狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

東北にみる縄文人・蝦夷の「シャーマン伝承文化」と侵略者!弥生人の「文字文化」の鬩ぎあい!とは...

副題 歴史は"書き換え"できても"DNA"は書き換えられない!

(要約)弥生時代に入っても「蝦夷の勢力圏」は数の上で勝っていた!

何れ最新の遺伝子工学が解き明かす、日本列島の Native Japanese;縄文人"蝦夷(エミシ)民族" vs 新生・弥生人の攻防の歴史に迫る一大ファンタジー...

歴史屋?の古文書愛好家・国文学者が「古代史を筆先で改竄」できても、

史実・事実を示す遺跡をerase(消し去る)したり、遺骨のDNAを rewriting(書き換え)たりはでき無い!わけです。

何れは、考古学者と遺伝子研究者等の科学者が「捏造された古代史の fake を暴く!日」が来るでしょう。

文書(仏教)を受け入れながった自然崇拝のshaman・口承文化があだとなり

見方を変えれば稲作は受け入れても、紙・記述文化(仏教=僧侶・技術者・学者)を受け入れなかった、自然崇拝の shaman 伝承文化の縄文人・蝦夷部族が、中国仏教の戒壇(仏門認証・身分制度)に下づいた文化で理論武装!した『渡来人による傀儡政権大和王権に征服された!とも言えなく無いわけです。

東北にみる"シャーマン伝承文化"の先住民・蝦夷と"文字・宗教文化"の新生弥生人の鬩ぎあいとは... の目次

※ハイパーリンク、その他についての御断り

(Version5,Revision2 ー2023年9月22日改訂版)

直接 hyper-link は、当事者・関連団体の Official website 若しくは、"コトバンク"(ジャポニカ等の編纂者が特定できる百科事典・辞書)へリンクするように心がけております。

但し(参※xx) は当サイト内の参照関連記事へのリンクです。

※当サイトは"横町の物知り隠居"出自多留狸の匿名・個人サイト

当サイトは"横町の物知り隠居"出自多留狸が開設している匿名・個人サイトです。

なので academic paper とは異なり、分かりやすさにフォーカスして、出所(作者)不明の一般 Web content (Youtube動画、ウィキペディア)なども積極的に引用・共有させていただいています。

※各国版の"まとも"!なGoogle 人工知能翻訳を推奨

但し"wikipedia"は政治色とcommercialismがi濃く色濃く!偏った異見!が蔓延っており!

出来るだけ作者・編纂者が明確な"コトバンク"(百科事典)や、各団体の Official site にリンクして、レアものについては関連当事国の言語版 Wikipedia へリンクしております。

外来文化!?に関しては

外来文化!?についての日本語ウィキペディアは(USAの主張が色濃く出ている)米語版の"直訳版"が多く、

更に「翻訳者?の主観・主張」も強く表れている content が殆ど!なので、オリジナルの各国語版・原典版!にリンクしています。

英単語優先!表記について

更に,末尾の断り書き※歴史専門用語の英単語表現について で説明したように、できるだけ歴史制度用語(国文学用語)に頼らないように英単語表現を用いて専門歴史用語を整理しています。

本ファンタジーについて

(Version2,Revision2. ー2023年9月23日改訂)

本レビュー記事は、出来る限りの"記録"(時系列)に下ずいた史実と、科学(工学・地政学※000)的 な検証"を行ってる semi-documentary ですが...

前途した様に引用・共用 content にも、"出所(作者)不明"の得体のしれない代物も数多く含まれています。

なので、事実と異なる場合もあります。

つまり筆者の"億測"を交えた fantasy?(創作物)でもあります。

なので登場する各団体とは直接関連はありません?

また各団体では"答え難い『大人の事情(利害・思惑』つまりあまり触れられたくない内容!"も含まれています。

本ファンタジーに関して各団体への問い合わせはご無用に願います。 \(^_^ )( ^_^)/

参※000)当サイト関連記事 一研究分野にすぎない geopolitics(地政学)の"概念研究 theme とは... はこちら。

★前書き 国文学者・国粋主義者により改竄された古代史!

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日頃"征服者!である大和朝廷側に立った歴史談義"が幅を利かせている状況で、征服された側・敗者である縄文人・蝦夷民族の目から見た「正義」!とは何なのか?を考えた一文です。

本項では、史実「記録」に下づいて、どうして新生弥生人の傀儡政権が"日本列島を席巻"できたのか?を...

自然崇拝シャーマン(祈禱師)伝承文化と、文書文化(仏教文化)という「文化論観点」から考察してみました!

第1項 遺伝子工学と考古学が解き明かす「古事記・日本書紀」の噓!

現在、目代たちによって、大日本帝国復興!が画策されており、nationalism国粋主義)の国文学者が旗頭となって Propaganda を繰り広げていますが...

彼らの Fake は、最新科学によって覆されてきています!

参※)当サイト関連記事 卑弥呼は歴代 representative の称号!「邪馬台国」は首長国!の Federation!だった はこちら。

最近の遺伝子研究の成果で...

(国文学者・国粋主義者が「神代の昔!」として語り継いでいる)江戸時代に始まった北回り、南回り廻船が生まれるずっと以前の古代・石器時代から...

日本列島先住民の縄文人(狩猟・採取文化・原始民主主義集団!)の勢力分布と、稲作(青銅器・鉄器文明)と身分制度(農奴!)戒壇(認証制度)を持ち込んだ大陸系渡来人との混血

「新生・弥生人」の勢力分布が明らかとなってきました!

つまり神代の昔などは存在しない、御伽噺!にすぎないわけです。

第2項 先住民・蝦夷と渡来人・傀儡政権「大和王権 Federation 」との死闘!

植民地から出発して広い国土を"懐柔""買収"で拡張していったアメリカにはFrontier(Territory境)と言う都合の良い表現があります。

中国には冊封国(さくほうこく);主権を持たない属国!という言葉があり、共に宗主国のTerritory(領土・実効支配地)のboundary(境)つまりFrontierを表す表現です!

そして紀元以来、約1000年の長きに渡り歴代中華王朝の冊封国;属国の道!を歩んだ、

渡来人弥生人の傀儡政権だった大和王権 Federation が、7万年!の歴史を持つ先住民族・縄文人が暮らしていた「"蝦夷(えみし)の倭国」に侵略して、territory争いをめぐる壮絶な冊(Frontier)を巡る攻防が繰り広げられたわけです。

参※)当サイト内関連記事 日乃本の起源・弥生人の邪馬台国は統一国家ではなく「女系シャーマン率いる小国の連合体 "那の倭国連邦!"だった はこちら。

第3項 傀儡政権「大和王権」が「蝦夷の倭国」を征服!した

新生・弥生人(那の倭国 Federation )が憎悪を込めて先住民・縄文人を"蝦夷"民族と命名して、

その征伐?に当たる総大将を"征夷大将軍"に命じたのは、ネイティブ民族"縄文人"にとっては容認しがたい「侮辱的な表現」と言わざるを得ないでしょう!

小生・出自多留狸は、蝦夷のChief(酋長)公阿弖利爲(アテルイ)と shaman(巫女・祈禱師)盤具公母礼(モレ)が、田村麻呂の計らいで「熊野の同胞の元」に落ち延びた経路に当たる河内国を、塒(ねぐら)としており母も徳島の蜂須賀小六の家臣団(縄文人系)の出身です!

つまり、「誇りある縄文人・蝦夷民族の末裔!」だと自負している一人です。

★プロローグ 縄文人・"蝦夷(エミシ)民族こそ日本列島の Native People

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アフリカ大陸で旧石器時代の現生人類ホモサピエンスが誕生したのが約20万年前!といわれていますが...

第1項 日本列島誕生より古い!先住民・縄文人(蝦夷民族)の起源

日本列島が、ユーラシア大陸から完全分離する前、南端と東端で日本海(巨大湖)を挟んで大陸と繋がっていた約7万年前に我々の先祖縄文人が、

(マンモスなどの多くの動物を追い求めて北上してきた)現生人類の亜流「ウラルアルタイ系民族」が移り住み、現在の日本列島全域でnative people「縄文人」蝦夷として暮らしだした!わけです

そして今から約1万2千年前に、日本列島がプレート移動でユーラシア大陸と分離されて、(中央にあった巨大湖が)両端で太平洋と繋がり!日本海となって大陸と分断されて日本列島が形成された!といわれています。

つまり日本列島の形成より約6万年も前からnative people「縄文人」蝦夷暮らしていた!訳です。

第1目 自然崇拝"シャーマン伝承文化に基づいた縄文人"蝦夷(エミシ)民族

今からおよそ1万2000年前日本列島が形成(完全分離)された頃に、土器の製作と定住生活も始り、縄文時代となったわけです。

つまり現在の東北各地や、熊野、九州南端の日向・薩摩・隼人(※100)等の日本列島全域に縄文人(蝦夷)による縄文・文化が芽生えていたわけです。

※参100)当サイト関連記事 鹿児島市《 タウン・ヒストリア 》"質実剛健・時代の先取り・エコノミー"が薩摩・隼人の伝統はこちら。

第2目 太平洋戦争中は旧軍部により「神代」(かみよ)の遺跡」として扱われたストーン・サークル

戦前の1931年(昭和6年)に秋田県鹿角市十和田大湯で「古代・縄文時代後期(金石併用時代)」の遺跡であるストーン・サークル(大湯環状列石・石籬;せきり)が、発見されました。

敗戦後の1946年に発掘調査が行われ、1951年(昭和26年)(※11)と翌年の1952年(昭和27年)には国家事業(文化財保護委員会)として発掘調査が行われましたが...

同規模の2つの環状列石で構成された遺跡群で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡です。

やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルもあり、太平洋戦争中は旧大日本帝国軍部により「神話集"古事記・日本書紀」に記された「神代(かみよ)の時代?」の遺跡として扱われていました。

※11)いみじくも小生の生まれた年!です。

第2項 稲作を携えて渡来した新生・弥生人

渡来当初は少数派だった稲作を携えて渡来した新生・弥生人は、稲作以外に"風土病"も持ち込み、風土病に対する免疫が無かった縄文人の数を減らしたのも国文学者・国粋主義者たちが触れない史実でしょう。

そして、彼らは大陸王朝の庇護(バックアップ)を受けた"傀儡政権"として、「冊封国(さくほうこく)=属国」「那の倭国」連合の道を歩みだし、次第に縄文人の「蝦夷の倭国」を侵略・制覇していくわけです。

第1目 世界史(世界の外交史)に初めて登場する日本列島「那の倭国」は

後述する様に西暦607年の遣隋使に委ねた書簡(国書)で「那の倭国」を代表する大王(おおきみ)?として「日乃本宣下」を行ったわけですが...

