連載『 京阪・中之島線 "阪神直通の夢"は何処へ...』ー第9回ー
第3章 京阪電車魂!近畿の数多くの鉄道建設に関わった " おけいはん " の歴史...
近畿の数多くの鉄道建設に関わり、理想を追い求めたインテリ集団!
創業以来、市内中心部乗り入れを阻まれ続けてきた「京阪電車」がやっと大阪市の居城 "中之島" に上陸!できたましたが...
共存共栄を尊ぶ「はんなりした京都の旦那衆」とは異なり大阪市を牛耳ってきた「転入組あきんど・町衆」は狡猾で「鉄道オタク?」で有り続けてきた"お京はん"には分が悪い!ようですが...
"おけいはん"の歩んだ鉄路とは正しく、"崇高な理念"を貫こうとする『理想家集団』おけいはんと、"利権主義(市営モンロー主義)"を掲げる『なにわ町衆(まちしゅう)』の抗争の歴史だった...といえるのではないでしょうか!
京阪電車の生い立ち
京阪電車は官設東海道本線のルートから外れた旧京街道に(現国道1号)沿いに、
大阪市 と京都市を結ぶ「高速電気鉄道」インターアーバンとして、日本産業界の始祖渋沢栄一氏が、自ら説いた合本主義に下ずいて、当時の成田鉄道社長佐分利一嗣を中心とした関東の実業家と衆議院議員岡崎邦輔氏らを集め1901年(明治34年)に起案したことに始まり、
これに呼応する形で翌年1902年に京阪神地区の財界人たちが「軌道条例」に基づく「畿内電気鉄道」として事業化して1906年8月25日に大阪市東区高麗橋詰町 ⇔京都市下京区朱雀町五条大橋東詰間の電気軌道敷設の「特許状」と命令書を下付されて、同年8月30日に創立委員6名と共に渋沢栄一氏が創立委員長に選任されて、され9月3日に畿内電気鉄道㈱創立委員会で定款が決定され、1906年12月21日に起案から6年越し!にしてやっと京阪電気鉄道株式会社が発足しました。
つまり「あきんどモンロー主義」(※10)の旗頭で有る日本最初の公営路面電車「大阪市営電気鉄道」が花園橋(現在の九条新道交叉点)と 築港桟橋(現在の大阪港/天保山)間5.1kmを開業させた1903年以前から、「おけいはん」の事業計画が進んでいたことになるわけです。
参※10)当サイト関連記事 大阪市における" 市営モンロー主義 "の起源と変遷はこちら。
1901年から計画されながら会社設立が遅れ、会社設立後も大阪市から「時間稼ぎの無理難題」が次々と突き付けられて、大阪市がずるずると大市営電車軌道共用、市内乗入契約締結を引き延ばして、
やっと1908年9月26日に契約が締結できて軌道特許が下され、1909年(明治42年)4月になって初めて大阪市北区東野田網島(現・都島区網島町)の車両工場、車庫の建設にこぎつけたわけです。
1910年(明治43年)3月31日:大阪・天満橋 ⇔ 京都・五条(現・清水五条)間46.57kmの軌道敷設工事が竣工し、同年4月15日になって大阪・天満橋 ⇔京都・五条間を1時間40分で結ぶ現在の京阪本線が開業した。
当時の乗入契約は"路線レンタル"契約に近かった!
大阪市との間で交わされた市営電車軌道共用と市内乗入契約は、巧妙な軌道敷設妨害「嫌がらせの手口」として有名ですが、近年のプロダクション制作番組「鉄道伝説」やそれを鵜呑みにした「ニコニコ動画」迷列車シリーズの「某匿名UP主」達が「軌間1067mmの狭軌軌道」を敷設したというは事実と反する作り話!です。
(※「鉄道伝説」「ニコニコ動画」迷列車シリーズには時代考証が欠如!しているコンテンツが多数混ざっています!)
「大阪市営電気鉄道」は開業当初から1435㎜の標準軌で一貫していました。
その1 路線の制約
大阪市営電気鉄道で使用された(8.3m!の2軸車!)車両規格(車両限界)が異なり、さらに交差点付近のカーブの最小曲率半径も当時の京阪の中(途半端)型4軸ボギー車両17mでは走行(乗り入れ)不可能?と判断されたことが一つ。
その2 路線レンタル方式をとった当時の乗り入れ契約が
現在行われている"直通先"に車両だけが直通する「車両レンタル契約」方式の相互直通は、敗戦後になってからの方式で、当時の"乗り入れ"は乗務員(運転主、車掌)ごと乗り入れる方式今でいう第二種鉄道事業が基本でした。(※11)
"乗り入れ"予定区間の天満橋⇔大阪駅前間の料金設定問題がこじれて、実現に至らなかったと考えるのが妥当でしょう。
当時の乗り入れは、まさしく運転手・車掌込みで乗り入れて、後日運行本数に応じて清算する「路線レンタル」(第二種鉄道事業)形態でした。
大阪市電と京阪電車では運賃設定が異なり、京阪側に無理やり承諾させた片方乗り入れ案(協定)は最初から実現性がなかった!と考えるのが妥当でしょう。
1910年京阪本線天満橋開業時以前から、そのこと(大阪市のペテン)は京阪も承知していたと考えられます。
参※11)1921年に同じように片方乗り入れを条件に、南海鉄道上町連絡線(現阪堺電気軌道)の天王寺区内区間が買収されて、戦時中の1943年に大阪市電市内均一料金制が導入されて完全に追い出された!ように...
『理想家揃いのインテリ集団』であった開業時の京阪電車経営陣が正規の手続きにこだわった!
これは京阪国道(旧東海道)沿線という庶民の住む下町?を通過する路線にしては...
"意外とお上品な学者肌のインテリ集団(理想家?)"の「崇高な理念」に下づいた軌道敷設計画であり、中央政権に寄り添った財界が、あくまでも「正義・手続き」を重視した紳士的手法に拘った為に、「旧大阪三郷」が起源の大阪市「北区職員」の計算高い「町衆的嫌がらせ」に屈してしまったのでしょう。
阪神電車・阪急電車などはあくまでも「既成事実」に徹し、軌道特許の発行を待たずに軌道建設を押し進め既成事実(路線)を追認させる手法で阪神間に近郊電車路線網を構築していきました。
1915年2月6日:臨時株主総会において、京都市長と締結した京都市電気軌道鴨東線 三条 ⇔五条間の軌道使用契約(路線レンタル契約)を承認。
同年10月27日:鴨川線 五条 ⇔ 三条間1.5kmが開業。
※つまり、京都市では早くから市営モンロー主義などは行っていないどころか"共存・共栄・はんなり(上品)路線上"を走っていたわけです!
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公開:2007年11月 6日
更新:2024年2月23日
投稿者:デジタヌ
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