狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Historia『 嘗て鉄道事業者は"鉄道派"vs"軌道派"に分かれて経営"哲学(鉄学)対決?を...』ー第4回ー

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★第3節 小林一三 師匠一門の『需要創出・利益誘導型』"開発軌道派"

一方、同じく財界の"銀行マン"から転身して、"事業としての鉄道会社経営"に興味を持ち、阪急の創業に携わった小林一三 師匠は、鉄道事業そのものより"金を汲み出す"いわば"ポンプ"としてinterurban (郊外電車)に興味を持った人です。

アメリカの Interurban を日本に持ち込み(※21)、更には「需要創出型」私鉄経営セオリーを確立して、日本中に広めた功労者でもあるわけです。

彼は従来からあった、「旧・街道筋の町町」を結ぶ物流・旅客需要を取り込むための流通「需要追従型」ではなく...

都市近郊にある「Area(手つかずの荒野?)」へ、旅客に特化したLRT(Light rail transit )を敷き、「沿線の宅地開発」ニュータウン建設で"新たな旅客需要"を生む「需要創出型」" Interurban (郊外電車)"を展開したわけです。

参※21)当サイト内関連記事 日本での インターアーバン の歴史は近畿 で始まった! はこちら。

第1項 デベロッパー事業に基軸を移して

さらには小林一三 師匠は鉄道事業を目的とするのではなく「デベロッパー事業」の必要ツール・アクセス確保として鉄道事業を位置付けて、Interurban (郊外電車)は「欠損を出さない程度」の"ほどほどの儲け"があれば良し!としたのでした。

東急では...

東急の始祖である田園開発㈱は創始者である渋沢栄一 氏が正しく「宅地開発」事業を目的とした「デベロッパー」事業の為に、宅地の付加価値を高めるためのツール「アクセス手段」として、経営手腕を見込んだ小林一三 師匠を"口説いて"general manager、として"鉄道事業"を行わせたのです。

第2項 関東では小林一三の愛弟子?五島慶太が

そして小林一三 師匠が、後継者として白羽の矢を当てたのが、東急王国をきずいた五島慶太になるわけです。

だから五島慶太は、むやみに鉄道網を広げたのではなく、東京近郊"林野"にニュータウン開発を行うために電気軌道を引き、ちょうど都合の良い「出物?」があれば傘下に収めて「事業拡大」を計ったわけです。

だから、インターアーバンの"証"である郊外電車に重点を置いた事業拡大策をとったわけです。

この辺りが、同じLRT(Light rail transit )でも「軽便鉄道・簡易鉄道」に拘った「東武」や「西武」とは違うわけです。

また、資金的目途が立たないのに、後先考えずに?新線を建設しまくった京阪や、トンネルを掘りまくった大阪電気軌道(現近鉄)とは違うのです。

第3項 『絶対に損はしない阪急商法』の本家 阪急では

中でも小林師匠の居城「阪急」は「絶対に損をしない阪急商法」に徹して路線拡大も慎重に行い、

(第2東海道線建設の野望!に燃える)"おけいはん"新京阪鉄道が買い取った"北大阪電気鉄道"が、阪急路線の要に当たる"十三"乗り入れを願ったときにも、上客?(乗客・利用者)ともども阪急百貨店の為に快く!受け入れ...

戦後は、事業拡大に有望な「新京阪」を自社に残す条件で「京阪の分離再出発」を認めて、うまく立ち回り「絶対に損をしない阪急商法」経営理念!を守ってきたわけです。

第1目 千里線延伸も

戦後新京阪(現京都線)ともども阪急に残った千里線は、1921年に初代・北大阪電気鉄道が十三⇔豊津間を開業させた路線で、阪急が直接たづさわった事業ではありませんが...

その後の千里ニュータウン計画で...

