Essay『南海高野線汐見橋支線?は廃線などにはならない!...いつ迄も走り続ける!』ー第4回ー
※ここをクリックするとこの Content の Opening に戻れます!
江戸時代の自治組織「大阪3郷」から続く旧4大区を、牛耳ってきた"なにわ商人"・町衆の南海電車迫害の歴史!
「南海鉄道・上町連絡線(現阪堺電気軌道上町線)を大阪市内南区(現天王寺区)から追い出す!」
略年表2の通り1912年(明治45年)1月12日 上町連絡線から大阪市電への乗り入れ契約を解除させられ、同年2月13日 上町連絡線の直通運転が廃止となり「上町線」と改称しました。
1921年12月24日迄はリアル天王寺駅前!にあった「天王寺駅前」電停
上町線・天王寺⇔ 公園東門間の路線を大阪市(旧4大区の南区現天王寺区(※21))へ割譲させられた上に、さらに大阪府道「尼崎・平野線」の道路建設を口実に、天王寺駅前停留場を0.1km(営業キロ)南側の当時の西成郡天王寺村だった現在地(あべのハルカス前)に追い出されました!
なんのことはない当時「市営モンロー主義」の居城"中ノ島城"内にあった当時の南区(現天王寺区)から、「目障りな上町線」を大阪府下であった住吉郡の新・天王寺村へ追い出した!訳です。
現在阿倍野区の近鉄・大阪阿部野橋駅前に堺電気軌道上町線の「天王寺駅前?」停留所があるのはこのためです!
※参21)当サイト天王寺区ヒストリアはこちら。
●1956年10月の当時の運輸省の諮問機関「都市交通審議会」(※30)に現在の大阪メトロ四つ橋線とほぼ同じルートの案を提示していた!
●1957年5月20日 今宮戎付近⇔梅田間の路線(西横堀川線)を申請!
四日後の「都市交通審議会」で審議対象となったがこの時は未裁定。
その後大阪市交通局が急遽 大国町⇔西梅田間の地下鉄3号線(現在の四つ橋線)延長計画を策定して翌年の審議会で審議対象に!
●1958年3月の「都市交通審議会」では建設主体が明記されないまま両社の計画は一本化の方向で進めるように答申(提案)。
●1962年3月 大阪市交通局の"ごり押し"で地下鉄3号線を延長を支持する「答申」が公表。
●同年9月、南海は西横堀川線の路線免許申請を取り下げてしまう!
参※30)当サイト関連記事 インフラ整備の大義名分?『 審議会 』と『答申』 なる代物の有効性は?はこちら。
第1目 弱り目に祟り目状態だった1960年当時の南海電鉄
前途した天王寺線廃線時に大阪市の言い分通り堺筋線乗り入れを諦めさせられた上に、天王寺支線の免許まで召し上げられた背景には...
"餌"として岸里玉出⇔新今宮間の連続立体交差都市計画事業をちらつかせて、更に当時大阪市と犬猿の仲だった大阪府が、目前に迫った万博輸送サブアクセス堺筋線建設問題の決着を焦って、代償としての救済策・泉北高速鉄道乗り入れ(※32)を確約したからでしょうが...。
本当のところは1960年代当時の南海は不運(事故)が重なり、さらにASAHIを筆頭に全国紙が煽った為に、南海に対する「世間」の風当たりも強く、金(自己資金)も集まらなくて弱気になっていたのでしょう?...
天下茶屋周辺の連続立体交差事業も、困るのは大阪市で、焦らなくても最後は向こう(大阪市)が歩み寄ってきて折れたはず!でした。
どうせ乗り入れできない(標準軌の)堺筋線など"どうでもよかった"から"意地"でも天王寺支線を「休止路線」で"維持"していれば、なにわ筋線計画も、もう少しマシな代物になっていたことでしょう!
※32、本サイト関連記事 泉北高速鉄道建設のいきさつ《 コラム2017 》 何故乗り入れ相手が市営地下鉄ではなかったのか? はこちら。
ー続きはこちらー
※ここをクリックするとこの Content の Opening に戻れます!
公開:2019年2月24日
更新:2024年2月23日
投稿者:デジタヌ
Essay『南海高野線汐見橋支線?は廃線などにはならない!...いつ迄も走り続ける!』ー第3回ー< TOP >Essay『南海高野線汐見橋支線?は廃線などにはならない!...いつ迄も走り続ける!』ー第5回ー
▲南海 電車調査班へ戻る