狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

連載《 トラム・路面電車が走る LRT が Interurban として見直された背景とは...》ー第6回ー

第6回 嘗て日本でもLRT・軽便軌道が重宝がられていた!

嘗て明治初頭から第2次大戦直後まで道路建設が大変だった日本でも、各地で広域軽便鉄道網(※20)として、併用軌道(路面)を走るチンチン電車の鉄道網が発達していた時期もありました!

道路整備とともにバス輸送が発達し、物資輸送がメインであった嘗ての官設鉄道・国鉄も電化されて、電車運行となり便数が増えて便が良くなり、一部の都市を除き(※21)広域トラム網(軽便軌道)は消滅しました!

参※20)当サイト内関連記事 嘗ては手軽な輸送手段だった?"鉄道" はこちら。

参※21)広電の愛称で呼ばれている広島電鉄や、「とさでん」の愛称で呼ばれている「とさでん交通株式会社」や高岡市の万葉線はこの名残?です。

特に「とさでん」はかつて御免から先「安芸」までの鉄道路線(現・土佐くろしお鉄道阿佐線・阿佐海岸鉄道阿佐東線の一部)を持ち御免から先の自社鉄道線に直通していました!さらに万葉線も「越の潟」から先「富山市内線」まで繋がっていました。

福島の伊達軌道のように、併用軌道で軌道網を広げたインターアーバンは、文字通りモータリゼーションの激流に押し流されたわけですが、ほとんどの地方LRT事業者は、立派な軌道施設を備えていましたが...保線(施設補修・更新)費用が必要ない"乗り合いバス事業"に自主転換して、鉄道事業を廃業していきました!

第1項 嘗てあった 都市圏LRT網

第1目 東北地方最大の規模を誇った伊達軌道線(現福島交通)

以下 当サイト関連記事 福島県 伊達市 《 タウンヒストリア 》 日本における 広域トラム 発祥の地 

から一部転載。

幕末からの養蚕業による好景気に後押しされ、明治後期 伊達軌道(現福島交通の前身)により『軽便軌道』が敷設され、1922年(大正11年)には現・伊達市域のほぼ全域と隣接の桑折町、現飯坂温泉にまで至る『広域トラムネットワーク』(福島交通飯坂東線)が完成し旧伊達郡のアクセスの柱となっていた。

最盛期の1934年当時 福島 - 長岡間は15分間隔(5 → 22時運転で早朝深夜は30~ 60分間隔)所要時間34分で、その他の支線でも30 ~60分間隔で運行されており、福島 ー長岡間34分、福島 ー保原間50分、福島ー梁川間1時間12分の所要時間で結んでいた。

当時東北本線は既に国有化されていたが、1961年!までこの区間は非電化で、全日を通じ数本程度しかない汽車列車の運行に比べ遙かに便利で役に立っていた。

1967年 聖光学院前 - 湯野町間(現飯坂温泉)間営業廃止に伴い長岡分岐点 - 伊達駅前間の旅客運輸営業も廃止したために国鉄からの乗り換えが不便になった。

廃止2年前の1969年(昭和44年)4月当時ですら福島駅前 - 長岡分岐間は日中15分間隔運転でラッシュ時間帯は増発も行われ、福島駅前 ー保原間で12列車の折り返し運転が設定されていた。

当時23両あった電車のうち22両が稼動し予備車両が無いフル稼働に近い盛況ぶりであった。

...がその後道路整備(舗装)が進み、トラック、乗り合いバス、営業車両が急増して、往復2車線しかない狭い幹線道路に敷設されていた併用軌道上を走っていた「軽便電車」は、自動車に行く手を阻まれ定時運行がままならなくなる一方で、競合する東北本線は電化により「国電」の増発・時短効果が現れだし、乗客を奪われ、福島交通飯坂東線(軌道線)は1971年に全線廃止となった。

第2目 東海エリア最大のライトレール網を誇った名岐鉄道(現名鉄)

詳しくは 当サイト関連記事 尾張とは異なる 美濃 の気風が生んだ 名鉄岐阜市内線 の廃止とその後?をご参照ください。

この路線網は、岐阜市内以外の郊外区間の殆どは「専用軌道」か「鉄道」区間で、トラック・バス・営業車などの"自動車"通行の妨げとはなっていなかった!が...

