狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Essay『 名鉄・名古屋駅 列車集中 カオス解消の迷案?バイパス新線建設による本数削減案』ー第5回ー

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★第4節 名鉄名物・必殺?"名鉄岐阜駅構内!単線区間について...

鉄オタが思っているようなJR東海の意地悪では無く、あくまでも名鉄(と岐阜市)の大人の事情で複線化されていないだけ!(更にこの区間を複線化する意味は無くなっている?)

すでに1996年2月のJR東海道線岐阜駅周辺連続高架事業完成時には、複線分の橋脚径間は確保されています!

戦後の岐阜経済を支えてきたアパレル産業が安い輸入品に押されて急速に衰退しだした岐阜市では、市内への昼間流入人口より名古屋市方面への昼間流出人口が大幅に増えました!それと共に名鉄(本線)岐阜駅の利用客も増えて、発着便数も一時的に増えたわけですが...

1970年代の名鉄は、「鉄オタ」が描くような岐阜⇔名古屋⇔豊橋を結ぶインターアーバンを目指したのではなく、名古屋都市圏近郊電車としての輸送力増強と、"観光開発"!に向かっていたわけです。

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第1項 駅構内配線が路面電車形式のままなのは利用客の低迷!が

名古屋本線・各務原線合わせて名鉄岐阜駅の利用者は1981年度当時の一日平均乗降人員76,901人から年々減少傾向にあり2018年度にはピーク時の約1/3以下!

1日平均乗車人員は敗戦後直ぐの水準17,668(降車人員除く)迄落ちてしまっています!

つまり、現状の名鉄岐阜駅の利用客数利用客数17,668人(しかも各務原線 時間8本発着分含む)では名古屋本線の発着便数(最多時間帯上下合わせて10本)を増やす必要も無く!、2面4線の"駅構内!渡り線部分"を態々増線してまで、同時発着(※91)に拘る必要は無い!わけです。

参※91)近鉄南大阪線・大阪阿部野橋駅 1日乗降客数2018年11月13日交通調査時162,589人!6面5線! 最多時間帯上下合わせて30本発着。

ターミナル駅では効果も少ない!

頭端タイプの所謂ターミナル駅では、名古屋駅などのハブステーション(結節駅)と異なり、発着線同士が必ず交差するために、近鉄大阪阿部野橋のように、余程ダイヤをうまく組まないと同時発着は難しく、いずれにしても終着駅の手前で必ず「入線待ち時間」は発生するわけです!

つまり、豊川駅のホーム1面・発着番線1線のみのチンチン電車の終端駅スタイルとは意味合いが違うわけです!

判りました?(謎のチャンネル以外の)お気楽な鉄オタさんたち!

ビジョンを持たない岐阜市では...

というわけで、現在境川橋梁(岐南 ⇔茶所間)から名鉄岐阜駅までの区間を連続立体交差化する計画があり、その際に当区間も複線化されることになっていますが、相も変わらず明確な将来像を掲げないで、"名鉄に頭の上がらない市当局"(※92)の"縦割り組織、重複部署行政"では...

岐阜市関連部署? 

参※92)当サイト関連記事 " 美濃 の気風"が生んだ 名鉄 岐阜市内線 の廃止とその後? はこちら。

第2項 構内配線の生い立ちと歩んだ路

1914年12月26日:美濃電気軌道 笠松線(現・名鉄名古屋本線) 広江駅 ⇔新岐阜駅間が複線で開業

この時は美濃電が高架橋で官設東海道線を跨線橋で跨いでいたが、チンチン電車が走る複線の専用軌道だったので軌道敷地が狭かった!おまけに戦時中に単線に改修?された。

1941年8月に 新名古屋地下トンネルが完成して大型車両による名岐間の運行が始まりましたが、そのままにされた?

1948年5月の 西部線・東部線の直通運転を期に岐阜駅前市内線との連絡線を廃止して新岐阜駅として各務原線長住町駅と統合する際に延伸されましたが、跨線橋部分はホームに近い駅構内だったので単線のままとされました。

(※この当時の利用者数は4月30日発表の半期における一日平均乗降人員は15,968人でした。)

更に1957年9月に広江駅 ⇔新岐阜駅間を複線化する際にも、跨線橋部分は駅構内なので、単線のままとされました?

