狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

連載《 路面電車・軽便鉄道・森林鉄道が日本各地から"消えた理由!"とは...》ー第8回ー

第8回 並走する一般道路の舗装が進み自主的にバス転換・廃業していったLRT

以下は、並走する一般道の舗装が進み、鉄道事業の"旨み"無くなりメンテナンス経費の不利だけが浮き彫りになってきて、鉄道を廃業してomnibus(乗り合いバス)に専念した例です。

詳しくは当サイト内関連記事 LRTにも通じる『 都市型 BRT 』は『 日本型 BRT 』のようなローカル線廃止の方便ではない! をご参照願います。

第1節 バス路線転換に先鞭をつけた三重交通・神都線

前途したようにモータリゼーションの幕開けどころか、モータリゼーション"津波"の予兆すらなく、ボンネットバスがノンビリ走っていた1961年に早々と、自主廃線!してバス事業に鞍替えしたのが三重交通神都線です。

正月のお伊勢さん詣で"特需輸送"が終わった、1961年1月20日に無事役目を終えて、三重交通神都線は天に召されました...

参※)当サイト内関連記事 三重交通 神都線 と お伊勢さんの思い出 はこちら。

第2節 石川・福井方式でバス転換した北陸3県のライトレール網

北陸3県では各地でLRTと呼ぶにふさわしい鉄道網が整備されていました!

(加賀温泉郷をサービスエリアとしていた北陸鉄道(旧温泉電気軌道)を除き)

北陸3県に共通しているのは、旅客軌道ではなく殖産鉄道!だった点です。

その為に多くの路線で貨物輸送を失った段階で廃止され、旅客輸送も神都線同様にバス路線転換!されました...

第1目 石川・福井方式バス路線転換とは...

福井県と石川県では、今で言うところの「BRT」の"路"へは"侵入"しませんでしたつまり走路施設の維持管理・設備更新費用が事業者負担となる"バス専用私道"を走る日本型BRT(※51)進ま無い!で、

廃止後の廃線跡地を一般車両も走行できる"♥公共道路"に改修して、バス路線転換を果たした!のです。

参※51)当サイト内関連記事 福井・石川方式バス転換法とは はこちら。

第2目 北陸屈指のライトレール網 北陸鉄道

1916年10月29日に前身となる 金沢電気軌道株式会社が設立されて、3年後の1919年に金沢電気軌道の市内線チンチン電車が開業しました!

1943年の戦時統合で(旧)北陸鉄道・能登鉄道・温泉電気軌道・金名鉄道・金石電気鉄道・湯涌自動車・七尾交通の7社が合併して、現在の北陸鉄道が設立されました。

終戦直前の1945年7月20日には小松電気鉄道とも合併して、さらに終戦後の1945年10月1日には浅野川電気軌道も合併し北陸金沢を中心に一大ライトレール網を構築していました。

金沢市が空襲を受けなかったことが返って災いして?他の大都市のように戦後復興事業で道路拡幅はされませんでしたが、戦後に撮影された航空測量写真では、高度成長期の観光開発に絡み金沢市内・周辺温泉地など北陸鉄道沿線沿いの幹線道路がどんどん整備されていった様子がうかがえます!

つまりモータリゼーションの津波に押し流されて...というより、保線費用(軌道設備維持管理・更新費)が嵩む軌道事業を、三重交通同様に「自主的に廃止!」して、1967年(昭和42年)2月11日 に 金沢市内線が全面廃止となったようです。

しかし皮肉なことに"路線の要"を失ったことで、市内からの乗り継ぎの便が悪くなり、石川総線も次々と路線縮小せざるを得なくなったわけです!

加賀温泉郷を繋いでいた旧・温泉電気軌道ラインは

西部の湯治場?加賀3湯(山代・山中・片山津)を繋ぐ観光旅客ライン網では...

当時の国鉄が新たな加賀温泉駅を特急停車駅にして駅前バスターミナルの整備をしたことや、幹線国道8号線の整備と共に、大型バスによる団体バスツアーが一般化して、個人観光客相手の旅客鉄道事業も、路線バスで十分に対応できることとなり、加賀温泉郷の路線網のバス転換・廃止に至ったわけです。

同じ国鉄本線に依存した支線・盲腸路線網でも、福島交通のような軌道事業では無く、単独の立派な「鉄道」として建設していたことが裏目に出た!わけです...

更に、資本参加してくれている富山地方鉄道とは異なり、

石川総線とは接続されていない"孤立路線網"であった為に、

地元民の"通勤通学路線"としても機能できず!に、当時は不便だった「国鉄の客車列車」にさえ太刀打ちできなく!、整備された道路網でバス路線転換する方向に走り出した!のでしょう!...

参※)当サイト内関連記事 金沢市 が再び盟主となって、北陸3県を力強く牽引するには... はこちら。

第3目 福井鉄道

福井鉄道は日本初のカールスルーエ型LRT網(※52)を築いた interurban ですが...

同時に沿線にあるレンゴーなどの紙製品工場の出荷路線(専用線)的な役割も担っていたので、

鉄道貨物を失った時点で南越線は廃止されたわけですが

前途したように、跡地は道路に転用されてバス路線転換されて沿線住人の利便性は確保!されました。

参※52)当サイト内関連記事 トラムトレイン方式(カールスルーエタイプ)とは? はこちら。

第4目 京福電鉄

1914年4月10日 勝山 ⇔大野口間が延伸開業し、大野市が福井市と結ばれました!更に1918年9月1日 大野口 ⇔大野三番(後の京福大野)間が延伸開業して全線が開通しました!

