狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

連載『 京阪・中之島線 "阪神直通の夢"は何処へ...』ー第10回ー

★第1節 戦前の新京阪の計画もズタボロに... 

その後も、当時は淀川以北の未開の荒野?に、インターアーバン「第2京阪線」を敷設して「超特急」を走らせて京都⇔大阪天神橋間を30分で結び、将来は名古屋まで至る計画「崇高な理想」実現に猛進?したのでした。

1919年には新京阪(現阪急京都線)大阪府東成郡榎並町⇔京都府紀伊郡納所村間30.4kmと、その支線東成郡清水村⇔東成郡城北村間、東成郡城北村⇔西成郡豊崎町川崎間、京都府内の枝線4路線合計43.8kmを軌道法に下ずいて特許収得しています。

ただし特許取得条件として既存の大阪市内側起点天満橋とは別の場所に、もう一か所起点駅を設けることが取得条件の一つでしたが。

鉄道省城東線の高架化工事と跡地利用で梅田乗り入れを目指す

そのころ進んでいた城東線(現大阪環状線)の電化・高架化工事計画は、既設の地上線と平行して用地を取得して、そこに高架を建設するという手法が採られていたため、工事完成後は旧線用地が不要となる予定でした。

そこで京阪は、太いパイプで繋がっていた当時の中央政府の鉄道省に働きかけて、その旧線用地の一部を570万円!という当時でも破格の安価で払い下げてもらい取得して、「野江」から分岐して京阪本線と計画中の「新京阪線」を「梅田へ乗り入れさせる路線計画」を作成しました。

※嘗て事業用地まで確保されていた「京阪梅田線」についての詳細はWikipediaの解説記事へ。

しかし、当時市内交通の市営一元化(市営モンロー主義)に下ずく都市計画?を進める大阪市(北区)が、「自治権の侵害」として横やりを入れて、地上線では都市計画の妨害になるなどの、ヤクザ同様の「因縁話」をつけて猛反対に回ったわけです!

1920年に鉄道大臣が直接第6代大阪市長の 池上四郎(4大区出身)への諮問(事情聴取)を行い、翌年市長が鉄道省に京阪の大阪市内部の路線を"高架線か地下線"にして立体交差することを条件に、一応の話し合いはついたかに見えました?

しかし1923年9月1日発生した関東大震災の影響で、(京阪梅田延長の大前提である)国鉄城東線の高架化工事に国の予算が割り当てられなくなり、城東線高架工事の着工時期の目途が立たなくなりました。

1925年1月27日:京津電気軌道との合併が鉄道大臣、ならびに内務大臣から認可。
同年1月30日:京津電気軌道との合併が逓信大臣から認可。

1932年9月:京阪線の車両の集電装置をトロリーポールからパンタグラフへ変更。
同年10月15日:京阪線の全車両のパンタグラフ化が竣工。

1933年12月29日:京阪本線の蒲生信号所 ⇔守口(現・守口市)間を複々線化!国内私鉄初の快挙!となりました。

新京阪の開業

その後、新京阪線は新設区間の建設工事と旧北大阪電鉄線(現千里線)区間の改良工事を経て、

1928年1月に天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅)⇔高槻町駅(現在の高槻市駅)間で、同年11月には高槻町駅⇔西院駅(仮)間の新京阪鉄道をやっと開業にこぎつけました!

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公開:2007年11月 6日
更新:2024年2月23日

投稿者:デジタヌ

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