狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

連載『 四万十国際空港!で幡多郡が"希望ある未来"に向けて飛翔!する時では...』ー第2回ー

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★第1節 単純には解決できない四国のトラフィック問題 

四国は、日本の古代史から抹消!?された「由緒あるregion!」でもあるわけです。

北海道の様に、陸蒸気網!が(明治・新政府の)富国強兵・殖産政策の開拓鉄道として整備されたわけではありません!

古代からあった"塩の道"♥life lineを、難易度の低い順に実現させていった生活路線!です。

第1項 四国の河川と国割

『四国の大河川を上げください?』

と問いかけると、真っ先に吉野川が上がり、

その次に、清流で有名な四万十川、となる訳ですが...

第1目 他国?にまたがる大河はこの2つだけではありません!

長曾我部氏の四国統一に大きな≒うぇありを果たした一級河川"仁淀川"もあげられます。

更に、2級河川ではありますが南予宇和の要だった大洲藩の繫栄を支えた、"肱川"、そして、阿波国(徳島県)の那珂川があげられるでしょう。

参)一級河川とは、他府県にまたがっている流域を持つ水系の幹をなす河川の事であり、流域面積が結構ある"肱川"は県内で完結しているので、2級河川となります。

第2目 測量技術(地図作成)が不完全な頃

今に至る!大宝律令(701年制定)による古代の国割り(※10)が施行?されたころには、大規模な測量技術、つまり検地・測地?・地図作成は不完全で、だいたいの目勘定(目測)で行われていました。

但し、農耕に必要な標高測量は、かなり進んでいたようで、標高差(落差)を用いた灌漑技術(小規模用水路開削整備)で棚田が開墾!できた、訳です。

参※10)当サイト内関連記事 古代・神代の時代?の日本列島には「2つの倭国」勢力圏があった! はこちら。

第3目 人口増加とともに太平洋岸に勢力圏を伸ばしていった倭国政権

当初は、"塩"も容易?に"穫れた!"瀬戸内運河沿いに、展開していた倭国 Federation ですが...

人口が増えるとともに、太平洋側の縄文人zone(地域)にも触手を伸ばし始めたわけです。

そして、最初に"入植"したのが、河川による堆積が進んでいた、四万十川・仁淀川河口部に近い、平地部?だったわけです。

「大化の改新(645年)から(701年)の大宝律令発令」により、

その地で暮らす「民(たみ)の営み・暮らし向き」とは関係なく!

中央政権のthe exploited classes(搾取階級);公家共による、古代の国割設定"Territory"(縄張り・搾取district)である!律令国が策定されて、

741年ごろに"仏教を国教"とする方針が打ち出されてから、当時の倭国 連合のTerritory 内に"国分寺"が配置されだしたわけです...

と同時に対外的(外交上)に「女性shaman(司祭)を廃止して大王(おおきみ)を頂点とする独立国家「日ノ本」の"体裁"を整えたわけです。

但し、あくまでも中国大陸で興隆した専制国家、唐王朝(618年~907年)に対する対外的な、"体裁"であり、実態はまだまだ女性シャーマン(王妃)が「強い政治力」を持っていたわけです。

なので、「日ノ本」宣言以降も「主権者」をめぐる争い、つまり公家・豪族による数多くのクーデター!が後を絶たなかったわけです。

更に、各時代で権力闘争に明け暮れていた!the exploited classes(搾取階級)の公家;豪族どもが、各々勝手に「大王(おおきみ)」を擁立!したので、各地に「大王(おおきみ)」の墓所があるわけです。

つまり国粋主義者が唱えるように「日ノ本紀元2600年来、大王(おおきみ)の家系は受け継がれている」のでは無い!訳です!

第2目 四国西南部の幡多郡

土佐の小京都・中村は...

中村がある幡多郡は、大宝律令制定当初から出土した当時の古文書にも記述があり、「地方王族(公家)」が、「那の倭国連合」が制定した所領"荘園"を造園していたと考えられています。

但し、地元の lord(領主)が居た証となる王墓(古墳)は、(瀬月内沿いなどに比べて)あまり多くは見つかっていません!

つまり、大規模墳墓の造営自粛(通達)が出た頃に"入植"(侵略)が行われたのでしょう。

土佐一条氏は律令制崩壊後!に下向した

fixer(調停人)としても有名な土佐一条氏が、中村に館を開いて移り住んだのは、律令制が完全崩壊!して久しい、室町幕府(1336→1573年)末期に当たる応仁の乱(1467年)で戦国時代に突入た直後の1468年(応仁2年)に、前関白(公家)だった一条教房が、下向(着任)したのが始まりとされています。

つまり、1183年とされる鎌倉幕府成立で、律令制(郡県制)に代わって、"法度"による守護(旧・国司)・地頭(荘園管理者)制度になった後、数百年も経過して律令制が完全に崩壊して戦国時代に突入した直後に、地頭に相当する"荘園オーナーとして、着任したわけです。

なので、幡多郡全域を統治していたわけではありません!が...