中国最初の統一王朝・後漢(25年→220年)の光武帝(BC6→西暦57年)が皇帝在任中(西暦25→57年)に、「那の倭国」の元首?卑弥呼(女性シャーマン・祈禱師)に「属国・冊封国(さくほうこく)」として「那の倭国」を認証!した"認証印"として金印(属国承認印)を印綬したわけです。

なのでそれ以降は"ユーラシア大陸"の歴代の皇帝・知識人の間では、三国志の一節「魏志倭人伝」にも記述されている"中国統一王朝の属国"として、那の倭国「邪馬台国連合!」が広く認知」されていたわけです!

魏志倭人伝とは...

魏志倭人伝は3世紀末(280年(呉の滅亡)→297年(陳寿の没年)の間)西晋の陳寿により草稿された伝承『三国志』の中の1節。ただし記述された3世紀ごろの邪馬台国連邦!の情報を基にしており、金印を領布した西暦25年→57年当時の、邪馬台国の状況を表す古文書ではありません!

さらに『三国志』そのものが...

さらに『三国志』そのものが、後漢(25年→220年)から西晋王朝(265年→316年)建国迄の歴史を、伝承・や古文書にヒントを得て「創作された一大叙事詩!」であり、

古事記・日本書紀同様に著作者「陳寿」の「個人的"解釈・創作"」が随所にちりばめられた(歴史資料とはかけ離れた)fiction・創作物・fantasy(おとぎ話)と解釈するほうが妥当な古文書です。

参※)当サイト内関連記事 邪馬台国は地方国家ではなく女系シャーマン率いる共和国の寄り合い所帯 「那の倭国」連邦だった! はこちら。

いずれにせよ...

いずれにせよ、逆説的には古事記(712年編纂)の700年近く以前!の光武帝時代(25年→57年)の髄の時代から、

那の倭国連邦連邦」には、青銅器の刀剣と農耕具を使った稲作と、そして「文字(漢字)」文化が、渡来技術者(僧侶)によってもたらされていた!ことになります。

※ご承知の通り「かな文字」は平安時代になってから「表音文字」として発案された「純国産」文字なので、それ以前(言語体系が異なる日本では)は、「表意文字としての漢字を使った「漢文」で古文書が草稿されていたわけです。

第2目 西暦607年の遣隋使に委ねた"国書"で初めて「日乃本」宣言した大和国

聖徳太子;大和国の大王(おおきみ)が、当時の中国統一王朝""に対して、

冊封国(さくほうこく);属国!として送った外交使節団の"朝貢使"が遣隋使(600年→618年)です!

数度の"正式"(※12)な!"朝貢使"を派遣していた時期に、(何度目かの)遣隋使(西暦607年)に委ねた書簡(国書)で、「日乃本」宣言をしてその後は国名を「那の倭国」から日乃本と改称された!とされています。

つまり遣隋使を始めた頃は那の倭国」表す金印が押捺されていたのでしょう。

注※12)金印の印綬以来大陸とは正式な使節団以外にも、(前途した様に3世紀に寄稿された魏志倭人伝にも記されているように)民間人レベルで「僧侶・技術者・留学生・職人等の交流」があったはずですが、これらの"非公式"な史実(記録・古文書・私文書)は残って(発見されて)いません!

聖徳太子の日乃本宣言の狙いは...

つまり、大陸の専制国家・超大国()を、宗主国として認めることで、小国の日本列島を侵略から守り植民地!化させないように、「臣下の礼」をとって、先手を打ったのでしょう!

"自治権"をもった冊封国(さくほうこく)=属国として認めさせるために...

前回の遣隋使で隋から持ち帰った"紙"にしたためた"国書"に、自らが「邪馬台国」を引き継いだ正統・日本列島の統一国家!「那の倭国」の後継「日ノ本」のsovereign(元首;大王(おおきみ))であり、自治権をよこすならば!冊封国(属国・兄弟国!)に"なってやってもよい"ぞ!印綬された金印を押捺した"国書"親書で宣言したのでしょう。

つまり「那の倭国・日乃本」は自らをsovereign(元首;大王(おおきみ))として擁立した"統一国家"であることを装った、外交策!であったわけです。

隋の emperor が激怒したという有名な逸話は...

隋の emperor(皇帝)が「聖徳太子の親書に激怒した」というのは「日之出国の天子より日の没する国の王へ...」の下りで激怒したのではなく!

「金印を押した冊封国(さくほうこく;属国)のChief(酋長)の分際!

でありながら、主権を持つsovereign(君主)の様に対等!の立場を主張した内容!にあったのでしょう。

まあ、朝貢使の謁見に同席した"隋"の通訳・学僧が、「那の倭国は野蛮な"未開人が暮らす属国!"なので、漢字(漢文)を心得た人物がいない!?のでは...」とかなんとか「その場を繕った」のでしょう。

前途した様に、唐が滅びるまで、"朝貢使"による朝貢(配下の礼)をとり続けたので、

その後中国を占領!した元(1271年→1368年)の様に、日本列島に攻め入ることはなかった!のでしょう。

血統的(遺伝子的)にも、弥生人は漢民族に近く、縄文人の様に"元"と同じ流れをくむ「ウラルアルタイ系民族」とは異なり、親類?として扱ってくれたのでしょう。

その後に続く大和王権の大王(おおきみ)も

事実"隋"が滅びた後の唐(618年→907年)が滅ぶ907年まで、幾度の"朝貢使"(遣唐使)を派遣して「臣下の礼を取り続け、同時に大和王権が日本列島(倭国)を代表する唯一の政権であることをアピールし続け、と「蝦夷の倭国」との交流を妨げ、大和王権 Federation の優位性を維持したわけです。

「日本語ウィキペディア」で日本初の歴史書???!とされている古事記(712年編纂)は...

前途した様に、漢字伝来より数百年を経過して、日本初の叙事詩!(fiction!fantasy!)が起草されたのは、製紙技術の伝来とも関係があるわけです!

聖徳太子の、倭国宣言(西暦607年)から100年以上!たった和銅5年(712年)に(漢文で)編纂された古事記は、

当時の大和王権の"大王(おおきみ)"を正当化するために、取り巻き(支援者・後援会!)の搾取階級・公家の一人、太安万侶が、面々と受け継がれてきた?口承・伝承神話!ヒントを得て!

大王の公式出生証明となる家系縁起を"創作!"して、「大和国の大王(おおきみ)に献上」した"私文書"にすぎません!

その後に編纂された日本書紀(720年編纂)と同様に、遣隋使の頃に仏教伝来と同時に僧侶(技術者)が持ち込んだ文字(3世紀には体系化されていた漢字)により、口頭伝承されてきた legend(神話・昔話)を文字化(文書化)した、神話集!昔話集にすぎないわけです!

これらは、autocracy(専制政治)を行っていた中国大陸・唐(618年→907年)の emperor(皇帝)に対して、遣唐使が携える"親書"の発行者である自称「天子」が、新生・日乃本の主権者?である証(あかし)としての添付書類!(出生証明)に用いられたのでしょう。

※しかしながら。歴代の中華王朝の emperor(皇帝)(とその側近の学者・有識者)は当時バイブルとなっていた三国志の中の1節「魏志倭人伝」にある女帝?卑弥呼が率いる邪馬台国が日本列島の「真の自治政権」であったことを衆知していたので、天照大神神話には興味が無かった!でしょう。

つまり、「卑弥呼の血統を継ぐ正当な後継者」を示す根拠は、「押捺された金印封印しかなかったでしょう!

つまりは所期の目的である対外的(外交上の)な、日ノ本連合の主権者?大王(おおきみ)を証明する、血統書・出生証明にもなら無かった!わけです。

第4目 当時の書簡は木簡・竹簡(ちっかん)の時代だった

非公式の民間レベルでは大陸と「蝦夷の倭国」との交流(交易)も...

「縄文人・蝦夷民族は文字文化の無い文盲!の口承・伝承の部族だった」とする説が多いようですが...

非公式レベルでは「蝦夷の倭国」も"大陸"と交流(交易)があり、銅製品・鉄器などと共に"漢字"も伝わっていたと推測できます。

古代弥生時代初期から遣唐使の始まる古代天平文化の頃までの、朝貢使(600年→618年の遣隋使)が再開される前は日本列島には、中国の製紙技術(紀元前140年~87年に発明)は伝来しておらず、遣隋使以前の時代の「書簡」は木簡・竹簡(ちっかん)が主流の時代でした。

縄文遺跡から木簡・竹簡は出土していないが...

縄文人(蝦夷)の遺跡の出土品に木簡・竹簡(ちっかん)は見つかっていません!が...

厳しい東北の気候、特に河川沿いに開けた定住地(遺跡)では「凍結⇔浸透」の繰り返しによる木簡・竹簡の割れなどの影響で、朽ち果てたものと推測できます。

802年の坂上田村麻呂によるアテルイ拘束

後述するように西暦802年5月19日に蝦夷討伐!に差し向けられていた坂上田村麻呂が、最後まで抵抗していた部族のChief;大墓公阿弖利爲と盤具公母禮、部族一統500余人を武装解除して、阿弖流為とモレを都に連行したわけですが...

京への伝令に公阿弖利爲(アテルイ)や盤具公母礼(モレ)といった風に「正式な名称?」が記されていたのは「田村麻呂」の東北遠征に同行した書記官が「当て字」で戦記を記したのではなく!

それ以前の大和王権と友好を保っていた当時朝廷側から拝名したということになっていますが、

紙・文字文化の存在は承知していても...

つまり、反乱?が起こる前からすでに、紙・文書が蝦夷夷社会にも伝わっていた!ことは間違い無い様ですが...

紙・文書文化を伝来させた遣隋使(600年→618年)以来200年も経過していて、日本日本列島に紙・文書文化が定着していた当時でさえ、蝦夷陣営では、日常の政(まつりごと・祭事)に、文書に記された祝詞(のりと)などは用いずに、口承されてきた"呪文"を用いていたのでしょう!

そういう点では、紙・文書文化とは縁のない"文盲"部族!であったのは間違いないでしょう。

★第1節 北米大陸、南米大陸にまで及ぶ自然崇拝 Shaman 口承文化

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当時の日本列島だけでなく、ベーリング海を超え北米大陸・中南米迄広範囲に、渡り

shaman(祈禱師)による多神教自然崇拝"口承"文化をもった、ウラルアルタイ系民族と呼ばれる狩猟・採取民族の生活圏が広がっていった訳です。

第1項 "原始民主主義の蝦夷部族"同士の共存共栄策がとなった!

第1目 ウラルアルタイ系部族の特徴は

  • ●狩猟・採取による「営み・暮らし向き」
  • ●文字を持たない自然崇拝のシャーマン(祈禱師)による政(祭事)と口承・伝承文化
  • ●Chief(酋長・族長)の指揮下で、互いの役割分担を果たす原始民主主義!

