連載『 遠近分離と近鉄"ラビットカー"の生い立ち』ー最終回ー
しかしさすがに10㎞(8駅間)待避線・追い越し駅無し!ではどうしようもなく、
車両基地のある「河内天美駅」(ブルーのマーク)構内に1957年(昭和32年)7月上り待避線が完成しました(※1)。
それでも残り阿部野橋まで7.3㎞6駅間には待避線・追い越し駅が無く、同年登場したラビットカーは朝夕の通勤・通学時間帯に「各駅停車」!として大活躍してくれました。
ラビットカーのネーミングはその高加減速性能で「♥脱兎のごとく...」急行から逃げ回る様から出ており、現日産自動車の「ダットサン」にも一脈が通じるネーミングでもあるのです。
そして岡本太郎センセーにデザインしていただいた「ステンレスプレートのトレードマーク」を車体側面に誇らしげに付けた車両が河内平野を快走したのです!
※1、河内天見駅に下り待避線が完成して新幹線タイプの上下2本の追い越し線が完成したのは1972年(昭和47年)12月 !になってからです。
1969年に今川駅(起点阿部野橋から2.7km)(ブルーのマーク)にも上下線共用の3複線の「追い越し線」が完成して、ウサギちゃんがバッファローから逃げ回らなくても良くなりました。
以後先行するラビットカーが無理をして、待避線のある優等列車通過駅まで逃げ込む必要もなくなり、
全車両MM編成の「オリジナルラビットカー」は、 中間にモーターの無い中間車両を突っ込む等の「修繕?」を受けて延命はしたものの、
順次1968年!に登場した次世代?の汎用通勤車両6020系に置き換えられていったわけです。
第1目 今川駅改良(高架化)工事は1989年になってやっと完成!
1983年6月に開始された針中野⇔大赤阿部野橋間の連続立体交差化事業は1987年に完了して、
大和川橋梁⇔阿部野橋間大阪市内区間立体交差高架工事が完成したのですが...
今川駅の仮ホームが長く続く
今川駅は仮ホーム状態で「新幹線タイプの通過線」が完全に完成したのは1989年まで持ち越されました。
この間一時的に待避線が無い状態が続きました!
1963年に6000系が登場して順次旧型車両の置き換えが進み、前途したデニ500形バッファロー君も1975年には支線からも完全に絶滅していて、
さらに針中野駅 →(大和川橋梁)間の上り線立体交差化工事も1976年2月に完了ており、
なので河内松原→阿部野橋間の準急・急行の所要時間は1957年の登場当時に比べて短縮されていました。
1989年の今川駅完成以降は上下線共に優等列車がこの駅で各停をかわして、
河内松原⇔阿部野橋間を大幅に所要時間短縮しています
第1目 遠近分離に徹して!緩急接続に♥拘らない発想が各停の所要時間短縮!に...
(※どちらも昼間運行ダイヤの扉が開いてから閉まるまでの時間実測値!)
近鉄の運行ダイヤは素晴らしく、今川駅、河内天見両駅共に列車退避に要する時間は1分!
河内松原、藤井寺両駅の緩急接続でも3~5分間の停車。
"お頭の強直両用(硬直療養!)"が必要な?痴呆鉄道とは違い、
緩急接続に拘らない退避駅の利点を最大限に活用しています!
全長20㎞もある何処いぞやらの鉄道事業者はみならうべき!
地下鉄でもない!全長20㎞!もある、interurban (※99)が途中一か所も退避駅が無く!
各停の後続特急がノロノロカメさん走行を強いられています!
しかも、建設を開始した当初ならば途中駅に待避線を親切出来る余地(事業用地)も残されていた!というのに...
地下鉄しか走らせたことのない、田舎カッペ自治体が絡むとろくなことには...
参※99-1)当サイト関連記事 "おおさか東線"に"退避線設置駅"が出来れば"まほろば"が丸本・特急に!... はこちら。
参※99-2)当サイト関連記事 大阪市における市営モンロー主義(町衆利権!) の起源と変遷 はこちら。
★(2024年2月7日改定版ーVersion1,Revision3)
Metropolis (大都会・政令指定都市)の interurban (都市近郊路線)・民鉄(日本民営鉄道協会)が21世紀を生き抜く為には...
第0項 "高速電気軌道"は労働組合傾! journalist の造語!