現在、市街地となっている、四万十川と後川に挟まれた"中州"も含めて、このdistrict(領地)は豊かな水量とともに上流から運ばれた肥沃な土壌で、豊かな耕作地"棚田"が形成されていたわけです。

土佐くろしお鉄道の宿毛は

更に四万十川支流中筋川上流部の宿下・平田エリアの棚田zone(地域)とともに、豊かなdistrict;幡多郡を構成していたわけです。

中でも現在三原村となっているエリアは、豊かな水量で、"棚田"とは銘打ってはいませんが、太平洋にそそぐ「市野瀬川水系流域は、幡多郡の穀倉地帯!となっていました。

第3目 今に残る天満宮は水(稲作)の神!

天神宮・天満宮といえば藤原道真を思い起こすでしょうが、これは維新後の神社庁が勝手にまとめただけで、水天宮などと同じ水の神様です。

Googlearthモードで鳥居マーク部分を拡大していただければ、天満宮のある場所には耕作地"棚田"があることがわかります。

ご時世で休耕となって、放棄?された水田も多くありますが、三原村は古代から続く水田(棚田)稲作の一大地となっています。

第3項 室町幕府末期の戦国時代

自らは上洛して「都で暮らす」ようになり、地方の所領「荘園」に目代(agent代理人)をさし向けて、「武家の貴族化」が進むと、もはや領地を統治する力はなくなり、用人・配下だったはずの地頭が武装集団化して、戦国大名となり、四国は「千乱の世となったわけです。

第1目 土佐一条氏は荘園主

前途した様に、土佐一条氏 はあくまでも(封建制度農奴制度!にのっとった)荘園主であり、周りの地頭(荘園管理人)上がりの小大名には、受けが良かったのでしょうが、奥州藤原氏同様に(※11)、自領の民(農奴)からは、そんなに慕われていたとは考えにくい!訳です。

参※11)当サイト内関連記事 奥州藤原氏は王朝文化に毒された朝廷の手先「俘囚の長」(寝返り蝦夷)だった! はこちら。

第2目 長曾我部は武装化した豪農の長(おさ)

そんな中で、土佐の地元・豪家?の長(おさ)長曾我部氏が台頭して、周辺の小大名を次々と制圧!して、ついにフィクサーでもあった土佐一条氏を追い出して、土佐を平定!して、仁淀川沿いの松山街道(現国道440号)を攻め上がり!三坂峠から伊予に攻め入って、平定したわけです。

事実、三坂峠は標高705mと、四国最高峰・石鎚山(標高1792m)から続く石鎚山脈の中にあっては、比較的低く、しかもと州の仁淀川沿いの松山街道も険しい山道ではありません。

但し、重要な「塩街道」の一つでもあり、途中には双方の山城が連なり、たやすい侵攻ではなかったと思われます。

長曾我部は農民の支持を得てlogistics(兵站)を確保できた!

自らの家臣団が豪農(半農・半武の兼業農家?)で構成されたいわば"解放軍?"であったために。100㎞以上にも及ぶ道程にもかかわらず、沿道の農民の賛同でlogistics(兵站)「兵糧を確保」できたのでしょう。

その後、強大な力を誇っていた三好氏を討ち果たし(追い出し)、四国全土を平定できたのも、「豪農の長(おさ)」だったためでしょう。

第3目 三間・近永・松野は宇和島藩の納屋だった

四万十川・支流広見川は重要な交易路だった

今回の主題である四万十川支流・広見川流域も同じで、国境に当たる予土国境厠処(現国道381号県境)の標高は僅か58mしかなく。

風待ちが必要な海路の豊後水道ルートよりも、塩街道として重宝がられいたでしょう。

つまり、ある程度上流(広見川合流部?)まで、川船が航行可能(岸から曳航可能?)な四万十川流域は、古代から交流(交易)があったと考えて差し支えないでしょう。

しかし、「日ノ本連邦」が元海賊(盗賊集団)の宇和島に、936年に悪名高い藤原純友を派遣して懐柔して連邦側に引き入れたので、この一帯は、晴れて?宇和島の所領となったわけです。

以来、千年近くにも渡り歴代の領主から"搾取"され、同時に幡多郡(中村)との自由往来も禁じられて絶縁状態となったわけです。

前途した様に、一時は長曾我部氏による四国平定(解放!)で自由往来が復活したものの、その後の秀吉による征服で長曾我部氏は土佐一国に押し戻され、再び長い鎖国!が始まったわけです。

広見川・三間川流域は穀倉地帯!

広見川・三間川流域は、以外?や耕作(棚田)に適した堆積地(河川敷)が多く、弥生人が、南予(肱川流域)に稲作をもたらして以来、三間川・広見川流域にも伝来して、豊かな穀倉地帯を形成したと考えられます。

特に、旧三間町には城跡(砦跡)が多くあり、古来より、要衝として重要であったことがうかがえます。

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公開:2022年12月 3日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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