以上3つの文化背景を持った、ウラルアルタイ系民族の特徴は、シャーマン(祈禱師)の占いによる自然崇拝の"原始民主主義文明"ともいえるわけです。

そしてに日本列島では、沖縄のノロやユタ、東北恐山のイタコに代表されるように、「(女性シャーマン)巫女」が神(天)からのお告げを、民に伝える!祭事・政(まつりごと)の中心人物となっていたわけです。

稲作と文字文化で、先住民縄文人の「蝦夷の倭国」を征服した!弥生人の「那の倭国」大和政権(朝廷)でも...

大化の改新(645年 → 650年)から100年後!の大仏建立(745年→752年)の時点ですら、大王(おおきみ)の妃(きさき)が大きな政治権力を行使して、政(まつりごと;祭事)に関与していた!ことが知られています。

共存共栄の生活圏・経済圏では強大な軍備は持て無い!

男性のChief(酋長)は、主に「狩猟や敵対する種族との戦闘のleader(先達)Commander(指揮官)」として部族・Community,Village;(生活共同体)をまとめていたにすぎないのでしょう。つまり、共存共栄で結ばれた部族間では、大和王権Nation(organization)の様に"連合軍"を組織できる組閣力は無く!

各部族単位(少人数)で、強大な連合軍と戦う事となり、数にものを言わせた軍事力で「しらみつぶし作戦」を取られると、屈していくしか仕方なかった!訳です。

第2項 全て文字を持たない文明だったインカ帝国、アステカ文明

西洋人(キリスト教徒)の倫理観(※1)から見ると、祭司(シャーマン)が仕切るこれらの文化は、野蛮で残虐にも映る一面もあわせもっていたわけですが...

象形文字を持っていたとされるマヤ文明等一部の文明を除き「文字による文化の伝承」は無く口承による伝承文化だったわけです。

※1、「征服者の色眼鏡」で当の西洋人も中世には「キリスト教布教」の名のもとに、ずいぶんと残虐な行為を行っていました。

★第2節 日乃本 Federation の「侵略と植民地政策!」

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★第1項 中華王朝に「臣下の礼」をとっていた"倭国 Federation!"

前途した様に、稲作と文字(漢字)をもたらした大陸系渡来人との混血・弥生人はその生い立ち故に、中国数千年の歴史の恐ろしさ?を心得ており、「臣下の礼」を取り、遣隋使(600年~618年)の18年間に)そして「その後618年に隋が滅び唐が建った」のちも、907年に唐が滅ぶまで遣唐使を派遣し「臣下の礼」を取り続け、同時に大和王権 Federation が倭国(後の日乃本)を代表する「唯一の Nation(政権)」であることをアピールし続けた訳です。

第1目 日乃本と改めたのは7世紀!

倭国が大和連邦政権によって国号を「日本」と改めたのは、前途した様に聖徳太子が朝貢の為の遣隋使派遣を始めてのちの607年の遣隋使に所持させた「那の倭国金印」を押した書簡(国書)に、日出国「日ノ本」を名乗ったのが最初とされています。

その後、派遣した学生(僧侶)が持ち帰った書簡・資料で「隋の律令制」を学び、大化の改新(645年 → 650年)を行い大宝律令(701年制定)を制定して、「国家の体裁」を繕い、連れ帰った僧侶(技術者)により、銅山開発が成功して、国産銅!による国産銭貨(銅銭)の発行(※30)和同開珎に繋がり、その後の(国分寺・国教制定に伴う)奈良の大仏(745年→752年)建立につながる、大量の銅と、金箔に用いる大量の"金"完全国産化!が達成されたわけです。

※参30)、和同開珎以前の通貨!、青銅器製武器・農機具は中国から輸入されていました!

第2目 「臣下の礼」が隋・唐の日本侵略を未然に防いでいた!

すなわち軍事力に物を言わせた「強大な中国」から、「中国の属国」になることで「ちっぽけな日本列島の独立」を守っていたことになる訳です。

其の後鎌倉時代に、中華王朝が蒙古に征服されて占拠されて元が誕生して、2度の来襲を受けることとなるのは諸兄ご存知の通り。

第2項 弥生人政権"日乃本 Federation "の「蝦夷の倭国」東北への侵略は...

大陸文明(中国文明)文化を見習った日乃本Federation(大和王権)は、先住民(縄文人)蝦夷民族の Territory だった東北一帯を侵略して、一進一退を繰り返しながらも、次々と平定(征服)しTerritoryとしていった訳です。

第1目 8世紀に一進一退を繰り返した日乃本 Federation

780年には出羽国府が秋田に移されましたが、蝦夷(エミシ)民族(日ノ本連邦に属さない蝦夷:縄文人の末裔?部族)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び南方に敗退することに...

気候変動による凶作も影響を?

日本史創作家?は英雄伝説を好み、武力抗争(出入り?)の記述のみを取り上げますが...

「地学的に地層を分析」すればこの間に何度も冷害・飢饉が生じていたことが証明できます!

武力だけではなく自然災害で、「日ノ本Federationが撤退」した可能性も非常(非情!)に高い!訳です

つまり、再び気候が安定?(小康状態)したので田村麻呂の派兵となったのでしょう。

第2目 阿弖利爲(アテルイ)は処刑されていない!?

前途した様に

802年1月9日の田村麻呂の陸奥派兵

蝦夷の自治区・陸奥を平定(制服)するための拠点として、陸奥国胆沢城を造営するために田村麻呂が陸奥国に派遣されました。

日乃本 Federation 側の記録文書『日本紀略』では、同年4月15日の報告として、蝦夷(エミシ)部族のリーダーである公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したと記されていますが...

母盤具公母礼(モレ)まで拉致された訳は

母盤具公母礼(モレ)まで拉致された訳は、彼女が阿弖利爲酋長率いる部族500人の、中心指導者「女性シャーマン」だったに他なりません!

つまり、指導者2人を捕縛すれば、残りの部族は求心力を持つLeader(首領)を失った有象無象に民で、日ノ本 Federation の植民地「荘園」の労力"農奴"!として活用できるわけです。

その後"都に公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が連行"される! 

2人は田村麻呂に連行されて7月10日に平安京に到着、田村麻呂の助命嘆願にも拘わらづ、

当時の朝廷官吏荘園主の公家)共の決定により、8月13日にChief(族長)アテルイとその実母つまり女性シャーマンの大巫女モレは「"河内国"処刑された?」と朝廷の公式記録(古文書)には記されてますが...確固たる証拠(阿弖流為塚?)は発見されていません。

第3目 阿弖利爲と盤具公母礼は熊野に逃がされた!?

数多くの状況証拠

伝・阿弖利爲の」首塚は、旧河内国の枚方(ひらかた)市にあるそうですが...

確固たる証拠(人骨)は見つかって(発掘)いません!

  • ●グレーのマークは城跡・砦跡・関所跡
  • ●旅人マークは古代:日乃本成立(伝741年)以前からある峠道
  • ●紫ランドマークは古墳(王墓)
  • ●緑色のさざ波マークは棚田
実は容易い熊野落ち

確固たる証拠はありませんが、多くの状況証拠が...

公阿弖利爲と盤具公母礼は大和国南部の非武装地帯!を経由して、同朋の暮らす熊野に難を逃れたのではないでしょうか?。

熊野国に至る峠道はさほど険しくない!

GoogleMapを拡大するとお分かりいただけるはずですが...

熊野古道の出屋敷峠(標高660m)は現R168号線沿いの旧天辻峠(標高700m)に至る街道と比べて意外と険しくありません

更に、旧大塔村(現五条市内!)、十津川村一帯は、自給自足の農地程度で、年貢を納められるような、荘園(農耕地)を持つ城跡や砦跡はほぼほ0で、江戸幕府成立以降に街道警護(関所)の為に築城されたにすぎず、802年当時はマタギが暮らす"非武装地帯!"であり、当時の国境(旧大塔村と旧五条市)を過ぎ、旧本宮町(現田辺市)まで「修験者?またはマタギ」の案内で、落ち延びれば、同朋の住む熊野国に落ち延びれたわけです!

阿弖利爲と盤具公母礼はもともと東北マタギ!一族

更にもともと東北のマタギである阿弖利爲と盤具公母礼は、獣肉(狩猟)や・木の実・キノコ(採取)などといった、山里の暮らしには慣れており、案内人(マタギ・修験者)さえいれば、難なく熊野の同朋の基へ落ち延びれたわけです。

熊野国は、国主・荘園主ともに地元の代理人!

更に、大宝律令で熊野国になってはいたものの、熊野は完全には日乃本 Federation には加入しておらず!

荘園主もほとんどが地元出身で、都の公家共とは違い「自治を守っていた!わけです。

河内国には、縄文人が多い!

最近のDNA調査(分析)で河内には縄文人が多く住んでいたことがわかっています!

理由は簡単で、当時は(奈良盆地と違って)大阪平野(河内平野)の大部分は河内湖と湿地帯が占め!

陸稲(りくとう)に近い古代米を、作付け出来る耕作地は、河内国では生駒山地の山麓南部では中百舌鳥古市古墳群のある羽曳野丘陵泉北丘陵、そして楠木正成で有名な金剛山地や、和泉山脈の山麓にある谷合にしかなく、日乃本Federation(大和王権)の貴族たちの荘園は、奈良盆地に集中していた!からです。

更に、生駒山地は嘗て鉱山(銅山)が開かれていた地帯でもあり、さらには大勢の「河内マタギ」も暮らしていた山系でもあります。

骨相学的にも...

冒頭で述べたように、小生(の家系)は、「縄文人」の特徴を多く有しています!

祖父、親父とその兄弟(叔父・叔母)は、京都・奈良辺りの弥生人(渡来人)系とは異なり、鼻が高く(立派)で、骨格がしっかりしていて、「がたい」が立派で、美人・美男子!が多い家系です。

更に、実母は蜂須賀家の(地元出身)家臣つまり・縄文人の家系です。

なので、小生も...

わが愚妻は安倍貞任の子孫

更に・わが愚妻は安倍貞任の子孫で、蝦夷の末裔でもあります。

しかも、ご近所から亡き実母によく似ている"!といわれます。

決して高くはありませんが立派なお鼻の持ち主です!

まあ「類は友を呼ぶ」の例え通り、お互いに何か惹かれるところがあったのでしょう!

★第3節 やがて蝦夷の自治領「陸奥国」は、日ノ本Federationのterritory(領有地)になることに...

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元慶2年(878年)に重い税や、労役の苦しみに耐えかねた蝦夷の秋田城司に対する反乱として元慶の乱が起こりました。

日乃本 Federation は藤原保則を新任の出羽守(でわのかみ)Governor(国司)として派遣しました。

保則は「朝廷に服属したエミシ(俘囚)」を使うことで反乱制圧に成功しました。

しかしその後天慶2年にも再び天慶の乱が発生しました。

第1項 「荘園開発」という「植民地政策」

狩猟・採取民族、つまりは流浪民であった蝦夷部族を定着させ、開墾させたのは「先住民・蝦夷」の暮らしを楽にするためではありません!

