは無かったが、その後朝廷に服属する「俘囚の長」と呼ばれたエミシ民族の地方豪族の力は次第に強大になっていった。

藤原氏の滅亡は因果応報?!

現在、天皇制を支持する主流派(朝廷派)の歴史学者は奥州藤原氏を称賛しますが...

地元民に支持されていたのならば、北へ落ち延びれたはずです!

藤原氏は傀儡政権であり、朝廷側公家共の荘園の単なる管理者「総督」にすぎなかったのでしょう!

豪華絢爛な平泉も、農民たちを搾取した結果であり、"血を絶やした"のも因果応報の末路ではなかったのでしょうか...

大和朝廷が衰えて地方豪族が台頭しだす

朝廷の律令政治が衰えるとともに(荘園の管理者に当たる木っ端役人供による)私有地の占拠が次第に増え、農民は有力豪族に頼り、蝦夷地の各所には豪族を中心とする武士集団ができた。

9世紀頃には太政官命令で、「勝手に開墾地を私有し農民を困らせてはならぬ」とのおふれが出る程であった。

地方豪族は重要拠点に分家を配して勢力を拡げていった、その中から陸奥の阿部氏(現安倍首相の先祖!)出羽の清原氏(後の奥州藤原氏)が現れた。

北上川中流以北に勢力を広げていた安部氏は地元民の立場に立った自治体制を取っており、朝廷への貢租・徴役は拒否し続けていた。

これを朝廷に対する反逆と見なし朝廷が討伐を企てたのが前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)である。

源頼義が陸奥守として討伐に向かう

しかし、当時の陸奥守や秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった源頼義が陸奥守として向けられ、七年以上にわたり戦いが繰り広げられることとなった。

頼義もわずか三千ばかりの手兵では討伐できずに、

横手付近に根拠を置き朝廷に属した「俘囚の主」(いわば転向組)と呼ばれる豪族・清原光頼に臣下の礼(家来になること)の形をとってまで援軍を依頼した。

清原光頼は弟・清原武則を大将とする一万余の兵を出して、安倍氏を駆逐した。

しかしこの後、武則の孫の代にいたって一族で内紛が起こり、これが後三年の役(永保3年(1083年) - 応徳4年/寛治元年(1087年))であり、この戦の後に清衡が奥州藤原氏となった

一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄えた奥州藤原氏

四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄えた奥州藤原氏の誕生である。

東北は大和朝廷の軍事力の影響下を離れ完全に地方豪族の支配下(自治区)にもどった。

藤原氏の統治方法は、代々押領使を世襲することで軍事指揮権を公的に行使して、併せて朝廷側の「公家供の荘園の管理」も請け負うというものであった。

ミニ京都と称される「平泉」などにみられるような艶やかな「公家志向」の公館で植民地政策を執行するいわば「総督」のような立場であった。

つまりは「都」の回し者、「傀儡(かいらい)政権」の親玉に過ぎなかった!

さらに出羽北部である秋田地方では荘園そのものも存在せず、公領(朝廷領地)制一色であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んでいたかは不明であると言われている。

征夷大将軍とは東北各地にとっては随分と失礼な称号でもある!

文治5年(1189年)、鎌倉幕府を創設し征夷大将軍となった源頼朝が19万の軍勢を率いて奥州討伐に向かった。

※その後の徳川家康も武家の総領として朝廷より「征夷大将軍」に任じられたが、征夷大将軍とはエミシ(蝦夷)を征伐(征服)する将軍という意味であり、武力をもって領土拡張する為の遠征軍の総大将を任じられたようなものであった。

征夷大将軍とは東北各地にとっては随分と失礼な称号でもある!ことになる。

隆盛を極めた藤原氏も、頼ってきた頼朝の弟義経をかくまったがために追討された、藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡の途中裏切りに遭い討ち取られた。

つまり、いかに配下の裏切りにあったとはいえ、大多数の農民・民衆が見方についていなかったためであろう?

東北各地の豪族支配(自治)が終わる!

数世紀にわたった豪族の支配も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に鎌倉幕府の支配下となった。

藤原氏を倒した頼朝は、御家人、地頭職を新たに東北各地に差し向けて、東北における大きな政治的転換点となったとされている。

頼朝が秋田に配した御家人成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などであった。

また奥州藤原氏に仕えていた由利氏のみ、そのまま由利地方を治めることとなった。

つまりはこれらの人々は「蝦夷」の末裔ではなく大和朝廷の傭兵集団・振興武家集団で弥生人の系統を引き継ぐ人たちであったといえる。

その後、室町幕府のころ日本海北部に勢力を持った安東氏(安藤氏ともいう)が津軽地方から南下して、安東愛季の時代に最盛期を迎えた。

横手盆地には戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力圏を持っていたが、秀吉が天下統一を果たして東北の武装集団も豊臣政権に服することとなった。

江戸幕府の執った「入組支配」

江戸時代幕府が開白されて、家康に実権が移ったのちも、「蝦夷の脅威」は変わらなかった、歴史書を読み漁り古今東西の歴史に精通していた家康とその家臣団は蝦夷勢力の復活を恐れ、東北における「入り組み支配」(※1)を徹底した!