1958年に大阪府企業局が主体となって開発が決まり、1961年に着工された千里ニュータウン計画で、重要なアクセス路線として脚光を浴びて延伸することになり延伸したわけです。

この延伸事業で大阪府との繋がり、土建屋との繋がりも一層"緊密"となり、デベロッパー事業展開の強力な"情報源"を得たわけです!

これが、神戸線沿線、今津線沿線、甲陽線沿線などの六甲山麓の高級住宅地開発や、傘下に収めた神鉄の「鈴蘭台」開発へと繋がっていくわけです。

第2目 expo'70大阪万博の時に出来た"北急"

縄張りの外(市域外)への延伸を理由に、御堂筋線延伸を引き受けなかった大阪市に代わって、万博アクセス路線となる御堂筋線延伸事業・北大阪急行電気鉄道も、単なる投機ではなく!沿線の宅地開発、商業施設開発のデベロッパー事業に勝算ありと判断したわけです。

見事に狙いは的中して、万博期間中に「投資した建設費」もすべて回収するという"思わぬおまけ"までついて大成功したわけです!

1979年6月9日 北神急行電鉄発起人会開催

神戸市街地となった裏六甲の宅地開発を行う目的で、六甲山をぶち抜く!長大トンネル路線"北神急行電鉄"を自社グループ(子会社神鉄と)だけで事業開始して、1980年12月15日 に北神線(六甲トンネル)を着工しました。

第2目 阪神電車グループを取り込む

「ホワイトナイト」として賞賛された阪神グループ株式の公開買い付けも...

「絶対に損をしない阪急商法」小林師匠の教えを忠実に守っただけでしょう。

だから、1960年代当時、東海道新幹線計画のあった北方貨物線!に沿って「新大阪支線」を申請して沿線農耕地を叩いて買い漁り?その後は、新線建設に乗り出すでもなく「将来の布石」にと放置して!

新大阪駅駅前周辺市街地改造計画の"目"が無い!(※21)とみるや、長年放置!しておいた新大阪線用地の東西両端は売却して「捨て石」にして、

2012年に新大阪駅裏がわ?を塞ぐ形で阪急新大阪駅用地として購入してあった用地を、「阪急新大阪ビル」に転用して、JR東海の新大阪駅を孤立させて、

スキーム仕来り(※22)で「整備新幹線網建設の目途」が"軌道"に乗り出して、

新大阪駅巨大ハブターミナル構想が実現しそう?と見るや、新大阪連絡セン(しない)構想をちらつかせながら、実は「駅ビルそのものをJR東海に買い取らせて」、現有の新大阪連絡センの事業用地の不動産価値を高めたうえで、売り抜けようと...

だから、小生は新大阪連絡センは"実現セン"と読んでいます

参※22)当サイト関連記事 新大阪駅 周辺が 副都心 になれない5つの理由! はこちら。

第3目 四つ橋線直通構想???も...

数年前に公表された、四つ橋線直通妄想(※22)も、大阪梅田新都心計画に絡み、かねてから所有していた沿線の不動産を高値で売り抜けるためでしょう!

その都度、純真な?鉄オタの小生はまんまと乗せられて、突拍子もない、大阪空港連絡線構想などの「妄想を書き?立てた」(※23)わけですが...

阪急さんは「鉄道ロマン」ななどと言う甘ッチョロイ妄想とは無縁のビジネス集団!です。

だから子会社の神鉄粟生線の廃線問題(※24)も...北神急行電鉄の譲渡と交換条件で...

参※22)当サイト関連記事 阪急電車 四つ橋筋線 乗り入れ についての2つの夢物語 " LRT "と" 四つ橋線全面運休による 切り下げ工事 "案 はこちら。

参※23)当サイト関連記事 阪急 大阪空港連絡線構想 が なにわ筋線十三支線計画 で直結出来たら!? はこちら。

参※24)当サイト関連記事 神鉄 粟生線 存続問題 神戸市内の緑ヶ丘駅迄は残る!?はこちら。

続きはこちら

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公開:2021年2月24日
更新:2024年2月 8日

投稿者:デジタヌ

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