都で贅沢三昧!をして"のほほんと暮らす!"「公家供の実入り」を確保するためであったに他なりません!

すなわち日ノ本Federation(大和王権)は、征服!した東北各地や九州南部旧日向国は、colony(荘園;植民地)としてしか扱わず!

当然農民も「colonyの付属品!"農奴"」してしか扱わなかったわけです。

第1目 東北各地・九州南部では度々の反乱

故に、その後も重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷や薩摩・隼人が、日ノ本Federation(大和王権)の傀儡政権・国司(Governor)に対して反乱を繰り返したわけです!

東北では、元慶2年(878年)の元慶の乱(※大和連邦側の記録名)や天慶2年4月17日(938年5月22日)の天慶の乱(※大和連邦側の記録名)等が起こったわけです。

当時公家と呼ばれるthe exploited classes(搾取階級!)は、朝廷から俸給をいただく家臣(家来)ではなく、ローマ帝国の元老院組織のように、自前で糧を得ているいわば実業家集団でもあったわけです。

つまり彼らは全国各地で、積極的に荘園という名の「plantation(植民地・大規模農園開発」を行う必要があった訳です。

そのchief executive officer(代理人)として都から「木っ端役人供」を派遣したり、「朝廷に服した地元の転向組!蝦夷(俘囚)」を配置したわけです。

当然大和 Federation の議長国大和王権の"大王(おおきみ)"も租税(実入り)確保の為に広大な直轄地を有して、国府にadministrator,agent(管理者・目代)を配置していたわけです。

★第2項 律令制(日ノ本連邦)が崩壊して地方豪族が台頭しだすと...

中央政権の律令政治の衰退とともに、荘園のadministrator,目代(に当たる木っ端役人供による)私有地の占拠が次第に増え、農民は有力豪族(武装集団・山賊?)に頼り、蝦夷の各所には豪族を中心とする"武士"が出現しました。

9世紀頃には太政官命令で、『勝手に開墾地を私有し農民を困らせてはならぬ』とのおふれが出る程でした?が...(※しかしこれも怪しい、律令制度・平安期末期においても、農奴を抱える荘園(plantation)は健在!であり、もとより農奴は困り果てていた!わけです。)

★第1目 農奴を解放して自治政権を樹立して人心を掌握した阿部氏

地方豪族は重要拠点に分家を配して勢力を拡げていきました、その中から前途した陸奥の阿部氏(故・安倍元首相の先祖!)、出羽の清原氏(後の奥州藤原氏)が出現したわけです。

北上川中流以北に勢力を広げていた安部氏は、地元(農奴)の立場に立った自治(解放)体制を取っており、中央政権の大王(おおきみ)・公家共への貢租・徴役は拒否し続けていました。

これを「中央に対する反逆」と見なした大和王権が、討伐を企てたのが前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)です。

源頼義が陸奥守として討伐に向かう

しかし、当時の陸奥守や秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった源頼義が目代(陸奥守(むつのかみ)として指し向けられ、七年以上にわたり戦いが繰り広げられることとなったわけです。

頼義もわずか"三千ばかりの手兵"では歯が立たず、

横手付近に根拠を置き朝廷に属した「俘囚の主」(転向組と呼ばれる豪族・清原光頼に臣下の礼(家来になること)の形をとってまで援軍を依頼したわけです。

清原光頼は弟・清原武則を大将とする一万余!の兵を出して、安倍氏を駆逐しました。

★第3項 一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄えた奥州藤原氏

しかしこの後、武則の孫の代にいたって一族で内紛が起こり、これが後三年の役(永保3年(1083年) - 応徳4年/寛治元年(1087年))であり、この戦の後に清衡が奥州藤原氏となり荘園管理者(agent,administrator )に収まるわけです。

四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄えた奥州藤原氏の誕生です。

第1目 奥州藤原氏は「地元蝦夷の世に戻した!」が...

東北は中央政権の影響下を離れ、完全に蝦夷支配(自治区)にもどったわけですが...

藤原氏の統治方法は、国司と地領(荘園)を世襲することで、公的に権力行使!して、

併せて政権側の「公家供のplantation(&の農奴!)の管理」も請け負うというものでした。

ミニ京都と称される「平泉」などにみられるような艶やかな「公家志向」の館(やかた)で、都の搾取階級・公家共の荘園管理を執行するいわばGovernor(知事)、chief executive officer(執行官)、そして荘園のadministrator (管理者)を請け負うagent,(代理人)でもあったわけです。

つまりは「都」の回し者、「傀儡(かいらい)政権」のagentに過ぎなかった!訳です。

さらに出羽北部である秋田地方では「公家の荘園」そのものも存在せず、大和連邦議長国(大王国)の領地一色であったため、どの程度まで奥州藤原氏の所領が及んでいたかは不明であるとも言われています。

いずれにせよ、農奴を解放した阿部氏とは異なり、再び平安朝の農奴制度に下ずく「colony(植民地),plantation(大規模農園)!」制度に逆戻りした!わけです。

第2目 奥州藤原氏は王朝文化に毒された朝廷の手先・裏切者俘囚の長」(寝返り蝦夷!)だった

この頃になるとagent,として雇われたが目代が開墾した(荘園)の私有も認められ、豪族の勢力が拡大しました。

当時はこのように目代に対する朝廷の力は絶対的なものではなくなていましたが...

その後朝廷に服属する「俘囚の長」と呼ばれたエミシ民族出身の「寝返り組」の雇われ目代の権力(武力)は次第に強大になっていきました。

★第4節 征夷大将軍とは東北人が容認できないと侮辱的な称号!

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文治5年(1189年)、鎌倉幕府を創設し征夷大将軍となった源頼朝が19万!もの大軍勢を率いて奥州討伐に向かいました。

※その後の徳川家康も武家の総領として、朝廷より「征夷大将軍」に任じられましたが、征夷大将軍とはエミシ(蝦夷)を征伐(征服)する将軍という意味であり、武力をもって領土拡張する為の遠征軍の総大将を任じられたようなものでした。

第1項 史実だったのか?創作逸話!だったのか...

注※40)ここで疑問(矛盾)が生じるのが、19万!もの大軍をどうやって、布陣させたか!です。英雄伝説大好きの歴史屋!と「鉄オタ」は何ら疑問を抱かないのでしょうが...

前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)の源頼義か"三千ばかりの手兵"を行軍させれたのは「多少のサバ読み(水増し)」を考慮しても納得の行く数値ですし、援軍の奥州藤原の援軍一万余!も、多少の水増しはあっても移動距離から考えて妥当でしょう。

遠路はるばる19万人!の大軍勢の行軍となると...

しかし、遠路はるばる19万!の大軍を、数週間もかけて遠征させるとなると、行軍に関するlogistics(兵站)の問題を抱えることとなります。

いくら、梅干し・干飯などの携帯食だとしても、19万人と、軍馬の消費する兵糧は膨大な量!となります。

これだけの、兵糧!と兵器(弓矢)を荷車の車列(荷駄)でカバーしようとしても、当時の traffic(往還網)では不可能!です。

更に、奈良時代は全国に立派な高速街道(早馬伝令)が整備されて、通信(書状)は確保されていましたが...

「よく知られているように、幅の広い、排水設備の完備した高速道路」?でしたが...

とりあえず最短距離「直線」を優先したために、山野も直線で結び、斜面がきつく、とても荷駄(大八車、牛舎)logistics(兵站)に使用できるような代物ではありませんでした

しかも、時代が下って12世紀にもなると、往還道は完全に廃れて山野に戻っていました!

当時のtrafficでは不可能!

つまり19万人が話半分!の10万人の軍勢だとしても、実際の遠征(行軍)を考えてみると、当時のtraffic(往還路;街道)では不可能!だったのではないでしょうか!?

仮に?沿道の日ノ本 Federation 側の"荘園管理者(地頭)"の全面協力があったとしても、奥州まで荘園(集落)が連なっているわけでもなく...

長期に渡る遠征(行軍)は不可能だったはずです!

しかもすべて直参の手勢・家臣団と、頼朝 organization(政権)に賛同加担した関東武家で賄ったことになっていますから...

更に当時の日乃本の全人口は、現在に比べて桁違いに少なかった!わけで、いくら関東全域から挙兵させたとしても、19万人もの大軍勢記述は、後に戦記(古文書・行軍記)を編纂した「勝者側の創作家!」の大法螺(ホラ)話!でしょう!。

つまり現在の歴史屋!(古文書研究家)が論拠とする"古文書"とはその程度の「きわめて信憑性に欠けた・考証されていない贋物・創作私文書」がほとんどなわけです。

第2項 征夷大将軍はスペインの南アメリカ征服の総大将コルテスと似たり寄ったり!

征夷大将軍とは東北各地にとっては随分と失礼な称号でもある!ことになるわけです。

隆盛を極めた藤原氏も、頼ってきた頼朝の弟義経をかくまったのを口実!に追討されて、藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡途中に、配下の裏切りに遭い討ち取られました

つまり、いかに配下の裏切りにあったとはいえ、搾取していた民衆(農奴!)を見方につけることができなかった!ためでしょう。

第1目 奥州藤原氏の滅亡は因果応報!

現在、天皇制を支持する主流派(朝廷派)の歴史屋(古文書研究家!)は奥州藤原氏を称賛しますが...

地元民に支持(慕われ)されていたのならば、北へ落ち延びれたはずです!

藤原氏は、大和王権の傀儡政権・寝返り蝦夷であり、のちの鎌倉幕府の地頭( plantation owner)同様に、(大和王権 Federation の)搾取階級である公家共の代理人(agent)荘園の管理者にすぎなかったわけです。

豪華絢爛な平泉も、農奴!を搾取した結果であり、"血を絶やした"のも因果応報の末路だったのでしょう。

第2項 東北各地の豪族支配(自治)が終わる!