例えば秋田県の場合、当初は西軍についた小野寺氏以外の諸大名は所領を安堵されたが、慶長7年から慶長8年の期間にかけてほとんどの大名が常陸国に転封(国替え)され、鎌倉以来となる長年の領主と住民の絆は切れた!

現秋田県の殆どを領していた久保田藩にしろ秋田実季(津軽安藤氏の末裔)が改易され、常陸国から転封された佐竹氏が立藩した藩であるし、由利郡でも山形藩主最上氏が改易され幕府領と中小の大名領に分割され、蝦夷の末裔は完全に排除されている。

このことが、幕末の戊辰戦争勃発前後の久保田藩内の重臣によるクーデターなどによる歩調の乱れにも繋がり、秋田県域諸藩の奥州列藩同盟からの離脱と維新政府軍(官軍)参加(寝返り)などにも繋がったとみるのはあながち 「うがった見方」でも無いように思われる。

さらに言えば、秋田新幹線が、会津若松・新庄を結ぶ山形新幹線を避ける形で盛岡から伸びて、大曲で大曲?していることも新庄⇔大曲間の冬季の尋常ならざる積雪を避けるためだけではないのかもしれない...。

※参1)

入組支配とは江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対して頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策

このために明治維新後も全国各地で府・県・郡・村の離合集散が繰り返された。

複雑に入り組んだ支配で、各支配地(郷)間で待遇(身分)・処遇(年貢)に大きな格差が生じていた。

歴史は繰り返される

このように「歴史は繰り返される」の言葉通り、東北各地は冬季「雪に閉じ込められる貧困」故に、時の為政者・中央政府側からみると反乱・一揆の歴史を繰り返し、その都度「為政者に鎮圧」されてきたことになる。

江戸末期になって「朝廷」を担ぎ上げた、長州・薩摩を中心とする「官軍」と奥州連合・東北軍との間で戊辰戦争が起こり、再度「錦の御旗」の下につるんだ新政府軍に屈することとなり、「白河の関より北にはぺんぺん草も生えない!」と東北日報を引き継いだ現・河北新報の創始者「一力健治郎」が嘆いた程の貧困が第2次大戦後の1970年代まで続くこととなった。

世界的に見ても、大航海時代のスペイン王国、大英帝国、などは世界各国に植民地を造り、先住民を服従させて彼らから膨大な財宝を略奪して本国に送り、国本は繁栄を謳歌していたのは史実である。

大英帝国がイギリス連邦となり、スペインの植民地も次々と独立し、列強と呼ばれたヨーロッパ諸国の植民地も独立していった20世紀後半も、第2次大戦の傷跡として、嫌われ者?のユダヤの民(富)を「終戦のどさくさ紛れ」にパレスチナの地に追いやり建国と称して占領させ、今もって多くのパレスチナ難民を創出したにもかかわらず、彼らのシオニズムは「正義」?とされている。

極東軍事裁判、イラクの軍事裁判などを取り上げるまでもなく歴史は常に勝者(永続している侵略者)の言い分正義とし、敗者すなわち侵略され(服従を強いられ)た側言い分は認めない!

入植・移住という名の懐柔策

入植・移住というのは、宗教(共通の倫理観)の布教とともに侵略者が常套手段としてして使用している支配地域の先住民に対する「懐柔策」の一つでもある。

日本においては、日向(宮崎県)薩摩・隼人(現鹿児島県)に対する大和朝廷支配地からの友好先住民の移住、明治維新後の北海道への開拓団の移住、戦前の「満州国」への日本内地からの移住等など。

そして国際的にも、西欧列強諸国からのアメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、中南米諸国、オーストラリア、ニュージーランドなどへの「移民」とキリスト教の「布教」は、征服した「先住民」の懐柔策として有効な重要策であった。

残念ながら東北では

余りにも雪害がひどい東北各地では、他地域からの入植も困難なほどに大規模開拓は難しく、維新後になって始めて日本三大開拓地と呼ばれるほどの成功を収めた福島県吹町区、青森県十和田市くらいしかなく、少数の元藩士ぐらいしか入植できず、北海道のように他府県から大勢の入植者を受け入れられる状況ではなかった。

歴史書を読みあさり歴史家でもあった徳川家康が開幕した江戸幕府ですら移住という懐柔策はとれなかった。

「先住民と移住者との闘いで」みると理論武装は武力よりも強し!

