Essay『南海高野線汐見橋支線?は廃線などにはならない!...いつ迄も走り続ける!』ー第2回ー
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岸ノ里玉出駅で東西に分断されてはいますが南海高野線の始発駅は汐見橋駅なのです!
汐見橋線は「鉄オタも含めた一般人」が考えているような「なにわ筋線の(既成事実)布石」としてのみ存在しているような「ただのお荷物路線・駅」などではありません!
1885年(明治18年)12月29日に始祖に当たる 初代・阪堺鉄道開業が難波駅 ⇔大和川駅間を軌間838mmの軽便鉄道として開業しました!
在阪私鉄各社の市内中心部乗り入れを阻んできた「市営モンロー主義」(※2)旗揚げ以前からあった「近畿唯一の現存する私鉄です!」
※参2、当サイト内関連記事 大阪三郷・旧四大区に端を発する「市営モンロー主義者」達の陰謀とは?
1900年9月3日 大阪高野鉄道の Terminal "道頓堀駅"として開業
大阪市の中心部から鉄道事業を締め出す「市営モンロー主義」の旗揚げは1903年に日本初の公営電気鉄道として「大阪市営電気鉄道」が開業した時点とされているわけですが?...
1897年以降大阪市第1次市域拡張により大阪市を名乗った4大区の「縄張り」が広がり、同時に強権を発揮するようになり、これ以降は各鉄道は市域中心部(概ね現大阪環状線内側)に侵攻!できなくなりました!
「市営モンロー主義」の旗揚げは1903年
その後1903年 日本で最初の公営軌道「大阪市電」が「市営モンロー主義の旗印」を掲げて,
花園橋(現在の九条新道交叉点)⇔ 築港桟橋(現在の大阪港/天保山)間5.1kmの築港線で走り出しました。
これを期に大阪市は「市営モンロー主義」を口実に一世紀以上にわたり「大阪城本丸開門」を拒み続けて、現在の大阪駅・梅田駅周辺への「私鉄ターミナル一極集中」を引き起こしてしまったともいえます。
つまり南海電鉄3路線(本線(及び天王寺支線)・高野線・上町軌道線)は「大阪市議会の市営モンロー主義宣言」以前から開業していた近畿で現存する唯一の私鉄事業者ということになります!
★第2項 南海が難波に侵入できた「難解」な答えは...
1879年(明治12年)の郡区町村編制法により難波新地(現難波)は"大阪府南区!"に含まれ"その後1889年の市制施行によって、大阪市南区となりました。
阪堺鉄道として"大阪府"にし申請・開業した1885年当時、は難波は大阪府下の田舎集落で大阪市内ではありませんでした!
南海鉄道誕生当時、住吉区・阿倍野区(1943年旧・住吉区より分立)などは存在していなく、1897年 の4大区の周辺侵略!(第1次市域拡張)で道頓堀川以南の難波新地が南区に侵略!されるまでは、大阪府下!でした。
JR以外の旧民鉄では南海電鉄のみが中心部「ミナミ」に侵攻出来て、阪神・阪急・京阪・近鉄の各社が「市営モンロー主義」を表明する旧4大組の"縄張りへの"乗り入れを拒まれた理由はこれです!
つまり、1889年の市制施行以前の、当時の4大区(東・南・西・北区)は大阪府に属した別々の"自治組織"で、1889年以後の大阪市となってからの4大区ほどには強権を発揮していませんでした!
社史のなかにも挙げられている「大阪府(1868年旧暦5月2日誕生)との強い絆」は創業時から現在に至るまで変わらない!
言い換えれば、起点;難波駅のある1889年誕生の大阪市旧・南区(現中央区・浪速区)、そして通過する大阪市・住吉区(1925年誕生)などは相手にしておらず?終始一貫して大阪府との「協調体制」路線を敷いてきたわけです!
現存する我が国初の民間鐡道・南海鐡道(現・南海電気鉄道)の生い立ち
...明治15年(1882年)大阪-堺間鉄道会社の設立を見るに至って、ここに純然たる民間事業として日本最初の私設鉄道が生れたのである。...
...大阪市南区難波新地(※1)を起点として、天下茶屋・住吉を経て堺に至る延長11km余の狭軌(838mm)鉄道敷設を計画した。...
...明治17年(1884年)2月4日付を以て当局に願書を提出した。 同年(1884年)6月16日設立許可の指令を得て、資本金25万円、...株式2,500株...会社は創立されたのである。
同年(1884年)11月社名を阪堺鉄道会社と改定した。...土地買収についても大阪府庁に依頼して便宜を得、工事施行に当っては当時関西屈指の事業家たる藤田組に委託した。 ...、明治18年(1885年)2月起工、同年12月には難波-大和川北岸間の竣工を見た。
同月14日、臨時株主総会を開いて定款の改正を行い、...ここに会社の基礎は確立した。
明治18年(1885年)12月26日開業免許を受け、...翌々日即ち29日より難波-大和川間の運輸営業を開始した...<開通五拾年南海電鉄発達史 昭和10年刊 大正期鉄道史資料第Ⅱ期第10巻の復刻版より引用>
第3目 旧・南海鉄道が通過した現住吉区は...
1925年になって旧住吉郡全域(平野郷町、喜連村、北百済村、南百済村、田辺町、依羅村、墨江村、住吉村、安立町、敷津村、長居村)と旧東成郡"天王寺村"のエリアで誕生した区です。
大阪市の第二次市域拡張に伴って天王寺区、浪速区、港区、此花区、新市域に西成区、西淀川区、東淀川区、東成区、住吉区が設置されて、大阪市が13区となった時に「東成郡全域が大阪市に編入」された時に生まれた区なのです。
一方1881年(明治14年)誕生当時から安立町にあった「住吉郡役場」は、「住吉郡」が1896年(明治29年)に東成郡に統合されて、この時点で住吉郡もろとも無くなりました。
1897年 には4大区による第1次市域拡張(侵略)が行われて面積:55.67 km2、人口:約75万人となりました。
1898年になって 市制特例(※4)が廃止されて、大阪市役所が独立して府庁舎から今の場所に移りました。
第3項 澪標の鐘を鳴らし続ける人たちが懐かしむ旧4大区
しかしその後は4大区の横暴ぶりはエスカレートする一方で...1925年 の第2次市域拡張(侵略?)で初めて旧4大区(東区・西区・南区・北区)以外の天王寺区、浪速区、港区、此花区、西成区、西淀川区、東淀川区、東成区、住吉区が設置されてようやく13区・人口約211万人の大阪市となりました。
ようやくこの時点で市議会議員も各区からほぼ均等に選出するようになり4大区の独走はやや抑えられました?が...
1925年以降も「本家大阪市」として市役所・市議会で絶大な影響力を行使していました!
4大区はその後も戦時中の1943年になるまで大阪府・大阪市・配下の自治区(自治体)として残り、大阪府・大阪市とは一線を画した「モンロー主義の砦」として既得権益を行使し続けました。
敗戦後の1947年になってやっと大阪市長が「公選制」となり第11代 近藤博夫 市長が初代公選大阪市長となりました?(大阪市長は長らく、ほぼ4大区出身者で固められている大阪市議会議員が、仲間内!の市議から選出していました。)
※参4 1889年に誕生した大阪市は1879年以来続く各々独立した自治体4大区の寄り合い所帯?として1898年まで長らく"市制特例"で市長は置かずに大阪府知事が便宜上の市長職務を兼任していました。
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公開:2019年2月24日
更新:2024年2月23日
投稿者:デジタヌ
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