軌道の維持管理(保線)・設備更新費用が営業収益を圧迫するようになり、並行する一般道が"舗装"されて「乗り合いバス運行」に支障をきたさなくなったので、他の痴呆都市の鉄道事業者同様にバス路線に自主転換された!

つまり、前途した福島交通線もそうだが、1960年代になっても地方の幹線道路の舗装率は向上してなく、有名な流行歌『田舎のバスはおんぼろ車凸凹道をガタゴト走る...』の通り、乗り合いバスは実用的な公共交通機関とは言い難かったが、1960年代後半から幹線道の舗装化が急速に進み、次第にLRTの優位性(商売としての旨み)が低下していったわけです!

首都圏、京阪神などの大都市市街地を除き、ほとんどの地方都市では、道路交通は逼迫していなかったわけですが、"痴呆"公共交通事業者は、自主的に「儲からない鉄道事業」から足を洗い?「旨みの有る乗り合いバス事業」に転向していった訳です!(※22)

参※22)当サイト内関連記事 実は一般道の舗装率と深い関係がある「モータリゼーションの激流!」 はこちら。

第2項 かつての名残でトラムカーが走っている例

共に嘗ての名残で元・市内併用軌道線の専用軌道部分をトラム型のチンチン電車が走っている!例。

第1目 東急世田谷線

東京都電と同じ1372㎜の偏軌(※11)を用いている。

※但しこちらは軌道法にの基づく全線併用軌道!

1925年(大正14年)1月18日に三軒茶屋駅⇔ 世田谷駅間が玉川電気鉄道(玉電)の支線(下高井戸線)として開業。

同年5月1日には残りの世田谷駅 - 下高井戸駅間が開業した。1938年(昭和13年)3月10日、玉川電気鉄道は東京横浜電鉄(現在の東急の前身)に合併され、玉川線となる。

1969年(昭和44年)5月11日に玉川線の渋谷駅 ⇔ 二子玉川園駅間が廃止されて残った下高井戸線が世田谷線としてトラムカーが走るライトレールに転換した!。

※参11) 現在は京王と東急世田谷線、都電荒川線、都営東西線のみに残る軌間1372mmの偏軌は、元々併用軌道であった馬車鉄道が開業当時に馬車を引く「2頭立て」の馬が並走してもお互いにぶつからない幅ということで、諸外国に見倣って誕生した!

第2目 筑豊電鉄(福岡県)

見かけは専用軌道を走るチンチン電車だが1968年7月 迄貞元 ⇔ 筑豊直方間で地方鉄道貨物運輸営業を行っていたれっきとした鉄道事業法に基づく鉄道!(鉄道事業者)です。

敗戦後の1951年(昭和26年)2月15日 に西鉄の完全子会社として筑豊電気鉄道が設立される。

※デジタヌと同い年!

1956年3月21日 貞元(現:熊西) ⇔ 筑豊中間駅 間が開業。西鉄北九州線(併用軌道線)のチンチン電車が乗り入れ開始。

※つまり市内線の延伸区間であった。そういう意味では1912年(大正元年)の京阪京津線開業以来久々の実に半世紀ぶりという市内線→郊外線乗り入れであった。

1959年9月18日 木屋瀬⇔ 筑豊直方間が開業。

2000年(平成12年)11月26日 西鉄が北九州線(併用軌道線)熊西 ⇔折尾間を廃止。

筑豊電気鉄道が黒崎駅前⇔熊西間の第二種鉄道事業を開業。(第3種鉄道事業者は親会社西鉄)

2015年3月1日 西鉄の持ち物だった黒崎駅前 ⇔ 熊西間の区間が筑豊電気鉄道に事業譲渡、全区間で第一種鉄道事業者となる。

※現在沿線自治体の支援で営業継続しているが、この時に全区間を西鉄(第3種鉄道事業者)に移管し、筑豊電鉄を地元自治体・西鉄共同出資の3セク(第2種鉄道事業者)に改組して上下分離しておけば、見掛け上は黒字化でき、その後の廃止問題につながらなかったはず。

 

公開:2008年7月 5日
更新:2024年3月29日

投稿者:デジタヌ

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