数世紀にわたった蝦夷出身地方豪族の支配も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に鎌倉幕府の支配下となりました。

藤原氏を倒した頼朝は幕府を開き、崩壊した律令制度に代わって新たに法度を制定して、御家人(家臣)を、Agent(守護(=国司)や地頭(荘園管理者))として東北各地に差し向けて、東北における大きな政治的転換点となったとされています。

(※ただし、制度が変り称号が変わっただけで、守護職=Governor=国司、地頭はmanor(荘園) の landlord,(管理者)であり、元となる階級制度(農奴制度)は踏襲されていました)

頼朝が秋田に配した御家人(家臣)成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などでした。

また奥州藤原氏に仕えていた由利氏のみは、そのまま地頭として由利地方(の荘園)を治めるlandlord(管理者・代官)とされました。

つまりはこれらの人々は「蝦夷」の末裔ではなく「日乃本Federation」の「構成員!」である搾取階級の元地方豪族出身者の傭兵・新興"武装集団"であり、混血・弥生人の系統を引き継ぐ人たちであったといえます。

その後室町幕府のころになり、日本海北部で勢力を伸ばした地方武家の安東氏(安藤氏ともいう)が津軽地方から南下して、安東愛季の時代に最盛期を迎えました。

横手盆地では戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力圏を競っていましたが、秀吉が天下統一を果たして、東北の地元武家も豊臣政権に服することとなりました。

★第5節 江戸幕府の執った反乱防止策!「入組支配」

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江戸時代幕府が開白されて、家康に実権が移ったのちも、「蝦夷の脅威」は去りませんでした。

(歴史書を読み漁り古今東西の歴史に精通していた)家康とその家臣団は、蝦夷勢力の復活を恐れ、東北における「入り組み支配」(※1)を徹底しました!

例えば秋田県の場合、当初は(西軍についた)小野寺氏以外の諸大名は、所領を安堵されましたが、慶長7年から慶長8年の期間にかけてほとんどの大名が常陸国に転封(国替え・左遷!)され、鎌倉以来となる長年の「領主と住民の絆」は途切れました!

★第1項 転封(転勤!)改易(解雇!)と、所領の細分化!の嵐

現秋田県の殆どを領していた久保田藩は、秋田実季(津軽安藤氏の末裔)が改易(解雇!)されて領地召し上げ!となり、常陸国から転封(転勤!)された佐竹氏が立藩した小藩で、由利郡でも山形藩主最上氏が改易(解雇!)されて、幕府領(直轄地)と中小の大名所領に細分割され、蝦夷の末裔は完全に排除されました。

明治維新・戊辰戦争にもつながる潮流

このことが、幕末の戊辰戦争勃発前後の久保田藩内の重臣によるクーデターなどによる、藩政の歩調の乱れにも繋がり、現秋田県域にあった諸藩の奥州列藩同盟からの離脱と、維新政府軍(官軍)参加(寝返り)などにも繋がったとみるのはあながち 「うがった見方」でも無いでしょう。

さらに言えば、現秋田県会津若松・新庄を結ぶ山形新幹線延伸を拒否!するように、秋田新幹線が盛岡から伸びて、大曲で大曲?していることも、新庄⇔大曲間の冬季の尋常ならざる積雪を避けるためだけではないでしょう!

入組支配

江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名(外様)に対して頻繁に「転封(転勤 )・減封(領地召し上げ)、改易(解雇)・領地召し上げ」を行い、旧所領を集落単位!分割して、地方の統一・団結を阻む政策で

具体的には、外様大名の所領(Territory)を「集落ごとにまで細分化!」して、徳川の旗本・譜代の所領(飛び地)として分割統治する手法。

このために明治維新後も全国各地で府・県・郡・村の離合集散が繰り返されました。

この結果、複雑に入り組んだ支配で、各支配地(郷)間で待遇(身分)・処遇(年貢)に大きな格差が生じて市域紛争(農民一揆)の火種ともなっていました。

※小生が生まれ育って今も済み続けている南河内の我が故郷では、東北同様に、知行地が集落単位にまで細分化されて、小生の村は旗本領!、南隣の村は小田原藩!、東隣は天領!といった具合に、数町歩(数Hr)ごとに区切られて、それぞれ"年貢"が異なり、とくに小田原藩領では飢饉!の時にも年貢米の取り立てで苦しみ、人身売買(女郎、農奴など)、一家心中、一家離散、等の「悲惨を極めた」そうです。

さらにその隣村では、全村域が別の集落の豪農!に買い取られて、村人全員が小作以下の農奴!(水飲み百姓)に貶められて、明治維新後も被差別部落として差別を受けていました。

★エピローグ 歴史は繰り返される!

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★第1項 「先住民と侵略者との闘い」でみると理論武装は武力よりも強し!

「歴史は繰り返される」の言葉通り、東北各地は冬季「雪に閉じ込められる貧困」故に、時の為政者・中央政府側からみると反乱・一揆の歴史を繰り返し、その都度「為政者に鎮圧」されてきたことになります。

そして歴史を振り返ってみると、最初に述べた通り「弥生人の文字・宗教による理論武装が、先住民達のシャーマンによる伝承文化を征服せしめた」ともいえる訳です。

★第2項 嘗て帝国主義の欧米列強が行った植民地政策!

世界的に見ても、大航海時代のスペイン王国、大英帝国、などは世界各国に植民地を造り、先住民を服従させて彼らから膨大な財宝を略奪して本国に送り、国本が繁栄を謳歌していたのは史実です。

そして自然崇拝の原始宗教(多神教)のシャーマン(祈禱師)文化に対する、文字文化(ラテン語・英語)に根差した「耶蘇教の布教・浸透」がその背景にあるわけです。

第1目 正義とは勝者の論理!?

大英帝国がイギリス連邦となり、スペインの植民地も次々と独立して、海洋帝国・列強と呼ばれたヨーロッパ諸国の植民地も次々独立した20世紀後半でも、

ナチスドイツのnationalism国粋主義!)の結果引き起こされた第2次大戦ヨーロッパ戦線の傷跡として、欧米の嫌われ者?「ユダヤの民(富)」を、列強がもともと植民地として占拠していたパレスチナの地へ、「終戦のどさくさ紛れ」に追いやって建国と称して占領!させて、今もって多くのパレスチナ難民を創出したにもかかわらず、彼らのphilosophy(哲学・宗教)シオニズムは「正義」とされている!わけです。

過去の戦争犯罪(軍事)裁判でも...

極東軍事裁判やロシア革命の革命犯罪法廷、イラクの軍事裁判などを取り上げるまでもなく歴史は常に勝者永続している侵略者)の言い分正義とし敗者すなわち侵略され(服従を強いられ)た側言い分は認めないわけです。

★第3項 入植・移住という名の融和策も東北には...  

入植・移住というのは、侵略者が常套手段として宗教(共通の倫理観)の布教とともに、用いる手法であり、

侵略地域の先住民に対する「融和策」の一つでもあります。

国際間では、西欧列強諸国が行った、南北アメリカ大陸のアメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、中南米諸国、オーストラリア、ニュージーランドなどへの「民間人移民」とキリスト教の「布教」は、征服した「先住民」との融和策として有効な施策でした。

日本においては、日向(宮崎県)薩摩・隼人(現鹿児島県)侵略に際して、日ノ本Federationが行った「既存植民地!」からの先住民(農奴!)の強制移住!、つまり新たな占領地に設けた荘園に強制移住!させて、地元種族同士で融和を図り、占領体制を固める!やり方でした。

明治維新後の北海道への開拓団の移住、戦前の「満州国」への日本内地からの移住等々に代表される「民間人レベル」の融和策でしたが...

第1目 残念ながら東北では

余りにも雪害がひどい東北各地では、他地域からの入植も困難なほどに大規模開拓は難しく

維新後になって始めて日本三大開拓地と呼ばれ「成功を収めた福島県吹町区、青森県十和田市」くらいしか開拓地は見当たらず、しかも少数の地元藩士が入植できたにすぎず、北海道のように他府県から大勢の入植者を受け入れられる状況ではありませんでした。

※(歴史書を読みあさり)歴史家でもあった徳川家康が開幕した江戸幕府ですら、東北への民間人移住という融和策はとれなかった!訳です。

第2目 「白河の関より北にはぺんぺん草も生えない!

江戸末期になって「朝廷」を担ぎ上げた、長州・薩摩を中心とする「官軍」と奥州連合・東北軍との間で戊辰戦争が起こり、再度「錦の御旗」の下につるんだ新政府軍に屈することとなり、『白河の関より北にはぺんぺん草も生えない!』と東北日報を引き継いだ現・河北新報の創始者「一力健治郎」が嘆いた程の貧困が、第2次大戦後の1970年代!まで続くこととなったわけです。

★後書き《歴史を顧みて学ぶ目的は?... 》シリーズについて

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(9月2日♥敗戦記念日!版ーVersion1,Revision5ー

人は歴史からは何を学ぼう?とするのでしょか...

歴史に「もしもあの時」はありません!

つまり過去に立ち戻り歴史を替えることはできません!

しかし過ぎ去った過去を振り返ることによって、

『より良き人類の未来に向かって歩むための"教訓"を得る!ことはできますが...

事実関係が明確に解き明かされていない『Fake からは有益な情報(教訓)は得られない!』のです。

第1項 観念論で騙ろうとする文科省体制下の狂育怪・歴史屋の Fakeとは...

歴史屋・有識者?(古文書愛好家)の親睦会!?は...

考古学者達の"学会"とは異なり、"国粋主義者"が主流を占る思想家!・国文学者の親睦会!であり、

現在の為政者である政権よとう(夜盗?)に都合よくねじ曲げられたシナリオに基づいて、

『史実を改竄(創作!・捏造)した Fake の日本史 fiction!(作り話)を創作して流布している!』のです。

つまり、隣国K国の両班(ヤンパン)学派共がもっともらしく流布!している fairy tale(御伽噺)と大差ないわけです。

『事実ではなく・観念論で騙(かた)られた fairy tale からは有益な情報(教訓)など学び取れ無い!です。

第1目 文科省・総務省(官僚)体制下の "お花畑"では取り上げない真実

明治の大日本国帝国憲法と、戦後日本の日本国憲法の違いは...

根底に流れるDemocracy(民主主義)とAuthoritarianism(権威主義)の相違にあります!

嘗ての『"ベ平和連"等の平和市民活動?はリベラル政治結社に唆(そその)かされて、ideology 論争(権力闘争)に利用された!』にすぎません...

第0目 飛鳥時代から続く権威主義の官僚制度は今も生き続けている

御伽噺!『日本書紀』によれば

推古11年12月5日(604年1月11日)に始めて冠位十二階の制定などの国制改革が日本で行われ、官に12等があると『隋書』倭国伝に記されている...身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作る...646年...大化の改新...中央(朝廷)による統一的な地方統治制度を創設...《日本語ウィキペディアより引用

今も生き続けている鉄道関連法!は...

charter(特許)に縛られて「お伺い!(廃止許可申請)が必要な軌道法!」と、 「"廃止届"で済ませる、"鉄道事業法"」の違いは、遵守する constitution(憲法)の違いなのです。

敗戦後のDemocracy(民主主義)に下ずく日本国憲法を遵守した法律は少ない

稀代の悪法)全幹法(※00)に繋がる日本鉄道建設公団法も、「国家公務員法、国家行政組織法の虚(不備)を突いて!」

明治の大日本帝国憲法(1890年11月29日施行)以前の(奈良時代!からあった!官吏の分類(1886年)親任官制度を引きずる官僚制度!つまりAuthoritarianism権威主義!)に下ずいた「恣意的独裁主義!を大幅に認めた憲法違反の法令!なのです。

参※00)当サイト関連記事 よとう(夜盗!)整備新幹線建設推進派の拠り所「全幹法」は憲法違反の立法! はこちら。

官僚・政治ゴロ・軽罪怪の癒着構造!