アパレル産業が隆盛を極めていた1960年代高度成長期の頃は、周辺から岐阜市内に流入する"市内線の利用客"多かったために、名鉄岐阜駅の利用客はさほど多くはありませんでした。

つまり発着便数も今と変わりませんでした!

本線・各務原線のターミナル分離の方が問題!

今となって見れば、唯々利用者(市民)に不便をかけているだけの本線・各務原線のターミナル分離!

1970年代になると、安い輸入品に押されて、戦後の岐阜経済を支えてきたアパレル産業が急速に減退して、変わって岐阜市内から名古屋に通勤する利用者が増加しだしました!

1978年に、岐阜県都市計画審議会が国鉄岐阜駅連続高架事業に関連して、「国鉄3階・名鉄2階」案が妥当と答申しましたが...

相も変らぬ市当局の弱腰で、名鉄は自社駅ビル建設の(鉄)路を取り参加を見送りました!(※92)

そして(当時の)ボトルネック?は解消される見込みが無くなりました。

この時に岐阜市がもっと強固に岐阜総合駅事業を進めていたら...

1981年に年間利用客は、一日平均乗降人員76,901人とピークに達しましたが、以後は利用者が年々減少傾向となって...

1986年11月から始まった国鉄岐阜駅の高架化工事の際には、複線化されていない部分をそのまま跨ぐ形で高架化されましたが、将来の名鉄複線化を見越して橋脚間の径間は広げられています!

参※92)乗り換え客が多い場合には、別ターミナルビル戦略が駅周辺商店街の振興にもつながり非常に有効ですが、山電・姫路駅同様に乗り換え客の少ない地方都市のターミナル駅間では...  

当サイト関連記事 全国にある"躍進したアーケード街"!はこちら。

国鉄民営化JR東海の誕生で

1987年4月のJR東海誕生以来、東海道線のテコ入れが始まり、名鉄の優位性が揺らぎ始めました!

JRの高架化事業を挟んだ1989年度には、1日平均乗降人員は68,129人まで落ち込みました。(※それでも現状の約4倍の利用者がありました!)

1996年2月の東海道本線の上下線全面高架化完成で、JR東海の更なる速達化が図られた結果、2000年以降は、JRが毎年利用者を増やして、2000年当時1日平均乗車人員27,822人だったJRが、2018年にはJR 32,244人となり、対して名鉄17,668人完全に逆転化してしまい、名鉄岐阜駅の利用客は敗戦後の1948年当時の水準にまで激減しました!

第3項 観光開発と名古屋市近郊路線の充実に熱中していた当時の名鉄には"金"がなかった?

知多新線建設

  • 1968年6月6日 - 常滑市広目地内の用地買収開始
  • 1970年1月 - 第1工区(富貴駅 - 別曽池間3.1 km)着工
  • 1973年4月23日 - 南知多町内の用地買収完了。
  • 1974年(昭和49年)6月30日 - 富貴駅 - 上野間駅間開業。
  • 1975年(昭和50年)7月6日 - 上野間駅 - 知多奥田駅間開業。
  • 1976年(昭和51年)4月4日 - 知多奥田駅 - 野間駅間開業。
  • 1980年(昭和55年)6月5日 - 野間駅 - 内海駅間が開業し全通。

名古屋市近郊鉄道として

更に西線の新一宮駅、東線 本宿駅周辺連続高架化事業
  • 1992年(平成4年)10月24日:名電長沢駅 - 本宿駅 - 名電山中駅間高架化。
  • 1993年2月:島氏永駅⇔ 新一宮駅 ⇔今伊勢駅間高架化完成。
金山総合駅構想の事業化
  • 名鉄は当時の国鉄とともに1970年頃より用地確保に乗り出した。
  • 1972年(昭和47年)3月には東海道本線を1面2線(将来的に2面3線化される可能性を含む)、名鉄を2面4線とすることが最終決定。
  • 名古屋市、JR東海(国鉄線を継承)、名鉄の3者で協定が結ばれデザイン博開催を控えた1989年(平成元年)7月9日に金山総合駅誕生。
  • 名鉄はこの改良と同時期に神宮前 ⇔金山間の複々線化工事にも着手総合駅完成後の同年10月12日に着工、翌1990年(平成2年)4月1日に複々線化した。

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公開:2019年11月 5日
更新:2024年1月29日

投稿者:デジタヌ

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