1974年に一部区間廃止されるまで、越前本線は大野市大事なLifelineとしての役割をはたしていました!

残念なのは...

芦原温泉駅で路線が分断されていたことで、もしも分断されてなかっタラ? 坂井市の丸岡城本丸!と芦原温泉、三国港を結ぶ重要路線!として生き残れた!かもしれません?...

殖産鉄道だった京福電鉄

京福電鉄は、旅客(観光)主体の旅客鉄道と思われがちですが...

電気機関車を所有していたように、実は貨物営業も営む立派な殖産鉄道!でした。

沿線の、地場産業の紡織・紙製品、九頭竜川の建築骨材(川砂利・川砂)採掘業などの貨車輸送を行っていました。

つまり越美北線が開業する以前から、越前大野の地場産業・旅客を支えていた!わけです。

越美北線が1960年に開業と同時に貨物営業を始めたので、沿線の貨物需要が無くなった!のです。

その越美北線も1982年11月15日に全線の貨物営業が廃止されました。

北陸本線と越美北線の影響

越美北線は1960年12月15日に南福井駅⇔勝原駅間 (43.1km) が開業した路線です!

つまり京福電鉄越前本線のほうが歴史が古いわけです!

さらに1973年5月31日まで蒸気機関車!による客車列車運行!でしたので、京福電鉄越前本線のほうが利便性は格段に高かった!わけです。

北陸本線

北陸本線北陸線 敦賀駅 ⇔福井駅間(38M40C≒61.96 km)が開業したのは1896年(明治29年)
7月15日の事で、この時に武生駅・鯖江駅・大土呂駅・福井駅が開業しました。

遅かった電化

今庄駅 - 福井駅間が交流電化されて福井迄電化したのは1962年(昭和37年)3月21日のことで、勿論それまでは、武生⇔福井間は汽車に引かれた客車列車がノンビリ走っていたわけです。

つまり、福井鉄道、京福電鉄共に圧倒的に便利が良かった!のです...

第3項 富山都市圏交通を担っている富山地方鉄道

富山地方鉄道(※53)も、石川鉄道同様に戦時統合で、広大な富山都市圏鉄道網を構築していたわけですが...

石川鉄道と違い、富山駅と北部の観光地宇奈月温泉・立山とが自社線で直接つながっていた!点でしょう。

更に1980年代でも、北陸本線、富山⇔黒部間は客車列車による運行で、便利なinterurban 地鉄は沿線住人の通勤通学の便利な commuter となって活躍!をつづけられたわけです。

但し、JRになって並走する北陸本線に旧型寝台特急電車を魔改造した交直両用電車が運行されるようになり、次第に優位性が薄らぎ...

更に県道13号の整備と共に、出資者の関電と共に地鉄が観光開発した、黒部峡谷(宇奈月)アクセスも観光バスを使ったツアー観光に移り...一般の個人観光客が減少!して...

参※53)当サイト内関連記事 あいの風とやま鉄道 と 富山地方鉄道 のアライアンスが富山都市圏の明るい未来への"鉄路"となる! はこちら。

第1目 LRT軌道事業の縮小は専用軌道線(鉄道線)大部分を占めていたことが...

TranCar運行をしていた区間も北陸鉄道線同様に、立派な専用軌道(&鉄道線)で敷設されていました!このことが逆に災いした様で...

国鉄の客車列車に比べて便利だった専用軌道線射水線も...

射水線も、富山新港の開削により、新湊で繋がっていた加越野線(万葉線)との連絡(直通)が途絶えて、

渡船連絡!となって終い高岡⇔富山間のTramCar直通運行が無くなり!

更には並走する北陸本線の電化により、国鉄も電車運行を開始して、利便性が増したために乗客を奪われ...

石川・福井両県とは異なり日本型BRTに転換したことがとなり...

専用軌道を舗装して"専用道"(私道)としたために補修費用は地鉄負担となり

並行する県道が♥整備されたために、専用走路の維持管理費(運行経費)が必要ない路線バスに転換して、2012年(平成24年)3月31日 限りで富山新港⇔呉羽橋間のBusiness Reduce Transformation 路線は完全消滅!したのです...

第2目 貨物輸送主体で工場引き込み線的性格が強かった笹津線

また同じように自主的にバス転換した笹津線は、途中駅も少なく神通川の対岸を大きく迂回している、高山本線より便利な路線でしたが...

不二越線同様に国鉄貨物を沿線の工場に運ぶための、引き込み線的性格が強かったので、立派な鉄道は沿線の村々からは離れた位置に敷設されていて、沿線の村々が今ほど都市化していなかったこともあり旅客需要は殆どありませんでした。

頼みの綱の貨物輸送そのものが、短軸貨車によるバルク積から、完全舗装された国道41号線を走るトラック輸送に切り替わり、国鉄貨物の廃止に伴い、役目を終えて廃止されたわけです。

跡地は、多くの部分が県道318号として再利用?されています。

 

公開:2019年7月23日
更新:2024年3月21日

投稿者:デジタヌ

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