「官僚・政治屋・経済怪の癒着構造」は今に始まったことではありませんが...

Authoritarianism権威主義!)の象徴ともいえる大日本国帝国憲法制定で顕在化したといっても過言ではないでしょう!

第2目 highbrow,bureaucrat ,mass media(journalist)が"挙って煽り・遂行!"した大東亜戦争...

大東亜戦争(侵略戦争)も、「軍部が起こして軍部が継続させた???」のではありません!

"火をつけて焚きつけた!"のは一部のhighbrow(財怪人),bureaucrat(官僚)とPropagandaの旗頭となった朝日・NHKなど mass media ( journalist )共です!

空白の2週間に日本人を襲った数多くの惨劇
  • ●1945年6月26日 対日戦線連合国「United Nations」成立
  • ●同年7月26日 ポツダム宣言(無条件降伏要求)プレスリリース!
  • ●同年8月15日 大日本帝国が玉音放送!(降伏声明記念日!)
  • 1945年9月2日 大日本帝国が無条件降伏文書へ調印し、正式に終戦・敗戦!

毎年8月15日玉音放送記念日?が近ずくと、NHKを筆頭にmass mediaが敗北記念"特殊"番組(とくしゅうばんぐみ)を"放映しますが...

8月15日は終戦記念日ではありません!真の終戦は"無条件降伏文書"への調印日9月2日です!

彼ら communism を信奉する journalist 共は、この空白の2週間に起こった惨劇を隠蔽!してしまったのです。

旧・CCCP(独裁者スターリン)が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、大日本帝国のTerritory(領土)旧大韓帝国満州国北方領度侵攻し、日本人社会への略奪・拉致・抹殺・殺戮を行い、白旗をあげている大日本帝国を侵略したのです。

近年過激度を増した mass media の戦争責任逃れの appeal,promotion

近年は、切り抜き・偏向編集で、遺族の方の同意も得ずに!

当時の教育者・地方自治体役人の戦争遂行責任を追及するような"disrespect"番組を放映する傾向が強くなっています!

『お亡くなりになった先人への哀悼の意を表するとともに、遺族の方へは謹んでお悔やみ申し上げます。』

存命していたならば小生の父も強い怒りを感じたでしょう!

町役場の徴兵係だった父は退役していたにもかかわらず自ら志願して大陸戦線に赴きました!

参※)当サイト関連記事  patriotism(愛国心)は nationalism(国粋主義!)とは別物! はこちら。

第3目 許せない mass media(journalist)の大東亜戦争!続行 Propaganda 責任回避態度

敗戦処理として行われた仕上げ(極東国際軍事裁判!?)においても...

彼らは戦争責任を全て軍人に押し付けて、自らは「USAお得意の司法取引」で極刑を逃れ!戦争責任を回避して生き延び

その後も highbrow,bureaucrat 共つまりgoverning classes(支配階級)、the exploited classes(搾取階級)、米国(軽罪怪)の悪人共と結託して、私達 citizen(庶民)に戦後復興期・高度成長期というDelusion(妄想)を抱かせて「洗脳」し続けてきたのです。

敗戦後も踊り続けさせられている一般市民

1945年の敗戦後、世界の警察??? USAの腰巾着!、Democracy(民主主義)の斥候!そしてバックヤード要員として、

USAの highbrow(軽罪怪!)扇動する恣意的戦争「朝鮮動乱ベトナム戦争中東戦争反イスラーム主義」を支え続けているのです。

敗戦後の繁栄は幻影!

20世紀末に訪れた「バブル景気崩壊の後処理による暗黒の十年間???」等では無く

『敗戦後の半世紀が"悪魔の齎した幻想・虚構"だったのでしょう...

第4目 日本辿った"国際社化!?が認める State(主権国家)"への道程

幾ら覆い隠そうとしても、過去の"相関する出来事"を時系列!に並べれば...

1世紀初頭 から始まる属国!の歴史
  • 1世紀初めに中華王朝(後漢)の光武帝(BC6→西暦57年)から冊封国属国!)として、「那の倭国」(邪馬台国?)が印綬(charter)される。
  • ※参)つまり、属国の歴史が始まった訳です!
  • 当サイト関連記事 卑弥呼は歴代 representative の称号!「邪馬台国」は首長国!の Federation!だった はこちら。
  • ● 907年 中華統一王朝()が滅び!中華王朝の冊封(属国支配)が自然消滅!して、官吏(公家)によるAuthoritarianism(権威主義・封建体制)のNation(organization);国家体制となる。
  • ●1406年 中華王朝()の傀儡政権第一尚氏による琉球王国(属国!)が沖縄全島の征服!に乗り出す。
    ●1609年4月5日 薩摩藩の侵略により薩摩の Territory!(領土・実効支配地)となる。
  • ※但し表向き(国際的)は琉球王国として中華王朝()の冊封国(属国)として毎年朝貢(貿易)が続いていた!
  • ●1868年1月27日(旧暦慶応4年1月3日〉公家(官僚制度!)復権!の為「軍事クーデター!(内乱・明治維新)」勃発!
  • ●1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)"未承認" Nation(明治軍事政権)誕生。
  • ●1879年(琉球歴・光緒4年)4月4日明治明治軍事政権により「日本のTerritory(領土)」として"沖縄県"が設置された。
  • 1890年(明治23年)11月29日大日本帝国憲法施行
  • ●1894年7月25日 USAの後ろ盾!により(沖縄県(南西諸島・奄美諸島)の領有権問題から端を発した!)西欧列強による「""の分捕りあい」の代理戦争・日清戦争が勃発。
  • ●1904年2月6日 第2次代理戦争として日露戦争勃発
  • ●1905年9月5日USAの後ろ盾でポーツマス条約に調印して日露戦争終結。
  • 国際社会にState(主権国家・軍事大国)として認めさせて!各国との不平等条約(通商条約)を解消!
  • 参※)当サイト関連記事 我が倭国"日乃本"の歩み! はこちら。
  • ●1914年7月28日 第一次世界大戦に対独戦線連合国として参戦。
  • ●1919年6月28日 ヴェルサイユ条約調印により国際連盟発足常任理事国として国際社会に加わる。
  • ●1932年3月1日 未承認・傀儡 Nation!満州国樹立
  • 1941年(昭和16年)12月8日 大東亜戦争開戦!
1945年 大東亜戦争敗戦
  • ●1945年6月26日 対日戦線連合国「United Nations」成立
  • ●同年8月15日 大日本帝国がポツダム宣言受諾(休戦)表明!
  • 1945年9月2日 大日本帝国が無条件降伏文書へ調印し、正式終戦・敗戦!
  • つまりこの空白の約2週間にわたりソ連が侵攻を続けたわけです!
敗戦後の新生・日本国でも民主主義憲法を遵守した法律は少ない

明治の大日本帝国憲法(1890年11月29日施行)以前(奈良時代!)からあった!官吏の分類(1886年)親任官制度を引きずる官僚制度

つまりAuthoritarianism(権威主義!)に下ずいた「恣意的独裁!を大幅に認めた憲法違反の法令!」が数多く存在しています。

1952年 琉球を人質に本土?のみ独立
  • ●1952年4月1日 USAの信託統治領・琉球政府誕生!
  • ●1952年4月28日 サンフランシスコ条約"発効"により独立(autonomy;自治)を回復したが...(その後も琉球政府はUSAの信託委任領のまま)つまり『琉球を人質!に本土だけが独立した。』のです。
  • ●1956年12月18日 対日戦線連合国 United Nationsに加盟が許され!State(主権国家)として国際社会に復帰!
  • ●1972年5月14日 !になりやっと沖縄県?が、USAから日本国政府に返還(移譲!)された...
  • ※歴史的経緯からみれば、琉球政府として♥独立!していたほうが良かったのかも?...

第2項 神話!では「民(たみ)の営み・暮し向き」が反映されて無い!

「民の営み暮らし向き」つまり地政学の観点が欠けている!のではないでしょうか?...

地理学を基本とした、地球科学、気象学、地学(地層学)天文学!、traffic network(往還)と生活圏(経済学)、logistics(兵站)、文化人類学!、思想史(宗教史)、生活科学、などの相関関係を総合的に関連付けて、その時代・時節の「民の営み暮らし向き」を幅広く検討・考察する「地政学」(※991)の観点が必要でしょう。

つまり『科学者・考古学者が行っている"冷めたスタンス"で客観的に日本史を語る必要』があるでしょう。

なので本稿では、『民(たみ)の営み・暮らし向き』にスポットを当てて、『多方面から眺めた日本史を推理!』してみたのです。

参※991)当サイト関連記事 一研究分野の geopolitics(地政学)の"概念・研究 theme とは... はこちら。

第0目 科学者考古学者は正直!

地政学(※991)に基づいた"♥発掘調査で得られた結果"を、evidence(証拠)、rationale (論拠)として、古代史(石器時代の倭国)を研究!している"研究者・科学者"たちは、古文書に頼る有識者?(愛好家・国文学者)連中とは違い、帝(ミカド)などという表現は用いません!(※992)

「狂信的な国粋主義」のテロから身を守る為に?当時の敬称"大王!(おおきみ)"(※992)という表現で躱しています。

参※991)当サイト関連記事 一研究分野の geopolitics(地政学)の"概念・研究 theme とは... はこちら。

参※992)「天皇」は天武朝以後の大和政権の大王(おおきみ)が用いた称号

...古代の日本では、ヤマト王権の首長を「大王」(オオキミ)といったが、天武朝(天武天皇 在位673年3月20日→686年10月1日)ごろから中央集権国家の君主として(の称号)「天皇」が用いられるようになった。《日本語ウィキペディアより引用

といわれています。

第1目 数万年に渡る古代史の解明には幅広い学問分野での論議が必要

日本の歴史屋?国文学者(創作家・評論家・思想家・有識者?)が無理やりこじつけた、概念・観念論では、矛盾だらけ!説明が付かな無い事象(史実)が数多く新発見されてしまうわけです。

geopolitics(地政学)の概念と、生物科学(遺伝子工学)、医学(解剖学・骨相学)、等々広範囲にわたる科学・理学分野で、「一連の文化・文明の trend」つまり歴史を客観的にとらえる必要があるのではないでしょうか!

Nation 形成に大きな影響を与えた!"気候変動"は地球物理学・気象学・天文学迄も絡む!

約7万年前!にさかのぼる、日本列島の♥native(土着民)縄文人!の長い古代史!を解き明かすには、

古文書に記された「神話・おとぎ話」の世界だけでは解明できない「多くの謎?」が残されてしまうけです。

例えば、東北地方における蝦夷部族(※993)のpartisan!の切っ掛けとなった飢饉は、

気候変動(日照り(渇水)・洪水・冷害)による「気候変動」が影響するわけですが...