いっぽうで歴史を振り返ってみると、最初に述べた通り「文字・宗教の理論武装が先住民達のシャーマンによる伝承文化を征服せしめた」ともいえるわけです。

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後書き《 geopolitics と logistics 》シリーズについて

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当シリーズではLogistics(兵站)とGeopolitics(地政学)に関する"話題"を取り上げていますが...

同時に現状の"垢にまみれた人達"が推し進めている、初等・中等教育についても"問題を投げかけ"ている!

つもりです。

ポイント切り替えを誤った"狂育路線"が...

つまり、現行の大学入試を目指した「記憶力」に頼る"年表重視"の、歴史書・歴史教育では、「歴史的事実」が個別事柄として語られている場合が殆どです。

1番大事な「なぜそうなったのか?」と言う「相互間の因果関係・相関関係」が語られれいない場合が殆どで、「年号記憶」に終始しているわけです。

これでは、義務教育・高校教育を含めた一貫教育課程の「地理・歴史」が面白く無くて当然です!

更に初等数学・初等科学教育(理科)においても

与えられた課題解決には幾通りもの"論理過程"があり、更に条件付け次第では"いくつもの解"も存在!します。

特に現状の初等教育における"算数教育"では、日凶素患部が干渉した検定教科書?に記載された「1つの論理過程、一つの解」である模範解答を金科玉条のごとく押し付けて!います。

これでは日常の問題に即応した「臨機応変な思考力」身に着けることはできません!

地政学そのものについて迄「枠にはめよう」!と...

最近、地政学アナリストを装った"正体不明の人物(団体?)"が、「判りやすい地政学入門シリーズ」と称して、Youtubeに"静止画投稿"を始めましたが...

彼らは「日本における「地政学」(独: Geopolitik)の学説」を盾に、地政学を狭い範囲に押し込んで、「広い意味での地政学geopolitics」から関心をそらそうとプロパガンダ!しています。

geopoliticsはborder(国境)territory(実効支配地)のlife lineであるtraffic networkつまりはlogistics(兵站学)とも密接に結びついていて、国防と密接な関係!にもあるわけです。

なので、USAでさえ時代(政権)によっては、"迫害"を受けてきた研究分野!でもあるわけです。

更に、その成り立ちから、戦後の日本では「垢にまみれた狂育者たちに毛嫌いされてきた"研究分野"」でもありますが...

地政学には学会は存在しない!

更に、世界的に統一された学会・協会(特殊法人)も存在しません!

(※NPO法人 国際地政学研究所はあるようですが)

日本では地理学の一分野とされているようです。

つまり前途したように、"研究分野"ではありますが、一部の"職者?(思想家)"が唱えている様な狭義の「単なる学説」に則った学問分野ではありません!

地理学、経済論(経済学)、文明論(文化人類学・歴史研究・言語研究・政治学・社会学)、思想論(哲学・宗教)に跨る「民の営み・暮らし向き」、つまり文化圏・生活圏・経済圏どうしの"相関関係"を、為政者(国家権力)間の力関係(軍事力)ではなく、communityどうしの相関関係で解き明かそうとする研究分野です。

つまり、♥"タブーの無い自由な発想"を展開できる研究分野!なのです。

なので実践論に近く、中共でもっとも進んでいる!研究分野でもあるわけです。

明日を担う未成年層に、世界を知ることで日本の鉄道網の将来の姿を考える大人に育つように...

当シリーズでは、日本の鉄道網を中心に、日本国内事情だけではなく「人類皆兄弟!」が営む「地球規模での国家間の力関係(軍事力)、相互干渉(外交関係)」から考察して、21世紀の日本のLogistics、transportation(運輸)、Transport network のあるべき姿を探っています。

同時に未成年の「鉄オタ」や、某国のプロパガンダに乗せられた一部のお気楽な運輸族代議士が"ぶち上げた馬鹿げた整備新幹線建設推進プロジェクト妄想"に踊らされないで済むように、

「大きな視野・世界観」に下ずいて、鉄道事業を冷静に"俯瞰"出来る「常識を兼ね備えた、ビジョンのある"大人"に育つ」ことを願って寄稿しています。

勿論小生は右翼(金権慾?)ではありませんが...

赤(垢)にまみれた日凶祖?の教職員や、それを先導(煽動)している研究者・大学教員・教育アナリスト?たちのような"頭空っぽの理想酒義?者"でもありません!

次世代を担ってくれるはず?の"脳天気な若者たち"と、金権慾"にまみれた"お気楽な運輸族"の発言・政治活動と、その手先にされている「鉄道傾YouTuber」のコンテンツを眺めていて、日本の行く末を案じているだけです!

狸穴総研 代表 出自多留狸

 

公開:2018年8月 5日
更新:2022年8月16日

投稿者:デジタヌ

TOP鉄道事業者 に課せられた『 旅客需要追従 』と『 旅客創出・利益誘導型 』の2つの命題


 

 



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