日本では、鉄道雑誌等に寄稿する"労働組合傾!"の journalist ?共が Interurban を"高速電気軌道???"と態(意図的に)と誤訳しているようですが...
urban とは"都市の"という形容詞であり、urban Life(都会暮らし)の様に使われる単語です、
つまり『 Inter-urban とは都市間路線』の意味合いで、
high speed、electric train、railway track 等の"高速電気軌道?"を示唆する単語は含まれていません!
更に Interurban 発祥の地USAではディーゼルカーが走る非電化!路線もあります!
なので当 site では Interurban は"郊外電車"又は"都市近郊線"と呼称することとしました。
第1項 バリアフリー法とユニバーサルデザイン政治圧力で急成長を遂げた鉄道設備産業
- ※連続立体交差&橋上駅舎化に伴うエレベーター・エスカレーターなどのバリアフリー施設
- ※ユニバーサルデザイン政治圧力(業界圧力)で強制!されだしたホームドア整備(※001)
バリアフリー法(2006年12月20日施行)とユニバーサルデザイン政治圧力で急成長している"鉄道関連機材 syndicate,cartelですが...
参※001)当サイト関連記事 ユニバーサルデザインはホームドア業界・政治圧力!の"隠れ蓑!" はこちら。
"利用者"であり出資者(納税者)でもある citizen の立場に立って...
地方都市の零細鉄道事業者や公営軌道について、"利用者"であり出資者(納税者)でもある citizen の立場に立って、
公益性、Cost performance(費用 対 効果 )等の総合的な検討を加えた上で、(現在計画中の路線も含めて)軌道会社や鉄道事業者が、(分相応な背伸びしない)"身の丈に合ったtransit"としての Interurban (郊外電車)を考察してみました。
第2項 日本のInterurban の歴史は♥近畿 で始まりました
日本における Interurban (郊外電車)の歴史は近畿で始まったといってもよいでしょう!(※991)
大阪の5大私鉄が、日本の都市に持ち込んだ Interurban (郊外電車) コンセプトは、それまでの electric train =チンチン電車= street car のイメージを一変させるものでした!
参※991)当サイト内関連記事 日本での インターアーバン(郊外電車) の歴史は近畿 で始まった! はこちら。
第1目 殖産鉄道から開発軌道へ
鉄道は人馬が行きかう"街道"に代わって、宿場間を結ぶという発想から、
『Interurban (郊外電車)を敷いて新しい街をつくる!』と言う発想に変化したわけです。
阪急を育てた小林一三師匠が米国の Interurban コンセプトを導入して、郊外電車を基軸にした宅地開発デベロッパー事業で成功をおさめ(※992)、私鉄経営を『 旅客需要追従型』の"殖産鉄道"から 『旅客創出・利益誘導型』の"郊外電車"に転線させたわけです。
参※992)当サイト内関連記事 小林一三 師匠一門の『需要創出・利益誘導型』電気軌道派 はこちら。
第2目 Metropolis の Termina l と郊外の residential district を結ぶ Interurban へ進化!
そして、Metropolis (大都市圏)のライフスタイルを大変革のライフスタイルを大変革させました。
つまり、Metropolis の Terminal(終着駅)と郊外の residential district(ニュータウン)を結ぶ Interurban (郊外電車)と言う民鉄経営のビジネスモデルを広げたのです。
第3項 node station 間を結ぶ"非ターミナル型"の public transit の時代に...
一時、巨大タイヤメーカー・自動車(バス)メーカー syndicate(cartel)(-_-メ) の企て!で、
廃れていた全米各地の Interurban が、Transit Authority(都市圏広域交通事業体)となって復活!しています。
シカゴのL(Chicago Transit Authority)や大阪環状線、TokyoMetro のように、Interurban(郊外電車)の node station(結節駅)同士を結んで一元化運用する、「非ターミナル型」の transportation network(交通網)が求められる時代になったのではないでしょうか...
※参)当サイト内関連記事 大阪環状線 は「 シカゴ L 」を商都 なにわ に移植して大成功を! はこちら。
参※)当サイト内関連記事 欧米先進諸国!では Regional Transportation District(Metropolitan Transportation Authority)が常識に はこちら。
狸穴総研 都市圏交通網研究所 出自多留狸
公開:2019年4月28日
更新:2024年3月11日
投稿者:デジタヌ
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