  • ●太陽の(黒点)活動周期による小変動。
  • ●約10万年周期(確率)といわれる"小惑星衝突"による全世界的な、氷河期寒氷期
  • ●プレートテクトロニクスによる大陸移動と火山活動(噴煙)による気候変動・寒氷期
  • ●地球温暖化!の2次的変化で起こる「海流の変化!」が影響した気候変動で生じる、巨大低気圧(台風)による水害

等も考察する必要があるのです。

参※993)当サイト関連記事 東北にみる縄文人・蝦夷の「シャーマン伝承文化」と侵略者!弥生人の「文字文化」の鬩ぎあい!とは... はこちら。

第3項 思想家・歴史屋のFakeとは...

第0目 ♥Democracy とは...

political scientist(思想家!)Democracy(民主主義)にはいろんな形態がある???と(うそぶ)きますが...

諸外国ではDemocracy Liberalism

前途した通り、諸外国ではDemocracy(民主主義) ≠ Liberalism(自由主義)とされ、別次元の問題として論じられるのが一般的です。

日本で自由主義(Liberalism)を掲げる会派・政治結社は、社会自由主義(Social liberalism)等の ideology 論に近く、Authoritarianism(権威主義!)に偏っており、異次元・ピント外れ!の屁理屈といえるでしょう。

自由主義(Liberalism)=社会主義マルクス主義!)

文科省体制下の日狂祖が耕す!" お花畑"狂育環境での最大のFake(詭弁)

社会主義国家フランスの3原則「自由・平等・博愛」を民主主義の根本理念であるかの様に、洗脳狂育!していることです...

democracy は Puritanism が育んだ!

the essentials of democracy(民主主義の本質的要素)はPopular sovereignty(主権在民)、human rights(人権意識),autonomy(自立思想つまり日本にはなじみの薄い、Puritanism(清教主義)が基礎となっているのです。

第1目 封建主義は権威主義の一形態!

feudalism(封建主義)はAuthoritarianism(権威主義)の一形態!にすぎません!

vs 郡県制などという馬鹿げた比較まで飛び出し、明治憲法のAuthoritarianism(権威主義)を引きずる、議会制封建主義!(官僚体制)を堅持しようとしているのが見え見えです!

日本の Representative(黒怪議員・知事・市長)は、citizun から信任を得て選ばれた representative (代弁者)であることを忘れ!

自らを Ruler(統治者!支配者!)と勘違い!して恣意的に振舞っているが多いわけです。

特に全体主義独裁主義を好む liberal(革新会派)の政治ゴロ (-_-メ) にこの傾向が強く!

民(たみ)の representative !(代表・代弁者)であることを忘れて!独裁者として振舞うのでしょう...

現行法的根拠は別として、concept は市民から信任されて administrator,managerとなった訳で、Chairman(会長)Leader(座長)であっても、Ruler(支配者)では無い!のです。

江戸時代の、"寺子屋"で儒学者に教わっていた頃ならいざ知らず!...

「律令制=郡県制?vs 封建制?(領主制度?)」等という馬鹿げた比較(言葉遊びで!)に話をすり替えて!

"我々無学な庶民"を欺こう!としても...

第2目 原始民主主義から権威主義(封建制度)への流れ

  • ●古代日本列島は、女性shaman(巫女)が司る自然崇拝の民(たみ)が暮らす♥原始 Democracy 社会!
  • ●古代日列島に統一国家は無かった!
  • ●傀儡・弥生人政権は、長らく中華王朝の冊封国(属国)を受け入れていた。
  • ●傀儡・弥生人政権は、(中国王朝の覇権)虎の威を借りて、縄文人勢力圏を侵略・征服!に乗り出した。
  • ●傀儡・弥生人政権は、(紙の伝来とともに始まった)文書文化!を取り入れて軍事力を組織化・制度化した。
  • ●傀儡政権・大和王権が、文盲(口承・伝承文化)で組織化されていない partisan?の縄文人社会を征服した。(※994)

参※994)当サイト関連記事 東北にみる縄文人・蝦夷の「シャーマン伝承文化」と侵略者!弥生人の「文字文化」の鬩ぎあい!とは... はこちら。

authority(権威・権力)を笠に着て...日本の歴史"屋"の主流"学閥"???は...庶民を馬鹿!にした連中

ある「 district(地域)」をTerritory(縄張り!)としてreign(支配・統治!)していたLord(領主)支配を"封建制度"と呼び???

律令制つまり国司等の administrator (管理者)・Governor(地方長官)を配置していた律令制時代を、「郡県制」!?と称して、対比???させているわけですが...

私有地・荘園(農奴)を認めた律令制も feudalism(封建主義)つまりは Authoritarianism(権威主義)であり、

律令制、郡県制、封建制などという『言葉遊び!の詭弁』では説明がつかない!のです。

現行の"痴呆"自治体制の堅持!が狙い

Governor(知事)をRuler(為政者)にいただく郡県制 = 現在の都道府県制度という事にして、現状の

Governor(目代)とOfficer(官吏)による痴呆自治体制を堅持したい!のでしょう。

各地方のlord(領主・統領・豪族)が独自にTerritory(実効支配地)を reign していた古代・石器時代から延々と続く、(稲作文化と文字文化で繋がった各部族で成り立った)那の倭国 Federation 、大化の改新・による「日乃本」声明と繋がった一連の流れ...

律令制導入も(領主による)封建制度と同じです!

(前途した6つの前提を"ひた隠し"にして)日本史を「綺麗ごとで済まそう」としても、各歴史のターニングポイント(内乱!)で生じた"クーデター!・内政・外交問題"の数々を郡県制と封建制だけでは説明がつかない!のです。

邪馬台国成立→大和朝廷の台頭(律令制統一国家?誕生)→封建制度(地方豪族・武家支配の中世・近世)→明治新政府(立憲制による律令制の再興)という"流れ"をうまく説明できなく、タダノ『governance 手法の言葉遊び!』になって終っているのけです。

第2目 所詮は搾取を目的とした権威主義の民衆支配・統治論!

統治論である「律令制(郡県制)・封建制」などという「統治用語の言葉遊び!」を持ち込んでごまかそうとしも、

所詮は「目くそ鼻くそ」のAuthoritarianism(権威主義)の統治手法・支配手法であり、

autonomy(自治)に根差した現代社会のDemocracy(民主主義)とは、対局に位置している敵対思想!にすぎないのです。

未だにAuthoritarianism(権威主義)の大日本帝国憲法が生きている!

当サイトで主に取り上げている Geopolitics & logistics つまり"国土計画・交通政策"に関する問題ですが...

現在の法律体系は、敗戦後の日本国憲法に則った法律体系ではありません!

敗戦後に看板だけを右書きの 「法憲国帝本日大」 から左書きの「日本国憲法」に掛け替えただけで、殆どの法律は、

Authoritarianism権威主義)に根差したbureaucrat(官吏官僚)の権限・裁量・恣意的な独裁を大幅に認めた法律で、

彼らを Ruler(為政者・権力者)にしてしまっているのです。

戦前同様に民(たみ)に servile spirit(隷属意識) を植え付けて、ubordinate public opinion (隷属的世論)を蔓延させて、参政権意識を排除!しようとしているのです。

第3目 敗戦後の日本を救った Douglas MacArthur の功績!を再評価すべき時期では...

敗戦後の日本で D.MacArthur が目指したのは、多数決(投票)によるRuler(為政者)選出では無く、Representative(総代)による、真の民主政治国家!では無かったのでしょうか?

Douglas MacArthurについて色々評する人がいますが

彼がいなければ、日本をCCCPの独裁者スターリンから守れなかったし!

民主憲法である「日本国憲法」も制定でき無かった!Noです。

参※)当サイト関連記事 憲法改正はマッカーサーの夢だった"大統領制"導入から はこちら。

大英帝国!(British Empire譲りの議会制封建主義!に拘って来た大日本帝国

つまり、彼は旧・大日本帝国 government(政府)が拘り続けた権威主義から、

『USAが育んだ Puritanism(清教主義)が築いた,Popular sovereignty主権在民)、human rights人権意識),autonomy自立思想)』つまり 『the essentials of democracy(民主主義の本質的要素)に下ずく日本国憲法の確立!』への一つの ♥solutionを提案したかった!のではないでしょうか...

Popular sovereignty(主権在民)の国民意識を根づかせたかった

X governance,oppression(支配!・抑圧!) concept に下ずくAuthoritarianism(権威主義)を打破!して、

議会制封建主義の government(政府)を renewal して、

Popular sovereignty(主権在民)の conceptに下ずくDemocracy(民主主義)の日本国を具現化したかったのでしょう...

平和団体(戦争被害者)は terrorist!共に唆されている!

憲法改正絶対反対を訴えている liberal 勢力は、マルクス主義社会主義共産主義全体主義独裁主義共の集まりです!

彼ら liberal 勢力が主催する平和団体?が唱えている"平和論???第9条堅持主張は、democracy(民主主義)を完全否定!した"独裁者!が統治・支配!する"世界帝国"に通じる危険思想!なのです。

つまりは『socialist,Communist!どもお得意の話のすり替え!が行われて、

憲法の根本理念である主権在民が、平和憲法?にすり替えられている!のです。

平和デモ行進に駆り出されている戦争被害者の皆さんは、terrorist 共に唆されている!のです...

第4目 数の暴力(多数決)は fascism に通じる!

日本の liberal 勢力は左寄りで、democracyに通ずるPopular sovereignty主権在民)思想とはかけ離れています!

彼らマルクス主義socialism・communism)に汚染された輩は、「恣意的な支配!を好む独裁主義者」であり、CommunityであるMunicipality,prefecture の autonomy(自治) を否定している独裁主義の輩 (-_-メ) です。

数の暴力・多数決を好み少数意見に耳を貸そうとしない!のです。

そして、バックとなる民心(世論)はmass mediaを使った Propaganda により誘導・扇動される国民感情???

これが戦前の、大日本帝国、ドイツ、イタリアで起こり、現在も新・ロシア帝国、中共王朝続いているわけです。

mass media は一票の重みを強調して数の暴力を煽りますが...

先鋒に立って"一票の重み"格差是正を訴えているmass media(TV局/全国紙)はfascism fashion (煽って)しているのです。

しかし Democracy の3要素の一つは human rights(人権意識)!

つまり『Minority の異見も♥尊重する姿勢』で 多数決では無い!のです。

USAでは一票の重みは問題視されていない

USA(United States of America)は、State;主権国家(or !)のFederation(連邦)であり、USA government(政府)は主権(外交権限・防衛権限)を委託されて受託しているにすぎません。

つまり、USAでは"国民(たみ)の営み・暮らし向き"は各State(州政府)が、独自の♥ constitution(憲法)の下に、法整備されて autonomy(自治)を行っている』わけです。

なので、USA のCongress(連邦議会)には、加盟50州のRepresentative(代議員)が集って、連邦♥統一法制度整備を行っているのです。

大統領選挙も含め各州選出の上院・下院議員つまり Representative は人口に比例していません!

つまり、『国政に関わる一票の格差は、日本など比べ物にならないほど大きくなっています!』しかし常に国民の良識が反映されています。

USAは全員一致は良しとはしていません!

裁判においても同じで、陪審員の評決が全員一致することはありえません。

つまり、だれか一人が反対に回るわけで、それが良識なのです!

日本の場合は、上訴審は裁判員裁判ではありませんが、

『最高裁判事が全員一致で同じ結論を出すというのは、明らかに異常!なのです。

日本では、集団リンチ状態が日常的に...

日本の Socialism,Communism に洗脳されて真っ赤に染まった狂育者が耕す"お花畑"初等・中等教育では...

文化大革命?当時の中共で行われていた、「壁新聞・吊し上げ」つまり"数による暴力!"が「教師ぐるみのクラスつくり加害授業!」と称して日常茶飯事に横行して全国津々浦々で日常的に行われているのです。(※02)

つまりはUSAでのK.K.K.やフリーメーソン同様な Minority への集団リンチ行為が日本でも...

参※02)当サイト内関連記事 小・中学校ホームルームでの"教師ぐるみの陰湿な吊るし上げ・集団虐め"が放置され続ければ泉南市は崩壊!する はこちら。

狸穴総研 歴史研究室 主観 出自多留狸

※英単語表現"による"古文書"専門用語の"まやかし訂正"の試みについて...

(Version1,Revision10 ー2023年8月30日改訂)

義務教育では日本語圏?の部族をまとめて大和民族・日本民族として、古来よりNation(統一国家)を形成してきたかのように、"洗脳狂育"を行っていますが...

これは、いまだ隣国を牛耳っている(元・両班(ヤンパン)共(※01)が大半を占める)「学閥」がプロパガンダしている「fantasy!(おとぎ話)」と大差ありません。

我が日本国の始祖(那の倭国;邪馬台国、大和政権)は、はっきり言ってEUのような寄り合い所帯で成立したFederation(連合組織・連邦)であり、president,(主宰者)、 chairman(議長)に当たるrepresentative(総代)はいても、

絶対的権力者に当る emperor(皇帝)king(国王)は居ません!でした。

参※01)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国国民と日韓関係 はこちら。

第1目 古文書研究屋?と鉄オタの共通点とは...

日本史を操っている"歴史屋!"は元来が古文書を紐解くことを生業(なりわい)とする国文学者!なので、専門用語(古文書中の正式表現・業界用語?)がお好き!です。

つまり専門用語を自慢げに吐きまくる「鉄オタ」と同じなわけです。

さらに歴史屋(国文学者)と「鉄道オタ」の共通点であり最大の弱点は、地理に疎い!ことです。

彼らが根拠にする"古文書"は三国志日本書紀の様に、(数百年経った)後年になってから語り継がれた「英雄・偉人伝説」に下ずいて"創作"された、epic(叙事詩)が大半です。

"台帳"などの実用・実務記録に関する古文書は軽んじていますつまり「おとぎ話大好き人間なのです。

つまり一般人と同じく司馬遼太郎を「歴史フィクション作家!」として評価するではなく、「歴史学者」として祭り上げてしまう過ち!に陥りやすい人たちです。

古文書記述用語はできるだけ共通した現代国語表現を用いています
  • 冊封国(さくほうこく);主権を持たない属国!
  • 印綬;冊封国(属国)の"認証印!"を授かること。つまりはcharter(特許状)の事です。
  • ●"朝貢使";冊封国(属国)として宗主国である中国王朝へ「臣下の礼!をとるための朝貢」に派遣された外交使節団!

なので、属国を示す冊封国(さくほうこく)の"冊"はFrontier(縄張り最前線)が正しく、border(国境) ではありません

東北などで繰り広げられた出羽柵などの冊を巡る攻防戦は、Frontierを巡るTerritory!争奪戦!だったことになります。

※(律令制(701年?)の成立?に繋がる)大化の改新(645年?)以前は、各地に lordが犇めく Federation 体制だった訳ですが、中国王朝の侵略を防ぎ、中国王朝の冊封国(属国)となって、(虎の威を借りて)日本列島制覇!に乗り出すには、見かけ上Nation(organization);統一政府(機構)を装う必要があったわけです。

一連の記述(古文書)は、朝貢(ちょうこう)使"(遣隋使)が再開された(600年)以降に、仏教とともに伝来して、竹簡木簡などに記録された?のでしょうが、残念ながら発見されていません!

日本最古の古文書?は論拠に乏しい御伽噺集!

つまり現在残っている「わが国最古の古文書」といわれている(712年編纂)古事記と、その後に編纂された(720年)日本書紀は、遣隋使が持ち帰った仏典と、三国志(呉の滅亡280年→297年頃の作)等の多くの創作された叙事詩!を元ネタに捏造!され、同時に持ち帰った"紙"にしたためた創作御伽噺に過ぎないわけです。

参※)中国で漢字が体系化したのは三国志が編纂された3世紀末といわれています。更に遣隋使(600年→)が紙を日本に伝へた(輸入)とされており、その後に遣隋使により製紙技術も伝わり、国産化されだしたといわれています。

国文学者が「冊=中国王朝のFrontier」であると認めない理由は...

日本語ウィキペディアの起筆者などの歴史屋!は国粋主義者!国文学者が多く,

あえて『柵は建造物として設けられていた施設であり、概念的なFrontierでは無い???』と主張しているのですが...

Federationであった瀬戸内連合(organization)のRepresentative secretary(幹事)にすぎなかった大和朝廷(政権)を率いる?

organizer(大君)が『宗主国・中華王朝の"属国"としてのお墨付き印綬を得て、王朝のTerritory!拡大のための代理戦争!』をしていたことを認めて!終うと、

渡来人(混血?)弥生人が築いた中華王朝の傀儡政権!大和王権(朝廷)が成しえた?とされる 「Nation(統一国家)&State(主権国家)」説に下ずく・社会規範?(民族意識)が崩壊してしまうことを恐れている!のです

なので、彼ら国粋主義の国文学者共は、日本が中国王朝の冊封国=属国!であった事実を、認めようとはしない!のです。

英単語を多用する理由は...

専門用語、特に歴史用語は、時々の為政者が都合の良い"造語"を編み出して、"古文書"に使用しているために、"同意義の用語"が多く煩雑すぎる傾向にあるからです。

なので、"あいまい"かつ煩雑な表現"を避けるために、"事柄の性格"を的確に表す英単語の同意語を多用しています。

つまり国司・守護・藩主などの表現は、異なる時代の「時の政権(為政者)が明文化した制度」の下に、任官された職種(制度用語)で、実態(権限)は全て"≒"といえます。

日本語表現(単語)は前後関係に依存する場合が多い

更に歴史用語?(単語)は、その時々の政権が造語した呼称が多く、本意を表す英単語で表現することとしました。

例えば"地域"に関連する英単語は...
  • ●Area(ほとんど手付かずの原野・空地!
  • ●Region(漠然とした地方・一帯
  • ●Zone(共通の条件;気象条件・河川流域・穀倉地帯・工業地帯などの同一条件を備えた地域
  • ●District(行政区などの明確に区切られた区域!

などに細かく分類されるわけですが...

日本語、特に外来語起因のカタカナ単語では、「地域」を指す英単語 localが、rural(田舎・田園地帯)と混同されて、本来は形容詞のregional (地方の)を用いるべき、regional line(地方交通線)や、rural line(田園路線)を(mass mediaの連中は)"ローカル路線"と表現したり、

酷い場合は、「地方ローカル線の旅」などと、平気で蛇足表現を用いています!

つまりカタカナ外来語と、本来の英単語の意味は同じでは無い!のです。

国家!に関する表現
  • ●Federation;連邦・連合組織
  • State;主権国家(or !)
  • ●government:国家・政府
  • ●Nation;政権
  • ●organization;政府機構・省庁
  • ●Emirate;首長国
  • ♥autonomy(自治)

●Dominion;イギリス帝国時代の自治領! ※つまり「中国王朝の冊封国(さくほうこく)"属国"」だった!当時の大和朝廷(瀬戸内 Federation)一応autonomy(自治)は認められていた?ので「中華王朝のDominion」だった!ことになります。

※つまりUSAはautonomy(自治権)を持つ♥State()で構成されている Federation であり、

各Stateは独自の♥constitution(憲法)の下に、法整備されていて autonomy(自治)を行っており!外交権・に関する事項のみgovernment(政府)に委ねているわけです。

生活圏に関する表現
  • ●Tribe;部族
  • ●Village;集落
  • ●Community;生活共同体
  • ●Municipality;市・自治体
  • ●prefecture;都道府県
tribe(部族)間の縄張りに関する表現は
  • ●Territory(領土・実効支配zone)
  • ●Boundary(境界)
  • ●Frontier(Territoryのboundary)"冊"
  • ●Border(State間の国境

として明確にしています。つまり国際間主権認められて無い単なるNation(統一政府)では、Territoryを示すboundary,Frontierはあってもborder(国境)は持たない!わけです。

その他のTerritory(実効支配地・領土・領地・国土)を"種別"する表現では
  • ●Country(国土)※国土を表す表現で国家を示す表現ではありません!
  • ●Colony(植民地・入植地)
  • ●Manor,plantation(荘園)
権威・階級を表す表現としては
  • ●Chief;首長・族長・酋長
  • ●Shaman;司宰・祈禱師・霊能者!?
  • ●Emperor;皇帝
  • ●King;王
  • ●Lord;領主
  • ●Sovereign;統治者,君主、元首
  • ●Ruler;支配者・為政者 ;the governing [ruling] classes(支配階級、搾取階級
  • ●the exploited classes,;公家;貴族階級、特権階級、
組織 Top の称号
  • ●President(主宰者・大統領・総統)
  • ●Representative(総代)
  • ●Chairman(会長・議長)
  • ●Leader(引率者・座長)
  • ●Administrator (管理者)
任官(制度用語
  • ●Governor(chief executive officer):国司守護・藩主・知事・総督
  • bureaucrat官僚
  • ●Officer;官吏・役人・行政官(※例えば大宰府転勤後の菅原道真の職制はofficerとなります)
  • ●landlord≒manor owner(荘園主)≒室町幕府末期の"地頭"
  • ●Agent:目代・城代・代官・地頭は landlord ,Administrator (管理者)であると同時にagent(代理人)でもあったわけです。

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公開:2018年8月 5日
更新:2023年9月30日

投稿者:デジタヌ

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